<   2014年 05月 ( 19 )   > この月の画像一覧

2014.05/27(TUE)

小峰城の石垣




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写真;小峰城前御門東の石垣、2014.05/25
※ 小峰城は3.11の東日本大震災によって石垣などに大きな損傷を受けた。いま、復旧の工事中だが本丸南の石垣など一部の工事が来年3月には完了、公開される見込みだという(ボランティアガイドさんの話し)
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以下、リーフレット「白河小峰城」から

こみねじょう
小峰城の歴史
 小峰城は結城親朝が十四世紀中頃、小峰ヶ岡に城を構えたのが始めと言われています
 江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に整備された城郭や城下町を、寛永四年(一六二七)に初代白河藩主となった丹羽長重が、大改修を行い、現代につながる白河のまちの基礎ができあがりました。小峰城は四年の歳月を費やし、「奥州の押え」にふさわしい石垣を多用した梯郭式(はしご状に郭が設けられている)の平山城として同九年に完成しました
 その後、榊原・本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と七家二十一代もの大名が交代し、居城としましたが、慶応三年(一八六七)最期の藩主阿部家が棚倉藩へ移封されると白河は幕領となり、同四年の戊辰戦争を迎えます
 交通の要衝である白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、小峰城は五月一日の大規模な戦いで落城、大部分が焼失しました

【一部抜粋】
 領主   年号      主な出来事
 …
 阿部正権 文政六年(1823) 武蔵忍(行田市)より転封。11万石
 …
   正外 元治元年(1864) 老中に就任(~慶応二年)、諸外国の開港要請を受けて兵庫開港を
              決断するが、朝廷の反発で老中罷免。隠居を命じられる
   正静 慶応二年(1866) 父正外の強制隠居により相続し、棚倉転封を命じられる
 …
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2014.05/26(MON)

東軍戦死者の合葬墓 白河市関辺




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写真;2014.05/25
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
 一二)西白河郡古関村大字関辺の池畔に一基
表に
 戦死墓
裏に
 慶応四戊辰六月二十四日
六月二十四日は、板垣参謀が棚倉に向った日である
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写真;戦死墓附近、2014.05/25



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2014.05/26(MON)

慶応戊辰殉国者墳墓(西軍) 白河市本町北浦30・長寿院




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--以下、現地の案内板から--
慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)
 この墓群は、慶応四年(1868)の戊辰戦争白河方面における戦死者を祀ったもので、西軍各藩である長州藩(山口県)・土佐藩(高知県)・大垣藩(岐阜県)・館林藩(群馬県)・佐土原藩(宮崎県)各藩の戦死者が眠っている。墓は全部で116基(薩摩29、長州30、土佐18、大垣13、館林7、佐土原19)あったが、大正期に薩摩藩(鹿児島県)の墓所は小峰城東側の鎮護神山に改葬された。戊辰戦争白河口の戦いでは、東軍(奥羽越諸藩)と西軍による大規模な戦争が行われ、合わせて千名近い戦死者を出している。東軍諸藩の戦死者の墓は、市内各所に所在している。
     本町復起会

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写真;2014.05/25
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
長寿院の塋域に薩・長・土・大垣・館林・佐土原六藩の白河にて戦死した者、会津等にて負傷し白河にて死亡した者及び病歿者の墓が百十六ある。内訳して記さば薩が二十九、長が三十、土が十八、大垣十三、館林七、佐土原十九である。この中薩藩のものは鎮護神山に移された
墓碑は一人毎に建てられ姓名、卒せし年月日、行年等が刻されてゐる。この墓に詣でる者、誰でも若きは十六・七歳多くは二十歳前後の青年武士が勤王の志を抱いて遠く奥羽の地に苦戦した忠誠に感ぜしめられる。明治三十年頃までは切り髪に黒縮緬の紋付羽織を着た未亡人や遺族等の墓参もあったと伝へられるが、歳月を経る今は縁者の弔ふものは更に見えない。されど地方人の志ある者は香華を手向けてゐる
白河に戦死した行年二十二歳の土藩辻精馬友猛の墓石に和歌が誌されてある

 都由跡知流(つゆとちる)、伊笑智母奈謄香(いのちもなとか)、遠羊蹄加良武(おしからむ)、蚊称而佐佐宣之(かねてささげし)、和我美登於毛倍婆(わがみとおもへば)

長藩野村伝源頼睦の辞世として

 今さらにいふことのはもなかりけり
         み国の露と消ゆるうれしさ

と尽忠報国の精神を詠じてゐる。百十六名の心情皆斯の如くであったらう
明治九年六月、聖駕東巡の際扈従(こしょう)した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允等の此の寺院に立寄られて弔霊した事は墓地入口の石燈籠に依って知られる。石燈籠は二基ある。一基は大久保利通の献燈で
 今夏六月  龍駕東幸。利通奉陪従先発之命。途経白河駅、詣戊辰之役官兵戦死者之墳墓。茲奠燈台一基、謹表追弔之意云
 明治九年五月廿八日   大久保利通
一基は岩倉右大臣・木戸顧問の献燈で
 明治九年丙子六月
 龍駕東巡扈従之次過于此弔戊辰戦死諸子之霊
         従一位 岩倉具視
         従三位 木戸孝允 建
長寿院が西軍の墓所となった因縁は、五月朔日の激戦の日に白河町寺院住職の多くは避難せしが、当寺の住職が豪膽で寺院を守り居たれば、西軍この寺院に戦死者を託して回向を謂ひたるによると伝へてゐる。什物として六藩戦死者の画像がある。皆総髪姿である。荷翁の筆である
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戊辰薩藩戦死者墓(2014.05/25)



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2014.05/26(MON)

捐躬報国(えんきゅうほうこく) 白河市本町北浦30・長寿院




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写真;白河役陣亡諸士碑(2014.05/25)
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
長寿院西軍墓畔にある巨碑で明治二十五年の建設である。島津・毛利両公を初め此の役に参加せる板垣退助・河村純義・大山巌等の発起によった建碑である。碑銘は
 白河役陣亡諸士碑
 捐躬報国 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
戊辰中興之元年春、六師東征首収江戸城。徳川氏恭順謝罪。而余賊尚拠東叡山不降、乃撃殲之。先是分軍転戦両総常野之間、進徇奥羽。奥羽諸藩合従方命、会津仙台実為之盟主。幕府逋竄之徒又往投之、共抗王師於白河城。城当奥羽咽吭、地勢険要、賊極力拒守。官軍進戦不利、退次芦野。五月朔、縦兵自三道往襲之。鋒
甚鋭、斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人。賊不能支棄城遁。官軍乃入為根拠、蓄鋭議進取。賊察我
寡兵、大挙来囲、衆数千人、而官軍不過六百余人。備兵白坂駅、使賊勿断我軍後。爾来砲戦累昼夜大小数十
合。毎戦輙有利。既而官軍日益至、賊勢日愈□、退保其城砦。六月官軍別隊、由海路達平潟、攻平城抜之、将以応白河軍也。二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人、撃賊於関山、乘勢下棚倉城。於是海
陸諸軍悉会二本松城下、倶攻抜其城。乃分為二軍、一由天狗角觝山、一由猿嵓竝保成本道。而三別遣一軍由三度己屋、進共討会津、竟能得奏蕩平之功焉。是役也前後陣亡甚多、而瘞屍白河長寿院者、凡一百十五人。墓上惟刻其姓名、未及録其事跡。於是七藩旧主及当時関其役者、慨然会財以圖其不朽、徴文於余。鳴呼戊辰之変、天下治乱之所判、而勤王諸藩率先踢厲、諸士亦皆捐躬報国以贊襄鴻業。此雖国家隆運之所致、而其烈亦可謂卓偉非常哉。今二十五年矣。海内□安、庶民謳歌、追懐当時、恍如隔世。而百年之後、物換星移、艱難遺跡或将帰乎湮滅、是此挙之所以不可已也。銘曰
 有蔚佳城 白河之原 煌々烈士 爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
 明治二十五年壬辰十一月
         従四位勲四等文学博士重野安繹撰
         辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
この巨碑の竣工して除幕式の行はるゝ時、陸軍の軍楽隊も来り、大山大将等戊辰の役に関係あるの士参列して頗る盛大のもんであったと本町の佐久間平三郎氏は語る
長寿院に明治三十三年、三十三回忌の霊祭が催された時、海軍中将伯爵河村純義、(戦争当時の河村与十郎)文部大臣樺山資紀等が臨席し、二氏亦左記の書を長寿院に遺してある

 徳川氏の流の末は乱るゝ世となりて、其政を朝廷に還し奉り御代一統になり、大義名分を正しくせしに、豈図らんや、再び大軍を起し都に入らんとせしが、鳥羽伏見の戦の初、大内山に錦旗の御旗翻し征討の命を下し給ひ、八幡・山崎より難波の城も追攘ひ、東海・東山の両道に王師を向はしめ、終に江戸城をあけ渡せしといへども、残党国々に依り王師に抗し、この白河を要し大戦に忠勤を抽(ぬきん)て、国の為に斃れし人々を長寿院に葬り、其戦功も尠からず、終に奥羽鎮定し、朝廷より厚く祭祀を賜はり、実に慶応四年五月朔日、此の白川を陥落せし当日にて三十三回忌の祭典を催し、同従軍者にして今に生存せる有志ども交(こもご)も集まりて、なき人々の忠魂を慰めんと、旧藩主初夫々よりも祭典料を捧げられ、海山の種々を供へなき人々の御霊を慰めまゐらせんとなむ
 明治三十三年五月二十八日
         海軍中将正二位勲一等伯爵河村純義
 国のため捨てしその名は白川の清き流に名をとゞむらん
樺山文部大臣は慰忠魂の三字を大書し、明治三十三年五月二十八日、樺山と書かれてある。何れも長寿院に現存
長寿院には明治の末期まで毛利家より年々供養料金若于を送られたが、今はその事が絶えている
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--以下、現地の案内板から--
きがくさんちょうじゅいん
亀岳山長寿院(曹洞宗)
 長寿院は、もと石川郡小高村(現在の玉川村)に建立されたが、江戸中期の白河藩主松平大和守家の菩提寺孝顕寺の住職がこの地に再興したと伝える。孝顕寺は松平家の転封で姫路に移ったが、長寿院には孝顕寺の僧一人を留め、白河に葬られた藩主の霊廟を守るための寺としたと伝える。正徳元年(1711)巻穏和尚開山。
     本町復起会

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写真;長寿院(2014.05/25)
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--以下、現地の案内板から--
慶応戊辰官軍戦死肖像
 長寿院には、戊辰戦争白河口の戦いなどで戦死した新政府軍各藩の墓地が営まれている。この肖像は、明治期に白河町の絵師荷翁(鵜沼舒嘯)によって描かれてたもので、各藩ごとに戦死者と絵姿が丁寧に描かれている。
墓所入り口両側には、明治九年(一八七六)の明治天皇の東北巡幸に随行した岩倉具視、大久保利通により奉納された燈篭がある。
山門を入って右手壇上には「白河役陣亡諸士碑」が建立されている。碑の篆額「捐躬報国」は有栖川宮熾仁親王、撰文は重野安繹、書は秋元興朝による。碑陰には、白河口戦線へ出兵した官軍諸藩の旧藩主家=毛利・島津・山内氏や、明治政府の錚々たる高位顕官=大山巌・川村純義・板垣退助ら二二名の氏名や爵位が発起人として列刻されている。
     平成二三年度
     県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
     財団法人白河観光物産協会
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慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)(2016.04/09)



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2014.05/25(SUN)

戊辰薩藩戦死者墓 白河市郭内1周辺(鎮護神山)




長州大垣藩戦死六名之墓(2013.05/18)
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写真;2014.05/25
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平成26年(2014)
・05月25日
 白河に行く
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--以下、現地の案内板から--
戊辰薩藩戦死者墓
 この地は小峰城本丸の東にあたり鎮護神(ちんごじん)山と称する場所である。
 戊辰戦争において各地で戦死し、白河の松並や本町の長寿院、あるいは三春町・いわき市平にあった薩摩藩士の墓を、大正四年(一九一五)に合葬して建てたものである。台石には各藩士の氏名や戦死場所・所属隊名が刻まれている。
 表面の題字は、松方正義の筆である。
萬歳閣 -松方別邸(2013.03/03)
     白河観光物産協会
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墓碑裏面に
大正四年□□十一月
三春 磐城平/花見坂 長壽院 合葬
     東京鍋島商店工作
とある
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※ 台石には次のように記されたプレートが埋め込まれている
 慶應四年戊辰四月廿五日白川ニテ戰死
  四番隊   小頭   河野彦助   廿二歳
  (同)   (同)  中原休左衛門 廿歳
  (同)   小頭見習 二階堂右八郎 廿三歳
  (同)   戰兵   武川直枝   三十七歳(※元新選組、熊本の人)
  (同)   (同)  池ノ上新八  廿歳
  (同)   (同)  染川彦兵衛  廿六歳
  (同)   (同)  赤塚源之進  廿二歳
  (同)五月朔日白川ニテ戰死
  二番大砲隊 半隊長  小野藤吉   廿六歳
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--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
 (四)薩州藩の碑
小峰城址本丸の東、鎮護神山に薩州藩戊辰戦死者の合葬碑がある。「戊辰薩藩戦死者墓」と題す。碑の高八尺、石質は花崗岩、筆者は大勲位侯爵松方正義である。碑の裏に三春・磐城・平・花見坂・長寿院合葬とある。即ち大正四年十一月に旧薩藩士等相謀り白河口の花見坂(白河松並)、にあった薩長十三人中の七人と、三春にあった者、磐城平胡麻沢にあった十四人、長寿院のものとを合して葬った。巨碑の台石に各々戦死の場所、所属隊名、氏名等が詳記されてある。何れも遺族が内務大臣の認可を受けて白河に改葬したものであると伝へる。薩藩の此の種のことは会津若松融通寺にもある。両碑(鎮護神山/融通寺)共に白河町田中増次郎氏同仲三氏の請負に係るものである(旧薩藩では東郷大将の書「丹心昭万吉」のニ軸を田中氏父子に寄せて其の労を謝した)

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写真;2014.05/25

慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)(2016.04/09)



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2014.05/19(MON)

凌霜隊(概略)




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--以下、戊辰戦争百話・第七十四話「郡上藩凌霜隊」、要約--

慶応 3年(1867)
・10月
 大政奉還となり、郡上藩(四万八千石)藩主青山幸宜は朝命に従って上京。国元の家臣は勤王に傾く
慶応 4年(1868)
・ 2月11日
 朝廷への帰順を決する
 一方、江戸藩邸には佐幕一派があり、江戸家老朝比奈藤兵衛は十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士四十七名を脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させた
・ 4月10 -12日
 凌霜隊、江戸本所中の橋「菊屋」に集合。江戸湾を北上し千葉県の行徳に上陸し、再び船で江戸川を遡って前橋に上陸して会津へと向かう
・一行は途中小山で戦い、宇都宮に奮戦し、激戦につぐ激戦を経て日光街道から塩原に出て、塩原口守備に着く。塩原を撤退して後、横川に戦い、田島に至り、大内峠の激戦では二名の戦死者を出す

〈塩原口守備〉
 凌霜隊戦記の一部 1
  同上      2
  同上      3
  同上      4
  同上      5

・ 9月 3日
 関山の戦いでは、会津の青龍足軽二番隊(隊長諏訪武之助)とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死した。この日は高田まで進んで宿泊
・ 9月 4日
 大川を渡河して一路若松の城下へと向う
・若松城下には八月二十三日に西軍が侵攻して、城は籠城戦に入っており、凌霜隊は城を目指して決死の進撃。夕刻、若松城西口、河原町口郭門にたどり着くと小笠原邸に入った(会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の指図)
・ 9月 6日
 入城を果すと、凌霜隊はただちに日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らと共に開城の日まで西出丸の防衛にあたった

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写真;若松城西出丸(2013.03/12)

・会津開城後は囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送され、禁固の処罰を受けて入牢
明治 3年(1870)
・ 2月
 釈放された

 凌霜隊(名簿)

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2014.05/18(SUN)

六地蔵 檜枝岐村




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写真;2014.05/16
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--六地蔵脇の「由来の碑」から--
六地蔵由来

 此の地は昔から冷害になやまされ 特に凶作の年は餓死年と言い多くの餓死者を出したことがあった  働ける者のみが(生)きるため「まびき」という悲惨な行為があったとか・・・ その霊を慰めるために建てられた六体の稚子像である

 あはれさに旅衣の袖も
       ぬれにけり
 檜枝岐なる稚子の像見て
     □□□久子作

--------------------
--パンフレット「尾瀬檜枝岐温泉」から--
     *
六地蔵と呼ばれる稚児像には、村人によって季節に合わせた綺麗な衣装が着せられ、まるで我が子のように可愛がられています。最近では子宝、子育て守護として参拝する方も多くいます。



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2014.05/17(SAT)

十七、檜枝岐村年表




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写真;現在の檜枝岐村(2014.05/16)
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十七 檜枝岐村年表(ほんの一部)

慶応 3年(1867) 米沢藩士雲井竜雄外、沼山峠越にて通行
同  4年(1868) 戊辰役上州口守備のため会津藩士約三百名当村駐在、上州戸倉まで遠征する
--会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」昭和53年10月・星知次編・檜枝岐村発行--


雲井龍雄

天保15年(1844)
・ 3月25日
 米沢藩士の父・中島惣右衛門(6石3人扶持)次男として米沢袋町に生まれる
慶応元年(1865)
・米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門。龍雄は経国済民の実学を修め、塾頭にも選ばれて息軒から「谷干城以来の名塾頭」といわしめたという。同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った
慶応 2年(1866) 藩命で帰国
同  3年(1867)
・10月
 幕府が大政奉還し、同年12月に明治新政府から王政復古の大号令が発せられると、龍雄は新政府の貢士(全国各藩から推挙された議政官)に挙げられた
慶応 4年(1868)
・鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶと、龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促した。しかし旧幕府勢力は敗れ去ると、米沢にて禁固の身となる
明治 2年(1869)
・謹慎を解かれると興譲館助教となるが2ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議院議員に任じた。しかし、薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか、幕末期での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭いわずかひと月足らずで議員を追われた。一方、戊辰戦争で没落したり削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになる
明治 3年(1870)
・ 2月
 東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていたことから政府転覆の陰謀とみなされた
・ 4月
 謹慎を命ぜられる。米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用された
・12月26日
 判決が下り、龍雄はその2日後に小伝馬町の獄にて斬首された

--引用・要約;「雲井龍雄」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014. 4/30(水)14:08--



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2014.05/16(FRI)

檜枝岐口留御番所 檜枝岐




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写真;檜枝岐口留御番所跡付近・2014.05/16
※ ここは鎮守神社の参道であり、この奥に「檜枝岐(歌舞伎)の舞台」がある
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以前、現地にあった案内板から
檜枝岐口留御番所

 檜枝岐は、昔は"南山御蔵入り"といって幕府の直轄であった。それはこのあたりが漆ロウソクをつくるロウの主産地であり、また豊富な材木の生産地でもあったためである。そのため幕府の出先きとして番所が設けられこれを"檜枝岐口留御番所"といった。南山御蔵入りの西の口の取り締りは女、ロウ、ウルシ、飢饉の年には食糧の調べも厳重であった。戊辰戦争では人改めも厳重で関所の役目も果した。
     檜枝岐村
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会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」 星知次編

一〇 口留御番所

古文書に『檜枝岐村御番所の儀は、当郷の先封河原田家時代、私先祖星越後と申す者相守り、夫より御先代加藤様御代に至るも御番所相守り、御当家様御代に相成、寛永元年郡奉行、関藤右ヱ門様御支配の節、九代以前の祖星縫殿之助へ口留番仰付られ、御給米四石下し置かれ御番所御建札、御条目、御口口御渡し置かれ、苗字帯刀にて御番所相守、御料所、御預所と数度御支配替御座候ても、変り無く相務め、有難き仕合に存じ奉り候、この下番人の儀は、村中村役にて順番にまかり出 相務め申来り候』
とあり、河原田氏時代すでに番所が存在した。中でも星備中は天正年間に住し、その柵は東西二十九間、南北四十一間あったと伝える。当時の柵の詳細は不明だが、寛永年中に設けられた御番所は大体次のようなものであった
 往来に、高さ一丈、横二間の木戸門を設け、その左右に柵木六十本を立てて通行出来ないようにし、木戸門そばには、長さ二間、横九尺の下番所があり、ここには鉄砲、さすまた、つく棒などを備え、役所より通達された掟、条目などの御札が掲げられて厳めしく、下番所の番人は往来を見張って居た
 番所の目的は、八品留物と言われた、女、巣たか、蠟、駒、漆、熊皮、紙、鉛の領外への流失を防ぐためで、其外留物は其都度役所より通達された
 留物の通過については、村民全体が其の監視の役目を負い、名主である番人は、その総責任者であった
 沼田街道は嶮岨な山道ではあったが、古来より会津と上州をつなぐ重要な通路であり、物資は会津よりの米、酒などが主で、すでに元禄年間以前より駄馬にて運搬され一日に数駄の物資が動いている。其の為尾瀬沼の辺に交易小屋が在り、又片品村越本にも、このための問屋まで在ったと云う
 又人々の往来も相当あり、戦国時代末期あたりにも、会津藩主と関連していろいろな人が通っていたようである
 しかし当番所にては特に問題も起きず、口留番所の役目も変り、幕末には留物の取締りというよりも、治安を守る役目に変り、このため役所よりの出役が常駐していた事もあったが、こうした事も明治維新後は無くなり、番所の建物も取り壊されたのである
--会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」昭和53年10月・星知次編・檜枝岐村発行--
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写真;沼田街道(檜枝岐、六地蔵)・2014.05/16



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2014.05/15(THU)

明治天皇御駐輦之碑 那須塩原市黒磯・越堀宿
奥羽街道




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写真;2014.05/08
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      明治天皇御駐輦之碑

明治 9年(1876)
・ 6月 2日 奥羽御巡幸
    … …
   12日 親園→大田原→北久保→
      越堀(御晝饌)
      →夫婦石坂→蘆野行在所
   13日 寄居→白坂→戊辰戦役戦死者墓→白河行在所→白河城阯
   14日 …
    … …
・ 7月20日 灯台巡視船「明治丸」にて横浜に到着
※ このこと↑から、1996年に国民の祝日「海の日」となった
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「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)



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