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2014.11/27(THU)

五、横川戦争 日光市横川宿・会津西街道




慶応 4年(1868)
・ 8月23日~27日
 藩境等で守備していた会津藩隊らは若松表危急の報を受け、夫々若松表へと引揚げる。凌霜隊は五月以来凡そ三ヶ月の間駐留した塩原を焼払い、尾頭峠を越えて八月二十四日、三依を経て横川宿に着くのだが、此処に留まって新政府軍の会津侵攻阻止にあたり戦闘となる。留まったのは凌霜隊ほか百二十四人に対し新政府軍は六七百人、凌霜隊ら良く奮戦防禦するが、二十七日若松表からの急使により田島へ引揚げた
以下、「心苦雑記」を引用して戦闘の様子(一部)をupする

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写真;戦闘のあった横川宿附近の旧会津西街道・2014.11/27
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

五、横川戦争 田島の転戦
慶応 4年(1868)
・ 8月24日、25日
p.17
 二十四日、同宿焼払、横川宿まで引揚、小山田隊、凌霜隊、関宿結城隊も□四日三依辺出立横川迄著。(藤原、高原、五十里、三依、横川、京沢、川島、田島、楢原、倉谷、大内、関山は今市より会津への街道なり。)出立の節、三依残らず焼払、(三依は上中下三宿に相成居り、家数も余程有り。)小山田隊、結城関宿隊は此間に直ぐ若松へ引揚、横川へ止し隊は唐木隊(会藩なり)、探索隊(脱走隊也)、凌霜隊、都合百二十四人、横川より四五丁先へ胸壁を築造し、敵寄せ来らば一軍せんと待懸けたり。(此の地、形状は左右共高山にて街道一筋道也。)
・二十五日、早朝に至り、一昨日塩原より引揚の節、人足不足にて尾頭峠へ大砲車台残置候に付き、敵の手に渡すも残念に候間、人足、召連れ持来り候様、唐木隊より達しこれ有るに付き、凌霜隊残らず胸壁より二三町進み行く処、早や敵押来り、砲声相聞え、三依辺の百姓共進来る。敵は左右の山へ登り、時の声を揚げて近寄り、大小砲発放す。依て味方も胸壁迄退き、時の声を合せて大小砲打出す。
 敵は街道よりも進来る。其勢六七百人也。互に砲声おびただし。中にも藤沢茂助(会藩なり。)大砲の上手にて榴弾適度にて破裂し、敵難渋す。敵よりも榴弾を発放し、胸壁には唐木隊、探索隊八十余人、凌霜隊には左の川向山の中腹へ押出し、隊長朝比奈茂吉、副隊長坂田林左衛門真先に進み三十余人追々進み、然る処、此場所は不都合に付き引戻し、峯の敵を防がんため川端へ人数を配り候様申来る。直様引戻し胸壁の左川端に相備へ散伏して発射す。敵は追々山つたへに進みながら、左右より打下す事雨の如し。街道よりも追々近寄り二三丁場にて木蔭へ散伏して伏をる。味方にも少人数なれども必死と発射して防戦するゆゑ敵も猶予せず。されども敵は大勢放発射する事おびたゞし・・・
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行動日録
・二五日 横川宿の戦闘 早朝、敵勢六七百人来襲し終日激戦。日没のため相引きになる
     中岡弾之丞(25)戦死
・二六日 小競合いはあったが戦争展開には至らず
・二七日 未明、若松表からの指令により急拠田島へ引揚げ、夜は高野村民家に泊
・二八日 朝八時過ぎ、田島代官所に集合したが惣勢二百人足らず。此の地の防戦不利と判断し、再び高野村へ引揚げる。日暮れに大内宿に着
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※ 横川宿;栃木県と福島県の県境、栃木から険阻山王峠の登り口にあり、会津西街道の下野国最北端に位置する宿駅である

会津西街道横川宿(2012.07/23)
日本奥地紀行/横川宿(2013.07/12)
日本奥地紀行/山王峠(2013.07/12)

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.11/25(TUE)

徳川義臣傳 徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
榎本和泉守




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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榎本和泉守
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈 8/31〉(引用)

榎本ハ通称を鎌次郎と称す諱ハ武揚梁川と号す幕府瓦解の際にハ開陽丸といふ軍艦に乗じ以下六艘を率ゐて品川を脱し直ちニ函館ニ上陸す榎本ハ海軍に熟し頗る軍略あるを以て其機図りて陸軍ニハ大鳥之れニ応じて尽く地を得るにより衆議ニ依て総裁ニ仰がれたり明治二年の春官軍大挙して迫るニ及んで之れニ当るニ又敵味方驚かしむ後衆ニ代りて降られ当時ハ正四位にて全権公使となり北京ニ赴かれたり

沖なかのそなれ洲崎を立鳥も見ゆはかりなる秋の夜の月

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〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
永井玄蕃(2015.07/25)



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2014.11/23(SUN)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
土方歳三




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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土方歳三
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈 25/31〉(引用)

土方歳三ハ幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸ニ返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵ハ新手を入替無二無三に攻立けるに脱兵防戦ニ尤も苦む歳三毎も真先ニ進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ

行末はいかになるらん武士の涙に袖をひたすけふかな

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〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
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板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
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2014.11/22(SAT)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
板倉伊賀守




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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板倉伊賀守
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈 5/31〉(引用)

板倉伊賀守ハ幕府の代にハ閣老にして慶喜公と共に京師にあり大坂に退き又江戸に返る此時諸士東北に脱走するを以て伊賀守も走る然るに脱兵振ハず大敗の時彦根の軍門に降りて宇都宮城中にあり時に大鳥圭介大兵を率ひ結城を落し進んで宇都宮城を攻落す伊賀守城中にあるを以て脱兵之れを奪つて去る板倉勝静之れより会津に走り又函館におちのちくだりしといふ

心あらば筑波の山のほとゝきす君が旅寝をなくさめてなけ

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板倉勝静
文政 6年(1823) 1月 4日- 明治22年(1889) 4月 6日
板倉勝静(いたくらかつきよ)は、幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代
--引用・要約;「板倉勝静」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』
2014.08/18(月)16:01--
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慶応 4年(1868)
・ 4月26日
 宇都宮城の攻防戦に敗れ、大鳥旧幕府軍は今市・日光に到るのだが、ここで大鳥圭介は元老中松山藩主板倉勝静と安居院に於いて面談する。以下は大鳥が「南柯紀行」に記したその様子である
     *
『・・・宇都宮落城以来板倉候父子寺院に潜居せられし由、使を以て余を招かれたれば直ぐに行きて逢いしに、格別の卓見も無く唯此地にて干戈を動かしては廟前へ血を濺ぐに至り、忠誠も却て水泡抔と旧に依て因循の輪なり、是れ尤一山の僧徒より頼み入て余に話せしことと覚えたり、愈々防戦と決心其手筈調いし上は、仮令弾丸神廟に触るるといえども無レ拠次第なり、唯防禦の策未だ相立たず苦辛せりと答えて帰れり』
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山田方谷と閑谷学校(2013.05/09)
〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
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2014.11/17(MON)

大統寺住職"賢邦"の墓 白河市馬町26・大統寺




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写真;2014.11/16
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此の頃白河大統寺の住職に賢邦というあり、薩人なるによりて、西軍と地方人との間に立って斡旋し大に地方人に便宜を与えたと伝えられ、又西軍参謀の使となって棚倉藩に恭順を勧めたとも伝えられている
明治22年 5月14日没

戊辰戦争と棚倉藩(2012.12/06)

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大統寺
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2014.11/17(MON)

水戸浪士江幡雄四郎墓 白河市表郷金山字竹ノ内26・正金寺




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写真;2014.11/16
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表に
水戸浪士江幡雄四郎
天應良然信士
元治元年九月丗日 享年十九才
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水戸天狗党田中愿蔵隊
※ 幕命で捜査手配されていた江幡は、逃避行中に入山集落(金山村)で住民に見つかり殺された後、幕領塙代官所の指令でここに葬られた



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2014.11/17(MON)

梅澤長次郎/西田林平墓 白河市表郷金山字竹ノ内26・正金寺




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写真;2014.11/16
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梅澤長次郎直貫墓 ↑写真左
表に
館林藩村山直衛家来
梅澤長次郎直貫墓
慶応四戊□□七月十六日/出兵先□□生歳二十二才
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仙藩西田林平祐英墓 ↑写真右
西田林平・・仙台藩/銃士/佐藤宮内大隊/明治元年六月十二日白河新城口で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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正金寺
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2014.11/16(SUN)

龍興寺 白河市向新蔵 131




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写真;2014.11/16
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仏舎利奉安霊場
 大雲山龍興寺

創 建  明暦三年(西暦一六五七年)
宗 旨  黄檗宗(禅宗)
山 号  大雲山
寺 号  龍興寺 通称 山ノ寺
御本尊  釋迦牟尼仏
脇 侍   阿難尊者
      迦葉尊者
開 山  鳳山元端大和尚
開 基  川瀬作兵衛吉次
大本山  黄檗山 萬福寺
      京都府宇治市五ケ庄
宗 祖  隠元隆琦禅師
教 義  (黄檗宗のおしえ)
 参禅をもって仏心を究明し、唯心の浄土己身の阿弥陀仏を体得し、禅教一如の妙諦により転迷開悟・安心立命を期する
 本堂にはビルマ王家より贈られた王家伝来の秘宝・仏舎利(お釋迦様の御骨)が奉安されて居ります。又境内には三十三観音・六地蔵尊が配列安置されて居りますので御参拝下さい
  平成元年三月 春彼岸
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2014.11/16(SUN)

海老名衛門君碑銘と戦死塚 白河市向新蔵131・龍興寺




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写真;2014.11/16
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--以下、現地の案内板から--
えびな えもん
海老名衛門君碑銘
 会津藩士海老名衛門は実名を季久といい、公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して隠居したが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に派遣された。最も激戦だった五月一日の戦いにおいて、この付近の山中で切腹した。享年五十二歳
 この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年(一八八四)に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものである
     白河観光物産協会
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--以下、現地の案内板から--
戊辰戦争絵巻白河之戦図
 黄檗宗龍興寺境内周辺は、慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走した道筋のひとつであった。境内には戦死塚と刻まれた同盟軍を埋葬した墓と、会津藩軍事奉行であった海老名衛門慰霊碑が所在している。海老名は敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている
図は、この日の戦闘の様子を伝える絵巻で、白河城(小峰城)、白河町(城下)を遠方より攻撃する大垣藩、忍藩を中心に薩摩兵、長州兵、白河を守備する仙台藩兵、棚倉藩兵などが描かれている
     平成二三年度
     県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
     財団法人白河観光物産協会
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
(九)海老名衛門君碑銘
海老名衛門の碑は白河町龍興寺の門前にある。其の側に戦死者墓の碑石一基がある。是は海老名等一隊の戦死者の墓石であると伝ふ。碑文に云
 海老名衛門君碑銘
明治戊辰之役海老名衛門君殉難。後十七年、其子季昌君建碑其地、使余銘之。余嘗辱君之知、略知其半生、乃叙之。曰、君諱季久、称郡衛門。其致仕後之称也。世仕会津藩。孝諱季長、称郡衛右門。妣大石氏。君幼頴悟、善文武之業。年二十八為目付。経学校奉行添役、公事奉行、郡奉行等数職、転軍事奉行添役、戍安房上総之営。嘉永六年米利堅使節率軍艦抵浦賀、辺海戒厳。君与軍事奉行黒河内松齋指揮隊伍、進退兵船、以備不慮。已無事、居五年。徒江戸邸、為軍事奉行、転大目付、帰会津。安政六年再為軍事奉行、兼番頭勤、戍蝦夷。加禄五十石、更賜職禄五十石、併旧三百五十石。嘗役于北蝦、余亦従焉。航白主海、攀雷電嶺、滞在鯨鯢出没、熊狼吼瞰之郷数月、文久三年致仕、還会津。前後賞賜不可勝数。戊辰之乱、復攝軍事奉行、出屯白河、五月朔、敵以大軍来襲。我兵血戦。丸尽刀折、駢頭死之。君知不可為、自屠腹死于龍興寺山林中。距文化十四年二月朔生、実五十二年也。君為人謙退沈黙、接人温和未嘗疾言遽色、而毅然卓立。処事方正不憚権貴、不侮卑弱、唯義是従。以人皆敬重之。傍好絵事、胸次瀟灑有韻致。配町野氏生四男二女、長季昌君嗣、累遷藩相、後仕 朝、為福島県官、転郡長。次夭、次季包、次季満皆善勉学。長女嫁小原内記、次夭。嗚呼余敍此、宛然睹君奮戦斫敵、慷慨屠腹之状、不覚暗涙交頤也。銘曰
 鞠躬盡瘁 船南馬北
 為國致身 為君殉職
 其節其忠 万世表式
  明治十七年五月
     東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
               大沼譲並篆額
篆額は「松柏独秀」の四字である
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海老名衛門君碑銘と戦死塚
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写真;2014.11/16



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2014.11/10(MON)

観音寺の石仏像 白河市白坂19・観音寺




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写真;2014.11/02
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せきぶつ
石 仏
石仏とは、石に彫られた仏像や道祖神などの神像なども含め総称されるが、その規模は寺院や神社の境内、路傍などで見られるような小さいものから、臼杵磨崖仏、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などに代表されるような巨大な岩盤に彫られた磨崖仏まで多様である

概 要
関西地方を中心に権力者、修験者、僧侶などによって古代、中世より多く作られるようになるが、近世に至ると素朴な信仰心を背景に一般庶民がその制作に携るようになる。関東では多様な表現での石仏が多く彫られた。現存する石仏の約80%位は江戸時代に制作されたものといわれている

石仏の種類
地蔵菩薩
 いわゆる「お地蔵さん」と呼び親しまれているもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが特徴で、全国各地で見られる。立像と坐像があり、坊主頭で衣をまとっている姿が一般的。丸彫り、線彫り、浮き彫りなどの彫り方の違いがある
六地蔵
 六体からなる地蔵菩薩で、地蔵菩薩は弥勒菩薩がこの世に現れるまでの無仏の間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)へ救いの手を差し伸べるとされ、各道に各地蔵が派遣されるという考えに基づく
馬頭観音
 路傍に置かれる石仏(観音像)で最もよく見られる。文字で刻まれることもある
千手観音
 千の慈眼、千の慈悲で衆生を救う観音菩薩。合掌する両手のほかに、左右20手ずつの40の手を持ち、掌中に各一眼を有す
如意輪観音
 立て膝で頬に指を当てた姿態の坐像で、一面二手、四手、六手像が一般的である。宝珠と法輪を手に持っている。江戸時代中期以降は、女性の信仰の対象になることが多くなり、月待供養、念仏供養などの主尊として数多く造られるようになった
道祖神
 峠や村境あるいは橋のたもとなどに多く祀られ、別名「さえのかみ」とも呼ばれ、その起源は中国に求められる。外敵や疫病から民を護ってくれるという素朴な民間信仰から生まれた神である。その姿も多種多様であり仲睦まじい男女の姿として彫られているものもあり縁結び、子孫繁栄、交通安全の神としても信仰される。日本では長野県安曇野市や松本市の農村部などに数多く見られる
庚申塔
 村や集落などの出入り口にあり、申(さる)と太陽と月が描かれている。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔である。干支で猿に例えられるため、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫られることや庚申の祭神が神道では猿田彦神とされることから、猿田彦神が彫られることもある。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された

--引用・要約;「石仏」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.10/24(金)12:13--
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写真;2014.11/02



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