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2014.02/28(FRI)

侍 門 黒羽小学校




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写真;2014.02/26
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以下、現地の案内板から

侍 門 (武家屋敷の門)

 この門は、黒羽藩主大関家の重臣大沼家の侍門であったと伝えられています
 明治時代になって、黒羽城の記念として移築されました
     平成十四年三月
     黒羽町立黒羽小学校
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2014.02/27(THU)

髙橋長雄戰死之碑 黒羽護国神社




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写真;2014.02/26
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以下、碑文から

髙橋長雄戦死之碑
高橋君戰歿矣同隊之士痛惜不已欲立碑以謀不朽付行實□予曰君姓髙橋名長雄小字鹿之助後更互理世仕黒羽慶應戊辰之歳官兵征奥羽本藩蒙 命出師以長雄為小隊長次旗宿焉戰中野焉尋破棚倉救淺川克本宮二本松還踰那須山襲三斗小屋之賊連破壘而進矣孤軍長驅遂入會津與諸軍會圍其城九月十四日城兵大出長雄先衆而進銃丸洞其脅年三十五嗚呼命也矣哉従卒載其尸歸葬于西崖長松院長雄為人沈勇剛毅常在矢石之間顔色不動大小二十餘戰未嘗敗衂至是雖隕命而一隊不撓獲大袪敵夫一小隊長之勇怯固不足繋□六軍之勝敗雖然千里之堤以隙□蟻穴而壊一人無决死之心則一隊無决死之心一隊無决死之心則六軍之勝敗未可知也然則今日大捷之業雖曰長雄與有力焉可也 戰中野焉丁脱守白坂焉四字
     明治二年己巳九月
     黒羽地山三田稱平撰 土浦雪江關思敬書幷篆額
                      廣羣鶴鐫
     *
髙橋亘理 長雄
黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
鹿之助とも/小隊長/明治元年九月十四日若松城下で戦死/三十五才/黒羽・大雄寺に墓
--幕末維新全殉難者名鑑--
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黒羽神社(黒羽護国神社)(2013.02/19)
 ↓高橋亘理隊の人
渡邉慶次郎墓(2014.01/27)



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2014.02/26(WED)

益子信明戰死之碑 黒羽護国神社




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平成26年(2014)
・02月26日
 雪と寒さで籠っていたのだが、久々の外出
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以下、碑文から

益子信明戰死之碑

慶應戊辰八月二十三日益子君戰歿于下野那須郡小屋村年二十二葬于黒羽城新善光寺之光塋君諱信明通稱四郎父諱信将母海野氏其家世仕黒羽戊辰之役藩命為小隊長從 主師□陸奥轉戰十餘進到本宮賊拒于逢隈□君為先鋒挺身亂水奪船衆得以濟尋攻二本松抜之乃與諸軍□道入會津我兵途襲小屋村之賊君先衆奮戰飛丸洞肩而歿矣嗚呼人誰無死徒死不得其所今君死而勤 王事榮莫大焉可謂其死得所矣今茲庚午秋信将使予撰文表其墓此役也予與君同登陣目撃其勇戦之状何可黙而没其功為之慨然揮筆不覺涙交腮也
   明治三年庚午秋八月
   北嶽三田恆撰 雪江關思敬書幷題額

   信明碑初建新善光寺之塋□廣羣鶴鐫
     今移之招魂社側 益子信将誌


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写真;2014.02/26

益子四郎 信明
黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
小隊長/江戸に学び洋式兵法砲術に長ず/物頭/明治元年八月二十三日下野小谷村で戦死/二十二歳/黒羽・大雄寺に墓
--幕末維新全殉難者名鑑--
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黒羽神社(黒羽護国神社)(2013.02/19)
益子四郎墓(大雄寺)(2016.08/05)



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2014.02/25(TUE)

"あとがき" 幕末維新全殉難者名鑑
明田鉄男編/新人物往来社/昭和61年(1986)発行




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平成26年(2014)
・02月23日
 注文してあった本、「幕末維新全殉難者名鑑」が届いた
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"あとがき"

 編者は"あとがき"で、「記述に勝者は厚く敗者は薄いという蜜疎の懸隔があって気になる。しかし、例えば次のような事情があり致し方なかった」として、次の一例を書いているのだが..嗚呼
     *
▽……旧幕府軍側資料に、一応戦死者名を列挙したあと「他に卒二十人」などと記してある例が多い。この気の毒な二十人について、せめて姓名だけでも、と努めたが無理であった。この間の事情を示す一例として一文を紹介する
『死事者墓…本村(磐城国宇多郡駒ケ峰村)の北方西久保丘陵の間に在り。戊辰の役、徳川の麾下脱走の士及び旧仙台藩士、本村の堡塞臥牛館に拠り官軍を拒ぎ、八月七日より五日間晝夜苦戦、死する者百二十人、其の死体及び手足、頭、胴等を拾収して埋葬したる所なり』(「福島県宇多郡村誌」明治十七年)…凄惨な状況がよくわかるが、これでは姓名の探りようがない



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2014.02/23(SUN)

幕末維新全殉難者名鑑 明田鉄男/編・新人物往来社
鎮魂の紙碑




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写真;2014.02/23
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幕末維新全殉難者名鑑
全4巻
明田鉄男/編・新人物往来社
1986年出版

嘉永六年から明治四年までの間に闘死、刑死、獄死、自殺、国事に由因する病死など非業の最期を遂げた一万八千六百八十六人の鎮魂の紙碑(しひ)。それぞれの姓名、諱(いみな)、別称、身分、禄高、略歴、死亡年月日、その場所と、状況、没年齢、墓所、贈位、 靖国合祀(ごうし)の有無等が記載されている
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(目次1)
第1巻 桜田門外の変・天狗党・新選組・ほか
第2巻 松前藩・弘前藩・盛岡藩・一関藩・秋田藩・亀田藩・本庄藩・庄内藩・新庄藩・天童藩・山形藩・米沢藩・中村藩・三春藩・会津藩
第3巻 仙台藩・棚倉藩・磐城平藩・二本松藩・黒羽藩・宇都宮藩・館林藩・水戸藩・笠間藩・請西藩・新発田藩・長岡藩・高田藩・金沢藩・福井藩・松代藩・名古屋藩・大垣藩・岡山藩・福山藩・長州藩
第4巻 広島藩・鳥取藩・土佐藩・砂土原藩・十津川郷上隊・久留米藩・佐賀藩・熊本藩・薩摩藩・幕府兵・彰義隊・新選組・赤報隊・ほか
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〈編者略歴〉
明田鉄男(あけたてつお)
大正10年愛媛県宇和島市で生まれる。京都大学法学部卒、京都新聞、読売新聞記者・論説委員を経て、現在、霊山歴史館主任研究員、大手前女子大学講師。日本ペンクラブ会員、日本新聞学会会員
著書
「幕末京都(上、下)」白川書院
「乱世京都(上、下)」白川書院
「江戸と京都(上、下)」白川書院
「考証・幕末京都四民の生活」雄山閣
「京都府議会史(全3巻)」
共著
「幕末維新人名辞典」学芸書林
「京都大事典」淡交社
--巻末、編者略歴から・(1986.09/25、第4巻/第一刷発行)--



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2014.02/21(FRI)

白湯山神社(社務所)石標 会津中街道三斗小屋宿
那須塩原市




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写真;2012.09/03
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白湯山神社(社務所)石標

会津中街道が開設されると、三斗小屋宿は「白湯山信仰」の基地ともなって賑わいをみせた。その名残りであろう、神社々務所跡地(宿の北)に石標が残されていた
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白湯山(はくとうさん)信仰
那須五峰(茶臼岳、朝日岳、三本鎗岳、南月山、黒尾谷岳)は古くから信仰の山として知られている。このうち茶臼岳山腹に湯の湧出する場所が有り、ここを「白湯山」と称しご利益ある言い伝えと相まって信仰の対象となったものである

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三斗小屋宿(2012.09/05)



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2014.02/18(TUE)

公文力之助墓 棚倉町棚倉新町一二九、蓮家寺





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写真;2012.11/04
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     くもん
官軍土藩/公文力之助義盛
側面に
慶應四戊辰六月二十四日/□奥州金山驛時年二十四
とある
 土佐藩の足軽で迅衝六番隊に所属した、土佐郡小高坂村の人である。慶応四年六月二十四日磐城棚倉金山駅外で戦死した。享年24
--幕末維新全殉難者名鑑--
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公文力之助
 慶応四年一月に土佐藩の勤王の志を持った下士や郷士を主として編成された、武力討幕部隊「迅衝隊」の主要隊士であった
〈迅衝隊〉
 総督      深尾丹波成質
 総督兼大隊司令 乾正形(板垣退助)
 大軍監     谷守部干城
 隊士総数    約六百

 ↓死はこの戦闘でか?
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
 ↓蓮家寺「弔魂之碑」
弔魂之碑(2012.11/04)



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2014.02/18(TUE)

峰の茶屋 三斗小屋温泉へ至る道




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写真;2012.09/03
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※ 峰の茶屋から急な坂を約50分下ると三斗小屋温泉に至り、なお少し行くと会津中街道に出て、ほゞ沢沿いを南に約1時間下ると「三斗小屋宿」に着く
※ 会津中街道に出て、北に向かうと約2時間弱で大峠に至るようだが、こっちは体力が持ちそうに無く行くのは諦めている ^^;)
※ 所要時間は冬季以外
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三斗小屋宿(2012.09/05)
大峠(2013.05/24)



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2014.02/18(TUE)

尾崎紅葉歌碑 siobara 妙雲寺




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写真;2012.05/29
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 本 堂 や 晝 寝 無 用 の 張 札 す

                    紅 葉


尾崎紅葉〈おざきこうよう、
1868年1月10日(慶応3年12月16日)-1903年(明治36年)10月30日〉は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。江戸生まれ。帝国大学国文科中退
1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)明治期の文壇の重きをなした
 1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる
 俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された
--Wikipedia「尾崎紅葉」2014.02/18--
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栃木・塩原温泉 清琴楼
金色夜叉ゆかりの宿
当館は明治初年よりつづく温泉旅館です。尾崎紅葉先生の「金色夜叉」の舞台となったところから、小説に登場した「清琴楼」の名前をいただきました
--「清琴楼」ホームp--
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※ 清琴楼は尾崎紅葉が逗留し「金色夜叉」の執筆にあたった旅館



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2014.02/17(MON)

本丸御殿絵図 白河城(小峰城)




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写真;2009.12/10
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以下、現地の案内板から

本丸御殿跡
 本丸の平坦地には、御本城御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在していました
 写真の絵図は、松平定信の藩主時代の文化5年(1808)に作成された「白河城御櫓絵図」の中の「御本城御殿平面図」で、奥に「御小書院」、中央部に「御月番(月交替の担当家老の部屋か)」「御奉行」などが見えることから、藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられます。また、「御書院」では家臣を集めた申し渡しなども行われたようです
 建物の規模や外観などは分かりませんが、同じ頃と考えられる別の御殿絵図によれば畳数は707畳とあり、かなりの大きさだったことがうかがえます
     白河市教育委員会
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 下の写真は上と同じく東日本大震災以前のものだが、二の丸から清水門を入り、左手の桜御門をくぐった辺りから見た本丸跡と前御門である(左かすかに三重櫓)
 三重櫓;1991年復元
 御前門;1994年〃
2009.12/10
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