<   2015年 03月 ( 12 )   > この月の画像一覧

2015.03/31(TUE)

北越最後の戦闘 三条・加茂防衛戦




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
--------------------
慶応 4年(1868)

・北越最後の戦闘
       8月 1日~ 4日

 新発田藩は転向し長岡城再落城により東軍の北越防衛戦線は一挙に瓦解した。米沢藩がいち早く本国を指して引き上げると、仙台、村上、上山ら諸藩も次々と続き、長岡藩兵は多数の老幼婦女子と共に険阻八十里越から会津へと落ちて行った
・三条    8月 1日
 八月一日、雷神隊(立見鑑三郎)は日の浦木ノ芽峠の最前線から引き上げを始め、地蔵堂で桑名三隊が合流し、佐川官兵衛隊らと共に全軍三条に着く
   二日、さらに各隊は順次加茂へと引き上げにかかる。神風隊が三条一の木戸を守備し殿軍を引き受けたが、昼前に突如敵大軍が襲来して戦闘となる。五十嵐川を挟んでの烈しい銃撃戦は夕方まで続くが、夜に庄内、佐川隊、最後に神風隊も加茂へと引き上げた
・加茂    8月 4日
   四日、加茂防衛戦
      会津三隊、庄内二隊、桑名二隊のあわせて五百余名、夫々守備につく。対する西軍は薩摩、長州の五隊を主力とし兵力は五千余という
 昼過ぎ、西軍は三条から加茂への本道を攻め寄せ、下保内の前哨陣地を守備していた会津佐藤織之進隊は西軍の猛攻に耐えきれず山側の福島にある桑名隊の胸壁陣地に逃げ込む。なお肉薄する西軍に、神風隊(町田老之丞)と致人隊半隊約七十名が迎撃して一歩も引かず。このまま激戦は日暮れまで続いた。戦況を打開するため鹿峠より迂回して加茂を攻めようとした西軍の一隊があるが、青海神社の高地に陣を敷いていた神風半隊がこれを撃破、敗走させた
 やがて夜となり桑名隊は引き上げを始めた
      石井勇次郎の奮戦
 同じくこの日、天神口は石井勇次郎が守備した。石井の指揮下にあったのは加藤鋳介、桜井得右衛門、山本数馬と歩兵七名(加茂で募集した町兵)で、石井を含めても僅か十一名の兵力である。そこへ午後遅く敵二小隊が来襲する。と、石井の指揮のもと決死に応戦し戦闘は日暮れに及ぶも兵力は圧倒的に不利で、援兵を本営に求めた。そこに村松方面から帰陣した佐川官兵衛が居て、借りた十名の援兵を連れて元の陣地に戻ると敵は諦めて退いた。ここでさらに石井は苦戦中の味方を助けるべく、高地からかけ下って本道上を攻める敵の背後に出て、至近距離から一斉射撃をあびせた。これに味方も励まされ、挟撃すると敵は動揺して引き始めた
 ※この戦闘で石井は敵弾を受け(三度目)駕籠で津川へと退くことになる
 西軍は完全に加茂を包囲し、残された脱出口は黒水から沼越峠を越えて津川方面への山道のみである。此の夜遅く加茂へ集結した神風、致人の両隊は黒水で雷神隊(立見鑑三郎)と合流し津川へと脱出していった

--------------------
石井勇次郎(いしいゆうじろう)

弘化3年(1846)1月5日)-明治36年(1903)6月17日)、幕末の桑名藩士、新選組隊士。変名は源次郎
経歴
 剣は直心影流。桑名藩では御馬廻りを務め、慶応3年(1867)6月14日には江戸で剣術を習っていたが、慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が始まると、大鳥圭介率いる旧幕府軍に投じて今市、会津へ転戦した。柏崎で桑名藩の松浦秀八率いる致人隊に所属し、鯨波戦争では戦傷を負った。会津戦争で籠城戦が始まると同藩士谷口四郎兵衛と共に藩主・松平定敬を護衛して仙台へ退去した。なお会津でも負傷している。仙台で榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地渡航を決意し、土方歳三配下の新選組に入隊する
 箱館戦争では新選組分隊差図役として活躍したが、明治2年(1869)5月15日、弁天台場にて降伏。謹慎後、同年11月23日に釈放されて国に戻った
『戊辰戦争見聞略記』を著した
明治36年に死去。享年58
--引用・要約;「石井勇次郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014. 1/21(火)12:11--
--------------------
桑名藩戦死者
・宇都宮新兵衛 嚮導/致人隊/明治元年八月二日羽前寒河江で戦死/三十六歳
・吉岡盛之助  元地組/神風隊/明治元年八月二日越後三条三竹村で戦死/十六歳/同地・安如寺に葬
・豊田喜右衛門 書院番/神風隊/明治元年八月四日越後加茂で戦死/四十五歳/同地・大昌寺に葬
・不破専次郎  市左衛門の四男/致人隊/明治元年八月四日越後加茂で戦死/十九歳/同地・大昌寺に葬
・横山重五郎  神風隊/会津よりの御拝借兵/明治元年八月四日越後加茂で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
・津川    8月 7日~10日
 八月五日、加茂を後退した桑名隊は、七日夕津川宿に着き、ここで遅れていた傷病兵をまとめ津川を発したのは十日朝であった。その夜は上野尻宿、翌日は会津坂下を経て十二日夕刻会津若松城下に入り、郭内五の丁興徳寺を本営とした
--------------------

桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/30(MON)

与板攻防戦




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
--------------------
c0185705_17271033.jpg

--------------------
慶応 4年(1868)

・与板    5月27日~ 7月30日
攻防戦 1
 五月二十七日、桑名三隊は地蔵堂に進出し、村上藩隊、会津萱野隊と与板(近江彦根二十五万石の支藩で、井伊直安二万石の陣屋あり)に出撃した。入軽井の向い側山上に敵兵を散見する。雷神隊は山を越えて黒坂に出るとなお進撃、後発の萱野隊が追い着き、夕刻に正面を萱野隊が、横合いを致人隊・神風隊が発砲しながら敵陣に迫る。敵、浮足立って敗走し第一高所の敵陣「雷塚」を乗っ取った
 桑名隊は奪取した敵陣に野宿、神風隊は黒坂へ戻り野営する
 桑名隊戦死 木原熊右衛門 神風隊/五石二人扶持/三十一歳
 〃  負傷 吉村久太郎 致人隊
※ 家老吉村権左衛門を誅殺した山脇隼太郎と高木貞作は柏崎を逐電して衝鋒隊に入り指揮役として転戦を続けていた。この頃、二人が属した衝鋒隊先鋒は大面で薩摩隊と交戦、白兵戦で大功があったという
攻防戦 2
 二十八日、前日の戦闘で敗退した西軍は長岡関原の本営に報告すると、西軍は続々と援軍を増派した
 先発隊(軍監岩村精一郎指揮)
 ・長州奇兵隊一、三番小隊と砲三門
 ・薩摩二番遊撃半隊
 ・須坂藩一小隊(元込銃装備)
 これらの隊は二十八日早朝信濃川を渡河し与板に到着、本道金ヶ崎方面には長州、須坂、与板兵を、西側山地方面には薩州、長報国隊、飯山、与板兵を配置した
 早朝より戦闘が始まる。本道方面では両軍とも一進一退、山地方面の西軍は塩入峠・陣ヶ峰に飯山・富山・与板の兵に加え新たに薩州・長州の一小隊を増援して攻勢に出るが、精強桑名隊ふんばり、こちらも一進一退の山岳戦が続いた。そうこうして、山地方面で深く突進した西軍が、その退路を断たれる恐れが生じ慌てて後退する。東軍、これにつけ入って攻勢に転じ西軍を急追した
 桑名隊は塩入峠から南の陣ヶ峰、大坂山の敵陣地を奪取した
 与板攻略を目前にしたが、敵の応戦も必死となり夜もせまり、引き上げる
 桑名隊戦死者
  鈴木右衛門七 致人隊軍監/三十俵三人扶持/二十四歳/大砲にて横腹撃ち抜かれる
  細谷又之丞  雷神隊/百石/二十二歳/大砲にて額打ち砕かれる
  山内半平   御軍事方/二十五石三人扶持/二十六歳/腹撃ち抜かれる
  松野亀若   雷神隊/十八歳/胸撃ち抜かれる
  清水竜助   致人隊柏崎番組/四石二人扶持/二十三歳/腹撃ち抜かれる
    負傷者
  真鍋虎次   雷神隊/三十四歳
  三輪為蔵   致人隊/五石二人扶持/十八歳
  島田三五郎  雷神隊/五石二人扶持
 二十九日、本道方面は再度原村(元与板手前)まで進軍、西軍も陣地を守備し攻撃には出ず、小競り合いのみである。山道方面でも両軍対峙する
 本道を守備していた致人隊関矢金右衛門(五石二人扶持/二十五歳)が背中を撃たれて戦死し、大村一郎治が負傷した(そのまま再起できず鶴岡で死亡)
 六月一日、敵の拠点剣ヶ峰(※桑名資料では備後山)を攻略することとなり、立見鑑三郎の雷神隊、大平九左衛門の神風一分隊、萱野右兵衛の一小隊が出撃した。しかし、剣ヶ峰から北に連なる稜線には既に西軍の堅固な陣地が築かれ、長州二小隊・松代一隊・尾張兵・須坂二小隊の六隊が守備しており、立見ら強攻せずに撤退する
 桑名神風隊副隊長 大平九左衛門(百三十石/三十歳)が胸板を撃ち抜かれ戦死
 二日、海道出雲崎を拠点とする西軍は、与板西方山地に進出した東軍(主に桑名隊)を掃討するため北野荒巻方面に薩長軍主力の六百名を三隊に分けて出撃する。右翼から荒巻を攻めた富山高田隊には神風隊の半数二十余名が応戦し、近づく敵を引き付けて狙い撃ちした。北野を守る雷神隊も前面の平坦地を押し寄せる敵を狙い撃ちすると、夕刻ついに敵は死傷多数を出し退却する
 荒巻を守備する神風隊はわずか二十余名であり、午後遅く敵は徐々に迫り来て危険になる、が塩入峠の会津兵一小隊が来援し危機を脱した
 敵左翼隊だが、年友村から急遽駆け付けた庄内、会津の増援部隊に背後を襲われて潰走した
  桑名隊戦死 神風隊小隊頭小森民五郎(書院番/百六十石/二十八歳)胸板を射貫かれ戦死
     負傷 渡辺丈左衛門(雷神隊/四十三歳)
        高林平左衛門(神風隊/七石二人扶持)
        馬場良助(神風隊軍監/二十歳)
 五日、会津藩朱雀隊隊長山田陽次郎(二十八歳)が見附より二小隊を率いて荒巻に到着し、以後荒巻は会津山田隊が守備し、桑名隊雷神神風の半隊は小島谷に進出することとなる
 十一日、馬場三九郎戦死
     米沢藩二小隊(隊頭芋川大膳)が与板本道方面に出兵し、隊長芋川ら数名が桑名致人隊の大川陣まで前線視察にやって来た時、彼らを案内した馬場三九郎の横面を流れ弾が撃ち抜いた
 十五日、致人隊隊長松浦秀八、鯨波の戦で受けた銃創も完治し、兵の拝借のため会津に向う(会津からの拝借兵は五十人)
 ※ なお、寺泊・加茂等近村からも歩兵を徴募し、総数百八十人が補充された
 二十日、石井勇次郎が戦場に復帰
 二十四日、桑名隊をはじめとする東軍は与板と出雲崎の敵軍事拠点を結ぶ補給線の要地木ノ芽峠を攻略
 ※ 三方を敵に囲まれた最前線の木ノ芽峠から与板を窺うが戦線は膠着する。桑名致人隊、大砲隊半隊それに水戸脱走兵の一小隊は鷹ヶ峰を中心に、左の山上に上山藩、本道塔ノ浦方面に会津藩、信濃川沿いに水戸脱走兵の半隊が夫々守備していたという
 七月九日、松浦秀八が会津町兵五十人を引き連れ帰陣
   十七日、江戸が「東京」と改称される
   二十二日、乙茂での小競り合いで神風隊玉井五郎兵衛戦死
 ※ 東軍の本営は見附にあり遠い。与板方面の西部戦線は新たに島崎村に軍議所を設けた
 七月十四日、軍議(会津、米沢、桑名、長岡、庄内、村上、三根山ら諸藩)
 信濃川より西は会津一瀬要人を総督とし、川より東は米沢千阪太郎左衛門を総督とする
   二十五日、西軍が新発田領松ヶ浜に大挙上陸し、さらに新潟太夫浜にも続々と上陸中との報ある
        この日の朝、長岡藩河井継之助は精鋭八百を引き連れ八丁沖を渡って長岡城の奪回に成功する
   二十九日、長岡城再び落城する。この戦で河井継之助負傷
        これらによって東軍は三条まで総軍退却を決めた
        一方、新発田藩の手引きで新潟に上陸した西軍は、そこを守備していた仙台・米沢の二小隊を破り、なおも水原、五泉、村松を侵攻しつつ南下した
--------------------
桑名藩戦死者
・木原熊右衛門 足軽/神風隊/明治元年五月二十七日(二十二日とも)越後元与板で戦死/同国大川津・常禅寺に葬
・島田三五郎  足軽/雷神隊/明治元年五月二十八日越後与板で傷、八月二十六日立久川で水死
・清水良助   竜助とも/致人隊/柏崎番組/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/二十三歳
・鈴木右衛門七 軍監/致人隊/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/二十四歳(二十七歳とも)/同国大川津・常禅寺に葬
・真鍋虎治   雷神隊/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/三十四歳
・関矢金右衛門 足軽/致人隊/明治元年五月二十九日越後与板領大山で戦死/二十五歳/同国大川津・常禅寺に葬
・大平九左衛門 神風隊/使番席副長/明治元年六月一日越後与板備後山で戦死/三十歳/同国大川津・常禅寺に葬
・景山勝蔵   大砲隊/明治元年六月一日越後与板領大山で傷、北野で死
・小森民五郎  書院番/神風隊副隊長/明治元年六月二日越後北野で戦死/二十八歳/同国大川津・常禅寺に葬
・岩尾忠二   大砲隊軍監/明治元年六月十一日越後与板領大山で戦死
・馬場三九郎  広間番/致人隊副隊長/伏見、宇都宮と転戦/明治元年六月十一日越後与板領大山で戦死/二十九歳/同国大川津・常禅寺に葬
・村田錬太郎  柏崎足軽/致人隊/明治元年六月十三日越後与板領大山で戦死/十八歳
・中島角右衛門 角左衛門とも/軍事方、御側役/明治元年六月二十四日越後日ノ浦で戦死/二十九歳
・中島 紈   軍事方/明治元年六月二十四日越後与板領大山で戦死/同国大川津・常禅寺に墓
・梶川弥左衛門 火術師範役/大砲隊小隊長/明治元年六月二十七日越後与板領大山で戦死/同国大川津・常禅寺に葬
・鈴木弥三郎  足軽/神風隊/明治元年六月二十八日越後加茂で戦(病)死/同地・大昌寺に葬
・夏井忠蔵   明治元年七月十三日越後与板日ノ浦で戦死
・前川専次郎  森田とも/致人隊/明治元年七月十四日越後与板領大山で傷、十六日加茂で死/二十歳/加茂・大昌寺に葬
・  幸二郎  東都伝習生/明治元年七月二十日越後日ノ浦で傷、のち死
・玉井五郎兵衛 馬廻/神風隊/明治元年七月二十二日越後乙茂山で戦死/三十五歳/同国大川津・常禅寺に葬
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
・北越最後の戦闘
       8月 1日~ 4日

--------------------

桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/27(FRI)

白亜の駅舎「日光駅」 日光市相生町




c0185705_123492.jpg

写真;2015.03/25
--------------------
白亜の駅舎「日光駅」

【JR日光駅】栃木県日光市相生町にあるJR日光線の駅。一八九〇年(明治23)の開業当時は簡素な木造平屋建てだったが、大正天皇の静養地となる日光田母沢御用邸が設置されて、皇室関係者が多く利用するようになったことや、外国人観光客が増加したことなどから、一九一二年(大正元)年に大改築。木造2階建ての洋風駅舎に生まれ変わった。貴賓室などが保存されており、二〇〇七年(平成19)に近代化産業遺産の認定を受けた
--引用(要約);東京新聞&テレビ東京・美の巨人たち「白き貴婦人日光駅…謎の設計士!?貴賓室公開」
2015.03/14--
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/26(THU)

殉難碑 藤原小原沢




藤原の戦い(2012.10/16)

c0185705_1115920.jpg

写真;2015.03/25(殉難碑裏面)
--------------------
裏面に
藤原戊辰戦争戦死者
・東軍
幕府軍 村上求馬(幕府御使番、草風隊長)、伝習隊士ニ名
会津藩 浮州源四郎(朱雀二番士隊)、黒河内直衛(同上)、黒河内重次郎(同上)、井上佐久馬(朱雀足軽隊)、夫卒三名
・西軍
宇都宮藩 安形靭負太郎(家老長男)、齋田権兵衛(御武具奉行)、田中五太夫(一番隊)、彦坂新太郎(同上)、井上乾次郎(同上)、高瀬久馬、中上鎬之進、内山房吉、夫卒一名
佐賀藩 嬉野弥平次(侍隊五番隊長)、林虎之助(侍隊)、多伊良文治左衛門(撒兵隊二番隊長)、諸隈忠九(撒兵隊)、杉町悦蔵(同上)、村岡大之助(同上)、中野治郎助(同上)、吉浦廉之助(同上)、古賀七之丞(手回隊)、角田嘉一郎(同上)、早田軍平(足軽隊)、夫卒弥一、夫卒詫蔵
 ・・・
※ 安形靭負太郎(あがたゆきえたろう)
幕府軍
・村上求馬   大鳥圭介指揮草風隊長/明治元年六月二十六日下野藤原村で戦死
会津藩
・浮州源四郎  甚助弟/朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十八日下野大原で戦死/三十一歳
・黒河内直衛  保衛の弟/朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十九日下野柄倉村で戦死/三十四歳
・黒河内重次郎 朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十八日下野大原で戦死/三十二歳
・井上佐久馬  六石五斗二人扶持/伊祖治父/朱雀足軽二番桜井隊/明治元年閏四月十七日下野大桑村で戦死/三十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
小原沢「殉難碑」

碑文
当地の渓流を挟んだこの附近一帯は、慶応四年(一八六八年)六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に築いた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉迫して来た西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し西軍の会津進出を阻止した。この日の戦死者は、東軍の隊長村上求馬ら三名、西軍の佐賀藩小隊長嬉野弥平次、宇都宮藩家老長男安形靭負太郎ら十八名にのぼった。裏面に誌した人々は、この戦前後の藤原町地内での戦死者を含んでいる。依って、ここに碑を建てて永えに其の雄魂を弔うものである。なお慶応四年は同年九月より明治と改元された
     昭和五十六年六月二十六日建之
     齋藤茂吉 撰文
     木村 始 謹書



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/26(THU)

東照宮神馬之墓 日光市石屋町周辺(龍蔵寺下寺十王堂)




c0185705_1252433.jpg

写真;2015.03/25
---------------
東照宮神馬 唐橋号/大針号/王朝号/奉璉号 之墓
---------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/25(WED)

石造 閻魔座像・十三座像・地蔵・脱衣婆座像 日光市石屋町周辺




c0185705_13252211.jpg

写真;2015.03/25
--------------------
以下、現地の案内板から

日光市指定文化財
せきぞう   えんまざぞう      じゅうさんざぞう    じぞう    だつえばざぞう
石造 閻魔座像・十三座像・地蔵・脱衣婆座像

種別・・有形文化財(建造物)
員数・・一五基

 この十三像群は十王堂の本尊として安置されていた石像である。中央の閻魔王座像は高さ九〇センチあり、背面に年紀銘があり、寛文五年(一六六五)に本陣を務めていた入江喜兵衛が造立したことが記されている。閻魔王の左右には記録者の司命・司録が座り、左側に初江王・五官王・変羅王・平等王と脱衣婆が並ぶ。右側には広泰王・宗帝王・閻羅王・変成王・太山王と地蔵尊が並ぶ
 各尊像には尊名の他に銘文が刻まれているが判読不能である。地蔵菩薩坐像のみ寛文六年の年紀が読みとれる。閻魔王造立の一年後であり、脱衣婆像もこの年に造立されたのではと考えられる
 整然と並ぶこの石像群は、一名「日光小豆石」と称される稲荷川産の安山岩で造られている。隣に建つ供養塔とともに寛文二年(一六六二)の稲荷川大洪水犠牲者の供養のためであろう
     平成十八年三月三日指定
     日光市教育委員会
--------------------
龍蔵寺下寺十王堂
c0185705_16145853.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/18(WED)

田中愿蔵の墓 東白川郡塙町・安楽寺




田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)

c0185705_10445844.jpg

写真;2015.03/17
--------------------
以下、現地の案内板から
たなかげんぞう
田中愿蔵の墓

 天狗党の田中愿蔵は、水戸藩士藤田東湖を中心とした尊皇攘夷思想の影響を受け、外交政策を初めとする幕政改革を掲げて筑波山に挙兵するが破れた。その後隊士と八溝山に籠るも、食料や衣類などに困窮したため、隊の解体を宣言し、分散して山を下りた
 田中は、元治元年(一八六四)一〇月、塙町真名畑にて塙代官所の役人に捕縛され、久慈川と川上川の合流点近くの川原で斬首された。遺体はここ安楽寺に埋葬された
 翌慶応元年(一八六五)、ゆかりの者により供養の碑が建てられ、昭和四年(一九二九)には「田中愿蔵刑場の跡」の碑が建立されたが、現在は「道の駅はなわ」の敷地内に移されている
 写真は田中の遺品と伝えられる「鎖帷子」で、町のあぶくま高原美術館に保管されている
     平成二四年度
     「"桜"プロジェクト」
     福島県県南地方振興局
--------------------
安楽寺
c0185705_984138.jpg

--------------------
天狗党・田中愿蔵隊没後 150回忌で法要
福島の安楽寺
 幕末に尊皇攘夷を掲げた水戸藩士でつくる天狗党の中で、倒幕まで唱えて不遇の中で散った田中愿蔵隊の没後百五十回忌法要が十六日、福島県塙町の安楽寺(和田俊道住職)でしめやかに営まれた
 愿蔵は水戸藩の藩医出身の下級武士で、一八六四(元治元)年、江戸幕府に外国勢力を追い払うように求めて決起した「天狗党の乱」に参加し、約半年間にわたって各地で幕府軍と戦ったが、現在の塙町で捕えられて処刑された。隊員二人とともに安楽寺に葬られた。愿蔵はまだ二十一歳そこそこの若さだった
 法要には猿田雄也氏、高橋信一氏ら田中隊の子孫関係者や菊池基文塙町長ら地元関係者など約六十人が参列した。つくば市で天狗党の無名戦士の慰霊活動をしている「中野天徳院」(東京都中野区)住職の大藪正哉氏の記念講演、法要の後、参列者は愿蔵らの墓前で焼香、故人をしのんだ
(吉原康和)
--引用;2014年10月17日(金)東京新聞--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/17(TUE)

文武館跡のけやき群&文武館文庫 茨城県大子町大子460(だいご小学校)




c0185705_22235361.jpg

写真;2015.03/17
--------------------
以下、現地の案内板から

茨城県指定 天然記念物
文武館跡のけやき群 二株

 第一号(中央)           第二号(南側)
   推定樹齢  約五百年        推定樹齢  約五百年
   樹高    約三十メートル     樹高    約二十五メートル
   幹周囲   約七、五メートル    幹周囲   約九、七メートル
 築山を中心としたけやき群は、室町時代中期この地に定着した豪族益子氏の屋敷内に植栽されたと伝えられている
 その後、屋敷地は近世水戸藩の支配下のもとで 大子奉行所の設置、安政年間の大子郷校の設立、明治初期の大子小学校の開設などと、公的機関の用地として活用されてきたが、その間つねにこの大けやき群は、施設のシンボル的存在として大切に維持管理され現在に至っている

大子町指定 史跡
文武館文庫

       昭和五十年九月十二日指定
   構造  木材・井籠積・土蔵造・二階建・上屋根切妻
   建坪  十九、八七平方メートル(六坪)
 水戸藩は、文武政策の一環として領内に郷校を建設する計画を進めた。大子郷校文武館もその一つで、大子陣屋が廃止されると、その敷地、建物は学館(主に医学書などの講習所)として活用され、この文庫はその付属施設として嘉永三年(一八五〇)に建設されたものである
 そして、安政三年(一八五六)八月に大子郷校文武館は、大子地方の教育の拠点として正式に開館した
 当時の文庫には、約四千五百冊の和書、漢籍が納められていたというが、現在は不明である
 大子郷校文武館は、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県とともに廃校となり、小学校設置へと改変していったが、文庫は今なお現存して県内唯一の貴重なものとなっている
     大子町教育委員会
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/17(TUE)

桜田烈士関鉄之介の歌碑 茨城県大子町袋田




c0185705_2203664.jpg

写真;2015.03/17
--------------------
以下、現地の案内板から

桜田烈士関鉄之介の歌碑
   桜田烈士関鉄之介君歌碑   碑陰鹿水峯間信吉撰文
     九十六叟田中光顕書

 袋田のさとにひそみて有りけるころよめる

河鹿鳴く山川みすのうきふしに
 あわれははるの夜半にもそしる  平遠


※ 春のある夜半、ふとめざめると近くの谷川の瀬音にまじり、河鹿の鳴き声が聞こえてきた。潜伏中の身であるが、その音にえもいわれぬ情趣を覚え、しみじみ聞き入り、春にもあわれを感じた

 歌碑は碑表の題額を田中光顕が揮毫し、和歌は鉄之介の真筆、碑の裏面にある鉄之介の顕彰は峯間信吉が撰文し、昭和十三年の秋農工銀行頭取江幡新によって建立された
 関鉄之介は、文政七年(一八二四)水戸藩士新兵衛の長子として水戸馬喰町に生まれた。名を遠といい、字は士仁、錦堆、楓巷などと号し、通称鉄之介と称した。水戸学の影響を受け、安政の大獄が行われると、高橋多一郎、金子孫二郎らと脱藩し、幕府の大老井伊直弼暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日江戸城の桜田門外で、駕籠で登城してくる井伊直弼を襲撃し暗殺した。鉄之介はその時の現場指揮官であった
 事件後、鉄之介は、はじめ西国に潜行し、薩摩に入ろうとしたが拒絶され、江戸方面に引き返し、鉄之介が北郡奉行所時代に親交のあった常陸国久慈郡袋田村桜岡源次衛門を頼り、同年七月の中頃桜岡邸屋敷に設けられていた蒟蒻会所に潜伏した。その後、鉄之介は、翌文久元年(一八六一)八月頃まで保内地方(現大子町域)を中心に一年余の隠遁生活を送るのである。この間、鉄之介は、日々の記録とともに、数多くの漢詩や和歌を書き残している。「河鹿鳴く……」の歌は、この時に詠んだ歌である
 その後、探索の手がきびしくなり、身の危険を感じた鉄之介は、文久元年の夏保内地方を離れ、会津を経て越後に入り、十月湯沢温泉で潜伏中にとらえられ、水戸の赤沼の獄に送られた。翌文久二年四月五日江戸小伝馬町に移され、五月十一日処刑された。享年三十九歳であった
--------------------

c0185705_227777.jpg


関鉄之介 遠
・水戸藩士/新兵衛の長男/十石三人扶持/安政五年長州、因州を遊説、大獄後挙兵を計画/万延元年三月桜田門に戦ったあと西国、江戸に潜行、越後で捕えられ、文久二年五月十一日江戸伝馬町牢で斬/三十九歳/東京荒川区・回向院と水戸・常磐墓地に墓/贈従四位/靖国
高橋多一郎 愛諸
・水戸藩士/諸往の長男/百石、奥祐筆頭取から小姓頭取、矢倉奉行/安政六年末大老井伊直弼襲撃を謀議、万延元年二月挙行に先立ち子庄左衛門と大阪へ行き薩摩兵の東上を待つ/桜田事変後幕吏の追及迫り、三月二十三日四天王寺坊官小川欣次兵衛方で父子自刃/四十七歳/墓は水戸・常磐墓地/贈正四位/靖国
金子孫二郎 教孝
・水戸藩士/川瀬七郎衛門の次男、金子孫三郎の養子/百五十石、郡奉行/文政十二年徳川斉昭を擁立/万延元年三月井伊大老要撃計画を指揮/事件後伊勢で捕えられ、文久元年七月二十六日伝馬町獄で斬/五十八歳/東京荒川区・回向院と水戸・常磐墓地に墓/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.03/10(TUE)

本「会津西街道の歴史を歩く」 佐藤権司著・随想舎




c0185705_15521494.jpg

--------------------
日光道中今市宿と若松城下を結ぶ山峡の道「会津中街道」
その道筋に宿る歴史と文化をたどった初めての街道案内。ここには忘れかけた民の暮らしがいまも息づいている

発行;有)随想舎、2010. 2/24 第1刷発行
著者;佐藤権司
 著者略歴;1934年(昭和9)栃木県今市に生まれる/元公立小・中学校校長/元藤原町史編纂専門委員/元今市市・芳賀町史編纂専門委員/栃木県歴史文化研究会・鹿沼史談会所属/元今市史談会会長
 著書  ;「日光領の農民世界ー生活と文化を育てた人々」(随想舎)/「藤原町のおもしろ地名」(藤原町)/「朝鮮通信使・琉球使節の日光参り」(随想舎)
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]