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2014.03/29(SAT)

早春 会津西街道 上三依の先、横川の間




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写真;2014.03/28
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日光口の西軍、若松城下に迫る
--戊辰戦争全史(下) p.140 --から要約

 会津領と下野国の境、山王峠の南々東3キロの横川には会津勢が陣を築き固めていた

慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 日光口の守備についていた山川大蔵のもと、会津城下に西軍(新政府軍)侵入の急報を受けると、山川の隊は直ちに帰城を開始する。この機に乗じて西軍は横川攻撃を開始した
・  25、28日
 西軍は横川、山王峠の会津勢を制圧し、街道を北に前進して会津領糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵である)
・  29日
 西軍は早朝から要地である田島に向けて進撃を開始したが、ここに会津勢の姿はなく、無血のうちに田島を占領した
(前田宣裕)



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2014.03/28(FRI)

官軍/戰死十九人墓 南会津町田島・慈恩寺




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平成26年(2014)
・03月28日
 やっと春めいて来たし、田島で蕎麦でも、と...
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官軍/戰死十九人墓

 明治元年八月から九月にかけて戦死した西軍(宇都宮藩、大田原藩、芸州藩、肥前藩)十九人の墓である
 本堂の真裏にある
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・ 墓碑の傍らにあった案内の碑をもとにし、「幕末維新全殉難者名鑑」から埋葬者を書し出してみた。残る五名については判別出来ず!

・宮沢治部介   久知 宇都宮藩 明治元年九月十五日会津田島で戦死/41歳/現地慈恩寺に首を埋め、のち宇都宮・観専寺に改葬
・宇野良定       大田原藩 良貞とも/軍医(輜重とも)/明治元年九月九日会津横川で戦死/48歳
・蒲沢健次郎   正則 大田原藩 銃卒/明治元年九月九日会津横川で戦死/39歳
・渡辺久次郎   正久 大田原藩 銃卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/22歳
・江連半之助      大田原藩 輜重方/明治元年九月九日会津横川で戦死/59歳
・山本他人輔   武成 広島藩  明治元年九月九日岩代栗生沢村で戦死/27歳
・林吉蔵        広島藩  中島玄庵家来/林姓か/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/26歳
・川本四郎七      広島藩  御小人/明治元年九月会津で戦死
・佳田甚吉       広島藩  御小人/明治元年九月九日会津?で陣没
・石井三蔵    親知 広島藩  戦士/明治元年九月九日会津田島で戦死/36歳
・沖粂六     正純 広島藩  戦士/明治元年九月九日会津田島で戦死/37歳
・小倉原恕左衛門 俊家 広島藩  応変隊/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/33歳
・菅野徳之助   正憲 広島藩  指揮役/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/28歳
・  清蔵       広島藩  菅野徳之助家来/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/22歳
--「幕末維新全殉難者名鑑」明田鉄男編--

(不明)
小笠原新太郎
姓名不分     4名

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南会津の戦い(2013.05/13)

慶応 4年(1868)
・ 7月
 越後(新潟)の長岡城が落城すると、伊南川流域(現只見町、南会津町南郷・伊南地域等)に新政府軍が進軍
・ 8月下旬
 日光口から進軍した新政府軍に田島・下郷が占領され、南山御蔵入地方ほぼ全域が新政府軍の占領下となる
明治元年
・ 9月 9日
 農民たちによる田島陣屋奪還戦を期に、若松城外に出撃した佐川官兵衛隊、高田方面で戦っていた河原田隊等が南山に戻り新政府軍と戦闘を継続する
 会津等旧幕府軍は地の利を生かして有利に戦い、田島・下郷から新政府軍を一掃した。伊南川方面でも河原田隊等旧幕府軍が戦闘を優位に進め、新政府軍を越後方面へ後退させた
・ 9月22日
 会津藩降伏
・ 9月25日頃
 会津藩降伏の知らせが届き兵を引揚げた



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2014.03/26(WED)

大田原氏墓所 大田原市・光真寺




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大田原氏墓所
(大田原市指定重要文化財 昭和40年10月 1日指定)

 光真寺の開基(創設)大田原家13代資清公は光真寺開山時(天文14年・1545年)本堂の裏山に墓所を定め、以来28代勝清公まで代々埋葬しましたが、昭和に至り墓所の風化損壊が著しく、昭和15年に現在地に移設、平成10年に改修工事を行い現在に至っています。
 墓所は全て那須芦野石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の大石塔で大田原家の繁栄と豊かさを偲ばせ、市指定の重要文化財となっています。
※13代・14代はAに合葬供養、29代以後は⑪に埋葬。12代胤清(たねきよ)公は大田原市中田原に埋葬されています。
※配置図は省略した
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2014.03/26(WED)

大田原宗家墓処と28代勝清公墓 大田原市・光真寺




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大田原氏墓所
(大田原市指定重要文化財 昭和40年10月 1日指定)

 光真寺の開基(創設)大田原家13代資清公は光真寺開山時(天文14年・1545年)本堂の裏山に墓所を定め、以来28代勝清公まで代々埋葬しましたが、昭和に至り墓所の風化損壊が著しく、昭和15年に現在地に移設、平成10年に改修工事を行い現在に至っています。
 墓所は全て那須芦野石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の大石塔で大田原家の繁栄と豊かさを偲ばせ、市指定の重要文化財となっています。
※13代・14代はAに合葬供養、29代以後は⑪に埋葬。12代胤清(たねきよ)公は大田原市中田原に埋葬されています。
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※配置図は省略した

藩主大田原鉎丸(2012.10/01)
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2014.03/26(WED)

光真寺 大田原市




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写真;2014.03/26
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以下、現地の案内板から

光真寺縁起

 当寺は、天文十四年(一五四五)に創建された禅寺で、永平寺並びに総持寺を大本山とする曹洞宗に属し、大田山光真寺と称します。本尊は釈迦牟尼仏。
 御開山は矢板市長興寺第三世體翁麟道(たいおうりんどう)大和尚にて、宇都宮市成高寺の門葉であります。
 開基は、大田原家中興の祖である第十三代資清(すけきよ)公で居城を中田原水口から大田原龍体山に移すを機に、両親の菩提を弔うため、この地を霊域と定めて七堂伽藍を建立された。寺号は父君の法号「明庵道光」の光と、母君の「真芳妙観」の真とをとり命名したと云われます。
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大田原氏中興の祖
      すけきよ
大田原十三代資清公

十二代実父胤清は、永正十五年(一五一八)黒羽大関氏に破れ討ち死にするが、敗戦二十四年後、朝倉氏等の支援を受け大関氏を破り再興を果たす。
天文十四年(一五四五)前室山に築城し、姓を《大俵》から《大田原》に改称し、大田原氏菩提処として大田原光真寺を創建した。

 大田原氏中興の祖
     永禄三年(一五六〇)一月十七日没
  法名 光真寺殿不山永存大居士



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2014.03/17(MON)

魔群の通過 天狗党叙事詩
山田風太郎幕末小説集




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平成26年(2014)
・03月16日
 注文してあった本が届いた
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文庫本カバー(写真)には
武田耕雲斎 の肖像を用い
文中p.98には
「父はまさに君子でありました。あとになって私は、武田耕雲斎は、押し出しも弁舌も堂々としているが、異常に名分にこだわり、変てこなくらい威儀をつくろおうとするところがあった、という評があることを知りました。・・・六十を越えて、背は高いが鶴のように痩せ、顔のあばたがかすかに浮き出して・・・」
と書かれていた

山田風太郎
魔群の通過
天狗党叙事詩
ちくま文庫、2011.05/10初版
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1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2014.03/15(SAT)

尊 攘 水戸城跡三の丸弘道館
松延年の書(掛け軸)




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※ ↑本物とは相当の相違だが、それを模したもの ^^;)
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書跡 資料;二大字「尊攘」(にだいじ「そんじょう」)

 この書は、安政3年(1856)に徳川斉昭の命により、水戸藩医で能書家として知られていた松延年が書いたものである
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2014.03/13(THU)

弘道館の梅 水戸城跡三の丸




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写真;「臥竜梅」の樹名札がある(2014.03/03)
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平成26年(2014)
・ 3月 3日
 東日本大震災で地震の被害を受けた弘道館正庁は修復の工事中。で見学は出来ず!
 敷地内(庭)の梅が咲き始めていた

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写真;これも「臥竜梅」(2014.03/03)



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2014.03/10(MON)

御 製 碑 水戸城跡大手橋付近




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写真:2014.03/03
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以下、現地の案内板から
ぎょせい
御 製 碑

 昭和天皇が、終戦直後の戦災状況を視察するため、昭和二十一年十一月十八・十九日両日水戸に行幸されたときに、県庁屋上から市街をみわたされて

「たのもしく
    よはあけそめぬ
        水戸の町
 うつつちのおとも
      たかくきこえて」


と復興ぶりのお歌をお詠みになられた。
 陛下は、翌二十二年の新年御歌会において、「あけぼの」と題され、水戸で詠まれたお歌をご披露になられた。
 このため水戸市では、大水戸市復興祭および市制七十周年の両行事を記念して、同三十四年水戸駅前広場に御製の碑を建てた。その後、水戸駅北口再開発事業における駅前広場改造に伴い、平成二年に現在地に移設したものである。
 なお、「御製」とは、天皇陛下が作られた詩文や和歌のことをいう。
     水 戸 市
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2014.03/09(SUN)

彰考館跡 水戸城跡二の丸(水戸二中)




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写真;大日本史編纂之地、2014.03/03
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彰考館跡

 水戸第二代藩主義公 徳川光圀は修史の志をたてて、明暦三年(一六五七)に大日本史(四〇二巻)の編集をはじめた。寛文十二年(一六七二)にその編集所を彰考館と名づけた。彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える」という意味である。
 当初は江戸小石川の藩邸内においたが、元禄十一年(一六九八)に水戸城に移した。彰考館は、この二中の敷地の一部に当たり、廃藩置県となった明治四年(一八七一)までの百七十三年間ここにおかれた。
 この編集には多くの学者が携わったが、なかでも澹泊齋 安積覚、十竹 佐々宗淳、翠軒 立原萬、幽谷
 藤田一正、天功 豊田亮栗里 栗田寛などが有名である。水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、二百五十年の歳月を費やして、明治三十九年(一九〇六)にようやく完成した。
 由緒あるこの地に、その昔をしのび、これを建てる。
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水戸城跡(2014.03/06)



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