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2014.08/31(SUN)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
丹羽左京太夫




二本松(カテゴリ)

明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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丹羽左京太夫
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈4/31〉(引用)

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奥州二本松の城主なり慶応四年松平肥後守朝敵の名あり官軍大挙して進み來るの際丹羽家に於ても會津に荷擔し兵士を八方に出して官兵に抗す然るに白川城忽ち陥るに及んで脱兵を始め四方に散ず官軍勢ひを得て二本松城に迫る諸士城中に立こもると雖も遂に大手を破られ敵城中に乱入す藩主搦手より落て會津城中にのがれ其後くだりて今華族に列せられてあり

初秋は 草木にのみの 露なるを つひに袖にも くだすなるらん

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〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
永井玄蕃(2015.07/25)



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2014.08/31(SUN)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
松平越中守




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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松平越中守
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈4/31〉(引用)

勢州桑名の城主たり会津中将と倶に京師にあり此時徳川慶喜公大政を奉還せられ大坂に退かれしが再度上洛の折柄ハ会津と侶倶に先降たり頃ハ慶応四年正月三日のことにして伏見の関門に到りし時俄かに戦端を開き双方の死傷も多かりしが幕兵敗るるに及んで海路江戸に遁れ会津城に拠り屡々兵を交へて戦ひ尤も烈しく然れども衆寡敵せずして降り今華族たり

国守る ますらたけおは さりなから ゆくへはかれぬ 世の姿かな

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〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
永井玄蕃(2015.07/25)



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2014.08/30(SAT)

丹羽長重




棚 倉 城(2012.11/04)
白河藩大名家墓所(2014.08/26)

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写真;丹羽長重公廟と墓(白河市円明寺)、2014.08/25
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にわながしげ
丹羽長重

・元亀 2年(1571)
 織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い
・天正11年(1583)
 賤ヶ岳の戦い
・天正12年(1584)
 小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した
・天正13年(1585)
 父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた
 さらに
・天正15年(1587)
 九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている
・天正16年(1588)
 豊臣姓を下賜された

 その後、豊臣氏による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された
・慶長 3年(1598)
 秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている

・慶長 5年(1600)
 関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる
・慶長 8年(1603)
 常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し
・慶長19年(1614)
 大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される。長重以外の三名は長重より年長で、武功の実績も多かった
・元和 5年(1619)
 常陸国江戸崎2万石に加増移封された
・元和 8年(1622)
 陸奥国棚倉5万石に加増移封される。この棚倉の前の藩主は、長重と共に御伽衆として秀忠に仕える立花宗茂であった

 長重の出世を知り、各地へ離散していた旧丹羽家の家臣達が、長重の元へ戻ってきた。それまで、長重は立花宗茂が居城としていた赤館城を使っていたが、新たな城の築城を決め、そこから南にある近津明神の境内に新たな城を築城することを決意した。この近津明神を動かすことで、住民と悶着が起こったが、長重は別当の高松一族から高松良篤を家老として登用し、彼の主導で明神の遷宮及び城の築城を行わせた。この城がのちの棚倉城となる

・寛永 4年(1627)
 会津藩の蒲生忠郷が嫡子なくして死去、転封されたため、その領地に、加藤嘉明と長重が移った。長重が得たのは、石高10万700石の白河。築城中であった棚倉城は放置され、その後移ってきた内藤信照によって完成した。各地へ離散した長重の旧家臣達はますます集まるようになり、また蒲生家の旧臣なども召し抱えた。長重は、白河に白河小峰城を建築した

しかし度重なる転封、築城により、丹羽家の財政は逼迫した

・寛永14年(1637)
 閏 3月 6日に死去した。享年67(満65歳没)。跡を子の光重が継いだ

--引用・要約;「丹羽長重」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.08/01(金)05:33--
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2014.08/29(FRI)

松本忠左ェ門墓 那須町寄居・与楽寺




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写真; 以下、墓誌に

 四世の祖松本忠左ェ門金吉は、戊辰戦争にあたり、同族阿久津広之助義次と相携え、黒羽藩士として官軍に身を投じ、慶応四年九月五日、会津若松河原町において戦死された。ついで同十月一日、広之助義次がおなじく材木町において戦死され、ともに靖国の祭神となられた。両祖の墓所は官修墓としてながく、剣尖飾の一つ鉄柵に囲われ、俱舎一処の菩提を弔われてきた。が、第二次世界大戦にあたりその鉄柵が供出をよぎなくされ、忠左ェ門金吉の墓石は、広之助義次との比翼をはなれて松本家墓域に仮に移祀されたままとなった。
 ここに、松本忠左ェ門金吉の四世・五世の子孫ら相図って、との墓所をありし姿に近く復し、との祖霊を慰め、永く祖恩に報いることとした。
 平成二年九月五日
     □□□□□ □□□□ 誌之
     □□□□□ □□□□ 建之
とある
2014.08/25
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松本忠左ェ門
黒羽藩/夫卒/寄居村の農/明治元年九月五日若松河原町で戦死/三十一歳/那須町寄居・与楽寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
阿久津広之助
黒羽藩/寄居村の人/明治元年九月五日若松材木町で戦死/四十歳/墓は那須町寄居・与楽寺/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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与楽寺
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2014.08/27(WED)

戊辰の古戦場 白河市松並・稲荷山




平成26年(2014)
・ 8月25日
 慶応四年(1868)、戊辰戦争で最大の激戦地とされる白河口、その主戦場となった松並、稲荷山に行く

白河城の攻防(2012.06/02)
慶応四年五月朔日白河口戦闘図(2013.05/20)
松並、東軍の慰霊碑(2012.06/26)


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写真;↑稲荷山公園に立つ"のぼり旗"、奥羽越列藩同盟の旗印仕様・2014.08/25


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写真;↑は現地の案内板にあった写真だが、大正から昭和初期頃の松並附近(古い絵葉書)だそうで、これには「白河名物戊申の古戦場」の文字もあった

写真;↓は現在の松並附近・2014.08/25
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2014.08/27(WED)

丹羽長重墓 白河市円明寺




白河藩大名家墓所(2014.08/26)

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写真;2014.08/25
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以下、現地の案内板から

にわながしげ
丹羽長重墓
 丹羽長重は、織田信長の家臣丹羽長秀の嫡子で、越前・若狭など百二十三万石の大名であったが、前田利長と争い、所領を没収された。慶長八年、徳川家康より常陸古渡に一万石を与えられ、元和八年に棚倉藩五万石、そして寛永四年白河藩の成立とともに十万石で入封した。
 長重は、小峰城の改修、町割りの整備など現在の白河の町並みの基礎を築いたが、寛永十四年閏三月四日、江戸桜田上屋敷で没した。享年六十七歳。遺体は現在地に埋葬され、塔身四・二七メートルの宝篋印塔が建てられた。法名「大隣寺殿前参議三品傑俊浄英大居士」。霊廟は、天保七年に建立された。
     白河市教育委員会
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2014.08/26(TUE)

松平直矩・基知墓 白河市円明寺




白河藩大名家墓所(2014.08/26)

松平直矩墓

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写真;2014.08/25
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以下、現地の案内板から

   なおのり  もとちか
松平 直矩・基知墓
 松平直矩は、徳川家康の次男結城秀康の孫で、七歳で姫路十五万石を継いだが、越後村上、姫路、豊後日田、山形と転封し、元禄五年山形より入封し白河藩十五万石の城主となる。元禄八年四月、江戸藩邸にて没する。享年五十四歳。遺体は荼毘に付され、現在地に葬られた。墓碑は、高さ三・六メートルの五輪塔である。法名「天祐院殿鐡舩道駕大居士」
 基知は、父直矩のあとを継いで白河城主となった。享保十四年八月、江戸屋敷にて没する。享年五十一歳。遺体は、備前の大甕に納められて江戸より運ばれ、現在地に葬られた。墓碑は、高さ三・六メートルの五輪塔である。法名「仰高院殿實性英堅大居士」
     白河市教育委員会
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松平基知墓

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写真;2014.08/25



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2014.08/26(TUE)

松平(奥平)清照墓 白河市円明寺




白河藩大名家墓所(2014.08/26)

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写真;2014.08/25
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以下、現地の案内板から
      きよてる
松平(奥平)清照墓
 松平(奥平)家は、三河国の武将奥平信昌と徳川家康の長女亀姫の間に生まれた、松平忠明を初代とします。
 忠明の子忠弘は、元和元年(1681)、宇都宮藩より白河に入部しました。以後、元禄5年(1692)までの11年間、白河藩15万石を治めました。
 清照は、忠弘の嫡男でしたが、病弱であったことから廃嫡され、貞享3年(1686)小峰城内で没し、この地に埋葬されました。墓は、安山岩質凝灰岩(白河石)で造られた五輪塔で、高さ2.8メートルを測ります。
 法名「涼雲院殿南峰道薫居士」
 元禄5年、松平家は山形藩10万石に転封となり、家督は清照の子忠雅が継ぎました。
     白河市教育委員会
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2014.08/26(TUE)

白河藩大名家墓所 白河市円明寺




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写真;2014.08/25
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以下、現地の案内板から

白河市指定史跡 白河藩大名家墓所
 三方を丘陵に囲まれ、北側に谷が開く地形をしているこの地は、歴代の白河藩主の菩提寺などが置かれた場所で、江戸時代の絵図にも寺院の名称や池が描かれています。
 文化2年(1805)に完成した「白河風土記」には、寛永年間(1624~1643)に初代白河藩主となった丹羽長重が、この地を菩提寺建立の地としたとあります。
 文献資料などから、丹羽家の大隣寺、榊原家の隨寶寺、本多家の久松寺、松平(奥平)家の天祥寺、松平(結城)家の孝顕寺、松平(久松)家の円明寺、阿部家の正法院が置かれたことを確認することができます。
 白河藩を治めた大名家は、7家21代を数えますが、この地に墓地が築かれたのは丹羽長重、松平(結城)直矩、松平(結城)基知、松平(奥平)清照で、丘陵の斜面部を平坦に造成し、墓地としています。
 谷の中央に存在する池は、絵図から寺院の一角に存在したものと考えられますが、明治時代の末に、有志により池園として整備が図られ「小南湖」と称されるようになり、現在もこの名で親しまれています。

     白河市教育委員会
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丹羽長重 にわながしげ
松平直矩 まつだいらなおのり
松平基知 まつだいらもとちか
松平清照 まつだいらきよてる



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2014.08/25(MON)

二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊 白河市円明寺「丹羽長重公廟」附近




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写真;2014.08/25
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--以下、現地の案内板から--
二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊
 この碑は、二本松藩戦死者23名を供養するため、旧二本松藩と白河町有志で組織された丹羽長重公追遠会が建立した供養碑です。
 現在は、丹羽会として供養、墓前祭が行なわれています。
 碑文には、戦死者の氏名が刻まれています。

  丹羽舎人   中原助十郎  三澤波門
  丹羽主馬   渡邊新介   大友佐左エ門
  内藤隼人   吉村勝蔵   遠藤治左エ門
  澤崎金左エ門 桐生玄貫   吉村嘉右エ門
  南部權之丞  上田蔵主   斎藤孫吉
  村越久太夫  遠藤隼之介  (従者)卯三郎
  小林角兵衛  遊佐軍記   (従者)万五郎
  田島市郎兵衛 月岡貞之介

     白河観光物産協会
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