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2014.10/28(TUE)

佐久山城跡 大田原市佐久山4458
佐久山陣屋




芦野陣屋(2014.10/25)

交代寄合福原家三千五百石、佐久山陣屋(佐久山城)である
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写真;二ノ丸?西の土塁、2014.10/28
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以下、現地の案内板から

史跡 佐久山城跡
     昭和36年12月8日指定
     大田原市佐久山4458
     管理者 大田原市
文治3年(1187)那須太郎資隆の次男泰隆は、この地辺りに築城(通称御殿山)して、佐久山次郎泰隆と称して居住した。後、永禄6年(1563)子孫の佐久山右衛門義隆は、同族の福原安芸守資孝(大田原備前守資清の次子資隆)に滅ぼされ廃城となった。跡は東西約60メートル、南北50メートルで、その西側及び南側の一部に土塁が残っている
天正18年(1590)資孝の子雅楽頭資保は、片府田城より佐久山四つ谷に陣屋を移し、のち元禄15年(1702)福原刑部資倍、佐久山城に補修を加えて移り、以降福原氏累代が居住したが、明治2年(1869)福原内匠資生版籍を奉還した。城跡は現在御殿山公園と呼ばれ、公園として利用されている
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↑二ノ丸?



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2014.10/27(MON)

安政六年十月二十七日




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よしだしょういんのりかた
吉田松陰矩方
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長州藩士/杉百合之助の二男/寅次郎/変名松野他三郎、瓜中万二/六歳で山鹿流師範吉田家を継ぐ/五十七石六斗/叔父玉木文之進や山田宇右衛門、山田亦介らに学び、十一歳で藩主毛利敬親に「武教全書」を講義/各地を巡遊して志士と交わり、安政元年米艦に投じようとして失敗、入獄/赦されて松下村塾で俊秀を育成/五年大獄により就縛、六年十月二十七日江戸で斬/三十歳/東京世田谷区・松陰神社に祀/墓は東京荒川区・回向院/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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 安政五年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため計画は頓挫したが、入江九一・和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される
 安政六年(1859)十月二十七日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年三十(満二十九歳没)
--引用・要約;「吉田松陰」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.10/22(水)17:06--
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※ 念五日  二十五日のこと



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2014.10/25(SAT)

平久江家門及び構え 那須町芦野




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写真;2014.10/24
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以下、現地の案内板から

那須町指定建造物
平久江家門及び構え

この門の建築は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武家の門構えである
平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一番高い地に家屋敷を構えていた。当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している
構えは枡形の形式をとっており、武家屋敷特有のものといえる。この門及び構えは、当時をしのばせるものとしては貴重なものである
     那須町教育委員会
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2014.10/25(SAT)

芦野陣屋 那須町芦野1039(館後)




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写真;芦野陣屋二の丸↑ 2014.10/24
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町指定文化財/史跡
あしのしじんやあと
芦野氏陣屋跡 昭和35年10月15日指定
所在地;那須町大字芦野1039(館後)
 通称「御殿山」または「桜ケ城」「芦野城」と呼ばれている。芦野氏の近世の居城(陣屋)跡である。奈良川の東岸にあり、芦野の町なみを見おろす丘陵上に位置している。面積は約3haで、現在は山林と公園になっている。構築の年代には二説があり、一つは天文年間(1532~55)芦野資興(すけおき)の代であり、一つは天正18年(1590)芦野盛泰(もりやす)の代であるが、城の形式から前者の説が妥当と考えられている。明治4年の廃藩置県まで約300数十年間ここに芦野氏の居城があった
 居城は自然の丘陵を大規模に加工して造った平山城的なものである。本丸と二の丸、三の丸に相当する郭があり、二の丸には表門と裏門そして御殿や蔵があった。御殿は、木羽葺で間口約29m奥行約11mで、玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台等に区切られていた。また建物の奥には陰殿もあった
 芦野氏は古い歴史を持つが、ここに居城を築く頃から最盛期を迎える。特に15代資泰(すけやす)や16代盛泰らは、戦国時代、那須七騎の一として多くの合戦で活躍した。天正18年(1590)盛泰は秀吉に本領を安堵されている。江戸時代、交代寄合(旗本)となり、3016石の領主となった

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写真;芦野陣屋本丸↑
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以下、--「戊辰戦争と那須町」那須町教育委員会・2014.03/31発行--から引用、要約した

芦野氏 戊辰戦争
 三〇一六石/交代寄合旗本/領地は芦野附近の村々(下芦野、唐木田、夫婦石、小山、中ノ川、上田、下田、芋渕、丸作、湯舟、大ヶ谷、大久保、石住、塩阿久津、中梓、下梓、東吉野目、西吉野目、大畑、沓石、飛地として漆畑、大島、北沢、ほか芳賀郡内に赤羽、上根、多田羅、小宅、別府、見上、福岡、塩野目の八ヶ村・通称下の庄)である
 戊辰戦争当時の当主は、旗本神保家から養子に迎えられた芦野資愛(雄之助)である。芦野氏は戦闘に携わることなく軍夫方に任命され、主に白河、棚倉、二本松方面への軍夫の徴発・派遣、芦野宿継立人足の徴発など後方支援を務めていたようで、「軍夫取調書上帳」によると、通称下の庄を含む知行地芦野宿及び一九ヶ村からは三九〇名を超える軍夫が徴発された(慶応四年四月~一〇月)
 軍夫とは農兵とは違って非戦闘員であり、新政府軍・旧幕府軍どちらからも徴発された。戦地へ食糧や武器弾薬を運搬する人夫である。白河口の戦いから会津総攻撃まで、農民たちは農兵や軍夫として重い負担が課せられたのである
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交代寄合陣屋
那須地方に在った交代寄合陣屋
 福原家  佐久山陣屋
 芦野家  芦野陣屋
 那須家  福原陣屋
 大田原家 森田陣屋

※ 交代寄合
 江戸幕府の職名で、1万石以下3000石以上の非職の旗本で幕府と特別の関係にあった家で、老中の支配に属し、身分、格式は譜代に準じ、領地に常住したが、隔年に参勤交代した
※ 陣屋
 江戸時代、郡代・代官・旗本などが任地或るいは知行地に所有した役所。ほかに無城の大名、交代寄合などの居館をもいう



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2014.10/24(FRI)

高札で見る奥州道中芦野宿 那須町・那須歴史探訪館
那須町芦野2893




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↑高札イメージ
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以下、平成26年度企画展「高札で見る奥州道中芦野宿」展示説明資料から

27 慶応四年五月 個人蔵

  上総、下総、上野、下野の国たるや、古
 皇朝御盛の時ハ
  宮様方より御鎮守被成候程の重き国柄に
  候処、久敷武家の私恩小恵に固着し、大義を
  令失却、妄に  官軍に抗し、或ハ
  王土を掠め一揆徒党等相結ひ、小民を蠱惑
  するに至る、今般奸を除き候上ハ、忠良を
  挙、老人を尊ひ、孤獨を恤む等の事も漸々
  可被相行  都には
 明王賢相精を励まし玉ひて、日々淋々と美政
  善事目を拭て奉拝見程の  御時なり
  何れの国何の僻郷にても
 王化を感戴勢さらむや、唯此下総野辺より以北に
  限り
 天恩を不知者不少、豈恥遍きにあらすや、近々
  奥羽辺も早く御平定被成筈ニ付、能
 英意を躰し奉り、人心安堵各其職を勤め
  数百年来
 皇家御中興の
 御聖業速に御成就太平を歌ひ候様相成度、
  下々まて可奉祈望者也
      下総野御鎮撫
 慶応四年    執事
   辰五月
     *
解説
 本資料も伊王野の名主宅に伝わる高札である。慶応四年(一八六八)五月、下総野御鎮撫執事名で発布された
 慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、三月には下野国内での攻防が繰り広げられた。五月においても、下野国内では戦闘が続いていた
 下総野鎮撫府は、同年五月に新政府軍により下総・下野両国を監督する目的として設置した。鎮撫方には佐賀藩の鍋島直大が任命された
 五月十七日には、真岡代官所の代官山内源七郎が佐賀藩士らによって処刑され、陣屋は焼き払われた。その後、真岡代官所の支配地八万五千石余は新政府軍に接収され、真岡県が設置される。幕府直轄領であった伊王野も真岡県の支配下となる
 本資料からは、旧幕府時代とは異なる高札の立て替えにより、新政府の存在を民衆に印象付けようとした意図が窺われる
 しもそうやごちんぶしつじ
※下総野御鎮撫執事
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2014.10/24(FRI)

奥州街道芦野宿 那須町芦野




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写真;現在の芦野宿(仲町通り)・2014.10/24
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以下、「那須歴史探訪館」展示資料説明から引用

奥州道中と芦野宿

 奥州道中は、江戸幕府により整備された五街道の一つであり、道中奉行によって管轄されていた。街道の成立は、天正18年(1590)、小田原城攻略が間近に迫った7月3日、豊臣秀吉が小田原から宇都宮を経由して会津へ向う軍用道路の開削を命じたことによる(「従小田原面至于会津道作御法度事」伊達家文書)。その後、慶長6年(1601)には徳川家康によって東海道をはじめとする主要街道が整備され、同9年には、奥州街道でも並木や一里塚の整備が始まったとされる

 江戸から宇都宮までは日光道中と同一であり、宇都宮市伝馬町を分岐点に白沢、氏家、喜連川、佐久山、大田原、鍋掛、越堀、芦野、白坂を経て、奥州の白河に至る道筋を奥州道中と呼び、道程は、21里18町14間半という。宿駅間距離の最長は、芦野・白坂間、最短は佐久山・大田原間である。鍋掛宿は大田原からの下り、越堀宿は芦野からの上りの継ぎ立てを行う片継(片馬ともいう)の宿であった

 奥州道中の宿駅は、17世紀半ばに形成されたと考えられている。芦野宿の成立時期は定かでないが、17世紀初頭には成立していたと推定される。関東の要衝であった宇都宮宿と奥州の拠点であった白河宿を結ぶ街道は、宿場として町割りが形成され、喜連川、佐久山、大田原、芦野には、大名や1万石以下でも大名並みの格式を持つ領主が屋敷を構えており、城下町でもあった
 宿の形成時期を示す記録は現在見当たらないが、慶長3年(1598)の直江兼続・石田光成連署状に、米沢藩主蒲生四郎兵衛並びに家来の荷物を米沢から「那須之内芦野マテ」送り届けることを「在々肝煎中」に命じている(上杉家御年譜)。このことから、この時期には芦野を経由する道中が成立したとする説もある

 芦野宿の範囲は、新町、仲町、川原町の三町といわれ、新町の高橋から川原町の芦野橋までである。両橋際に建つ地蔵尊は、宿内への流行病の侵入を防ぐためのものといわれている。新町の地蔵尊は享保2年(1717)、川原町の地蔵尊は享保12年(1727)の建立である。この間約1kmを宿内という

 芦野宿の本陣は代々臼居氏が務めていた。建物等は現存せず、現在の那須屋商店と石の美術館が敷地となっている。脇本陣は吉川屋という旅籠であり、現在のめがね魚店とほていややの二軒分の敷地であった
 問屋職は代々戸村氏の世襲で、戸村氏は元禄年間に須佐木(現大田原市)から移り住んだ家である。現在は、町営の駐車場となっている。問屋場の前には高札場があった。米問屋は川原町にあり、池沢氏の世襲であった。町年寄は、安達氏(現丁子屋)、高久氏(塩屋)、鏑木氏(和泉屋)、青木氏(大坂屋)らが務め、宿内の直接の支配を行った。また、江戸時代の遺構を残す山本屋(旧大塚家住宅・仲町)は、間口6間半の中2階の建物で、当時の旅籠の面影を残している
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那須歴史探訪館 那須町大字芦野2893番地

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2014.10/18(SAT)

内儀茂助之墓 白河市表郷下羽原吉田 115・鹿島神社




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写真;2014.10/18

・内儀茂助之墓
 表郷村下羽原
 鹿島神社隣り緑川氏敷地内(※近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」)
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内儀茂助 ; 棚倉藩/弾薬方/明治元年六月二十四日棚倉で戦死
※ 六月二十四日は棚倉城落城の日である
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

 2. 棚倉城落城(再掲)
戊辰戦争と棚倉藩(2012.12/06)
--慶応四年(1868)六月--
・西軍は金山を出て二手に分かれ、薩・長・大垣・黒羽の兵は間道を通り小菅生から小丸山に出て棚倉を砲撃
 戊辰戦争記阿部正功家記によると
 「西軍金山口を破りて、熊坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻りなり」
 とある。小菅生を通ったのか熊坂であったのかは不明
・一隊は本堂を進み逆川に至る(長・土・忍の兵)
 逆川の東軍は防戦するが、先に相馬の援兵は逆川から浅川へ、会津兵は須賀川へ引き揚げてしまっていた。棚倉藩兵孤軍支えきれず城下に退く
 釜子にいた兵も棚倉の砲声を聞き西軍を横撃しようと進軍したが、社川が増水していて来援は叶わなかった
・四方に出兵し、相馬・会津の兵は引き揚げ、来援は来たらず、城を守るのは棚倉藩兵三百士。死力を尽くしても城を支えることは不能とみて、自ら城と城下に火を放った
 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
 棚倉藩戦死者
本多九左衛門、奥原一、三沢錦八郎、内儀茂助、上田源八、村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、郷夫・惣内、郷夫・新吉、郷夫・竹次郎
 東白川郡史によると
「六月二十四日、棚倉城落城。
夜半の大雨、暁に至りて竭み、炎晴、銕を燬く時、六刻、砲声、殷々,城下を圧し,金山の関門破ると伝ふ、老若先づ走り、男女、家を舎て北ぐ、全街人無き、狗子、影を滅す、官、赤館に迫る、大砲隊長、吉田七郎左衛門、其子、国之進を始め、部下を従い防戦死力を尽す、突如、小丸山上、銃声、急霰の如く起る、支え難きを覚り、砲を壕に投じて走る、先是藩兵、火を城に放つ、焰、天に渦き、英俊苦心の名城、一瞬にして消ゆ、次いで、炬を街に挟む、官、来りて水を濺くも、古町以南、全く玄野と化す」
 西軍の記によると
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧らが如く..
 この日東軍の首級十五、長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人とある
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↓鹿島神社
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--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--



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2014.10/18(SAT)

住職に似た六地蔵の一体 白河市道場町40・小峰寺





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↑写真;住職に似た(と思っているが根拠無)六地蔵の一体・2014.10/18
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以下、『戊辰としらかわ』平成24年度「桜プロジェクト」から(再掲)

命がけで鐘を撞いた住職のおもかげ
 空城となって二本松藩兵らが駐留していた小峰城(白河城)は、閏四月二十日に会津兵が占拠。その際城下に火を放って城に迫るのを見た小峰寺の住職は、会津兵が攻めてきたことを早鐘を撞いて町民に知らせたため狙撃されて亡くなりました。境内の六地蔵の一体が住職に似ているので、この住職のお地蔵さんと伝えられています。
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戦死供養碑(2014.09/19)



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2014.10/15(WED)

会津藩主院内御廟 会津若松市東山




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写真;松平家墓所・2014.10/11
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以下、現地の案内板から

松平照姫(一八三二~一八八四)
上総飯野藩主保科正丕(まさもと)の三女に生まれ十一才の時、会津藩八代藩主松平容敬の養女となる。豊前中津藩主奥平昌服のもとに嫁ぐが再び会津に戻る
姉として九代藩主容保をささえ戊辰戦争鶴ヶ城籠城戦では城内の婦女子を指揮し負傷者の看護や打ち込まれた砲弾の処理にあたるなど西軍の攻撃から一ヶ月もの間城を守った。開城後滝沢の妙国寺に謹慎の身となった照姫は髪を落とし照桂院と名を改める
 荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
        身にしみ増さる 夜あらしの声
謹慎が解かれた後は、容保と和歌を交わすなど和歌に親しむ日々を送るも明治十七年二月逗留先の旧会津藩家老山川邸にて五十三才の生涯を閉じた
 戒名 照桂院殿心誉香月清遠大姉
大正六年戊辰殉難五十年祭にあわせ容保公が仮埋葬された新宿の松平家菩提寺正受院より院内御廟に改葬される際照姫も松平一族として松平家墓所に改葬された
     財団法人 会津保松会
     会津松平家奉賛会
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飯野藩

飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる

歴史

慶安元年(1648)6月26日、7000石を領していた保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。だが、正之が秀忠の子として認められると、保科氏嫡流を存続させるために正貞が改めて同氏の家督を継ぐことになったのである。正貞は寛文元年(1661)11月1日に死去し、後を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子であった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677)7月7日、正景は大坂定番になったことから、丹波国天田郡の内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866)5月26日に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めた
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益は連座によって謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、罪を許された。翌年、版籍奉還により藩知事となるが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で飯野藩は廃藩となった。その後、飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入されたのである

--引用・要約;「飯野藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014.04/11(金)15:54--



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2014.10/12(SUN)

会津藩主院内御廟案内図 会津若松市東山




会津藩主院内御廟(2014.10/11)

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院内御廟案内図(現地、案内板)
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藩主の墓【神式】のつくり 現地にあった案内チラシ(会津若松市教育委員会文化課)から
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