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2015.01/24(SAT)

長岡城落城 妙見榎峠の戦・朝日山血戦・長岡城落城




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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慶応 4年(1868)

・長岡    5月 9日
長岡藩(七万四千石)、交戦に踏み切る。五月二日、長岡藩軍事総督河井継之助は西軍軍監岩村精一郎と会談に及んだのだがわずか三十分で決裂(小千谷・慈眼寺)
 軍議(桑名側資料では長岡城下渡町小熊屋)
・会津藩 越後口総督一瀬要人、水原奉行萱野右兵衛、朱雀中隊頭佐川官兵衛ほか
・長岡藩 軍事総督河井継之助、軍事奉行川島憶次郎、花輪求馬、安田多膳
・桑名藩 軍事総宰服部半蔵、軍事奉行山脇十左衛門、岩崎五太夫、町田老之丞、馬場三九郎、立見鑑三郎
・衝鋒隊 隊長古屋佐久左衛門、軍監松田昌次郎(会藩)
・浮撃隊 隊長木村大作(会藩、のち戦死)
 結果、作戦は西軍に奪われた妙見の攻略に決した
       5月10日~19日
妙見榎峠の戦
 十日、長岡藩本営摂田屋村光福寺に集合し出撃する。この日桑名は神風隊(町田老之丞、四十人)が出撃、雷神致人の両隊は長岡に残留する。進撃して浦柄の頭上、妙見への裏山に達した頃、本道榎峠方面で激しい銃砲声、信濃川対岸三仏生村からの敵掩護砲弾が激しく、本道長岡藩川島隊が引き上げて来る。入れ替わり桑名神風隊が前線に出て抗戦、浮撃隊も到着すると敵は暗夜の斬り込み戦を恐れて後退、妙見山奪取。十一日、西軍は新手の大軍(主力は薩外城隊、長奇兵四番小隊)で来襲する。桑名町田老之丞は兵をまとめ妙見中腹で応戦するが、敵は戦意旺盛で新式後装銃(スナイドル銃)を持った隊もあり、応援には奇兵二番小隊、長府報国隊、松代兵が続いて手強い。しかも指揮するのは参謀山県狂介自らと来援した仮参謀時山直八である。対する桑名隊は、致人隊と大砲隊が砲二門をもって駈けつけ神風隊と交代する。敵も戦略の要衝妙見山を奪還すべく必死に挑み、榎峠妙見をめぐる攻防は西軍が桑名隊勢をじわじわと圧迫しつつ終日続いた
 桑名藩隊戦死者
  致人隊 河村善左衛門 四十二歳/右膝を撃ち抜かれ重傷、その後出血多量で五月二十日加茂の病院で死亡
朝日山血戦
 会津の佐川官兵衛と桑名の山脇十左衛門は作戦を協議して、浦柄の谷をへだてた前面の朝日山(三四一メートル)を取り、頭上から西軍を射撃する朝日山占領作戦を敢行する。午後二時過ぎ、長岡藩安田多膳の槍隊、萱野右兵衛隊、立見鑑三郎率いる雷神隊半隊が激しい雨を利用し、浦柄川を渡って西側から朝日山に向うと、西軍もこれを察知し奇兵隊選抜隊が山南側から頂上を目指す。が、先に到着した立見らは直ちに陣地構築にあたる
 十二日、長岡藩の砲二門、桑名藩の砲一門を運び上げると敵陣地(横渡方面)への砲撃を開始した
 十三日、(この日濃霧)東山道軍仮参謀、長州の時山直八は奇兵隊二・五・六番小隊(約二百人)、薩摩二小隊半(約百五十人)を率いて朝日山に向け前進を開始する。と、たちまち山頂間近の前進陣地(会津鎮将隊/萱野右兵衛)を破り、山頂陣地に肉迫、さらに火力で圧倒した。この危機に立見鑑三郎、一策を計ると敵一瞬たじろぐ。この挙に乗じ雷神隊、安田隊一斉射撃して奇兵隊を山から追い落とした
 この戦中、一人踏み止まり自ら隊旗をふるって叱咤激励した仮参謀時山直八だが、桑名大砲指南役三木十左衛門が放った銃弾が顔を直撃して戦死する(盟友山県の嘆きはひとかたで無かったという)。奇兵隊瓦解し潰走す
 東軍戦死傷者
  会津 戦死六人、傷者二人
  長岡 傷者六人(うち一人後に死亡)
  桑名 戦死 馬場清治(軍監助勤、三人扶持、二十三歳)
        本田龍蔵(馬廻、九十石、小姓山内半平の弟、二十四歳)頭部撃ち抜かれる
        戸狩金吾(御先手組、五石二人扶持、二十一歳)胸玉入る。十九日に死亡
     傷者 山添仙次(新郷、三石二人、四十四歳)
        川澄金九郎(御書院番、十八石三人扶持、二十四歳)深手、胸打抜かる
        久松三郎(三人扶持、十八歳)肩打抜かる、九月二十日寒河江にて死亡
        河合徳三郎(御横目、二百石、三十歳)深手、膝頭撃たれる
        杉村安蔵(新郷、三石二人)
        相場鉦次(新郷、三石二人扶持)
※ いずれも雷神隊隊士である。新郷とは始めて召し出された下級の職である
※ 桑名藩隊戦死者
 ・馬場清次  雷神隊/軍監助勤/明治元年五月十一日越後朝日山で戦死/二十三歳/長岡・長永寺に葬
 ・戸狩金吾  雷神隊/明治元年五月十三日越後朝日山で傷、十九日死/二十一歳
 ・本田竜蔵  本多とも/雷神隊/馬廻役/明治元年五月十三日越後朝日山で戦死/二十四歳/長岡・長永寺に葬
 ・山添仙司  仙治とも/足軽/雷神隊/明治元年五月十三日越後朝日山で傷、七月二日若松で死/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
 西軍戦死傷者
  長州 戦死五人、参謀時山直八、嚮導高橋淳太郎、村田団蔵、兵士末武省作、秦音之進。傷者三十四人(うち八人死亡)
※ 時山直八養直
 松太郎とも/茂作の長男/無給通士/変名萩野鹿助、玉江三平/吉田松陰門/江戸で藤森弘安、安井息軒に学び、文久二年諸藩周旋掛/下関攘夷戦、禁門、幕長戦に活躍/明治元年奇兵隊参謀/五月十三日越後朝日山で戦死/三十一歳/同国小千谷に墓/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

長岡城落城
 西軍は横渡の陣まで後退、東軍の藩隊は迂回し小出島(現小出)まで出たが一気には押し切れない。西軍は対岸の三仏生から、東軍の藩隊は榎峠からと信濃川を挟んでの砲撃は五月十八日まで続く
 十九日、海道軍軍監三好軍太郎、自ら隊を率いて濃霧のなか信濃川渡河に成功。激戦の末長岡城を落とす
 援軍の報あり、寺沢村に居た神風隊(町田老之丞)は六日町に急行するが既に長岡城は落城しており、此処を引き上げて人々の向った栖吉、成願寺方面に向うこととなる
     *
 西軍が城下の中島へ上陸した時、河井継之助は摂田屋村の本営光福寺にいた。通報を受けるや直ちに一隊を率い、自慢のガットリング砲と共に城下へ駆けつけると、河井自ら砲を発射して防戦したが適わず、昼前には城に火をかけて脱出した。藩主牧野忠訓、老公忠泰も八十里越から会津若松を指して落ちのびた
     *
 この頃まだ妙見方面にいた桑名隊だが
 朝日山を守備していた雷神隊は萱野隊と共に川島隊を嚮導として山道を迂回し栖吉に向い、妙見浦柄方面の部隊は萩原隊を嚮導として佐川隊、衝鉾隊の順に続く。町田の神風隊が殿を引き受けた。致人隊が六日市に着いたのは既に夜半で、全軍がこの地を引き払ったのは夜明けであった

 五月二十日、脱出先を栃堀方面に変更
 二十一日、栃堀に着、佐川、萱野、川島、萩原隊らと合流。各隊とも一旦加茂に集結し、のち進撃することとなる。立見の雷神隊は河井継之助本隊六百人を追い加茂に直行した
米沢藩の来援 奥羽越列藩同盟により米沢藩色部長門が越後方面総督となり、兵二千(実は六百人)を率いて出陣し先鋒が加茂に到着した
 二十二日、加茂で軍議
  一、会津藩 総督一瀬要人、軍事奉行西郷刑部、秋月悌次郎
  二、米沢藩 大隊頭中條豊前、参謀甘粕備後
  三、桑名藩 軍事奉行小寺新吾左衛門、金子権太左衛門、致人隊長松浦秀八、雷神隊長立見鑑三郎
  四、長岡藩 総督河井継之助、軍事掛花輪求馬、松村忠次右衛門
  五、上山藩 家老祝新兵衛
  六、村上藩 家老水谷孫兵次
  七、村松藩 家老森重内
 二十三日、昨日に続いての軍議で、具体的な進軍場所を定めた
  ・ 見附口 会津・長岡・米沢の兵、計六百四十人
  ・ 与板口 桑名町田隊(神風隊)六十人/大砲二門桑名大砲隊・会津・上山・米沢の兵、計六百四十人
  ・ 栃尾口 桑名雷神隊八十人・長岡兵九百人、計九百八十人
  ・ 弥彦口 庄内・会津・村上の兵、計六百十人
  ・ 鹿峠  桑名致人隊六十人
 この進軍場所は一時的なもので、五月末に桑名三隊はすべて与板口に、米沢兵は見附口に集結した
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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.01/22(THU)

鳥羽伏見~鯨波戦争 鳥羽伏見・江戸脱走・宇都宮の戦い・柏崎・鯨波戦争




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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桑名藩隊行動概略図
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慶応 4年(1868)

・鳥羽伏見  1月 3日
 鳥羽伏見の戦
・大坂    1月 6日
 十五代将軍徳川慶喜、大坂城脱出(会津藩主、桑名藩主共)江戸に向う
・桑名
 中村瑛次ら数人、江戸に向う(二月初めに江戸着)
 町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎、田副嘉太夫ら主戦派の十七人、江戸に向う(二月三日江戸着)
・岡崎
・江戸
 十五代将軍徳川慶喜、上野東叡山寛永寺に入る
       2月16日
 会津藩主松平容保、会津帰還の途につく
       3月 7日
 桑名藩主松平定敬、恭順を名目に飛び藩領の越後柏崎へ向う(横浜を出て海路箱館経由、藩主定敬に随従する者は恭順派を含め約百人。三月二十三日新潟着)
 「七連士官隊」へ入隊した者約八十人と、さらに百二十人は陸路柏崎へ向うこととなる
       4月11日
 江戸を脱走して向島報恩寺に集合する
 参集していた幹部は
  幕人 土方歳三、吉沢勇四郎、小管辰之助、山瀬司馬、天野電四郎、鈴木蕃之助
  会人 垣(柿)沢勇記、天沢精之進、秋月登之助、松井、工藤、等
  桑人 辰巳(立見)鑑三郎、松浦秀人、馬場三九郎、等
 兵隊は
  大手前大隊 凡 700人
  七連隊     350
  桑藩      200
  土工兵     200
  第二大隊    600
 軍議
  総督  大鳥圭介 
  司令官 秋月登之助
  参謀  土方歳三
  軍編成
 伝習隊を中核とする軍団は三軍に分かれて行動することになる
  先鋒(前軍) 伝習隊第一大隊  隊長秋月登之助         700人
        桑名藩隊     〃 辰巳(立見)鑑三郎     200
        回天右半隊    〃 相馬左金吾         100
        新選組      〃 土方歳三          30
        伝習砲兵     〃 秋月兼務、四斤山砲二門   100
四斤山砲(2013.02/17)
  中軍    伝習隊第二大隊  〃 本多幸七郎         600
  後軍    歩兵第七連隊   〃 山瀬司馬          350
        会津藩別伝習隊  〃 工藤衛守          80
        土工兵      〃 小菅辰之助         200
 全軍、宇都宮をめざし江戸川沿いを北上。先鋒は松戸を経て小金宿(現松戸市小金)で宿泊。中軍は松戸宿で宿泊、後軍は大林院を出るが国府台に留まって野営。先鋒隊は小金宿で大鳥隊と別れ鬼怒川べりを北上して、下妻・下館を経て下野の芳賀郡に入る
 大鳥隊(中、後軍)は先鋒の進んだ水海道方面を避け、関宿を経て宇都宮に入ることとした
       4月12日
 江戸城開城
・下妻    4月16日
 下妻藩から軍資金を
・宇都宮   4月19日
 宇都宮城を落す(大鳥旧幕府軍前軍)、全軍宇都宮城集結
 宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)
       4月22日
 安塚の戦い 新政府軍が壬生に集結中の報があり、攻撃を仕掛けるが失敗
 壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
 宇都宮城攻防戦 奪還を期す新政府軍の猛攻を受け今市、日光に向け敗走する
 宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)

※ 宇都宮城の攻防戦に敗れた大鳥旧幕府軍は日光に退き、さらに軍を再編するため会津田島に向い、田島には閏四月六日から十六日まで滞留した。この間に桑名藩隊は藩主定敬が謹慎を続けている越後柏崎に向うこととなる(会津若松→越後街道)
・柏崎  閏 4月 3日
 恭順派首魁吉村権左衛門誅殺。斬ったのは山脇隼太郎(二十歳)、高木剛次郎(二十二歳)の二人。これを機にして主戦派が君公定敬の意に沿い、藩を主導することとなる
     閏 4月12日
 桑名藩隊、残らず柏崎に入る。極楽寺、西光寺へ分宿
     閏 4月13日
 君公定敬に拝謁
     閏 4月14日
 新軍制を定める
 軍事奉行 山脇十左衛門、小寺新吾左衛門
  一番隊(雷神隊)隊長 立見鑑三郎
  二番隊(致人隊)〃  松浦秀八
  三番隊(神風隊)〃  町田老之丞
  大砲隊(大驚隊)〃  梶川弥左衛門
・鯨波  閏 4月17日
 衝鋒隊半大隊約二百人が来援(隊長松田昌次郎)
 続いて浮撃隊一小隊約百人が来援(指揮役、会津藩木村大作)
     閏 4月27日
 新政府軍一千余人、進攻を開始。雷神隊は北陸街道の海側、山腹を巻いて通る崖沿いの道「嫁入坂」で、致人隊は北陸街道の海側、嫁入坂にかかる手前砂浜の上部岩山(鬼穴の上)で、神風隊は北陸街道の山側の小高い丘、北条への間道入口(鯨波の部落が見下ろせる)で待ち構えた。桑名藩隊ら奮戦して進攻を防ぐが、何しろ敵は大軍であり入れ替わり立ち代わりの攻撃に苦戦。午後、三木十左衛門の大砲隊が鬼穴上から四斤山砲を発射すると敵集中地点に二発続けて命中し敵は崩れ立つ。桑名隊立見、馬場ら頃合いを見て斬り込むと敵たまらず退くが、果して大反撃に出た。左手の山上から長州の大砲二門が次々と発射され桑名隊町田は引き上げの合図を出した。態勢を立て直した敵が押し寄せ、掩護する大砲の発射はますます激しく、味方はじりじりと後退する
 互いの砲戦のうち夕暮れが迫ると敵は深追いせず、鯨波の部落に火をかけ青梅川の元の線まで引き上げた
 桑名藩隊戦死者
  駒木根元一  致人隊/書院番/五十石/三十六歳
  小出冬次郎  致人隊/小筒組/五石二人扶持/二十六歳
  余語代吉   雷神隊/朔次郎弟
  平野吉五郎  雷神隊/新郷/三宅厚の若党/二十三歳
  三宅 厚   雷神隊/馬廻/弥惣右衛門伜/十七歳

 桑名藩隊戦死者 --引用;幕末維新全殉難者名鑑--
 ・梅林善次   致人隊/銃士/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、八月二日加茂で死
 ・駒木根元一  致人隊/銃士/書院番/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で戦死/三十六歳
 ・平野吉五郎  雷神隊/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、二十八日半田村で死/二十三歳
 ・三宅 厚   雷神隊/佐治為約の三男、寛の弟/二百石、馬廻/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、五月一日妙法寺で死/十七歳(二十二歳とも)
 ・余語代橘   明治元年(閏)四月二十七日越後柏崎で戦死(行方不明とも)
 ・吉村権右衛門 明治元年閏四月越後柏崎大久保で殉難

 新政府軍戦死者等
      戦死 負傷
  長州兵   3   5
  薩摩兵   0   0
  加賀兵   6  27
  富山兵   0   4
  高田兵   3   8
  計    12  44
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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.01/15(THU)

乃木神社の樹林 那須塩原市(西那須野)石林




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写真;2015.01/14
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以下、現地の案内板から

天然記念物 乃木神社の樹林
        西那須野町指定文化財
        平成三年三月一日指定
 この樹林(林)は大木が多く、この地区築の自然林の特徴が見られる貴重な林である。乃木神社の境内の一部で、そのあらましは次のとおりである
 ① 指定された面積  約六、八五九平方メートル
 ② 木の本数     約五〇〇本
 ③ 樹種(木の種類) 約三〇種類
    主なもの〈シラカシ・サワグルミ・ケヤキ・スギ・オオモミジ・シロダモ・ツバキ・モミ等〉
 ④ 大きい木の樹齢(木の年齢) 一〇〇~二〇〇年
 この樹林に隣接して清水の小川があり、比較的水の豊富な地域の林の特徴が見られる。また長い間木が切られておらず、昔からの自然のままの姿を残す、非常に数少ない平地林である
 この地は、明治二十四年(一八九一)に乃木将軍で知られる乃木希典が買い求めた所で、翌年にはこの一角に別邸を建てた。そして将軍は、休職中に晴耕雨読の生活を送った。その際、裏の小川(乃木清水)で顔を洗い、この林を散策した。将軍の死後四年を経た大正五年(一九一六)、この地に乃木神社がまつられた
 昭和四十一年(一九六六)には、神社の境内約三・七ヘクタールを町が借り受けて、公園(乃木公園)として整備した
        平成五年(一九九三)三月
        那須塩原市教育委員会
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2015.01/14(WED)

乃木希典那須野旧宅(内部) 那須塩原市(西那須野)石林




西那須野「乃木別邸」(2012.09/15)
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写真; この日は幸いに、普段閉められている雨戸等が明け放ってあって(たぶん定期的に家屋の換気をするのだろう)内部を見ることが出来た・2015.01/14
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以下、現地の案内板から

        のぎまれすけなすのきゅうたく
栃木県指定史跡 乃木希典那須野旧宅
              所有者 乃木神社
              昭和41年3月18日指定
 乃木大将として今でも親しまれる乃木希典は、明治24年(1891)この地(当時狩野村石林)に約14haの土地を求めた。これは静子夫人の叔父(旧薩摩藩士吉田清皎)が所有していたものを譲り受けたものである。
 購入時に住宅1棟と納屋があったが、翌25年、乃木は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。小羽葺き屋根(後に瓦)平屋で、建坪は53坪(約175㎡)。土間と囲炉裏があり、畳の部屋は6部屋であった。
 乃木大将は、生涯に4度の休職を経験しているが、別邸を建ててからは休職中(延べ48ヶ月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送った。別邸は、平成2年(1990)に焼失し、平成5年(1993)3月に再建された。
     栃木県教育委員会・那須塩原市教育委員会

※ 吉田清皎(よしだきよあき)
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2015.01/14(WED)

乃木神社 那須塩原市(西那須野)石林 795




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平成二十七乙未年
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写真;乃木神社拝殿脇に掲げられた乃木将軍のメッセージボードから(合成)・2015.01/14
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乃木将軍

 嘉永 2年  長府藩士乃木希次の第 3子として江戸に生まれる(嘉永 2年11月11日)
 安政 5年  乃木一家江戸より長府に帰る
 慶応 2年  兵務に就く
 明治 4年  陸軍歩兵少佐
 同 10年  西南の役に熊本鎮台第十四連隊長心得として熊本籠城軍を助け功あり(軍旗喪失の悲運にあう)
 同 11年  薩藩士湯地定之の四女阿七(後に静子と改名)と結婚
 同 23年  西那須野町石林に農園を求める
 同 25年  同所に住居を新築
 同 27年  日清戦役に第一旅団長として出征功あり、勲二等旭日重光章功三級金鵄勲章、男爵を授けられる
 同 28年  陸軍中将、第二師団長
 同 29年  台湾総督(母堂台湾で逝去)
 同 31年  休職七ヵ月の後第十一師団長
 同 34年~ 37年迄約 3ヶ年石林にて農業に従事
 同 37年  陸軍大将
 同37、38年 日露戦役に第三軍司令官として出征、旅順攻撃に功あり、旭日桐花大綬章、功一級金鵄勲章、(大将の二子戦死)
 同 39年  軍事参議官
 同 40年  学習院長兼任、従二位伯爵
 大正元年   9月13日 明治天皇御大葬の日に御夫妻殉死
            将軍享年64歳
--乃木神社ホームページから引用--



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2015.01/12(MON)

川崎城跡 栃木県矢板市川崎反町




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写真;二の丸Ⅰ・2015.01/10
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以下、現地の案内板から

川崎城跡 矢板市指定・史跡
    平成1年4月19日 矢板市教育委員会指定
    所在地  矢板市川崎反町・館ノ川
    所有者  矢板市
    指定面積 6.08ha

 川崎城跡は、市民の人々に「城山」と呼ばれ親しまれていますが、古くは「塩谷城」などと呼ばれていました
この城跡は、平安時代末から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した「塩谷氏」の本拠地です。「城山」と呼ばれるように、城は丘陵全体を使って造られた「山城」です。城跡の範囲は、北は城の湯温泉センターの西まで、南は北窪不動尊の「堀江山」と呼ばれている所までの、南北約1500mにおよび、東西は宮川と弁天川の間約340mです。城の主郭部は、城跡の中央やや南に位置し、東西44m、南北160m程の三日月形を示しています。主郭部と東の宮川との標高差は約47mで急斜面となっています
 この城跡の築城者は、塩谷朝業(しおのやともなり)と考えられています。朝業は、宇都宮業綱(なりつな)の二男で鎌倉幕府の御家人として力を発揮し、将軍実朝(さねとも)と和歌を通して親しくなりました。中世文学史に残る歌集「信生法師集」を残しています。また、朝業の二男時朝が笠間城主となっていることから笠間市と姉妹都市になりました。城跡には多くの梅が植えられていますが、朝業と将軍実朝が和歌を詠んだ句に梅を詠んでいることにちなんでいます
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以下、現地の案内板( 2)から

 川崎城は、鎌倉時代から戦国時代にかけての400年間、塩谷地方の北西部をおさめていた塩谷氏の本拠地です。箒川をはさんで那須氏と対峙するには絶好な場所であったと思われます。川崎城跡に立って遠くを見渡すと、北に高原・那須の山々が連なり、ゆるやかな丘陵が南東のさくら市へと続いていることが分ります。東に木幡神社や御前原城跡、矢板の市街地を見渡すことができます。高原山から流れ出た宮川、中川、内川の水は広々とした平地をうるおし、この土地より生産された作物は、塩谷氏を支える重要な生産物でした



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2015.01/11(SUN)

桑名藩七名墓 宇都宮市西原1丁目 4-12・光琳寺




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写真;2015.01/10(合成)
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戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓

墓碑表に
 小 高 岡 不 神 岩 笹
 林 見 鉦 破 山 崎 田
 権 民 三 弾 金 弥 銀
 六 蔵 郎 蔵 次 五 次
 郎     郎 郎 郎
      墓


とあり、旧幕府軍に所属した桑名藩兵士の墓である

桑名藩〈伊勢・十一万石・松平氏・家門〉
 ・笹岡銀次郎 馬廻/幕府新士官隊に属し、明治元年四月十九日宇都宮で戦死/二十七歳
 ・岩崎弥五郎 幕府新士官隊に入り、明治元年四月十五日宇都宮付近で戦死/二十三歳
 ・神山金次郎 幕府新士官隊に入り、明治元年四月十九日下野安塚で戦死/二十三歳
 ・不破弾蔵  明治元年四月十五日宇都宮付近で戦死/二十五歳
 ・岡正三郎  雄五郎伜/幕府新士官隊に入り、明治元年四月十九日宇都宮で戦死/二十三歳
 ・高見民蔵  幕府新士官隊に入り、明治元年四月十五日宇都宮付近で戦死/二十六歳
 ・小林権六郎 緒形石見家士喜七の二男/幕府新士官隊に入り、明治元年四月十六日宇都宮付近で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2(2013.12/01)
官軍因州藩士之墓(2014.10/03)



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2015.01/11(SUN)

磐裂根裂神社、夢福神 壬生町安塚




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写真;2015.01/11
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以下、現地の案内板から

開運招神 夢福神
 後利益
病気平穏祈願は、治したいところを手で亀を五回摩り、賽銭を献じ二拝二拍にて啐えて下さい
 例
合格祈願  亀の頭
家内安全  〃 背
交通安全  〃 胸
厄難消除  〃 腹
身体健全  〃 両手両足
心願成就  〃 胸
外方願成就を啐えたもおれ
 社務所
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いわさくねさく
磐裂根裂神社
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2015.01/10(SAT)

戊辰役三志士墓 壬生町安塚 940 附近




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写真;2015.01/10
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墓碑表に
       国吉栄之進親敬
 戊辰役志士 武市権兵ヱ楯臣 墓
       半田擢吉正久
とあり、安塚の戦いで戦死した土佐藩兵士の墓である

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)

戊辰役三志士墓

土佐藩〈土佐・二十四万二千石・山内氏・外様〉
 ・国吉栄之進 親敬 香美郡冨家村の郷士/迅衝二番隊/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十六歳/安塚に墓/靖国
 ・武市権兵衛 楯臣 足軽/迅衝六番隊/城下北新町住/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十二歳/安塚・安昌寺に墓/靖国
 ・半田擢吉 正久  組外/迅衝一番隊/土佐郡秦泉寺村の人/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十五歳/安塚に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2(2013.12/01)



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2015.01/09(FRI)

九、若松城に入る 会津若松市




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写真;若松城、2013.03/12
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

九、若松城に入る 籠城戦
慶応 4年(1868)
・ 9月 6日~
p.32
 六日、四ツ時頃より瓦町焼払、昼頃此宅へ桑原、安村同道にて来り申されけるは、朝比奈氏始め残らず四日に城内へ引揚げ、日向内記隊へ付属致し、西出丸と申す処に屯集の由申し聞けらる。これに依り右の段小山田氏よ
p.33
り懸け合はれ候処、小山田氏にも数奇これ無き旨申し聞けらる。即刻此宅を引揚げ城中へ入り一同無事を悦びける。
 さて、日向内記隊は白虎隊とて若年血気のもの五十人也。城中の姿勢を見るに、八月二十三日戦争後
(此時城中には老兵多く、やうやう惣人数百五十人ばかりにて誠にあやうく、此外の隊は残らず所々口々へ出張にて殊の外無人の処を、会藩の内酒井何某と申すもの案内にて三の丸迄二十人程乗込みしを、城内の老兵憤発して追退けたり。同藩の内にも酒井如きもの不忠不義也。斬危事件出来す。されども天罰忽ち来て獄門に懸る。此藩の女兵は天晴の働也。斯の如く城のあやうきを見て必死の憤発して敵を討取り、或は討死、又は家々の此場に出でざる女房たちは老母並びに子供をさし殺し、宅へ火を懸け自害するもあり。後世賞すべきものなり。此中に又不忠もの有り。二百石、三百石、中には五百石位の家来此有様を見て山中に逃げ延びたるもの二百余人。かやうのものを人面獣心といふべきにや。天是を免し候や。昔よりかやうの類これ有り。今に諸人の笑ひ物となる。此ものを禄盗人といふべし。此城は実に固城也。千余人の敵をわづか二百人に満たざる人数にて落城せず。これに依り固城也。人数の憤発推して知るべし。)
残らず城内へ引揚ぐ。婦女子は髪を切り、襠高袴(まちたかばかま)に一刀を帯し勇ましき有様也。城は殊の外堅固にて堀は深し、蒲生氏郷の縄張りにて、大手其外の門々は見通さず横向き故、砲を以て打ち破る事ならず。北出丸、西出丸、二の丸、三の丸とも同様にて天守は五重、本丸の前に有り。此城は兵糧弾薬尽きざる内は何年戦ふとも落城はすべからず。(此城の図を取らざるは残念也。)敵、城下へ迫りしより七日町辺へ陣取り、大手より四五丁先へ大砲を備へ、且つ小田山と申す処へも(此山は城下城中を一目に見下し味方には大難の地也。敵方には至極良地也。是を追はざるは極々不策也。)大砲を備へ、此両所より日夜絶えず、天守を目的に発射し、城中労する事おびたゞし。その内小田山より来る弾丸には猶々困窮す。且つ諸櫓、土塀等は二十三日戦争の時分損したる由にて大小砲の穴数多にて破損おびたゞし。西出丸、白虎隊、凌霜隊持場は四五十間にして土塀内へ胸壁を築き深さ三尺程掘り上げ、此土
p.34
を以て土手となし、狭間々々を銘々の持場を極め、敵来らば防戦すべしと持ち懸く。城内残らず斯の如きなり。(此胸壁築造には朝比奈初め総懸り也。)
・・
〈後略〉
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行動日録
・ 六日 若松城に入る 朝比奈隊長らは既に四日に入城した由を聞き、小山田隊長にかけ合って直ちに入城、一同無事を喜ぶ。城内では日向内記隊(白虎隊)に付属し、同隊と共に西出丸の番兵に当る
・一四日 暁、三の丸方面より味方凡そ三〇〇人が、小田山の敵陣を急襲、始め優勢に見えたが夜明けより敵の猛反撃を受け敗退。午前八時頃、敵は七日町、小田山の各砲門を一斉に開いて砲撃を開始、その烈しさ百雷の落ちる如し..
・一六日 凌霜隊は再び小山田隊付属の命を受けたが、隊長から周旋局へ陳情、日向隊付属に戻る
・一九日 石井音三郎(20)、西出丸に於いて戦死
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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