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2014.06/28(SAT)

戊辰之役「棚倉戦要図」
戊辰戦争と棚倉藩(近藤敏明著)




弔魂之碑 2012.11/16

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 戊辰役棚倉藩戦死者弔魂碑
・蓮家寺境内
  藩士阿部内膳以下四十七名
  郷夫/殉難者十名
  明治庚辰五月 阿部正功
・内儀茂助之墓
  表郷村下羽原
  鹿島神社隣り緑川氏敷地内

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三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2014.06/26(THU)

仙臺藩士戊辰戰歿各靈百年忌追悼会嚴修記念塔 白河市女石




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写真;2014.06/20、「仙台藩士戊辰戦歿之碑」脇に建ツ
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  昭和四十二年五月三日     管理者 龍蔵寺
仙臺藩士戊辰戰歿各靈百年忌追悼会嚴修記念塔
                 主 催 女石供養会
                 代表者 草野力蔵

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仙台藩士戊辰戦歿之碑(2014.06/21)



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2014.06/24(TUE)

明治戊辰戦死墓 白河市向新蔵 136(常宣寺)




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写真;2014.06/20

明治戊辰戦死墓
常宣寺にある東軍戦死者の合葬墓だが、埋葬者等詳細は不明である
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常宣寺墓碑

戦死墓・白河口の戦い(2014.06/22)
阿部内膳正煕之墓(2014.06/21)
南無阿弥陀仏供養碑(2014.06/20)
會津藩戊辰戰死十二士之墓(2014.06/20)



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2014.06/22(SUN)

戦死墓、常宣寺 白河市向新蔵 136
白河口の戦い




西郷頼母の歌碑(2013.05/17)

慶応 4年(1868)
 閏 4月20日
 ・二本松藩兵が守備していた白河城へ田中左内(田中土佐の息子)率いる会津兵と新選組が侵攻し占領した。会津藩遊撃隊長遠山伊右衛門と新選組〈山口二郎(斎藤一)が指揮〉を白坂口に配置、棚倉口には純義隊長小池周吾、原方街道には青龍隊長鈴木作右衛門を配置し、朱雀隊長の日向茂太郎らは米村にいた
 ・参謀伊地知正治、部隊長野津鎮雄、川村純義の率いる新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は薩摩藩兵を中心に大垣、長州、忍の各藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した
    25日
 ・払暁、新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけると、会津藩遊撃隊と新選組は激しく交戦した。この戦いを知った朱雀隊長の日向茂太郎が側面から樋口砲兵と共に新政府軍を攻撃した。ここで新政府軍は浮足立った。さらにそれに続いて棚倉口には純義隊長小池周吾、原方街道には青龍隊長鈴木作右衛門が、そして集義隊の今泉と井口らが海側から側面を叩いた。この両側からの激しい攻撃に政府軍も敗走せざるを得なかった。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、宇都宮城の戦いでの疲労と弾薬不足そして土地勘の無さなどが重なって損害を出し、芦野へ撤退した
    26日
 ・白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同若年寄横山主税が白河城に入った。また、仙台、棚倉、二本松各藩の増援部隊も到着した。山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要」としたものの、やはり白坂口や棚倉口にも兵を配備した。そして山口二郎や純義隊を白河口に配置し本陣を守った。さらに西郷頼母は白河城南の稲荷山に主力部隊と砲兵を置いた。新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎたいところだったが、土佐藩は今市の戦いの最中であった。そこで東山道軍に伊地知正治率いる薩摩と長州と大垣と忍各藩の部隊を合流させた。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2000から2500名であった
    28日
 ・新政府軍は激しい銃撃戦を展開、会津兵を撃退すると翌29日に白坂口に本陣を置いた

新政府軍の白河城攻略

   5月 1日
 ・新政府軍、白河城の攻略にかかる
 ・新政府軍は兵力を3つに分け、本隊は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲、退路を断ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南の稲荷山に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた列藩同盟軍副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた
こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった

列藩同盟軍の反撃 ↓
・・・

--部分引用・要約;「白河口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014. 6/10(火)08:48--
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笹沼金六墓 会津藩
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金兵衛弟/遊撃遠山隊指図役/明治元年閏四月二十五日磐城白河で戦死/三十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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中野半三郎墓 会津藩
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理八郎伜/遊撃遠山隊小隊頭(指図役か)/明治元年閏四月二十五日磐城白河で戦死/二十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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三坂喜代之助墓 会津藩
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一郎右衛門二男/会義隊野田隊/明治元年閏四月二十五日磐城白河で戦死/二十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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長谷川丑吉墓 会津藩
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六石二人扶持、免許、田所使番/明治元年五月一日磐城白河東町で戦死/二十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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植松庄六墓
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三河國豊橋/明治元年閏四月二十四日磐城白河で戦死
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・・・
列藩同盟軍の反撃

慶応 4年(1868)

 ・この頃新政府軍は関東での制圧が出来ておらず、白河城への増援余裕は無かった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く、兵力の集結や総攻撃の決断が出来ずにいた
 ・こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた
   5月16日 -17日
 ・列藩同盟軍、小規模な攻撃
    26日
 ・列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた
    27日 -28日
 ・列藩同盟軍はさらにと連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した
   6月..
 ・新政府軍は5月6日の今市の戦いや5月15日の上野戦争で勝利して、関東から旧幕府勢力を駆逐出来たため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された
    12日
 ・列藩同盟軍、白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗

戦闘終結

   6月16日
 ・平潟に新政府軍1500名が上陸。その後も上陸は続き7月中旬には3000の兵を擁するようになった
    24日
 ・平潟の上陸軍に呼応し白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した
    25日
 ・列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった
   7月 1日
 ・列藩同盟軍、さらに攻撃するも失敗した
     2日
 ・西郷頼母が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門がその任に就いた
     8日
 ・庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが奥羽越列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた
    13日
 ・平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始し、三春にて板垣退助の白河軍と合流した
    14日
 ・列藩同盟軍、白河城への最期の攻撃
 ・以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となったため、これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した

影響

   7月27日
 ・本宮の陥落で進退窮まった三春藩が新政府へ降伏した
    28日 -29日
 ・新政府軍は本宮へと進軍し、列藩同盟軍は迎撃にあたったが打ち破られて敗走した
    29日
 ・新政府軍の別働隊が二本松城を攻撃した。二本松藩兵の多くが白河口へ出兵していたこともあり二本松城は落城した(二本松の戦い)

 ・白河口の戦いで新政府軍を率いた伊地知正治は、兵力劣勢ながら果敢な指揮をもって戦いを優勢に進めた。一方列藩同盟軍はリーダーシップを欠き、当初持っていた優勢な兵力を生かせず、いたずらに損害を重ねた。白河から列藩同盟軍を南下させることによって関東地域の旧幕府勢力との協同・関東地域からの新政府軍の駆逐を目指した列藩同盟の意図は、白河城を新政府が確保し続け、関東地域の騒乱が新政府によって収拾されることによって挫折した。逆に板垣退助の白河軍及び平潟から上陸した新政府軍の中通り・浜通りへの進軍によってこの地域の列藩同盟軍は雲散霧消し、新政府は仙台藩と会津藩を直接攻撃できる態勢が整った。白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決した

--部分引用・要約;「白河口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014. 6/10(火)08:48--



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2014.06/22(SUN)

貞順院の墓 白河市向新蔵 136(常宣寺)




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写真;2014.06/20
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以下、現地の案内板から
ていじゅんいん
貞順院の墓
 貞順院は松平定信の側室で、中井氏の出身と伝わります。定信との間に二男定栄(真田幸貫・ゆきつら)と四人の女子をもうけました。寛永十二年(一八〇〇)に白河で死去し、法名を貞順院といいました。享年三十三歳。
 二男真田幸貫(一七九一~一八五二)は信州松代藩主真田幸専(ゆきたか)の養子となり、藩主に就任すると佐久間象山を登用し、実父定信に倣った殖産興業、文武奨励、人材育成などを中心とする藩政改革を行いました。天保十二年(一八四一)には老中水野忠邦に抜擢されて老中に就任し、三年にわたって幕政にも関わりました。
     白河観光協会
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2014.06/22(SUN)

遊女志げ女の碑 白河市女石




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写真;2014.06/20
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以下、現地の案内板から

遊女志げ女の碑
 戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげについて記す碑で、昭和二十九年(一九五四)の建立である。
 碑によれば、しげは越後国三条の生れで、白河の旅籠坂田屋に抱えられていた。閏四月上旬に奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵(長州藩出身)が小峰城に入った際に世良と馴染みになったという。
 しかし世良は、白河は危険と察して白河を逃れた。その脱出を助けたと疑われたしげは、世良を敵視していた会津藩士に殺害されたという。享年二十二歳。法名を梅質貞顔信女と伝える。
 しげが殺されたと知った坂田屋の下男は会津藩士を追い、この女石の地でしげの仇を討ったという。
     白河観光物産協会

第五章・世良参謀福島に殺さる(2013.01/16)
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2014.06/21(SAT)

仙台藩からす組の旗 (白河市女石)




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以下、現地の案内板から

仙台藩からす組の旗
 戊辰戦争白河口の戦いなどにおいて活躍した仙台藩士細谷十太夫直英が率いる「衝撃隊」は、黒装束をまとい夜戦を得意としたことから「鴉(からす)組」と呼ばれるようになったという。図は、からす組の隊旗とされるものである。槍と刀を武器に夜襲をしかけ、新政府軍に恐れられた勇猛果敢な戦いぶりは、棚倉藩士の部隊「十六ささげ」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」とまで歌われたとされる。
 この地は、旧奥州街道がここより仙台方面と会津街道に分岐する場所で、戊辰戦争白河口の戦いに戦死した仙台藩士を慰霊する碑などが建立されている。


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「石巻市」蔵


     平成二三年度
     県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
     財団法人白河観光物産協会
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細谷直英
ほそやなおひで、幕末期の仙台藩士。通称、細谷十太夫(ほそやじゅうだゆう)
天保10年(1839)または弘化 2年(1845) -明治40年(1907)

仙台藩の偵察方(隠密)として、行商人、土工職人、旅籠屋の下男、料理屋番頭など様々な姿に変装しながら、諸藩の情報収集に当たった。諸国のヤクザの親分衆とも交流を持つ

来歴

戊辰戦争が始まると、細谷直英は須賀川で東北のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長となる。衝撃隊は黒装束に長脇差一本で明治新政府軍に夜襲攻撃を敢行し、その回数は30数回に及び、全てに勝利した
細谷直英が黒装束の上に着用していた半てんの背中にカラスの文様が描かれていたことと、衝撃隊が黒装束を身にまとっていたことから、新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれ大いに恐れられた。細谷直英は東北地方の民衆の英雄となり、『細谷烏と十六ささげ無けりゃ官軍高枕』の唄が流行った
直英は仙台藩の最後の決戦・旗巻峠の戦いに参戦し、この戦いに仙台藩が敗れて降伏すると、仙台藩から大金を授かり、それを衝撃隊の兵士たちに分け与えて衝撃隊を解散した。自身は新政府の追っ手を逃れて逃亡・潜伏した
新政府の捕縛を逃れた直英は、戊辰戦争の大赦令が発令されるとようやく姿を現した。こののち直英は、かつての部下を率いて宮城県と北海道の開拓に尽力した。さらに、日清戦争で陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。帰国後、警視庁小隊長となる
・・・
--引用・要約;「細谷直英」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.01/06(月)13:48--
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昭和 7年(1932) 6月 8日「東京日日新聞」

廿七年ぶり 細谷翁歸る
ニュウギニアから
     *
七日午前十時南洋より横浜へかえった郵船近江丸の甲板に天神髯をはやした人品いやしからぬ老爺がゴム引きの合羽を著て粉のような雨にぼけた横浜を見入っている姿があった、たずねて見ると
わしは細谷十太郎じゃ
という、これこそ本紙が既報した「からす組」隊長細谷十太夫氏の長男細谷十太郎氏(六九)の老いた姿である『わしは三十年前台湾を出奔し同伴した妻を厦門で因果を含めて日本にかえし一意報国の念に燃えて植民開拓の大望達成のためニュウギニアに渡った、その時はただ広いニュウギニアの土地に驚いたが最近ではやっと方寸も立ったので資本と人力を求めて二十七年ぶりに故国の土地を踏んだのじゃ、家族の顔を見るなどはこの次じゃよ、最初ニュウギニアに渡ったときは先ず美しい極楽鳥に目を著けそれを欧洲に輸出していたが、オランダ政府によって禁鳥となったのでそれからは綿の栽培に著眼しドイツより脱油機などを取り寄せ研究しているうち最近やっと確信を得たというわけじゃ、同島の面積は四十万キロ平方、人口密度一平方マイル〇・五で木材なども四百種に上り日本人口の大はけ口となっている、わしは日本語をすっかり忘れ土人語ばかりなので文書にして発表したいと思っている』
--引用;神戸大学電子図書館システム/新聞記事文庫/東南アジア諸国( 7-031)--
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仙台藩士戊辰戦歿之碑(2014.06/21)
阿部内膳正煕之墓(2014.06/21)



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2014.06/21(SAT)

仙台藩士戊辰戦歿之碑 白河市女石




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写真;2014.06/20

--以下、現地の案内板から--

仙台藩士戊辰戦歿之碑
 かって会津街道(国道二九四号)と奥州街道(国道四号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治二十三年(一八九〇)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
 なお、この碑の傍らの「戦死供養碑(塔)」は、白河周辺で戦死した仙台藩士百五十名余を葬った墓で、明治二年(一八六九)の建立である。
     白河観光物産協会
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
(五)仙台藩戊辰戦没碑
白河町字女石にある。女石は白河町の北端会津街道と仙台街道との岐点の地である。碑は街道の西側にあって剣状をなしてゐる
 表に
 仙台藩士戊辰戦歿の碑
 裏に
 表面十大字大勲位二品能久親王殿下親書也。旧藩有志諸子相議樹此碑、以大王有旧誼請其親書、以慰其魂、死者有知亦将感泣於地下也
 明治二十三年五月一日
     旧仙台藩知事従五位伯爵 伊達宗基

其の傍に、戦死供養碑がある。これは明治二年に建てたもので、白河町の田町・向寺・根田・大谷地・金勝寺・飯沢・長坂等に戦歿せる仙台藩士百五十余人の屍を集めてこの地に葬った供養碑である
仙台藩は戊辰戦役に各方面に於て多数の犠牲者を出してゐるが、五月朔日の激戦には八十余名、白河口全体で百五十余名の戦死者があったと見るべきか
碑の裏面の「有旧誼」とは前にも記せる如く、能久親王は戊辰当時の輪王宮公現法親王に在しますに依ってである
碑は白河町龍蔵寺にて管理し、供養は春の彼岸に、秋の彼岸に白河町隣の小田川村根田部落の念仏講が年々行ってゐる。龍蔵寺の記録によると仙台藩の白河口戦争の死者は
 五月朔日に参謀坂本大炊外八十二名
 六月十二日本道口六十一名
 六月二十四日金山戦争十七名
 七月一日白河・米村・大谷地六名
 七月十五日白河本道口十七名
である
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戦死供養塔

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写真;2014.06/20

--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
 一三)白河町字女石仙台藩碑の側に一基
表に
 戦死供養塔
明治二年三月地方民の建てたものである。裏に記して人数百五十人余葬之とある(前記と重複するも掲ぐ)


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2014.06/21(SAT)

聡聴院 白河市向新蔵 136(常宣寺)




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以下、現地の案内板から
そうちょういん
聡聴院
 白河藩主松平定永公の三男定業神童といわれ、祖父楽翁公に愛されていたが不幸にして文政五年十才にして没す
立教館教授広瀬典は碑裏面に死を悼み銘を記している。当時大名家の菩提寺(深川霊厳寺)に葬られるのは当主、正室、長男で次男以下及び側室は在城地の寺(常宣寺)に葬られる習慣であった
     白河商工会議所青年部
     白河観光協会
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2014.06/21(SAT)

常宣寺 白河市向新蔵 136
阿部内膳正煕之墓




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写真;2014.06/20
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以下、現地の案内板から
あべないぜんまさひろ
阿部内膳正煕之墓
 棚倉藩家老阿部内膳の墓で、戊辰戦争白河口の戦いで桜町口を守る十六人組の隊長を務めた。彼らは甲冑・槍や弓矢など古来の武器で戦い、仙台藩の細谷十太夫の隊(衝撃隊)とともに、「仙台烏に十六大角豆(じゅうろくささげ)、なけりゃ官軍高枕」と新政府軍に恐れられたが、五月一日の戦いで金勝寺で戦死した。
 幕末から明治期に歌人・俳人として活動した阿部秋風は父である。
 ※十六大角豆はマメ科の植物。さやは1mに達するものもある。種子(実)が16~18個できる。

     白河観光物産協会
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阿部内膳
棚倉藩家老/明治元年五月一日白河城下で戦死/二年五月反逆首謀の罪で絶家
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

白河城の攻防(2012.06/02)



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