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2013.11/26(TUE)

淺田惟季北戰日誌 藤原(大原村、小原沢)
慶応 4年(1868) 6月25、26日




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※ 写真;小原沢附近、鬼怒川公園駅(2012.10/16)
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慶応 4年(1868)
・ 5月
 会津侵攻路を確保するため進撃していた土佐藩だったが、白河口の攻防が膠着するとその増援に向う。これに代わった佐賀(肥前)藩が今市に着陣した
・ 6月25日
 佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍は連携し、会幕軍が守備する藤原口を攻撃する
 その一隊を小百(今市市)から、もう一隊は大渡(同)から鬼怒川を渡河し、宇都宮藩兵は鬼怒川左岸の船生(塩谷町)から会幕軍の第一線陣地(小佐越、藤原町)を攻撃した。ここを突き進むと大原(同)で陣を構えた会幕軍と交戦し、船生から山を越えて大原陣地の背後に回った別働隊の働きとアームストロング砲が威力を発揮して敗走させた
 会幕軍、藤原方面に退却した
・ 6月26日
 新政府軍、藤原に向け鬼怒川の左右両岸から進撃を開始した
 迎える会幕軍、左岸ではモウキ山(藤原町)の断崖上から攻撃し、右岸では上滝まで兵を引かせ、敵を引き付けると一斉に射撃した。新政府軍、会幕軍の猛攻に堪らず四散敗走する
 会幕軍は地形を利しての大勝であった

 以下、復古記から「淺田惟季北戰日誌」部分を引用(ママ)してupする
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第10冊 コマ番号 244~/525(引用)
復古外記 東海道戰記 第三十四

p.433
○淺田惟季(舊幕府士、)北戰日誌ニ云、五月九日、總軍藤原、大原ノ二邑ニ退キ、檄ヲ會城ニ遺テ之ヲ告令シテ、其兵三百人、一ト先凱旋令ム、止テ此ノ陣營ヲ守ル者ハ、幕兵五百人ニ過ス、吾軍持久ノ策ヲ爲スニ寄リ、大原邑外十丁ヲ距テ、小佐越橋ニ…
p.434
壘壁ヲ築キ、哨兵巡邏ヲ嚴ニシテ以テ敵ノ侵襲ニ備フ、六月二十五日、肥前宇都宮ノ兵、大原ノ壘ヲ攻撃ス、此日大鳥氏會津ヨリ歸陣ス、辰ノ時、敵軍進テ高徳大渡ニ屯シ、先ツ小佐越邑ニ來テ四斤ノ野戰礮ヲ備ヘ、絹川ヲ隔テ大原邑ノ牆壘ニ放發ス、此時第三大隊守衞タリ、加藤平内、山瀬主馬、直チニ兵ヲ排列シテ守戰ス、敵二道ヨリ猛烈ニ放發シテ、前面ノ壘ヲ攻ルコト急ナリ、戰フ事凡二時間、吾兵能ク守ル、既ニシテ敵兵左方ノ山上ニ攀登テ、眼下ニ吾壘ヲ放發ス、午ノ刻第三大隊終ニ大原ノ邑内ニ郤ク、敵兵進テ邑外ニ接迫シ、烙丸ヲ放ツテ終ニ民家ヲ燒ク、大鳥氏草風隊等八十人ヲシテ赴キ救ハシム、第三大隊援兵ノ來ルヲ見テ憤激、二軍合シ撃テ烈ク發火ス、敵兵又邑外ニ郤ク、須臾ニシテ大鳥圭介騎ヲ馳テ凱陣ヲ促テ曰ク、大原村地理惡シク、全捷ヲ得ルコト難シ、小原邑外ノ要地ニ退キ、欺テ敵ヲ隘道ニ導カハ、彼必ス勝ニ乘テ追ヒ迫ラン、然ル時ハ吾軍伏ヲ設ケ、彼カ背面ヲ絶ント爲ノ勢ヒヲ示サハ、敵兵必ス駭テ後口ヲ顧ル可シ、其緩ヲ窺テ二面猛烈ニ攻撃セハ、大捷ヲ得ン事必セリト、令下ルニ及ンテ二軍終ニ兵ヲ収テ、藤原村ニ引退ク、時已ニ未半ニ至ル、忽チ強雨注カ如ク、雷電山嶽ニ震フ、肥前ノ兵又小佐越ニ退キ、晩ニ至テ下瀧村ヲ放火ス、我兵是レヲ撃ント爲ニ、絹川滿水、渉ル可ラス、二十六日拂曉、肥前、宇都宮ノ兵、上瀧村ニ屯シ、川ヲ隔テ攻撃ス、吾軍此時藤原ノ營ニ在ル者、啻傳習第二大隊ト草風隊ノミ、兵總テ三百人ニ過キス、先ツ三番、四番ノ二小隊(原註、百十五人、)ヲシテ敵ニ當ラ令メ、草風隊四十人ヲ前面ノ溝胸壁ノ中ニ伏セテ、敵ノ襲來ルヲ待ツ、其二十人ヲシテ左方ノ山上ニ潜伏セシメ、予カ率タル一番小隊三十人ヲ分ツテ高徳間道ノ山下ヲ守ラシメ、其四十五人ヲシテ本營ヲ守衞シ、二番小隊ヲシテ三上ノ原ニ備ヘテ、船生ノ間道ヲ守ル、辰ノ時ニ至リ、敵兵頻リニ四斤ノ榴彈ヲ放チ、烈ク小銃ヲ連發ス、吾兵川岸ノ牆壘ニ據テ、眼下ニ瞰シ狙撃ス、敵殪ルヽ者無數、此時吾軍河ヲ渉テ彼カ面前ヲ襲ハヽ、一擧ニ勝ヲ得ン事必セリ、然レ共滿水漲リ溢テ果サス、荏苒ニ戰テ、既ニ未半ニ至ル、唯惜ム可キハ吾レニ一門ノ大砲無ク、愉快ニ敵兵ヲ殪ス事能ハス、漸ク一挺ノ臼礮有リ、是ヲ用ヒテ頻リニ榴彈ヲ放ツ、然レトモ此礮元來山上等之營ヲ燒ク時用ルノ器ニシテ、平地ニ不利トス、今我ハ高丘ニ在リ、彼ハ低キニ在リ、故ニ多ク功無シ、既ニシテ前面新タニ一聲ノ敵礮、雷電ノ如ク山壑ニ震シ、五六百人ノ兵小銃ヲ連發スルコト雨ノ如ク、一擧ニ我壘ヲ襲ヒ破…
p.435
ラント爲ス、草風隊ノ士之ヲ守ル者、僅カニ四十人、士官隊十人耳、憤戰スト雖トモ、敵衆更ニ屈セス、暫時ニ壘下ニ迫リ、鬨ヲ發シテ猛烈ニ連發シタリ、次テ一榴彈牆ヲ碎キテ破裂シ、草風隊ノ長村上氏之レニ中テ死ス、兵卒傷者四人、殆ト支ヘ難キニ至レリ、瀧川充太郎騎ヲ馳テ援ヲ乞フ、又左方山上ニ潜伏シタル傳習隊三十人、均シク連發シテ急ヲ救フ、是カ爲ニ少ク敵鋒ヲ挫ク事ヲ得タリ、彼直チニ山上ヲ目標トシテ、霰彈ヲ放ツ、是ニ於テ我軍殆ント苦戰ス、大鳥圭介、報ヲ聞テ、予ニ命テ救ハ令ム、直チニ四十五人ノ兵ヲ率ヒ、列ヲ整フルニ暇非ス、急歩ノ令ヲ下シ馳テ小原邑ニ至ル、戰ヒ將ニ酣ニシテ、敵鋒最モ鋭ク、前面ノ壘堡危キコト累卵ノ如シ、爰ニ於テ兵ヲ排列シ、急歩ノ喇叭ヲ鳴サ令メ、一喝鬨聲ヲ發テ壘内ニ馳セ行令メ、激烈ノ連發ヲ爲サ令ム、此勢ニ辟易シ、敵兵郤クコト二丁程、放發尚烈シ、此時予惟ヘラク、彼ハ衆、我ハ寡、荏苒ノ戰ヒ叶フ可ラス、一擧ニ勝敗ヲ決スルニ在リ、欺テ撃ツニ如スト、俄ニ一計ヲ施シ、傍ノ兵五人ニ命シ、彈藥ヲ運輸令ンカ爲ニ壘ヲ出シ、走テ小原邑ノ陣ニ行カ令メ、次テ嚴ニ放發ヲ禁シタリ、敵軍既ニ我カ敗走爲ト推量シ、急ニ列ヲ亂シテ壘下ニ迫ル事恰モ蟻ノ群ルカ如シ、予其接近スルノ的度ヲ量リ、直チニ小隊點放ヲ爲サ令ム、敵兵大ヒニ駭キ、辟易シテ退ク、殪レ死ル者十五六人、其尸ヲ脊負ヒ走ル、此機ヲ計テ吾兵一齊ニ鬨ヲ發シ、猛烈ニ放發シ、次テ壘ヲ出ル者二人(原註、予カ兵勘吉、金藏ト云、)予之ヲ見テ前進ノ令ヲ下シ、悉ク壘ヲ出サシム、瀧川氏次テ士官隊ヲ進メ、鼓躁シテ尾撃ス、敵終ニ大敗シテ走ル、爲ニ絹川ニ没シ、溺レ死ル者無數、直チニ二人有リ、谿中岩石ノ隙ヨリ走リ出、太刀ヲ揮テ予ニ迫ル、予カ傍ニ大樹アリ、則チ之ヲ遶テ其背ニ出、一人ヲ斬ル、其一人刀ヲ揚テ傍ノ一卒ニ傷ク、予直チニ彼カ右手ヲ斬リ、次テ面上ヲ撃ツ、彼終ニ死シタリ、此時瀧川氏又二人ヲ斬リ、兵ヲ分ツテ、盡ク岩石叢樹ノ隙ヲ探ラ令ルニ、敵ノ三卒河端ノ嵒ヲ傳フテ走ルアリ、予兵卒ニ命テ狙撃令ルニ、皆殪テ水底ニ沒シタリ、敵終ニ大敗シテ走ル、吾軍逃ルヲ追テ大原邑ニ抵ル、兵器輜重ヲ奪フコト無數、敵大ニ狼狽シテ遯去リ、大乘ノ渡ニ抵ル、小舟三艘ニ棹シ、雜沓シテ二舟終ニ沈沒シ、溺レ死ル者七十餘人ト云フ、此ニ於テ瀧村ノ兵瓦解シテ、多クノ兵器ヲ棄テ走ル、吾軍河水ヲ隔テ狙撃シ、殪ルヽ者又限リ無シ、忽チ一將官有リ、馬ニ鞭シテ走ル、吾カ兵狙撃スルニ、砲聲ニ應シテ馬ヨリ墜、敵卒二人、肩ニシ助テ走ル、我兵尚之ヲ撃テ其一人ヲ殪ス、又一人ハ漸ニ…
p.436
シテ藪ノ中ニ潜ミ隱レタリ、時既ニ黄昏ニ至リ、兵ヲ収テ藤原ノ營ニ退ク、則チ大鳥氏ニ謁シ、兵隊ヲシテ捧銃ヲ爲サ令メ、捷ヲ祝シ、酒肴ヲ與ヘテ戰勞ヲ慰ム、此日ノ戰爭、晨ニ起テ黄昏ニ至ル、斬首十級、大礮貮門、小銃三十一挺、帯劍十四腰、彈藥十八箇、籠長持四棹、俘囚二人、其他ノ雜器枚擧ス可ラス、而テ吾兵戰死スル者五人、創ヲ被ル者十五人ニ至ル、是レ我レハ壘ニ據テ戰フ故ニ、死傷少キコト此ノ如シ、翌二十七日拂曉、筏ヲ作リ、川ヲ渡リテ瀧村ニ抵ル、又多クノ分取アリ、尚一創者有テ水車ノ内ニ潜ミ隱ル、我兵忽チ斬首シ、叢林樹木ノ中ヲ探ル、米穀其他野陣ヲ張ルニ用ルノ器數種ヲ得タリ、盡ク奪ヒ歸ル、此日敵首十一級ヲ本營ノ門ニ梟ス。
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藤原の戦い(2012.10/16)
淺田惟季北戰日誌ニ云(2013.11/20)



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2013.11/24(SUN)

宰鳥(蕪村)句碑 宇都宮、二荒山神社




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※ 写真;2013.11/19
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以下、現地の案内板から

   さいちょう
   宰鳥(蕪村)句碑の記

 俳聖与謝野蕪村は、寛保三(一七四三)年歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて当市に滞在、翌年正月に蕪村最初の『歳旦帖』を編集発行した。
 それは表紙に、この碑の上部にあるように円の中に次の文字をあしらった、ユニークなものであった。
 「寛保四甲子 歳旦歳暮吟 追加春興句
  野州宇都宮 渓霜蕪村輯」
 その中で蕪村は、それまで使っていた「宰鳥」の号で、「いぶき山の御燈に古年の光をのこし、かも川の水音にやや春を告げたり」と前書して、この碑にある

   とり  は
   鶏は羽に はつねをうつの 宮柱  宰鳥

の句を詠んだ。
 これは当社宇都宮二荒山神社の社頭で新年の夜明けを迎えた鶏が、勢いよく羽ばたいている姿に寄せて、この地で俳諧師としての第一声をあげた喜びを詠んでいる。また表現も「羽をうつ」と「宇都宮」、「宮」と「宮柱」とを掛けた華麗な句である。
 こうした事実が、今まであまり知られていなかったのを極めて残念に思い、このたび多くの方々のご支援をいただいて、その事蹟を顕彰するためにここに記念の句碑を建立した。
 なお、この『歳旦帖』で初めて「蕪村」の号を用いている。

   古庭に 鶯啼きぬ 日もすがら  蕪村

の句碑が、仲町の生福寺境内にある。姉妹句碑として愛されることを念願する次第である。

     平成十一年十一月
     蕪村顕彰会
     宇都宮ニ荒山神社
     成島行雄撰文

【注】この句碑の文字は蕪村自筆といわれる筑西市の中村家所蔵本から拡大翻刻したものである。
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2013.11/23(SAT)

二荒山神社攝社下之宮 宇都宮




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※ 写真:2013.11/19
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以下、現地の案内板から
             せっしゃ
下野国一之宮 二荒山神社攝社下之宮

 当神社は二荒山神社の発祥の地(荒尾崎)に創建された神社で「二荒山神社攝社下之宮」と称し御祭神は本社(臼ケ峰)に鎮斎される二荒山神社と同神「豊城入彦命」をおまつりしております。
 ご由緒は大変古く第十六代仁徳天皇の御代下毛野の国造であった奈良別王が東国治定の功績高い豊城入彦命を御祭神として国社をこの地に建立 後世八三八年に峰続きの臼ケ峰に本社を造営し発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきました
 下之宮は長い歴史の中で丘陵は道路で分断され、招魂社は護国神社として移設しおよりの鐘は寺領に納め更に小高い丘は削減しビル陰にて奉祀されてまいりました。
 相生町再開発事業と共に
由緒深き聖地に下之宮のご復興をみたものである
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※ 攝(摂)社
本社に付属し、その祭神と縁故の深い神を祭った神社。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものを境内摂社、境外にあるものを境外摂社という

ニ荒山神社(2013.11/20)



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2013.11/21(THU)

贈従三位戸田忠恕之碑 宇都宮城址公園




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以下、現地の案内標から
    とだただゆき
贈従三位戸田忠恕之碑
宇都宮市指定有形文化財(平成 5年 3月22日指定)

 戸田忠恕は、安政3年(1856)10歳で家督を継ぎ、宇都宮藩主となったが、幕末維新にあたって勤王の志深く、山陵修復や戊辰戦争に力を尽くし、明治元年(1868)5月、わずか22歳で没した。
 この碑は、明治30年(1898)特旨を以て従三位が贈られた後、翌31年に旧藩士や有志が、忠恕の功績を不朽に伝えるため建てたもので、その波乱に富んだ生涯が、漢文体で碑全面に刻まれている。
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2013.11/20(WED)

淺田惟季北戰日誌ニ云 宇都宮城、二荒山
慶応 4年(1868) 4月23日




 淺田惟季北戰日誌である。宇都宮第二次攻防戦の様子が「復古記」にあり、大鳥軍参謀垣(柿)澤勇記が負傷した記載もある。以下、引用してupする

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※ 写真;二荒山神社(2013.11/19)
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第11冊 コマ番号 292~/484(引用)
復古外記 東山道戰記 第十三

p.539
○淺田惟季北戰日誌ニ云、四月二十日、我軍宇都宮城ニ抵ル、廿二日日光山退軍ノ命令有リ、先ツ創者ヲシテ徐ロニ先發令ム、廿四日(二十三日ノ誤、)我先鋒早起飯。辰ノ時整列將ニ發セント爲ス。忽チ執告有、敵既ニ街外ニ迫リテ城ヲ攻ント爲スト、語未タ終ラス、哨兵所砲撃起ル、大鳥氏曰、我等目標ト爲ス所ハ唯日光嶽ノミ、然レ共今敵兵新タニ襲來ル、戰ハサレハ臆スルニ似タリ、一ト度當テ後軍ヲ退ント、直チニ令ヲ下シテ兵ヲ排列ス、此時後門既ニ砲聲起リ、我哨兵退テ城中ニ入ル、我先鋒傳習第一大隊、桑名士官隊等直チニ之レニ當ル、表門ハ傳習第二大隊七聯隊之レヲ守ル、本營裏ノ竹林ハ會津農兵草風隊士官隊之レヲ守ル、五半時敵軍四面均ク榴彈ヲ發ツテ烈ク攻撃ス、薩、長、大垣ノ兵後門ヲ攻ル最急ナリ、我兵大ヒニ苦戰ス、表門ノ兵百人ヲ分ツテ救ハ令メ猛烈ニ發射シタリ、敵辟易シテ退ク、三方ノ砲聲恰モ雷ノ如シ、城中ノ樹木野戰丸ニ中ル者盡ク碎ケ散ス、敵兵街家ノ庫ニ據テ頻リニ放發ス、城中二十四斤礮二門有リ、直チニ榴霰彈ヲ放ツ、庫之カ爲ニ微塵ト成ル、又幸ニシテ一礮丸敵ノ彈藥ニ射當タリ、其音雷電ノ如ク傍ニ在ル物盡ク空中ニ飛散ル、我兵大ニ吶喊シ激烈ニ連發シタリ、敵終ニ退テ又本營ノ裏ヲ烈ク攻撃ス、午時ニ至テ尚強大ナリシニ、忽チ發砲ヲ止メテ卻クカ如シ、我兵尾撃シテ街外ニ抵ル、本營後ロノ塹中薩長ノ兵殪レ死ル者夥シ、我兵之ヲ斬首シテ城中ニ歸ル、飯ヲ喫シテ既ニ日光山ヘ發セント爲ス、午半ニ至テ敵兵又來テ攻撃ス、後門、本營後ノ二ケ所ニ迫ツテ嚴ク攻ル、爰ニ至テ吾兵一ツニ合シテ之レヲ防ク、新撰組、及傳習二小隊(原註、大川正次郎隊、小笠原信太郎隊、)ヲシテ城南(北)明神山ヲ奪ヒ、敵兵ノ横列ヲ襲ハ令ム、彼之レカ爲ニ卻ク事五六丁、大礮ヲ發チ遠ク圍ミテ烈ク明神山ヲ襲フ、未半ニ至ル迄我兵屈セス戰フト雖共、城中ノ活道既ニ斷ルヽヲ懼レ、終ニ山ヲ下テ歸ル、敵兵盡ク本營ノ後ニ集合シ、竹林ノ中ヲ標トシテ無數ノ霰彈ヲ發ス、吾兵死傷最多シ、長官本多幸七郎肩上ニ重創ヲ被リ、参謀垣澤勇記兩足ヲ打チ貫カル、薩人塹ヲ踰ヘ一擧ニ乘破ラント爲ス、我兵鎗ヲ以テ之ヲ追拂、既ニシテ申ノ半ニ至ル、大鳥圭介令ヲ下シテ曰ク、薄暮ニ退陣ス可シ、一竹林ヲ爭ヒ多兵ヲ傷ルハ無益也、宜ク収ヨト云、此レニ依テ猛烈ニ發射シ、…
p.540
徐々ト退キ、薄暮ニ城門ヲ出テ大澤道ニ退ク、時既ニ初更也、敵軍敢テ追ハス、我軍退ク事三里、大澤ノ二驛ニ止マリ、兵ノ死傷ヲ筭ルニ九拾人ニ至ル可シ、小山、諸川、安塚、宇都宮總括七戰、創者百七拾餘人、死者六七十人ニ至ル、此日ノ戰爭辰ノ時ニ起テ申ノ末ニ終ル、尚防禦セハ數日ヲ支ユ可シ、然レ共既ニ退軍ノ意有故ニ強テ死戰ヲ遂ルモ益無シ、依テ黄昏ニ至テ軍ヲ収メタリ、若シ外見今日ノ時機ヲ知ラサル者ヲシテ論セ令レハ宇都宮ハ上、下野州、奥羽ノ咽喉ニシテ專要ノ地ナレハ、之ヲ卻クハ拙策ト云ンカ、左ニ非ス、此時奥羽同盟未タ成ラス、會津兵又出師爲サス、加之彈藥闕乏糧亦盡ク、若因循スル時ハ敵兵治路ヲ斷テ我兵殲ト成可シ、故ニ此機ヲ知テ速ニ軍ヲ退ルハ眞ニ大鳥氏の神筭ト云ツ可シ、余此日十創ノ痛ミ少ク去テ徐歩爲ス事ヲ得ル故ニ、午時本營ノ後面苦戰ノ時兵ヲ率テ戰フ、忽チ痛ヲ發シテ歩行成ラス、駕ニ乘リ兵隊ト共ニ城中ヲ出、大澤ヲ距ル半里小林邑ト云ヘル宿ル。
二十四日、朝辰時、我軍大澤驛、小林邑徳次郎驛ヲ發シ、巳ノ半ニ至テ今市驛ニ達ス、會津藩日向内記、原平太夫等百三十人ノ兵ヲ率シ此地ヲ護衛シタリ、彦根藩士ノ首五級ヲ街外ニ梟シタリ、我兵暫時休憩喫飯、終テ午後出發、行軍二里日光嶽ノ半腹鉢石街(原註、俗日光街ト云、)ニ達ス、夫此土ノ地形タルヤ、西北ハ高嶽巍峩上、下野州、陸奥ニ連リ、東ニ高原、毘沙門ノ二嶺有リ、絹川、大谷川ノ二大河有リ、水色藍ノ如ク深サ數十仭、急流矢ノ如シ、船生、大渡二驛ノ下ニ至リ合テ一ツト爲リ、直チニ阿久津川ニ至リ常陸國那賀郡ニ出、水戸ニ流テ海ニ出ル、其源則チ中禪寺ノ湖ヨリ出ル者也、南方ハ今市、大澤、徳次郎、宇都宮ノ鄕有リ、此ノ一路通スル耳、其他上、信、陸奥、北越ノ隘道有リト雖共、絶壁削カ如ク谿壑深キコト數百丈、纔カニ一人ノ往來スルニ難シ、寡兵ヲ使テ衆ヲ拒クニ最上ノ地形タリ、此休憇、廿五日辰半、我兵隊盡ク神廟ニ参詣ス、其壯麗目ヲ驚ス、二十六日、東都ヨリ脱兵鎮撫トシテ松平太郎騎兵八騎随従シ、醫官小林文周、青木文岱來ル、依テ創者ヲシテ悉ク治療令ム、吾軍既ニ多クノ創者有ト雖モ會テ醫官ニ窮ス、幸ニ脱走中望月元有ナル者有リ、然ト雖モ貮百人ニ至ント爲ル創人豈一醫ノ能ク治療爲ス可キニ非ス、故ニ腐敗シテ聊ノ瘡ト云ヘ共盡ク腐爛ス、爰ニ於テ普ク治療ヲ施スニ至レリ。

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※ 写真;二荒山神社から宇都宮城址に向かう途中(2013.11/19)
     *
淺田惟季 (あさだこれすえ)
生没年不詳(※戊辰時、二十代半か?)
幕府陸軍兵隊指図役頭取として、小川町の伝習第二大隊屯営に起居。慶応四年四月十一日、屯営を脱走、旧幕府脱走軍に加わり出軍する。二十二日安塚の戦闘で右手と股に銃弾を受けたため、後陣に退き大鳥圭介の俗務を補助した。復帰後は会津で転戦。大鳥から負傷者の白石護送を任され、さらに仙台を経て箱館に渡航。「説夢録」には伝習歩兵隊頭取改役として淺田鱗之助の名があり、惟季と見られる。自記「北戰日誌節略」を残す
--幕末維新人物事典から引用--

宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)
大鳥軍参謀柿澤勇記墓(2013.10/17)



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2013.11/20(WED)

宇都宮二荒山神社 宇都宮
下野国一之宮




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平成25年(2013)
・11月19日
 二荒山神社・宇都宮城址を見て来た。神社から城址まではほぼ直線を歩き 700メートル

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※ 写真;2013.11/19
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式内名神大社/下野国一之宮
宇都宮ニ荒山神社御由緒
 御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
 相 殿  大物主命(大国さま)
      事代主命(恵比寿さま)

主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王(ならわけのきみ)が第十六代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命、事代主命を祀られました。その後承和五年(八三八)に現在の臼ケ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。古くは、延喜式内社、名神大、当国一之宮明治になって国幣中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町もお宮を中心に発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の社を中心に栄えてきた」とうたわれています。

主な祭典
毎月一日・十九日 月次祭(つきなみさい)
--以下、省略--
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2013.11/20(WED)

蒲生君平顕彰碑 宇都宮、二荒山神社




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※ 写真;2013.11/19
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以下、現地の案内板から

蒲生君平顕彰碑 の説明 二荒山神社

増正四位蒲生君平之碑篆額 大勲位有栖川熾仁親王  御染筆
撰文           従四位勲五等文学博士  重野安繹
書            従四位勲四等元老院議官 巌谷修
建立年月日        明治二十二年六月十二日 完成

建立の経緯
明治十四年五月三十一日政府は維新の功により蒲生君平にたいし特旨をもって正四位を贈られた。これを受けて宇都宮東京の有志の間で二荒山神社公園内に一大記念碑を建ててその志操功績を不朽に顕彰しようとする議が起り全国的な資金募集が始められた、発起人として東京は久我建通、東久世通禧、下野は戸田忠友、樺山資雄等知名の士が名を列られ遺族を含めて三十六名であった、その結果全国有志の賛同を得ていよいよ其の業が進み、明治二十二年六月十二日盛大なる式典のうちに序幕完成をみたものである。 以上
(碑面撰文の訓読文必要の方は社務所にあります)

追記
蒲生君平は宇都宮が生んだ偉人である
考古学の用語「前方後円墳」は君平の造語である
寛政の三奇人とは林子平、高山彦九郎、蒲生君平である
遺跡案内
蒲生神社 この坂を降りて北進五百メートル 徒歩五分
墓  所 (改葬)市の清住町桂林寺境内内 徒歩十分
勅 旌 碑 市内花房町三丁目東武ガード側  徒歩三十分
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2013.11/19(TUE)

富士見櫓 (復元) 宇都宮城




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※ 写真;2013.11/19
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以下、現地の案内板から

富士見櫓(復元)

 宇都宮城本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺で描かれており、広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。
 富士見櫓の名のとおり、まわりに高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山の姿が望めたと考えられます。
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宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)



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2013.11/15(FRI)

清明台櫓 (復元) 宇都宮城




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※ 写真;2012.04/19
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以下、現地の案内板から

清明台櫓 (復元)

 宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×三間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。
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宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)



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2013.11/12(TUE)

年代日記帳 3/3 吉沢左衛門(宇都野村々役、組頭格)の記録
幕末から維新まで




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明治二年

四月 宿屋地 大川除(堤防)不残枠敷く。弐間に延三十間 助け(金沢、上大貫、下大貫、上石上村)
 御上役 人見幸蔵様(藩より土木監督)
 御手先 薄葉重左ヱ門様(現場監督)
四月二十八日
 村々御呼出しにて、金札引替。仰せ付けられ候
 一人に付成る者拾両づつ(藩札の引替)
 上大貫村 江戸屋にて引替
八月二十二日
 銭相場天下一般に 拾貫文に相成候(銭替手形)
 二十二日夜、私共「江戸屋」へ参り候
八月 大違作付御検方願
 ※(明治二年は凶作であった)
九月十七日 御検分金沢村済。高阿久津村昼飯にて、萩野田へ御越しなされ候
 枡を立てて巨細、合毛相改め(実収穫の検分)
 翌、十八日 深井戸前初め、西の内別当田まで惣済にて、十九日御立相成候
十月十二日 川筋一統(箒川筋村々、下石上村迄)枡目掻切願上候(凶作のため、口米等を減らすよう願上)。町、宿にて参会の上、奉願上候所、御一新に付、掻切 四斗六升に仰せつけられ候
 違作引方 居 百弐拾弐 余御引也
(※ 此の掻切願が十一月二十四日夜の上石上村他川筋一同の農民騒動につながる問題となった)
十一月 民部札出来
 十七日 御役所へ一統お呼出し。太政官お達しの通り、当役所にてお達し有之候も、来春早春に領内一統へ御検地仰せ出てられ候
 同日(太郎左衛門)川筋八ケ村(箒川筋)御取締仰付られ
 遅沢村仁衛門様、山田収様、御両人
 仁衛門様は沢村善四郎様へ差居り、山田様は上大貫江戸屋へ出張罷在候
十一月二十四日夜
 上石(上)村二宮勝衛(主計)、藤田新之助、此者二人にて、川筋八ケ村、厄落し企て、村に八方へ手配り候。川筋一統不残引連れ、男たる者不残罷出る様、「一郎右衛門」もし枡目一件四斗五升願(先きに四斗六升に仰付けられた)、差上げ通りとして、兵糧申付けられ、三百人分
然しながら早急にて間に合い兼、「白米二斗五升炊き、きな粉むすび」にて、川崎まで追い掛け候へ共間に合わず、遂に継がず
夜、持ち帰し、道に人足の者、又は乞食、且は手渡しにて、罷り越し候者へ、配分致し罷り帰り申た
此のことにつき
大田原藩民政監権田篤様、御同役江連幸三郎様、民政小監お役人人見幸蔵様、久島惣一郎様
右三方共々、日光県御支配所中里まで参り、庄屋に引取られ差居り候右一同を、手当御願立にて罷り越し、不残引戻し申候
二十八日 帰宅仕り、それより当お役所に於て、毎日お調べ有之申継相成候
十二月十一日 夜、又、候、両石上村、両大貫(村)は日光県へ罷り出。宇都野、金沢、関谷、高阿久津此の四ケ村、後に残る
同 十二日 夜、渡辺幸三様、残り四ケ村御廻村、村々へ褒美。村方へ靑指しのし五十下され候
 其時又、追掛け候お仰せお役の義は、阿久津右ヱ門様、権田篤様、相山羊三様、罷り越し、日光県お役お城下迄、お出の事にて、四ケ村一統帰村、それより毎日御吟味
村々不残、相詰め、弥々以て
同二十七日 日光お役所へ御出張により、御利解「永替石御渡」廉々の儀は、検地村々取立相成候迄、「枡目四斗六升」のお達し、四斗五升に減じざる様被仰付、其外の義は聊かの事故、仰付け相成らず申候


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※ 写真;箒川と川筋の金沢(村)付近(2013.11/12)

明治三年

正月 右は川筋村に大荒れしたる故、一統、松、しめ飾り、村々お年玉祝儀も無之、悔心にて差罷り申候
同月 右の始末に付、金上納は相済候へ共、穀上納は一切不仕、春にのびのびに相成居候処
正月二十七日 御藏方の事、出納高橋登一郎お出にて、米見一人。枡取一人。〆三人御出に御座候
 御取立罷りきめ、残米上納仕り、御立ちに相成候
     *
別記
 先に会津大内村にて戦死せる、十五郎討死の跡を尋ねて
明治二年六月二十一日 七郎左衛門、彦四郎、おさだ、三人にて、会津大内と申す所まで、十五郎討死の跡を尋ねに参り、二十一日夜横川泊。二十二日夜大内泊。二十三日横川泊。二十四日帰郷申し候
咄(話)にての向うのこと不残僞にて、影形も無之空しき話なり
(※註 世の人情には変わりはない。若しやと思って尋ねても手掛りとてもなく全く空しい…)

--参考文献;塩原町誌--



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