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2014.07/31(THU)

浅川城(青葉城)跡 石川郡浅川町




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写真;【青葉城への入り口周辺】2014.07/27
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以下、現地の案内板から

浅川城(青葉城)跡
 文治5年(1189)に陸奥征伐に参加した甲斐源氏の出である浅利(川)義成の孫、知義が大功があったので浅川の地頭職となり、青葉城を築き、1万9千石を領したといわれている。その後、知義の子孫は代々この城にあったが、しだいに石川氏が同族化を強めていった。戦国末期になって佐竹氏が南郷に進出してくるようになり、ようやく活躍するようになる。しかし、その使命は久慈川の川谷を抑える要点である赤館の脇役に過ぎなかった。永禄12年(1569)より天正17年(1589)にかけて数度の合戦が行われた。
 この城山は小高い丘(標高407メートルで、台地状の一大岩盤)となっていて傾斜が急であるために、複雑な縄張りや石垣のようなものは必要でなかった。そのために残っているものがない。また、戦闘そのものも激しくなかったこともあり厳重な要塞らしいものはなかった。
 城山の中腹にある集落を根宿と呼んでいる。これは根小屋とか内山下に相当するもので、この附近は集落のことを宿と呼んでいる。宿という名称は中通りや久慈川の川谷一帯によく見られる地名である。 --浅川町史より--
     浅 川 町
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 慶応 4年(1868)
・ 7月16日
 ↓列藩同盟軍の敗残兵、落城した棚倉城を奪回すべく棚倉の外郭陣地浅川城に集結した..
戦死霊魂供養塔(2014.07/28)

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2014.07/30(WED)

棚倉城(亀ケ城)址 棚倉町




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写真;【追手門の大欅】2014,07/27
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以下、現地の案内板から

棚倉町城下絵図
 棚倉は、常陸国(現茨城県)の平潟港からの街道が通り、新政府軍にとっては、会津へ向う上で重要な位置にあった。又、新選組の斎藤一らも会津へ向うためこの街道を利用した。
 戊辰戦争での棚倉藩は、奥羽越列藩同盟軍として、藩の主力が各地で戦った。中でも藩士阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は仙台藩の「鴉組」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」と謡われるほど新政府軍から恐れられた。
 慶応四年(一八六八)六月二十四日、各地へ出動し手薄になった棚倉城下に、参謀板垣退助が率いる新政府軍総勢八八〇余名が大砲六門をもって進撃し、主力を欠く棚倉城は、一日で城下町の一部とともに焼失した。
     平成二四年度
     「桜プロジェクト」
     福島県県南地方振興局

※ 絵図、省略
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仙台藩からす組の旗(2014.06/21)



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2014.07/29(TUE)

感忠銘碑 白河市字藤沢
白川城跡




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以下、現地の案内板から 1

福島県指定史跡
        かんちゅうめいひ
白川城跡(付) 感忠銘碑
          昭和二十八年十月一日指定
          所在地  白河市字藤沢一八番地ほか一三九筆
          管理者  白河市教育委員会

 白川城は別名搦目城(からめじょう)ともいう。
 白河市街の東方、阿武隈川の南に連なる丘陵にあり、中央から北にかけて遺構群がある。山頂の平坦部には空濠と土塁があって、御本城山(館山)といわれ、ここが白川城の中枢部にあたる。それより北に半島状に伸びた二つの出丸があり、その下の谷を下門入という。これが搦手で、搦目城の名の起源といわれている。御本城の東には谷を隔てて鐘撞堂山、その東には美濃輪という谷がある。感忠銘碑のある絶壁の南には馬乗場、さらに南にひとつの壇跡があり、今は稲荷神社を祀っている。御本城山の北西方の字藤沢山には、延文五年(一三六〇)銘の供養塔が出土した平坦地があり、その他約二〇ヘクタールにわたり遺構が現存している。
 源頼朝の奥州合戦ののち、白河庄の地頭職となった結城氏は、宗広の代になって威を張り、子親光と共に南党(吉野方)の柱石として本城により勇戦し、元弘三年(一三三三)には太守義良親王と陸奥国司北畠顕家を白川の地に迎え、建武二年(一三三五)の西上、延元元年(一三三六)の下国、さらに延元二年再び西上と、本城は南党の重要な拠点となった遺跡である。
 感忠銘は城跡の一部である北東の搦目山二番地の断崖に、宗広・親光父子の忠烈を後世に伝えるため、内山重濃が文化四年(一八〇七)に白河城主松平定信の感忠銘の三文字を得て、広瀬典の撰文、千里啓が書いた磨崖碑である。
     福島県教育委員会
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以下、現地の案内板から 2

感 忠 銘
蔚然深秀、在我白河東者、結城氏墟也。我望之而有所感焉。元亨建武間、士氣衰苶、天下擾々視利避就。獨宗廣・親光、忠烈凛々、憤發唱義、欲率天下而與之。不幸弗克、以殞身。然猶東州士民、知戴南朝之天者、實亦其力也。一時忠烈、楠公之外無能耦焉。而今吾民鮮知其爲州人。奚以興千餘風。内山重濃家於墟下。損財爲予勒銘、表而出之。公嘉斬擧、題賜三大字。以刻上方。嗚呼二子之忠魂、數世後得此偉標焉。其必含笑於地下。吾輩亦與有榮也。銘曰 峭乎此山。維石巉々。渓風肅然。劍佩夜還。踪蹟不刊。輝映千年。民莫自棄、國能生賢。 文化四年秋九月 廣瀬典謹識  賀孝啓謹書

(読ミ下シ文)
蔚然(ウツゼン)タル深秀(シンシウ)、我ガ白河ノ東ニ在ルモノハ、結城氏ノ墟(キヨ)ナリ。我之ヲ望ミテ感ズル所有リ。元亨・建武ノ間、士氣衰苶(スイデツ)、天下擾々(ゼウゼウ)トシテ、利ヲ視テ避就セリ。獨リ宗廣・親光、忠烈凛々、憤發シテ義ヲ唱ヘ、天下ヲ率ヰテ之ニ與セント欲ス。不幸ニシテ克(カ)タズ、以テ身ヲ殞(オト)セリ。然レドモ猶東州ノ士民、南朝ノ天ヲ戴クコトヲ知レルハ、實ニ亦其ノ力(チカラ)ナリ。一時ノ忠烈、楠公ノ外ニ能ク耦(ナラ)ブモノ無カリキ。而ルニ今吾ガ民其ノ州人タルヲ知ルモノ鮮(スクナ)シ。奚(ナン)ゾ以テ餘風(ヨフウ)ヲ興サンヤ。内山重濃墟下(キヨカ)ニ家ス。財ヲ損(ス)テ予ヲシテ銘ヲ勒(ロク)セシメ表(アラワ)シテ之ヲ出ス。公斯ノ擧ヲ嘉シ、題スルニ三大字ヲ賜フ。以テ上方ニ刻ス。嗚呼二子ノ忠魂數世ノ後此ノ偉標ヲ得タリ。其必ズヤ笑ヲ地下ニ含マン。吾ガ輩モ亦與ツテ榮有ルナリ。銘ニ曰ク、峭乎(セウコ)タル此ノ山。維石巉々(コレイシザンザン)。渓風肅然(ケイフウシュクゼン)。劍佩(ケンバイ)夜還ル。踪蹟(ソウセキ)刊セズ。千年ニ輝映ス。民自ラ棄ツルコト莫(ナ)クンバ、國能ク賢ヲ生ゼント。
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白川城跡(2016.04/14)



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2014.07/28(MON)

長久寺と山門 棚倉町大字花園




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写真;2014.07/27
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以下、現地の案内板から

長久寺と山門
 長久寺は、宝永二年、太田備中守資晴公が駿州田中より移り棚倉藩五代城主となり、棚倉城南門外に仮堂を建て、宝永四年五月十二日、花園の地に総本山身延山久遠寺第三十三世遠沾院日享上人を開山として、太田公、御母堂 本成院殿妙元日貞大姉位の菩提と、この地に法華経の道場を建立、夫公院高徳山長久寺(現在は瑞光院)を開創する。
 当山山門は、その時に、棚倉城二の丸南門を山門として長久寺開基太田公が寄進移設されたもので、初代城主丹羽長重公が築城(寛永二年)の門と言われ、棚倉城に縁ある建物として現存する唯一のものである。
 今現在はトタン葺、切妻造、薬医門、前面主柱・脇柱間を改築して仁王尊を安置している。
 この仁王尊は、寺誌に「馬場村都都古別神社ノ本地仏維新ノ際□所火中ヨリ日要感得之右周旋人伊野下村」とある。
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このお寺さん、他に「清正公堂」なるものがあったが、由緒など不明
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2014.07/28(MON)

戦死霊魂供養塔 浅川町浅川字荒町・永昌寺
浅川の戦い




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写真;7月16日、「浅川の戦い」で戦死した列藩同盟軍兵士の供養塔であろう。台石には「□□手傳/□町若者」と刻まれており、地元有志による建立のようだ
なお、この永昌寺には同じ戦いで戦死した仙台藩畠山源三郎の墓もあるようだが、これは見付けられなかった
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以下、近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」から

4.浅川城(青葉城)の戦い
慶応 4年(1868)
・ 7月16日
 すでに棚倉城は落城していたが、会津・仙台・二本松・棚倉の残兵は棚倉城を奪回しようと計り、棚倉の外郭陣地浅川城に集結
 西軍の記録によると
「敵は七月十六日払暁、雨をついて浅川の東北で、社川の対岸にある城山上に大砲五門を引き上げ、ここから浅川の西軍陣地を眼下に見て砲撃し、歩兵も山を降って前進攻撃してくる。西軍は砲二門で応戦したが、東軍の勢力は衰えをみせず、必死の防戦をし、援軍の来るのを待った」

「臨時救援隊の応援で急峻な城山の敵をその側面攻撃が成功し、敵の陣地に突込み敵は全くの不意打ちをくって山下に逃げ滝輪方面に逃走した」
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以下、浅川近辺の戦闘について「復古記」に記載がある。少々長いので途中までのupだが、その引用末尾の仙台藩記に、三春藩の裏切りについての記述がある。裏切りの確証は無いようだが、これも裏切った根拠の一つらしくて、さて..

[近代デジタルライブラリー]復古記 第13冊 コマ番号 45/397~
p. 52
復古外記 稿本 白河口戰記 第三  自明治元年七月 九 日
                  至同     二十七日

七月九日、大總督府、參謀鷲尾隆聚ヲ以テ、奥羽追討白河口總督ト爲ス。
                         鷲尾侍従
奥羽追討白川口總督被 仰出候事。
  七月 征討總督記
     鷲尾隆聚事蹟
○諸軍中、鹵掠ヲ行フ者アルヲ以テ、大總督府、令シテ之ヲ戒飭ス。
 ○大總督府達書
去ル廿四日、棚倉落城之節、各藩之内、孰レ之藩ニ候哉、市中或ハ農家ヘ立入、金銀其外衣服等奪取候徒モ有之趣相聞如何之事候、兼テ被 仰出候御ケ條モ有之事故、向後屹度取締可申旨被 御出候事。(東征總督記)
○東征總督記ニ云、七月九日、右白川口出張各藩ヘ相達候様、伊地知、板垣ヘ相達。
○奥羽追討日記ニ云、七月十六日、伊地知正治參營、先般棚倉城征討之節、兵士等民屋ニ入、種々掠奪等有之候趣ニ付、急度取締可致旨、大總督府ヨリ參謀伊地知、板垣兩人ヘ御沙汰ニ付、其趣棚倉方ヘハ勿論、當地(白河ヲ指ス、)在陣之隊々ヘモ爲念相達可申旨相伺候處、可然旨御答有之候事。
十五日、賊兵、白河城ヲ襲フ、官軍邀ヘ撃テ之ヲ卻ク。
p.53
○奥羽追討日記ニ云、七月十五日、雨、朝六時頃ヨリ仙臺街道ヨリ賊兵襲來。
○慶應出軍戰状ニ云、七月十五日、仙、會賊、奥州白川、大垣固場ヘ襲來、本府三番隊援兵トシテ、七時頃繰出シケレハ、既ニ賊其場ヲ引退キシニヨリ、隊ヲ二ツニ分ケ、一手ハ仙臺街道、一手ハ會津街道ト各押寄ル、仙臺街道ノ方ハ、我隊ノ斥候兵、一番隊半隊ト共ニ先ニ進ミ、賊、泉田村ノ臺場ニ憑リ防戰スルヲ攻撃、我隊一手ハ、右手ノ山ヲツタヒ、横撃ノ策ニテ進ミシカ、斥候等、泉田ノ臺場ヲ撃破リ追討スルニ出合シテ、小田川村迄追撃ス、五番隊モ石川口ヨリ小田川手前ニ衝出、是亦合ス、會津街道ヘ進ミシ一手ハ、賊山岳ヲ扼シ防戰スルヲ追落シ、大谷地村ヨリ五六町許尾撃ス、兩手ノ兵俱ニ十二字頃凱陣。
○戊巳征戰紀略ニ云、七月十五日、賊又白河を攻ム、官軍之ヲ拒ム、戰甚劇ナリ、我兵分テ之ヲ救フ。
○蜂須賀茂韶家記ニ云、七月十五日辰ノ刻頃、金正寺山弊藩持場ヘ賊兵押寄、大小砲打懸候ニ付、早速防戰、向山迄進軍仕候處、賊軍山谷ニ潛伏砲發仕ナカラ、悉ク敗走退散ニ相及ヒ、尤雨中之山路、存儘進撃相不申、半ハ人數大谷地村近邊、半ハ人數大谷地村迄追撃仕、午刻頃人數引揚申候。
○山内豐範家記ニ云、七月十五日、賊兵白河、大垣ノ信地、仙臺、會津兩道ヨリ襲來ス、薩、長兵ヲ出シテ援之、我亦五番、十四番各半隊ヲ出シ應之、秋澤淸吉監之、追分ニ到レハ仙臺道ノ賊、既ニ大垣及薩、長兵ノ追撃スル處トナル、我兩隊會津道ニ進ム、賊山上ノ叢林中ヨリ發射ス、我兵之ニ當ル、賊峰ヲ陟リ、金正寺山ノ北ニ出ントス、兩隊亦山ヲ攀チ之ヲ尾撃ス、阿兵出テ應之、賊盡ク遁ル、午十二時歸營ス。
○大垣藩記ニ云、七月十五日朝六時頃、采女正人數持場ヘ、仙臺、會津兩街道ヨリ賊襲來、大正砲頻リニ打掛候ニ付、烈敷防戰仕候處、賊山手之方ヘ散亂及敗走候、仙臺街道ハ薩藩ト合兵小田川宿迄、會津街道ハ薩、長、土藩ト合兵、大谷地村先迄追討仕、十二時頃人數引揚申候、弊藩死一人、(銃隊渡邊定次郎、)傷三人。(銃隊國枝辰之助、内田末吉、廣瀬乙四郎、)
○伊集院兼寛手記ニ云、七月十五日早天、賊兵大垣持場之奥州街道ニ來迫ル、我兵石川街道警衞之當番タリト雖、一番遊撃
p.54.55

p.56
仕候、死二人、(貫名徳次郎隊平居新、高橋東八郎、)傷四(貫名徳次郎隊西脇邦太郎、中田要三郎、田中與左衞門隊西田金藏、大砲隊林芳之助、)
○山内豐範家記ニ云、七月二日、我三番隊、九番隊竝砲一分隊、彦根兵ト共ニ棚倉ヲ發シ、淺川ニ出ツ、十五日、賊淺川ヲ襲フノ報アリ、十三番隊長西山榮赴之、安岡覺之助監之、十六日朝六時頃、石川以北ノ賊來リ淺川ヲ襲フ、我三番隊、九番隊、十三番隊及彦兵直ニ應之、大監察片岡健吉監之、小監察安岡覺之助、大石彌太郎副之、接戰少時ニシテ、薩兵竝黑羽兵ノ釜之子ニ屯スルモノ、亦砲聲ヲ聞キ、來援ク、賊村ヲ距ル四丁餘、城山ト稱スル地ニ登リ、大砲三門ヲ配列シ烈シク發射ス、我兵、彦兵ト山ヲ攀シ撃之、賊遂ニ支ヘス、賊又山麓ヨリ淺川口ニ出テ、漸ク彦兵ノ持場ニ迫ル、薩、黑羽ノ兵分レテ其ノ横ヲ撃ツ、賊兵盡ク走ル、時ニ大雨盆ヲ傾ケリ、午十二時全軍歸營ス、賊ノ将ニ淺川ニ迫ルヲ聞クヤ、砲隊長北村長兵衛竝ニニ番隊棚倉ヲ發シ、淺川ニ向フ、途中戰ヒ已ニ了ルヲ以テ、二番隊ハ棚倉ニ返シ、砲隊竟ニ淺川ニ達ス。
○慶應出軍戰状ニ云、七月十六日未明ヨリ淺川表土州竝彦根ノ陣ヘ賊襲來、大小砲ノ響キ、追々棚倉ノ方ヘ詰寄候勢ニ相聞ヘ、勿論斥候注進モ有之、態ト寡兵ヲ以テ討破ントノ事ニテ、我兵具隊六拾人、黑羽隊三十人、都合百人、五ツ時分釜之子繰出シ、賊ノ後ヘ廻リ相窺候處、賊ハ淺川ノ古城竝西手ノ山迄一面ニ乘リ、土州竝彦根ノ陣ヲ眼下ニ見オロシ發砲ノ處ヲ、山影ヨリ不意ニ進ミ出、西山ニ登リ居候會賊ヲヒタ打ニ追散シ、進テ川ヲ押渉リ、古城ノ賊モ悉ク致追撃、九ツ時分淺川驛ヘ引揚歸陣仕候、此日手負二人。(川路正之進、緒方藤之進、)
○黑羽藩記ニ云、七月十六日、曉六時頃ヨリ、淺川ノ方ニ當リ砲聲頻ニ相聞候間、斥候差出候處、彦根、土佐ノ戌所淺川村ニ、賊千餘人襲來候模様、依之、薩州藩竝弊藩申合、都合百人爲援兵、速ニ釜之子村繰出シ、下野出島村ヨリ社川ヘ相掛候處、折節洪水ニテ甚難儀、辛シテ人數押渡シ、賊ノ形勢ヲ窺候處、淺川邑ヨリ四丁餘相隔、城山ト唱、大木茂リ居、至テノ要地ヘ賊多人數取リ登リ、山上ヨリ三カ所、大砲三門伏置嚴敷發砲、尚又山麓ヨリ淺川村入口、彦藩備場ヘ追々相迫リ打掛候ニ依テ、薩藩竝弊藩人數夫々分配、賊ノ横合竝裏手ノ方ヨリ頻ニ打掛、暫時及戰爭、然ル内賊兵敗走仕候、因ヲ少グ追打、午刻ニ至リ總軍引揚、依之、兩藩人數淺川村ニ繰込、暫時休息、夕七時過、釜之子村ヘ歸陣仕候、且弊藩ニテ賊兵四人討取申候。
p.57
○土持左平太手記ニ云、七月十六日、淺川村ヘ土州竝彦根ニ小隊番兵相成候處、未明ヨリ賊淺川ヘ襲來、彦、土、血戰シ、既ニ持場ヘ切入ラン場合、兵具方隊、黑羽二隊、守地釜之子陣屋ヨリ進軍シ始、斥候ヲ出シ伺フ處、土、彦兩藩苦戰ノ體ニテ、釜之子ヨリ山ヲ越シ、敵ノ後口ヲ廻リテ、忽然トシテ敵ノ裏ヲ打ツ事尤烈シク、右往左往ニ散亂スルヲ追撃ス、斯テ此處堤村山ノ後口通リ故、山岳絶所ヲ登ル、又下リテ淺川ヲ渉ル時、滿水ニテ至テ難儀セシ由、未刻頃ニハ、賊追散ラシテ總勢淺川ヨリ引ク、土、彦ハ淺川ニ宿陣、黑羽ト兵具隊ハ釜之子ヘ返ス、又當日ヨリ彦藩一小隊、重テ淺川ヘ繰込ム、大垣モ釜之子ヘ一小隊同斷、官軍大勝利ナリ。
○東山新聞ニ云、棚倉城ハ六月廿四日官軍ノ爲ニ攻落サレ、城主阿部豐後ハ逃去テ、兵卒皆々四方ヘ散シ、一ト先當城ハ平定ニ及フ、然リト雖、敗賊所々ニ寄リ聚リ、屢民家ヲ劫掠シ、日ニ金銀米粟ヲ貪ル、始メ五人十人計リツ、ナリシカ、後ニハ數百ノ黨ヲナシ、近日棚倉ヲ取返サンノ勢ヒナリ、依テ官軍ノウチヨリシテ、棚倉四方ノ近郷ヘハ守リノ兵ヲ備ヘケルカ、七月十六日ニ至ツテ、同シ近郷ナル淺川トイフ處ヘ、賊兵多ク襲ヒ來リ、一擧ニ此處ヲ攻破ラントセシ事有リ、此時淺川ニハ土、彦ノ兵隊ニテ守リケルカ、多クノ賊兵寄ルト均シク、大小砲ヲ以テ烈シク打立、防戰サマサマニ手術ヲ盡シ、時移ルマテ防クト雖、今日敵ハ大勢ニシテ、マタ必死トナツテ來リシ事ナレハ、其鋒先ハ當リ難ク、既ニ危クモ見ヘシ處ヘ、又此アタリナル釜之子ニ居シ薩ノ兵具隊ヨリシテ、此砲聲ヲ聞ツケ、何事ノ出來シヤラント馳著テ來リシカ、今血戰ノ最中ナルユエ、直ニ敵ノウシロノ方ヨリ小銃ヲ以テ打立ケレハ、是ニテ敵ハ忽チ崩レ、討ルヽ者ハ數多ク、皆散々ニ逃行ケリ、是ヨリ後ハ、此棚倉城ノ敗兵、再ヒ此邊ニ足ヲ留メス、皆々北方ヘ落行キシトナリ、賊死二十餘人。
     *
○仙臺藩記ニ云、七月十六日、鹽森主税棚倉屯集ノ官軍ヲ進撃、三春、二本松、會津、棚倉ノ兵ヲ合併、奥州石川郡淺川古館山ヨリ進テ淺川ノ渡ヲ隔テ砲戰ス、釜之子ト申所ヨリ官軍會津ノ兵ヲ破リ、淺川ノ後ニ出ルト、三春藩中途ニシテ反覆ス、頗ル苦戰ニ及ヒ、各藩共支ル能ハス、死傷多分ニ相出引揚申候、死十六人、(銃士松村作兵衞、伊藤治四郎、岩淵俊治、永澤利源太、邊見鷹治、大槻丹宮、佐藤三郎、郷士小野良兵衞、菊
p.58.59




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2014.07/27(SUN)

釜子陣屋跡 現白河市東釜子字本町付近




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写真;2014.07/27
・平成17年(2005)、東村は合併して白河市となる
・白河市釜子地方は寛保元年(1741)より、白河藩主の領地替えに伴い、約百三十年間越後高田藩十五万石の飛び領地であった。陣屋は当初東地区の隣浅川町にあったのだが、釜子に場所を移して領地の支配を続けていた。しかし、明治元年(1868)の戊辰の役で西軍の攻撃を受け、六月二十五日に焼失落陣したのである
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以下、現地の案内板から
かまのこじんやあと
釜子陣屋跡 参萬参阡石
 此の地に、江戸時代後期(文化六年)、越後高田藩の陣屋があった。釜子陣屋と称し、参萬参阡石を領した。領地は西白河郡から岩瀬郡、須賀川市に至る四拾村に及んだ。
 釜子陣屋が此の地に設けられた経緯は次のとおりである。
越後高田藩(榊原家)の石高は拾五萬石であったが、其のうち越後本領内の石高は約六萬石で、残りの九萬石は飛び地の奥州浅川領にあった。其のため藩の財政は貧困を窮めた。榊原家は財政を立て直すために、村替を實施し、本領の石高を増やし奥州領を減らす政策を執った。其の一環として奥州領の陣屋を浅川から釜子に移した。文化六年(一八〇九年)のことであった。
 釜子陣屋は、文化六年から明治維新まで約六拾年間続き其の間、三浦嘉右衛門、吉田茂右衛門、吉田林右衛門弘道、吉田茂右衛門弘道の四人の奉行によって治められてきたが、特に吉田林右衛門弘道は奉行期間が長く、多くの實績を残した。
 陣屋は明治戊辰戰争の際、(最期の奉行吉田茂衛門の時)会津藩の援軍として八木傳五郎が参拾壱人を率いて会津方面に出兵したが、陣屋は西軍(官軍)の攻撃に会う前に奉行自ら火を放ち、建造物や藩士の住宅等一切を焼き拂った。其のため、陣屋に關する書類等は極端に少ない。
 薩長土連合軍の釜子陣屋攻撃の様子は、薩長土軍の自藩への戰況報告書(西陸砲戰秘事記)に詳しく記されている。次は其の抜粋である。
 釜之子進撃
「朝七字薩長土参藩にて順次の囲を取り土薩長と相決し我兵具隊は此藩の先鋒各藩順に進軍相成り本道堤村の橋は賊より落とし候故浅川廻り候處賊銃を討掛け候得共官軍の猛威に恐れ足を留る者も無之夫より百姓を案内として釜之子の壱里前より間道を右に取我隊真先に釜之子に討入銃を巧立追散し賊は川原田の方へ逃げ散り申候當所は越後高田領にて領主は官軍に候得共當所の士共賊に與し候故陣屋へ火を掛け市中に不掛様申置我隊其日の後殿にて棚倉に引揚申候此日敵は逃げ散候迄にて味方怪我人無之」
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以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」から

第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで

慶応 4年(1868)
・ 6月25日
六月二十五日、長・土・大垣・黒羽の勢二百余人棚倉城を出発して釜子の陣屋を襲ったが、陣屋の兵退散して一人も居らぬ。斯くて陣屋は焼かれた

釜子村深沢利平氏編集「新古釜子」に、戊辰釜子の役を記して曰く

・ 6月25日
二十五日長州の田中隊森永彌助、五十嵐庄太郎の率いる軍勢釜子陣屋に入り込み、各所に於て砲火を放ち、陣屋並に民家を焼く、栃本の大崎山の西と東と土手を築きたるは此の時である。又釜子の寺山、深仁井田の刈敷山に土手を築きたるは薩州で、人夫一日の賃金小ニ朱金一枚(今の六銭二厘五毛)の高給なれば一日の中に成功せりという。湯長谷・二本松・仙台の兵に釜子陣屋の兵も加わり阿武隈河の対岸木之内山・瀬知房・川原田・吉岡へ陣取、薩長軍は栃本の天王山、深仁井田の刈敷山より鉄砲を放ち、互に戦いしが僅か三十分にして奥羽軍は退却せり云々
(昭和十二年十月発行の会津史談会誌第十六号に、釜子陣屋の義侠として野出蕉雨氏の談が挙げられている)
曰く 余が白河方面の軍事方を勤めていた時に釜子陣屋から軍用金として、一万両の提供を受けた。五回にも亘り駄馬によりて、長沼の本陣に持参した。是がために白河方面の戦闘の軍資金は、殆ど藩の補給を受くることなくして賄い得た。又五月朔日の戦には釜子陣屋は、立操隊長八木伝次郎が三十一人を率いて会津方に応援した云々

高田藩と北越戊辰戦争(2015.02/08)



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2014.07/24(THU)

野出政之進墓 大田原市新富町3丁目12-6
不退寺




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慶応四年五月二日、大田原城攻撃の際に戦死した会津藩士の墓である
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

墓碑右側面に
 奥州會津若松藩
 野出蔵主墓

とある

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野出政之進造主
会津藩/土屋八左衛門伜/百石/歩兵指図役/明治元年五月二日下野大田原で戦死/二十六歳/大田原・不退寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2014.07/23(WED)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
松平肥後守




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地

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松平肥後守
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈 3/31〉(引用)

奥州會津の城主にして廿八万石を領し徳川十四代の将軍に従ひ京師にあり此時也長藩頻りに洛中を伺ひ不慮の戦争にも之れに打勝浪士のふつとうに及ぶも直ちに鎮静に至らしめ先帝の御感浅からず然るに十五代慶喜公の御代に至り伏見鳥羽の戦争より本國會津に籠城に及び兵を八方に出して官兵を防ぎ数十度の戦ひに寄手大ひに敗るゝと雖も官軍會兵の武勇を感ぜしといふ明治元年九月廿四日降伏し方今華族にして其芳名ハ高し

若松に 見し夢さめて 悔をのみ 田なべの里に 伏ぞわづらふ

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〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
永井玄蕃(2015.07/25)



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2014.07/22(MON)

飛石八幡 日光市本町・釈迦堂隣り




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写真;2014.07/21

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以下、現地の案内板から

八幡神社
 天平神護(てんぴょうしんご)二年(七六六)日光を開いた勝道上人が、ここに草庵を結んでいたとき、天から丸石が飛んできて「八幡大自在である。国家守護のために来た」という夢を見たので「飛石八幡」として祀ったと伝えられる。寛永年間(一六二四~一六四三)徳川家光が幕府の修繕社とした。中本町と原町(現在は本町第三と安川町)の氏神で祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)である。正月三が日の後の日曜日に五社祭(磐裂、青龍、八幡、花石、久次良の各社)、十一月二十三日に例祭が行われる。
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2014.07/21(MON)

釈迦堂 日光市本町




以下、現地の案内板から 1

釈 迦 堂 (栃木県指定文化財)

 創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永十八年(一六四一)妙道院とともに現在の地に移された。
妙道院は明治初年に途絶えた。
 本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。七月十三日に輪王寺により盂蘭盆会(うらぼんえ)の法要が営まれる。


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写真;2014.07/21
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以下、現地の案内板から 2

栃木県指定有形文化財(建造物) 釈 迦 堂
 この釈迦堂は妙道院の本堂で、以前は境内に数多くの建造物があった。元来妙道院は、天海大僧正が寛永5年(1628)に仏岩谷に創建し山内の菩提寺としたものを寛永17年(1640)に現在地に移建したものである。今でも現存するものは、表門を始め、八幡宮、稲荷社、御輿社、地蔵堂等が残っている。この釈迦堂の建立時期については、須弥壇(しゅみだん)上に貞享四歳新調した歴代将軍の立派な位牌があり、文政7年(1824)に修補と記されている。妙道院及び釈迦堂は貞享元年の大火にて一度焼失しているが、この位牌によると大火の4年後に復興したものと推察される。又須弥壇下から発見された棟札は最も古いものが正徳元年(1711)次いで元文3年(1740)、宝暦13年(1763)、安永8年(1779)で 相次いで修理され今日に至っていることが判明した。この建物の屋根は寄棟造りで、棟は極端に短く、鉄板葺きであるが、もとは柿(こけら)葺きであったと思われる。全体的に飾り気のない建物であるが、堂々たる容姿は江戸時代初期のおもかげを残し、正面の桟唐戸(さんからど)と三方に設けた舞良戸(まいらど)との調和、勾欄(こうらん)をつけない縁と向拝(こうはい)の虹梁(こうりょう)や彫刻に江戸時代初期より中期に至る特徴がよく表れている。
     栃木県教育委員会 日光市教育委員会
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殉死の墓(2014.07/21)



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