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2013.12/27(FRI)

寺子の一里塚(史跡) 黒磯、寺子




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写真;2013.12/23
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以下、現地の案内板から
てらご
寺子の一里塚(史跡)
     管理者 寺子行政区

 一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
 ここ寺子の一里塚は、奥州街道四十二番目のもので、江戸より四十二里(約百六十五キロメートル)の距離を示す塚である。
 一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 鍋掛(なべかけ)の一里塚が慶長九年甲辰(一六〇四)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
 最初の一里塚は、現在地から約五十メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
 現在の塚は、平成七年三月に復元されたものである。

     平成七年三月吉日
     那須塩原市教育委員会
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写真;左から右(白河方面)に横切るのが旧奥州街道で一里塚は見て左折する角にある
   2013.12/23



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2013.12/23(MON)

浮浪徒十四人墓 那須町芦野?黒川集落附近
天狗党田中愿蔵隊




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写真;2013.12/23
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元治元(甲子)年十月十九日
浮浪徒十四人墓
明治九(丙子)年十月十三回忌建之

〈天狗党田中愿蔵隊〉
元治元年(1864)
・ 6月   田中愿蔵隊(三百余名)は天狗党本隊から離脱し、以降独自の行動をとることとなる
・ 9月18日 幕府に占拠されていた助川城(家老山野辺主水正の居城)を奪還した
・〃 26日 二本松・平両藩千六百余名の奇襲を受け八溝山系に逃れた。隊を解散しなお両郷村、須賀川村、棚橋村、棚倉村等に潜んだ
・10月   疲労し、飢渇から民家に入り込み食料を盗み食うなどし、各村で捕縛・投獄される
・〃 16日 田中愿蔵、塙で捕縛され斬首
〈浮浪徒十四人墓〉
・10月   芦野藩は領地内で天狗党田中愿蔵隊の十四人を捕縛し投獄した
・〃 19日 簗場平において斬首。そのほとんどが農民であった


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2013.12/23(MON)

寺子地蔵尊 黒磯市(現那須塩原市)寺子




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平成25年(2013)
・12月23日
 那須町黒川へ行く途中、寺子地蔵尊があり立ち寄ってみた。そこに信仰する人々の切な願いが、何の飾ることもなく綴られていた
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写真;2013.12/23



寺子地蔵尊

 お地蔵さま
 絶えない苦労と切ない願いを聴いて下さい
 悠々の余笹川の流れのまゝに生きぬく勇気を与えて下さい
 良き縁を結んで下さい
 可愛い子供を授けて下さい
 そして幼な児と老いたる身を守って下さい
 あなたにすべて委縋して今日も臆することなく生きて行きます

     平成十六年十月
     赤沼石田坂寺子講中
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写真;「寺子地蔵尊」2013.12/23

以下、現地の案内板から
てらご
寺子地蔵大菩薩

 享保年間(一七一六~一七三六)は、この辺一帯が大飢饉に見舞われ、食べるものが無く「老人や子供の餓死者が多かった」と言われている。その難を逃れる為、熊久保仁兵衛、鴇巣次良兵左衛、松本九兵衛、後藤仁衛門、井上□兵衛氏らにより話し合い各家を宿として信州の石工、北原又衛門、原孫七、伊藤万右衛門、北原磯左衛門に依頼して餓死者を供養する為地蔵を建てたと言い伝えられている。
 また、本地蔵は「イボ」地蔵とも言われている。毎年八月二十三日には、講中の出席をえて、子供の成長と家中安全を願って念仏をあげております。

     平成二十二年三月
     鍋掛地域車座談義運営委員会
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2013.12/21(SAT)

戦死塔(佐良土) 湯津上村(現大田原市)佐良土738附近
水戸諸生党、佐良土の戦い




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写真;「戦死塔」2013.12/21
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平成25年(2013)
・12月21日
 用事のついでに佐良土の戦死塔を見て来た
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自然石に
明治元年九月二十七日
戦死塔
と刻まれている

戦死供養塔、片府田 (2013.12/19)
 明治元年九月二十七日、水戸に向う諸生党勢らは片府田で大田原・彦根藩兵と交戦、戦死者6名を出して退くと、更に佐良土で黒羽藩兵と交戦して11名の死者を出したが、ここを突破し馬頭へと向かった(※黒羽藩兵はここを敵にとって水戸への通過地と知り徹底抗戦はしなかったと云い、午後4時頃に戦闘は止んだと云う)
 この戦死者(諸生党勢か?)を供養する塔である
※ もともとは主要道脇にあったものを道路拡幅工事のため現在地に移したのだそうだ

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写真;2013.12/21



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2013.12/19(THU)

戦死供養塔 大田原市片府田・宝寿院(旧墓域)
水戸諸生党(市川三左衛門)、片府田の戦い




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平成25年(2013)
・12月18日
 天気予報で、明日は大雪だと。午後、大田原市片府田(かたふた)に「戦死供養塔」を見に行く 
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写真;2013.12/18

 市川三左衛門に率いられた水戸諸生党勢は水戸を脱出して北越戦線(出雲崎、灰爪)で戦うが戦利なく会津に入る

明治元年(1868)
・ 9月22日
 若松城が陥落して逃げ場を失った市川ら諸生党勢は、追討軍を出して手薄になっている水戸城の奪還を決意し、これに長岡藩兵らも加わり会津を出た。途中、新政府軍と交戦しつつ田島へ出て、ここより会津中街道を三斗小屋に抜け片府田、大子、水戸へと向かった
 ※軍勢は 500とも1000とも云われる
・ 9月27日
 早朝、片府田で大田原・彦根藩兵と交戦。戦死者6名を出し、なお南方(佐良土)に退く。戦闘は2時間程度であった模様
 この「戦死供養塔」は戦死した水戸諸生党、長岡藩兵らを供養した墓である。当初は無縁仏として葬られたが、明治二十一年(1888)九月二十七日、村住人が二十一回忌にあたって建立したもので、台石には「村女人中」とあり、村の女性が建てたもののようである
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※ 諸生党(市川三左衛門)の事について
 水戸藩内の政争は、天狗争乱、那珂湊戦争、徳川慶喜の大政奉還、戊辰戦争と複雑に絡んでとても書き記せない。また別の機会にupしたい
 ちなみに、水戸諸生党勢の水戸城奪還はならず市川三左衛門は逃亡の果て、明治二年に江戸で捕えられ、水戸で"逆さ磔"の極刑に処された。享年53才

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写真;「宝寿院」2013.12/18



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2013.12/12(THU)

笹小屋 大佐牧場レストハウス附近
慶応四年(1868)閏四月二日




 軍を再編するために日光を撤退して田島に向うのだが、大鳥軍は途中での戦闘を避けようと過酷な「六方越」ルートを選んだ。夕刻遅くに日光を発ってその日は山中に泊して、翌二日空腹のまま笹小屋(現大笹牧場)に辿り着く、その様子を南柯紀行に次のように記している

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写真;現在の大笹牧場レストハウス附近、2011.11/01

慶応 4年(1868)
・閏 4月 2日
〈南柯紀行〉
… 之を越え三里も山上の平野を経て一軒茶屋に至れり、是れ旅人休息の為に設くる者にして笹小屋と名づく、家に入りて見れば諸士官諸兵卒雑沓し食物を主人に乞えども、寒郷の茅屋なれば飯は素より何にても食するものなし、或は味噌を嘗めて水を飲むあり、或は沢庵を喫むあり、或は梅干を貪るあり、又労れて炉辺に重りて困(混)眠せるあり、実に餓鬼道の有様なり、始めの程は右の品もありたれども予が着せし頃は夫れも已に尽きて一点の食物も見ず、漸く或人鶏卵を二個贈りしに由て飢渇を療したり、笹小屋より二里も山川に沿いて下れば日陰村と曰う、人家十四五軒もあり …
※ 何せ、凡そ二千?もの飢えた集団が一軒茶屋に殺到したのであるから..嗚呼
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六方越 (2012.06/13)



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2013.12/09(MON)

墓碑 大玉村玉井
二本松少年隊と新政府軍、戦死者の墓碑




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※ 写真;2013.12/09

〈※向って右〉
二本松少年隊
     久保鉄次郎 (十五才)
     久保豊三郎 (十二才)

 大玉村玉井まで"戦死三十一人の墓"参りに出掛けたが、そこに新しい(と思う)墓碑(慰霊の碑)が建てられていた

〈※向って左〉
長州藩  吉村熊之助 (二十一才)
薩摩藩  伊座敷金之進(十九才)
薩摩藩  次郎
土佐藩  近藤楠馬  (二十二才)
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2013.12/09(MON)

山入村の戦い 大玉村玉井
慶応四年(1868)八月二十日




戦死三十一人墓(大玉村)

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※ 写真;2013.12/09
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平成25年(2013)
・12月09日
 白河→須賀川→郡山→本宮を経て大玉村に行く
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以下、現地の案内板から

後世に語り継ぐ

戊辰の役山入村(玉井村)の戦い
慶応四年(一八六八)一月三日、京都鳥羽伏見において徳川幕府軍十五代将軍徳川慶喜と薩摩、長州、土佐等(官軍)との間に戦端を開いた戊辰戦争は官軍の勝利となり四月十一日江戸城は開城となり徳川幕府崩壊し明治新政府が誕生した。しかし官軍はあくまでも会津討伐を目的とし進軍し奥羽攻防となり白河城、棚倉城、三春城が落城そして七月二十九日には二本松城が落城した。
山入村(玉井村)の戦いは八月二十日会津侵攻に向けて本宮宿より玉井村に進軍した官軍と会津母成峠より出撃し山入村に進軍した会津軍との間に山入村の西の内、黒沢、五ノ神、宇津野地区を中心に起った戦で本宮、二本松に集結した官軍三千名は一部二百名を陽動部隊として中山峠攻撃に向け残る二千七百名の主力は玉井村に滞陣した。会津軍が山入村に進軍しているとの情報を得た官軍は五百名が進撃を開始した。一方会津軍の陣営は手志子森に旧幕府伝習第二大隊二百名が陣を構え左翼の西の内には二本松兵右翼の五ノ神、宇津野方面には会津仙台兵二百を配置した布陣であった。
左翼の二本松兵に攻撃を加えた官軍は本道をさけて竹の内地区南を流れる安達太良川を越えて進み途中で流れが二手に分れ北の寺沢川を進んだ一隊は左翼の兵に、西に進んだ一隊は右翼の兵に攻撃を加えまた村道を進んだ官軍は六角本揃、小菅と進攻し油渕の北側シダ林周辺より伝習隊に銃撃を加えた
伝習隊の陣地には大砲一門据え官軍を迎え撃ち又先鋒隊は各所で官軍と銃撃戦や白兵戦を展開した。八月二十日午後三時頃に両軍兵激突した戦闘は薄暮れ過まで続き会津軍の両翼の兵に戦力が乏しく敗退、伝習大隊のみが奮戦するも官軍に三方より包囲され多大の損害を受て母成峠に向け敗走した。後に残る会津軍有士三十一人戦利あらずと枕をならべ腹かっきり討死したその後九月二十二日会津城が落城した。山入村の戦死者は会津軍四十三名官軍四名二本松少年隊本村死ニ名であった。
 以上語り継ぐ
     玉ノ井史談会
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以下、現地の「戦死者氏名の碑」から

玉井山入村の戦争・戦死者氏名碑

会津藩    梶田銀蔵   伝習第二大隊   慶三郎
       原 政治    〃       仁三郎
       吉田長治    〃       発市
二本松藩   松本織之助   〃       政吉
伝習第二大隊 浅井清之丞   〃       松五郎
 〃     秋山仁助    〃       元二郎
 〃     磯村悦ニ郎   〃       要助
 〃     梅里保三郎   〃       米蔵
 〃     玉木久ニ郎   〃       良平
 〃     西宮浅吉    〃       熊二郎
 〃     山本稲之助   〃       竹二郎
 〃     山本房二郎   〃       源助
 〃     丸尾三郎    〃       源太
 〃       浅右衛門  〃       小三郎
 〃       亀三郎   〃       小兵衛
 〃       勘右衛門  〃       庄七
 〃       勘吉    〃       甚之介
 〃       喜兵衛   〃       清吉
 〃       金蔵    〃       清七
 〃       金八    〃       清助
               〃       竹三郎
               〃       藤吉
               〃       吉蔵

〈裏面〉
平成三年十月吉日建之

       玉井史談会
       武像鉄夫
       本間 正
       渡辺敬太郎
       武田吉弘
       渡辺徹司
       野内正一
       佐藤一子(旧玉応)
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※ 写真;2013.12/09

栃木、福島の戊辰戦争 2/2 (2013/12/01)



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2013.12/06(FRI)

経塚稲荷神社 大田原市紫塚




 旧幕府大鳥軍は田島で軍の再編をして、第一大隊(四百五十人)主力の会幕軍が三斗小屋に布陣した。会幕軍は再度大田原城の攻略を謀って三斗小屋を出、石林を経て迫ると、大田原方西軍はここ経塚辺に陣を敷き応戦する

慶応 4年(1868)
・ 5月 2日
 会幕軍、2度の敗戦で三斗小屋に撤退したが、再度大田原城を攻撃
 新たに
  会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)
  有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)
  飯野藩脱藩の森要三隊
の三部隊が加わり途中から二手に分れて進撃した。このとき大田原城にいた西軍だが主力の薩摩・長州らが白河戦の応援に出払っていて、僅かな大田原藩兵が残るのみ。戦いは会幕軍が圧倒したのだが占領は出来なかった。この夜、会幕軍は石林村(現西那須野)を焼払い、関谷で泊。翌日塩原に入って休息した後田島へ向う

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※写真;2013.12/06

きょうづかいなりじんじゃ
経塚稲荷神社
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以下、現地の神社由来碑から

神社の由来

経塚稲荷神社(旧無格神社)・主祭神 倉稲魂神
境内神社(祭神、神孤の霊)・例祭 二月ニの午
寛永五年(一六二八年)の頃大田原備前の守晴清は法華経一〇〇〇部を蔵して居たが、同公逝去の後、破損した経巻を寛永一〇年(一六三三年)酉年三月此処に埋め高く塚を築いて経塚と唱え、小祠を建立し稲荷神社を勧請した。
当時六人(善兵衛・吉右衛門・七右衛門・幸助・左八・伊八)が世話取りとなって経塚稲荷神社大明神と崇敬し例祭を執行したと伝えられている。
明治維新に際して経塚稲荷神社と改称し現在に至っている。
経塚稲荷神社と改称後、商売繁盛・家内安全・家運繁栄の神社として、旧大田原の商店主や地区の有志の人が世話人となり、大田原神社宮司が祭主となって四月第一土曜日例大祭として行っている。
神社は国道四〇〇号線沿いで、大田原指定名木百選の「ひがん桜」も見事であり、杉木立が神域を護っている。
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2013.12/01(SUN)

栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介
七月から十月




慶応 4年(1868)
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七月
 日
  1  早朝に本多、大川、会藩稲垣、成田、鈴木等と兵を率いて若松を出て、夕方猪苗代に着き
   猪苗代本陣泊
    途中、仙台の兵が猪苗代より引揚げる様子を見て、大鳥は「四五千の兵はありながら間道
   を潜行するとは、名に負う仙兵の所業と一同冷笑せり」、と..
  2 猪苗代を出て須川野、中食、木地小屋(宿陣の地と定む)に行く 
  3 本多、大川、他士官と共に石筵(いしむしろ)山に登る
  4
  5 第二大隊と二本松の兵約 400人、石筵を夕刻に発ち二本松夜襲に出るが不首尾
  6 明け方、本宮宿焼失
  7 夜、木地小屋に戻る
  8
  9
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 29 〈※二本松城落城〉
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八月
 日
  1
  2
  3
  4
  5
  6
  7
  8
  9
 10
 11
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 13
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 15 〈八月中旬〉大鳥圭介、木地小屋から猪苗代に出て執政田中、内藤と会う
 16
 17
 18
 19 山入村の戦い
    大鳥圭介、猪苗代に居たが会津藩から第二大隊の山入への出陣要請があり、了承してこの
   旨を本多に伝えた
 20  早朝、大鳥圭介は木地小屋に戻るが、第二大隊は山入に向け既に出陣していた。この後を
   追うと兵の体の者らが引返して来た。聞くと、山入村にいたところ敵が襲来して味方は敗北
   し引揚げるところだ、と云う。伝習隊はどうしたと問うと、正面に出て戦っていたので後か
   ら引揚げて来るだろう、と云う
   ・・・
    午時頃二本松の官軍が進撃して来たので、仙台・会津の兵は右翼に備え、二本松の兵は左
   翼に、伝習隊は正面に備えて、敵が十丁ばかりに来たところ、両翼の兵はロクに戦いもせず
   山腹に引揚げ、これを敵兵が追って山に登ったため正面の伝習隊は後に残された。伝習隊は
   驚き、山へ引揚げて先行した敵を撃とうとしたところ、まだ正面に居た敵が進んで来て挟み
   撃たれて大苦戦となった。本多は正面にいたが未だ帰陣せず
    その後戻った本多は、全軍敗走のため帰路を絶れ、しばらく潜匿してその後迂回して戻っ
   た、と云う
     士官の戦死三四人、頭取浅田麟之助も重傷、兵士死傷凡三十人
    大鳥圭介は "余益々三藩(会、松、仙)の兵の頼むに足らざるを知れり" と書く
    ともかく、本多、大川其他士官が無事で良かった、とも..
    今夜は兵隊と共に石筵山の山上に宿す
 21 母成峠の戦い 〈南柯紀行〉
    二十一日敵来るときは、萩岡の台場に木砲二発を打ちて合図と為すこと兼て約束なり、余
   昨日已来の奔走にて大に疲れたれば早暁まで熟睡せり、然る処六つ半頃なりしか、東方に当
   り砲声二発聞えたり、是れ敵来るなりと直ちに起き、飯を喫し兵隊へ令を伝え中軍山へ上り
   見れば、敵軍両道に分れ一は南方の谷間より進み、一方は北方にある山上に来れり、因て兵
   を夫々分配し田中は中軍山に趣(赴)き、余は大隊幷に二本松の兵を帥いて勝岩の上に登り北
   方の敵に当れり、先ず本多大川を兵隊に付けて遣し少し後より至り見れば、已に砲声盛にし
   て互に渓を隔てて打合い居れり、我に胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味
   方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰(選)組合併の人員にて防ぎたり
   しが、余心元(許)なく思い少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず、余
   種々之を指揮し置き四つ半頃にもありけるか、南方の砲声衰えたる模様(第二大隊の持場と
   南方の口とは距離一里余)なれば、心掛りの儘南方に下りて中軍山近く至り見るに、萩岡に
   火焔颺れり甚だ不思議に思い歩み行く内に、萩岡の方面破(敗)れ会津の兵引上(揚)げ敵入り
   て陣小屋に火を放ちたりと言伝う、而して勝岩よりの上の敵は我が火の烈しきによりて、胸
   壁に近づく能わず次第に引退き、勝岩より下に回り南方へ進みければ、勝岩の方も砲声減ぜ
   り、因て第二大隊の内一小隊を中里山に廻し援助を為さしめんと思い、十丁計りも上りける
   処中軍山の辺の砲声近く聞え、歩兵共追々引退く色に見ゆる故如何なる事にやと思う内、八
   時前なる頃敵早中軍山よりも近き山上に来り発砲せり、於是余又関門の傍に下り敗兵を集め
   此にも堅固の胸壁あれば、今一防戦と頻りに指揮せる内、何者の所業にや本営の陣屋に火を
   かけたり、敵兵なれば敵已に後方に回りたりと言触し、追々逃去り踏留まるもの甚少し、実
   に此口敗れなば会の滅亡旦夕にあり、今一奮発と怒罵すれども、必死の者乏しく、敵は次第
   に迫りける故、胸壁に留まるもの余を合して僅に数人のみ、間もなく敵群り至り弾丸雨より
   も甚しく、因て会人田中、小森其外と謀り此勢に及び今共に骸を駢べ死するとも其甲斐なし
   、暫く退きて猶防禦の一策を立つべし、但勝岩より上に出でたる兵隊へは未だ此事を通ずる
   に暇あらず、此兵帰路を失い困迫すべけれども今更之を報ずる手段もなければ、乍残念退く
   より外策なしと申合せ、夫より順路を経て山を下り木地小屋の方へ返りしに、敵近く逐い来
   り連に狙撃為せども一発も命中することなく、其場を逃げ延び・・・
   (後略)
    大鳥圭介はその後、沼尻の道に出るが、若松への道知る者無。山中泊
 22  大島原に至り二本松藩家老丹羽丹波その外の士と会う。共に秋元ケ原に行くと、第二大隊
   の者、会人等、会人田中、小森も居た。北方に行く為に、来た道を戻ると井深隊五十人ばか
   りと会い同行する。また行くと、黄昏時に、人家十二三軒ある木地小屋という所に着。泊
 23  午時頃大塩村に出て、昼食をとって若松方面に向うと、婦女子始め諸兵士が陸続と来て驚
   く。訳を聞くと、官軍が若松に侵入し、危いので米沢に向うと云う。引続いて林正次郎、本
   多幸七郎、大川正次郎、滝川充太郎ほかの士官、諸隊の兵士、桑名候、土方歳三等も来たの
   で、若松の形勢を聞くのに今まで同伴した会人らと別れ、又大塩村に戻る
   ・・・
    この戦で外の兵達が逃げたであろう檜原に向う。庄内藩本間友三郎、長岡候の奥方や侍姫
   ほか同行して婦女子肩に倚り、手を執り、険路深泥を踏み、しばしば転ぶのを見て憫れであ
   る、と。檜原泊
 24  大鳥圭介は、若松の危急を救おうとしても兵は迷乱し弾薬も無く、若松に入って何も為す
   事が出来ない。ならば米沢に行き弾薬を借り、米沢藩の同盟(奥羽越列藩同盟)隣国としての
   策に共すれば弾薬兵糧の輸送も支障ないだろう、とて米沢に着く。しかし米沢藩の対応は仇
   敵にする如くで、同行した桑名候にも同じく不敬の振舞をした
   " 嗚呼人心の翻覆頼むべからずこと浮雲草露の如し "〈南柯紀行〉
   歩兵らも立腹して "一戦に及ばん "などと云う
   ともかく、米沢泊
 25 檜原
 26 塩川
 27
 28 田島から横地秀太郎が来る。また偶然に織田対州、三宅大学も旅館に来て、両人は白石に向
   うと云う
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 30
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九月
 日
  1  第二大隊と第一の残兵あわせて二百人計りを連れて塩川を発し(友成将監を神靑龍隊に付
   け塩川に残した)→慶徳(昼食)→木曾村に着き、ここに詰めた長岡の兵隊、軍事方と謀る
  2  木曾を発ち陣ケ峰で敵軍の砲声があり、姿も確認したが山中でもあり大きな撃合いとはな
   らず、夕刻になり木曾に帰陣した
  3  会兵、長岡兵と各々の持場を定め、大鳥隊は長窪(山上の僻村で人家は所々に二三軒が散
   在)に出る。山上に登り四方を見ると敵軍の斥候隊が居る。番兵を出す
  4  未明、敵三小隊ほどが三隊に分れて迫る。迎撃二時間ほどで敵引揚げて、弾薬数箱を分捕
   した。敵は隣村まで敗走した模様なので、味方全隊に兵糧を分配しようとしたが、兵糧人足
   が逃げ帰ってしまい兵糧無し。敵又再挙して右方の山上から大鳥隊を瞰射したので、会人と
   合併しようと退去したら会兵は既に引揚げて一人も居ない。その内河南の敵が木曾隣村の館
   原を大砲で打って大火になり、帰路も絶たれたのでそのまま木曾村に引退いた。夕刻、敵追
   撃して来て戦争になるが、どの隊も兵士のヤル気が無く、木曾を放火して慶徳まで引退く積
   りが、ここも小田村へ引揚げたと云う。大鳥隊も止む無く小田村に帰った
        *
   〈※二本松藩降伏〉
  5 小田村滞陣
  6
  7  兵隊、本多大川を慶徳まで出張させた
  8  米沢からの援兵は来ない。もし米沢藩が新政府軍に与して敵軍となり檜原口より迫って来
   るような事になれば、前後左右に敵を受け進退窮まる
    古屋佐久左衛門と相談すると、直ちにここから猪苗代に出て二本松を恢復し、仙台の援助
   を得るのが最良である、と云う。尤もではあるが、只今この地を引払えば北方の会兵は落胆
   し、城下でも心細いだろう。また大鳥軍兵隊の半は未だ若松城に籠り居て、これを見棄てる
   のは本意に背くなり、と..
    何時迄も決心出来ずにいて、敵に挟撃されては犬死である。と..
   〈※明治に改元〉
  9 大鳥隊、古屋の隊と共に小田村を発つ→大塩→木地小屋。泊
 10 →秋元ケ原→高森→沼尻嶺→土湯村。泊
 11 →鳥渡村、純義隊も来着し滝川鈴木等も着いた。泊
 12 →福島に着くと小笠原、竹中の本陣で二本松の侵撃を相談した。しかし米沢藩の降伏以降は
   仙台藩の兵も引揚げ、庄内藩も戦意は失いつつあり、大鳥・古屋の隊等が長く福島に留まる
   事さえも難しい、と云う
    大鳥等一同は目算が相違したのに驚愕し、" この上はこの地の米兵を一撃して遺恨をはら
   さん "とも云うが、瀬の上駅から桑折(こおり)駅に行く。泊
 13 奥羽退軍、箱館へ
    桑折に小笠原、竹中来る。仙台行きを決する
 14  桑折を発し越郷の関門を通行し白石城に一泊する
    途中、仙台の額兵隊が福島に向うのを見た
    松平、松岡四郎次郎、人見、春日らと会う
 15  大鳥圭介、払暁、仙台に行き榎本と会う
    仏人「ブリュネ」、「カズノフ」が仙台候の別邸に滞留して居ると聞き、尋ねる。久々に
   旧師に会い、互いは手を取り合って再会を喜んだ
   ※海軍は軍艦五隻、開陽、回天、蟠龍、神速、千代田、運送船四隻、咸臨、長崎、長鯨、三
   ケ保、都合九隻を一隊とし、八月十九日品川沖を出航して奥羽に向うが、同二十二日常陸銚
   子沖で各船が大台風の被害を受けた。三ケ保は銚子浜で沈没し、乗組んだ脱走人の内四五十
   人が溺死し、大小銃と弾薬その他の武器も皆海底に沈んだ
    これらの諸船が仙台寒風沢辺に着き修理にかかったが未だ終了していない
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 19
 20  大鳥圭介、兵隊を率いて松島に行くと、一連隊付属の士官が泊まって居て、本多、大川ら
   多くが集まった。衝鉾隊は高木という処に行き、塩竈には彰義隊が滞陣している
    松島に逗留したのは四五日だが、小舟で海浜の小村に行ったり、練兵をしたり、魚釣りを
   したりして海軍の出帆を待った
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 22 〈※会津藩降伏〉
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明治元年(1868)
十月
 日
  1
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  4
  5
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  7
  8
  9 
 10  海軍の修理はかなり出来上り、開陽の仮の舵も出来上がった。大鳥圭介、兵隊と共に開陽
   に乗込む
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 12  額兵隊士官兵士共開陽に乗込む
 13  折の浜を出帆した。戊辰戦争は最後の舞台「蝦夷地」へと移る。その艦隊には
   〈威ありて猛からず〉
     総  数        約 3000人
     主な部隊
     ・大鳥軍(伝習歩兵隊)    225人
     ・衝鋒隊          400
     ・彰義隊          185
     ・砲兵隊          170
     ・伝習士官隊        160
     ・額兵隊          252
     ・新選組          115
      海 軍          650
      フランス陸軍軍人      5

    以降、戦線は箱館(函館)に移り、大鳥らの戦争は翌明治二年五月十七日まで続いたのであ
   る

箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介
     「威ありて猛からず」高崎哲郎
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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