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2014.12/29(MON)

四、塩原駐留 那須塩原市




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写真;凌霜隊が駐留した福渡戸和泉屋附近、2014.12/29
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

四、塩原駐留 塩原焼払いと凌霜隊
慶応 4年(1868)
・ 5月11日
p.12
 然る処、野州塩原口(此地戸田大和守領分にて千石也)会津小山田伝四郎へ当分附属致し、草風隊と交代して彼地へ罷り越し候様、今市口同藩之軍事総督、山川大内蔵殿より達しこれ有るに付き、五月十一日早天、藤原口出立(高
p.13
徳、藤原、大原、高原此辺すべて戸田大和守領分)それより高原宿にて昼支度、此所にて人馬を継立、古高原峠へ懸る。(六年以前迄は此峠を越して会津へ通行す。此峠は高山にて諸人難渋する故、藤原と高原の間山に新道を造り新高原峠といふ。此峠は古高原峠の半分よりひくく諸人の助けと也。古高原峠は塩原入口のあらゆと申す処迄、三里というとも、五里も有るべく此間に家壱軒もなし。道は嶮岨にて狭路にして馬駕籠通行やうやうにて実に大なる難所也。六年以前、新高原へ引移りし古家十軒ばかり立ちくさりにしてあるばかり、外に人家は更になし。右に付き、此の峠を懸り候は思はば食物は申すに及ばず、水迄も用意すべし。此の宿外れに鶏鳥山とて此処より又一里半登る高山有り。此の山には鳥の形というてにわとりの附し物を以て此山へ登る事叶はじと土人の物語也。且つ此の宿は雨天には家中へ雲が入る事おびたゞし。かようの所へよくも住みしと思ふ。宿の前後には大なる原沢山これ有り。田畑の跡も見ゆる。途中にて富士山も見ゆる。予通行の節はくもりゆゑ見えず。今市辺も見ゆる。此の日も朝は雲つよく一間先は見えぬこと度々これ有り。難儀の上の難儀也。かようなる処は日本にも少かるべし。此の鶏鳥山に登りて、天気ならば品川沖見ゆるといふ。この山中にて如斯也。高き事さつすべし)追々下りてあらゆへ七ツ時頃著。此所にて人馬継立てをなして日暮にやうやうと塩原古町へ着、同所にて小山田氏の指揮にて直ちに門前へ着(古町より二丁有り)山口屋へ前列、福田屋へ後列と二軒へ泊(古町幷に此辺とも温泉沢山これ有り)。九月(※日)逗留、五月十九日同郷福渡戸と申す処へ参り候様小山田氏より達しこれ有り。早天出立。昼前着(同前より此所迄二十六丁)。和泉屋太郎兵衛方へ前列、丸屋吉郎兵衛方へ後列泊(此辺山近く左右共二丁と開けし所なし。)八月二十二日迄逗留す。此の地は平穏にて只番兵のみ、堅め人数は小山田隊八十余人、友野隊五十人(此の人は御旗本にて歩兵隊指図役頭取也。やきやな田戦争後此の地へ来る。塩のゆと申す処番兵也。古町より一里程。此の塩のゆも温泉場にて宿屋二軒これ有り。)凌霜隊三十人(小山田隊、凌霜隊は番兵口、スカサハ、大アミ、フドウサハ三ヶ所へ七人づつ詰める。)須加沢(古町より二里半、福渡戸より二里、途中山坂ばかりにて難所多し。)大網(古町より五十三町、福渡戸より二十六丁途
p.14
山坂にて狭路也。)。・・
〈後略〉
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行動日録
 5月
・一一日 会藩軍事総督山川大蔵の指令により、草風隊と交代して野州塩原の守備に当ることとなり、今夕同所門前村に到着、会藩隊長小山田伝四郎の指揮下に入った
     駐留隊は小山田隊八十人、友野隊五十人、凌霜隊三十余人
・一九日 同所福渡戸村へ移動、泉屋太郎兵衛方へ前列、丸屋吉郎兵衛方へ後列とそれぞれ分宿
 8月
・二二日 若松表の戦況不利との注進を受け、総員横川まで引揚げることになり、塩原は一軒残らず焼払うことと一決、今日まず数巻村から塩ノ湯まで約二十軒を焼いた
・二三日 一番に下塩原の福渡戸を焼払う。家数十五六軒。丸屋、和泉屋は凌霜隊の手で取崩されて消失を免れた。二番に塩がま十軒程、三番に畑下戸十四五軒、四番に門前十軒程、次に中塩原、上塩原と次々焼払い、上三依まで引揚げる
・二四日 上三依焼払い、横川宿まで総引揚げ。小山田隊、関宿結城隊は直ちに若松へ出立、唐木隊、探索隊、凌霜隊都合百二十四名は横川宿に留って官軍の追撃に備えた
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※ 凌霜隊は五月十一日から八月二十三日まで塩原に駐留するが、その間此の地で戦争は無い。専ら待機する毎日であった

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.12/27(SAT)

三、宇都宮戦争




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写真;宇都宮二荒山神社、2013.11/19
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

三、宇都宮戦争 野州の転戦、会津藩指揮下に入る
慶応 4年(1868)
・ 4月19日
p. 9
 それより追々進み宇都宮さして押し行く。三宅候へ附属して予も進む。十九日廉沼宿泊(此八ッ時頃途中にて宇都宮落城したることを知る。是は第一歩兵、会の兵隊の由)七連隊(是は小山にて八連隊へ合併)八連隊にて都合其勢千余人。二十日、廉沼宿出立(宇都宮へ三里也)宇都宮へ着。城中城下共半焼失。城中の有様を見るに死骸は所々に有り、是足は取りちらし誠に目を当てられぬ様子、実に神君の二百五十年来の太平の有難さを思ひ知りぬ。
 予の隊は、十六日小山戦争後大平山へ一泊。(此所は武田耕雲斎籠りし処なり)十七日いつる一泊。十八日大久保村へ一泊。十九日今市へ着。
 予は三宅候に附属して居るゆゑ、宇都宮着後同人周旋にて「御自分隊は日光辺に止宿ならん。幸ひ会津御藩四人御在所表へ参り候間、同道いたし今市宿迄参り候様」申し聞けらる。即ち御同人へ厚く礼を述べそれより同道して参り候処、此宿にて落合ひ、世のたとへし通り地獄にて仏に逢ふごとし。嬉しき事限りなし。(戦場にて味方に出合ふ程嬉しきものなし)牧野には十六日隊へ加り白岩には其日戦争後、途中茶屋へ刀失念の由にて取る為戻り行きしが其儘帰り来ず。定めし敵の為に討れしや生捕られしや相分らず。山片には大平山止宿より探索の為罷り出で、一度引取り、又々出で行き其儘帰らず。且つ凌霜隊には今市宿にて会藩日向内記隊へ合兵して都合百余人、二十一日下総国安塚村と申す処にて戦争これ有り。援兵の為罷り越し、貫義隊と合兵して都合其勢三百余人出張す。其日文狭宿へ一泊。翌二十二日早天出立の処大雨也。廉沼宿にて昼兵糧いたし、それより田の細道を押し行く。途中道悪しく、すべりころぶ人これ有り。やうやう安塚付近へ参り候処、最早、敵味方共引揚の跡にて余儀なく宇都宮をさして日暮に城下へ到り、・・
〈後略〉
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行動日録
・二〇日 本隊は今市に着き会藩日向内記隊に合兵して百余人
     矢野原、今市で本隊に戻る
・二一日 下野国安塚村の戦闘に援軍のため貫義隊と合兵して都合三百余人が出張、文狭宿一泊
・二二日 大雨。安塚村の戦は既に終わっていたので引返して宇都宮に入る。速水小三郎、武井安三、米沢小源治、岡本文造の四人は「会津へ付属すべき御内命の使節」を勤めるため今市から会津へ向う
・二三日 宇都宮の戦闘 早朝、江戸街道より薩、長、土、宇都宮、壬生の兵凡そ五百人押し寄せ、味方は七連隊、八連隊、草風隊、貫義隊、会津日向内記隊、原隊、凌霜隊合せて凡そ千三百人、大戦争なり。最初味方優勢であったが、大垣兵凡そ三百人が薩、土へ弾薬を送り来援したので味方総崩れとなり敗退した
・二四日 味方全員今市に集結。七連隊、八連隊は大桑宿より会津街道の田島(福島県)まで引揚げ。草風隊、貫義隊は日光越え、栗原(栗山)より田島へ引揚げた
・二五日 凌霜隊は日向隊と共に大桑から藤原宿に一泊
・二六日 横川宿まで引揚げ三日滞在
・二九日 今市方面で戦争と聞き、日向隊と共に早朝五十里宿の川を徒渉して高原まで出張
閏4月
・ 七日 会津藩の指揮下に入る 速水、武井、米沢、岡本の四人、今夕会津より藤原宿に帰着。「会候承知の旨」を一同に報告、かつ日光口出張の会津重臣萱野権兵衛の指揮に従うようにと会候の指示を。本日より高原宿守備となる
・閏四月中旬~五月中旬
     高原、藤原への往返三度に及ぶ
・二二日 再び藤原宿守備となる
・ 月末 一旦田島へ引揚げていた七連隊、八連隊、貫義隊、会津原隊、田中隊、城取隊等は軍議の上、高徳辺から小佐越村に出兵して今市に寄せたのだが、官軍の守りが固く破れず
 5月
・ 五日 会津重臣萱野権兵衛が藤原に来て、凌霜隊士には手当金一両ずつ、小者には半額が支給された 
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.12/26(FRI)

二、小山戦争




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

二、小山戦争
慶応 4年(1868)
・ 4月16日
p. 7
 十六日、早天出立。結城近く進む処、斥候のもの追々走り帰り、結城にはそれぞれ人数配りこれ有る由に付き、表の方へは七連隊草風隊相廻り、裏口は貫義隊凌霜隊也。
 さて、貫義隊、凌霜隊追々敵陣近く進み七八丁此方の森又は畑よりサグリを打ち、敵の模様を見合せ(此敵、彦根笠間宇都宮壬生也)放射しつつ進みけれ共敵には更に放射せず。味方益々麦畑へ押し出し散伏隊と成りて敵陣五六丁と覚しき時、味方二手に別れ、貫義隊には小山宿へ寄せ敵の正面へ向ふ。凌霜隊は右の方小山新田と申す畑へ陣取る。其時敵より榴弾発射す。それより互に打ち合ふこと暫く也。貫義隊は鯨波声を揚げて進み適度にて二列打をす。此時敵の死傷人多也。其の内笠間人数多し。是に敵恐れて引色に成けるを猶も連発す。凌霜隊にも新田の方より進み発射す。敵よりも大小砲放発す。され共味方必死と成りて打ち懸け打ち懸け進むゆゑ敵兵こらへず引き退く。これに依り、百姓家悉く焼き払い、味方双方にて討ち取る首十四五、大砲十二門、弾薬箱拾掉、器械長持沢山分捕り大勝利也。味方の内傷人、貫義隊三四人、草風隊一人、凌霜隊には田中亀太郎頭を打たれて即死す。菅沼銑十郎膝の上を打たれ手負ひ(若松病院へ罷越し七月十七日死去)新田栄次郎と申す百姓の介抱を受け滞り無く隊へ加わる。(十月十九日引取の節、栄次郎を呼び田中亀太郎の様子相尋ね候処、自分明地所へ葬り置き候由申し聞け候)それより直ちに小山宿を左へ大瀬川を歩行渡り、貫義隊を始め残らず引揚る。其の内に敵、兵隊を立て直し再び小山宿押し出す。矢野原与七、牧野平蔵、草風隊にて一人、弾はげしきに付き、一二丁引き退く。暫く見合せ居る内、惣引き揚げと成るを知らず。矢野原には畑にて平臥又は縦横に走り廻る内刀抜けしを知らず、・・
〈後略〉
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行動日録
・一六日 小山宿の戦闘 彦根、笠間、壬生の連合軍を小山宿に破って大勝利。田中亀太郎(29)戦死、菅沼銑十郎(42)重傷、白岩源助(37)逃亡
     矢野原与七、牧野平蔵ら味方とはぐれ、後矢野原一人となる。本隊、大平山泊
・一七日 本隊、出流山泊。山片俊三(35)逃亡
     矢野原は勝願寺駐留の旗本、三宅大学(八連隊)に付属して戦いに参加して大勝利
・一八日 本隊、大久保村泊
     矢野原は三宅大学に付属して鹿沼宿泊。鹿沼では七連隊、八連隊合併して千余人となる
・一九日 本隊、大沢泊。矢野原の隊、宇都宮に入る
・二〇日 本隊は今市に着き会藩日向内記隊に合兵して百余人
     矢野原、今市で本隊に戻る
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
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2014.12/12(FRI)

赤穂義士大高源五の墓 大田原市佐久山・実相院
佐久山大高家累代墓所




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写真;2014.12/12
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以下、現地の案内板から

赤穂義士大高源五の墓

大高家は常陸の国笠間(現在茨城県笠間市)藩主浅野公の家臣であった。浅野公が播州赤穂に転封される時、長男忠宗は家督を次男忠晴に譲り、江戸に出て医学を学び、のち藩医となり、佐久山藩主福原公に仕え、その子孫は代々佐久山藩士となった
 播州赤穂の大高家には長男源五、次男幸右衛門(長じて小野寺家の養子となる)の二児があったが当主は若死した
 大高源五は御膳番元方として浅野内匠頭の側近く仕えたが、「子葉」と号し有名な俳人であり、また茶道を能くする風流人でもあった
 母(ていりう)は京都の生れであった。主君浅野家の断絶後、子達と別れてよるべのない母は、親戚に当たる佐久山大高家を頼って身を寄せていた。大高源五が、江戸へ旅立つにあたり、老い行く母の身を案じ、死を覚悟して別れを告げる孝心切々たる母宛の手紙が、今も赤穂市花岳寺に残されている。ふたりの子息は赤穂義士討ち入りに加わり相果て、浅野家の菩提寺であった江戸高輪泉岳寺に葬られた。行年源五三十二歳、幸右衛門二十八歳であった
 その後、母はわが子の遺髪を実相院に分葬し、自分は出家して貞立尼となり、ひたすらわが子の菩提を弔う日々を過ごした。その母も心労のためか、翌年九月、佐久山大高家で没した。行年六十五歳であった
 大高家の墓所の古い墓石は、河原より採取したと思われる自然石に刻してあり、その上三百年の風雪にさらされて、碑文を判読することは困難であるが実相院の過去帳には大高親子が記載されており、位牌堂には大高家の位牌が安置されている
 佐久山では、むかし大高家の屋敷跡と伝えられる場所に、現在でも「大高屋敷」という地名が残されて居る。伝承されている「大高屋敷」の地名を、赤穂義士大高源五の母と子の物語りと共に末ながく保存したいものである
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↑実相院、山門 2014,12/12
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以下、現地の案内板から

実相院 山 門 〈大田原市指定文化財〉
元禄年間(約三百年前)藩主福原資倍公夫人は播州山崎藩主本多肥後守忠英公の娘であった。夫人は養父供養のため山門を寄進した。山門屋根に福原、本多両家の家紋が刻されている。唐風建築を取り入れた四つ脚門であり、屋根は矢板市平野産の石を用いた石屋根である。幾度かの火災にも難を免れて、元禄時代の姿そのままを現在に伝える貴重な建物である
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2014.12/12(FRI)

福原氏墓所 大田原市佐久山・実相院




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写真;2014.12/12

佐久山城跡(2014.10/28)
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以下、現地の案内板から

     昭和47年 3月 1日指定
     大田原市佐久山2243
     所有者 実相院
大田原市指定史跡
ふくわらしぼしょ
福原氏墓所

 福原氏の始祖四郎久隆より資郡までは福原永興寺より改葬されたもので、資宣・資明・資克・資順は東京浅草曹源寺に葬られましたが、改葬されたものと思われます。福原氏歴代の墓所として、江戸時代領主層の霊屋の様式をそのまま残しています
 那須一族の福原氏は、那須太郎資隆(すけたか)の四男久隆が福原に分知され、上福原といわれた片府田に館を構え福原氏を称したことに始まるとされます。戦国時代に大田原資清の子、資孝が養子に入り、永禄6年(1563)佐久山氏を滅ぼし、天正18年(1590)資孝の子、資保は豊臣秀吉の命により片府田から佐久山四ツ谷(御古屋敷)に移りました。さらに元禄15年(1702)、福原資倍がかっての佐久山城に陣屋を移し、交代寄合として佐久山3500石の支配を行い、明治2年(1869)、資生に至り版籍を奉還しました
     大田原市教育委員会
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実相院
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写真;2014.12/12
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佐久山宿
佐久山宿(さくやまじゅく)は、奥州街道(奥州道中)の21番目の宿駅である。現在の栃木県大田原市佐久山

概要

 佐久山宿は、江戸時代、かつて佐久山城があった土地が奥州街道(奥州道中)喜連川宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国那須郡にあった。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、佐久山宿は家数121軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、人口473人であった。佐久山宿本陣は井上家や村上家が勤めた
 喜連川宿から奥州街道(奥州道中)を北に向かうとつるが坂を通り曽根田に至る。曽根田では江川を橋で渡っていた。この川の手前岸には、明治天皇が行幸した際に使用された休憩所の碑が立っている。対岸に着いた後、さらに北上すると福原道(ふくはらのみち)を分岐する追分を経て佐久山宿へと着く
 佐久山は下野国の名家のひとつである那須氏発祥の地である。那須資隆の子である那須泰隆がこの地に佐久山城を築城して住まい、はじめて佐久山氏を名乗った。永禄年間には福原資孝が佐久山城を攻めて落城させ、その後元禄年間は福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる
--引用・要約;「佐久山宿」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2013.12/16(月)06:55--



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2014.12/11(THU)

戊辰戦死墓 宇都宮市西川田本町 9-34・光音寺




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写真;2014.12/11(合成)
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戊辰戦死墓

 安塚の戦争で戦死した(東軍)兵士の墓であろうが、被葬者は不明である。地元の人達によって葬られたと云う
栃木、福島の戊辰戦争 1/2(2013.12/01)←壬生、安塚の戦い
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光音寺
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写真;2014.12/11



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2014.12/01(MON)

六、大内戦争 下郷町大内




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

六、大内戦争
慶応 4年(1868)
・ 8月28日、29日
p.21
 それより直ちに大内宿迄引き揚げんと決定して高野村より若松への間道を引退き(此間道は大内迄五里といふとも七里もあるべし。余程峠もこれ有り、狭路にて左右とも高山にて難儀也。途中に村は少々これ有り。此百姓にて兵糧を遣ひ人馬村継にて手間取り、銘々不都合道なり。)夕七ツ時過ぎに倉谷宿江着、人馬継立、日暮れに大内宿へ一統
p.22
着す。此地にて居風呂へ入り労を休む。併しながら畳布団はなし。夜に入り敵の探索と覚しき者四人、僧体百姓体に身をやつし来り、脱走歩兵の内にて白川口戦争利なく是迄逃げ延びし者の由申し聞る。然る処、不審のもの也とて四人共此宿の裏荒所にて首をはねる。誠にむざんなり。戦場にてはか様のこと多し。たとへ味方なりとも、余程しかとせし証拠なければ名乗り出るとも一命を落す。依って銘々たしなむべし。右四人は全く敵の廻しものか、白川より敗走して来るものか、全く脱走の歩兵ならば気の毒なり。一人は骸に彫物これ有り。二十九日朝、予見物して落涙す。
 此日、未明より小山田隊の内より二十人余、大内より四五丁先(此地は左右共高山にて宿より一丁計先ニ中等の山これ有り。此宿隠し街道は此山の根を廻る故に胸壁は妙也。)へ胸壁築造(此辺は広野にて小松原多し。)して敵を防がんとす。敵は迅速に押来り未だ築造も半の時大小砲打懸け、味方も此所にて防戦す。依て宿よりも追々人数を繰出し凌霜隊には向ふ山へ登り防ぐべしと達しこれ有り。直様、朝比奈氏一番に遣さる。依って三十余人追々登り防戦せんとす。・・・
(後略)
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行動日録
・二九日 大内の戦闘 早朝より敵押し寄せ激戦。朝八過ぎから午後二時ごろまで砲声止む時なし。味方善戦せしも、大砲なくついに惣崩れとなって大内峠へ退く
・三〇日 大内峠の戦闘 未明より敵押し寄せ再び激戦。凌霜隊の奮戦めざまし。山頂の間道を破られるに及んで味方惣崩れとなり、凌霜隊も午後四時頃戦列から離れる。この両日の敵は長、薩、芸、宇都宮、黒羽等の諸軍。山脇金太郎(17)戦死、小者小三郎戦死
※ 山脇金は如何行きけん、帰り来らず。定めし討死と察しられける。むざんや、小三郎は討死なり。--引用p.25--
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※↑復元された峠の茶屋(一軒茶屋)

古戦場と峠の茶屋(2013.07/26)

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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