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2015.02/22(SUN)

忠魂碑 那須塩原市高林木綿畑附近




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写真;2015.02/21
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戊辰戦争から大東亜戦争までの戦死者の忠魂碑である
碑表に
忠魂碑
陸軍大将正三位男爵鮫嶋重雄書
とある
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 高林は、会津中街道を三斗小屋宿から大田原(城)に至る途中にあり、栃木北戊辰戦争渦中の地である
 慶応四年(1868)四月二十一には六斗地・油井・阿久戸から板室が戦場となり、五月二日には三斗小屋から出陣した会津・旧幕府軍が大田原城を攻撃して落した(占領はせず撤退した)
 同年八月二十三日には、会津侵攻を目前にした新政府軍が三斗小屋に滞留する会津・旧幕府軍を攻撃して一掃する戦闘が繰り広げられた(ちなみに大鳥圭介が敗退した母成峠の戦いは八月二十一日であった)

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)



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2015.02/12(THU)

辨才天 日光市御幸町 396・龍蔵寺




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写真;2015.02/11
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弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ
ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である
--引用・要約;「弁才天」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.02/01(日)02:50--

藝州戦死八士墳墓(2015.02/11)



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2015.02/11(WED)

藝州戦死八士墳墓 日光市御幸町396、龍蔵寺
広島藩八名の合葬墓




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写真;2015.02/11

藝州戦死八士墳墓

広島藩〈安芸・四十二万六千石・浅野氏・外様〉
 ・梶川五郎左衛門 明治元年八月二十六日下野横川村で戦死/二十六歳/日光観音寺に葬、東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・友田織之丞   則房とも/応変隊/明治元年八月二十六日下野横川村で戦死/二十四歳/日光竜蔵寺に葬、東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・大村豊次郎   応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代栃沢村で戦死/十七歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・日高砂蔵    応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代火玉峠で戦死/二十七歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・松浦熊雄    応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代火玉峠で戦死/二十五歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・渡辺他人丞   応変隊/戦士/明治元年九月二日岩代栃沢村で戦死/四十歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・松田林蔵    応変隊/明治元年九月三日下野横川村で戦死/二十三歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・田辺内蔵之進  応変隊/明治元年九月九日会津勝間美峠で傷、のち死/二十歳(二十四歳とも)/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

五、横川戦争(凌霜隊戦記)(2014.11/27)
七、関山戦争(凌霜隊戦記)(2015.01/05)
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龍蔵寺
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2015.02/11(WED)

会津藩三名墓 日光市大室周辺




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写真;2015.02/11(地図で、・←ココ!の辺りにある)
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戊辰役戦死者之墓
慶応四年(九月より明治元年戊辰の年)に起きた戊辰戦争により此の地に戦死した会津藩士三名を祀り此の碑を建立する
     平成十六年八月  □□□□
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※ 戦死者の氏名は分らない



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2015.02/08(SUN)

高田藩と北越戊辰戦争




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高田藩と北越戊辰戦争
 1868年(慶応4年)の戊辰戦争は、国内を二分する内戦でした。「錦の御旗」を掲げる新政府軍と旧幕臣・会津藩らを中心とする旧幕府軍による武力衝突は、江戸城の無血開城後も関東・東北・北陸へと拡大します。とりわけ、越後を舞台にくり広げられた北越戊辰戦争は、最激戦の一つに数えられました
 朝廷の権威と徳川譜代の名門としての誇り。多くの諸藩がそうであったように、高田藩もこの板ばさみに苦しみながら、その時々で決断を迫られます。高田藩が苦渋の末に新政府軍の先鋒となるまでの軌跡を取り上げた前回のシリーズに続き、今回は、戊辰戦争における高田藩を取りまく状況を紹介します

第十八回 高田藩と北越戊辰戦争

 戦火が越後へと迫るなか、高田藩がどのように進退を決するのか。その動向は新政府・旧幕府軍の双方から注目されます
 幕末の越後には、15万石の高田藩を筆頭に中小藩が多く存在し、さらに、幕府領のほか「朝敵」とされた会津藩や桑名藩の広大な領地もありました。また、会津藩は、「勤王」か「佐幕」かで揺れ動く越後諸藩に強い影響力を有していました。だからこそ、越後で最大の石高を持つ高田藩の向背の行方が注視されたのです
 新政府にとっても、北陸道と北国街道を結ぶ場所にある高田藩は重要な戦略拠点でした。新政府軍の人と物資の集結地としての役割が、城下町高田と湊町直江津に期待されていたのです。それゆえ、北陸道と東山道を行く新政府軍は、高田藩を第一目標に進軍してきました。こうした切迫する状況のなか、高田藩には新政府につくか、旧幕府軍と行動をともにするか、二者択一の道しか残されていなかったのです
 北越戊辰戦争は、結果として越後諸藩が新政府軍と奥羽越列藩同盟軍に別れることとなり、戦火は越後全土に広がりました。高田藩が藩体制の維持と家名存続を一念して選んだ決断は、新政府軍の強い追い風に、列藩同盟軍にとっては厳しい向い風となったのです
(上越市立総合博物館学芸員/荒川将)
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2013.10/15 広報「上越」No.956
シリーズ第2幕 高田開府四〇〇年
上越市ホームページ http://www.city.joetsu.niigata.jp/

     *

長州戦争から50年後の慰霊祭
 時代が大きく揺れ動いた幕末維新期には、いくつもの歴史の転換点があります。前回のシリーズでも取りあげた長州戦争は、幕府軍の大敗という結果に終わり、幕府の権威を失墜させる出来事でした
 榊原家高田藩は、幕府軍の先鋒として時勢が倒幕へと変転する舞台を目の当たりにしたのです。今回は長州戦争のその後の物語を紹介します

第十七回 長州戦争から50年後の慰霊祭

 高田藩が長州藩と戦火を交えた第2次長州戦争では、多くの藩士たちが命を落としました。彼らを慰霊するための石碑が、1915年(大正4年)7月に金谷山の高田藩士墓地に建てられます。碑銘は「高田藩士慶応丙寅戦死之碑」とあり、藩士のほか軍夫として従軍した者を含めて32人の名が刻まれました
 建碑のきっかけは、実際に戦闘が行われた1864年(慶応2)から満50年の節目に開催された「慶応丙寅戦死五十年祭」でした。「丙寅」とは慶応2年の干支のことです
 この慰霊祭は、発起総代の清水広博ら旧高田藩士族を中心に計画されました。高田藩の中老を勤めた清水は、自らも長州戦争に従軍した経験を持ち、明治時代には図書館創設に尽力して「高田図書館の生みの親」と呼ばれる人物です。清水は、慰霊祭を行う意義について「明治維新以後、世の中は百時革新を主とし、旧事は善悪を問わずすべて排斥することが一般の風潮となり、長州戦争の戦死者の建碑する機会を得ることができなかった。しかし、長州戦争の戦死者の姓名すら知る者が少なくなった今日に、彼らの名を石に刻み不朽に伝え、慰霊することを目的とする」と語っています
 長州戦争は、幕府が「朝敵」である長州藩を討伐するように朝廷から命じられた戦いでした。しかし、その後の時勢は倒幕へと傾き、大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県へと目まぐるしく時代が変わるなかで、長州戦争を回顧し、戦死者を追慕することは叶わなかったのです。50年の歳月を経て、ようやく旧高田藩士らの一念は結実しました
(上越市立総合博物館学芸員/荒川将)
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2013.10/15 広報「上越」No.954
シリーズ第2幕 高田開府四〇〇年
上越市ホームページ http://www.city.joetsu.niigata.jp/

釜子陣屋跡(2014.07/27)



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