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2013.10/31(THU)

沖長三郎墓 siobara 妙雲寺




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沖 長三郎
 幕兵或いは草風隊士であったらしい/慶応四年(1868)閏四月二十三日、関谷村にて死亡(前日の板室戦で負傷?)/墓碑向左には「会津藩士」と記した石標があるが、これは何かの間違いらしく、会津藩戦死者の記録にこの名は見当たらないそうだ
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写真;2013.10/31



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2013.10/21(MON)

柴山翁之碑 西那須野
三島神社




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柴山翁之碑

従五位勲六等柴山景綱君舊鹿児島藩士通稱龍五郎父景秀稱権助有武名君其長子也仕于藩為久光公□供御徒目附等夙懐勤王之志従文久元治之交已投一身□死生之間所謂寺田屋事變之際君亦在志士之列于時藩使本意未徹□志士将有龍拏虎摶両雄倶斃之禍頼君之力乃得未至大事而罷元治元年長兵犯□君帥藩兵與條原国幹桐野利秋等馳赴公家御門奮戰破賊禁闕以安既而維新業□君即釋戎衣歸耕郷里明治五年陸軍大将西郷隆盛薦君入陸軍省亡幾以病辭歸後出仕警視廰累官一等大警部迨十年役起自□以病故不能従軍乃辭官尋歴任山形福島両縣郡長開道路修官衙建学校勧民業皆有茂績馬而其間□捐私資以助公事至家産為傾而不顧十九年復入警視廰任二等警視輔佐總監三島通庸有功労二十三年調御料局技師度會事務所長二十五年致仕閒居小田原越至三十一年五月子爵三島彌太郎請君董三島村開墾事業君受任謁誠孜孜従事一如在官時居十数載事功大舉村民悦服尤留意教化常説村民以忠孝□義諄諄不已愛撫村民有如親子君少嗜讀書逮老不衰雅言朝聞道夕死可也家居毎□□史手不釋巻所編著之書積有百餘巻其好學精励大率如此四十四年九月六日以病歿于三島村距其生天保六年十一月十一日享年七十有七先是病篤事聞朝廷特進位一級及歿又賜祭粢料若干嗚呼君維新勤王之功有不譲彼元勲者不幸多病不能終宦而君資性廉潔不屑求名利窮居夷然不攺其樂是其人可以表矣况□吾三島村實為有大造之恩人孰忍其躬歿功名不傳以陥吾民乎不義哉□是有志者胥謀建碑勒文以圖 不朽銘曰
     那須之山厥石磊磈所而為碑
     銘以国士庶幾萬人景仰靡已
     海軍大将正二位勲一等功二級伯爵樺山資紀題字
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三島農場事務所跡(2012.07/27)
天皇の間記念公園(2012.08/29)



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2013.10/21(MON)

三島神社 西那須野
那須塩原市三島




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以下、現地の案内板から

三島神社

  鎮座地  那須塩原市三島五- 三三六番地
一、主祭神、豊受大神 三島大神 保食神、合祀神 開拓先人百四十二命
一、創立年代明治三十九年七月九日母智丘神社より分霊遷座
一、祝祭日 一月 一日 元旦祭
      十月十三日 例 祭
一、由緒沿革
鎮座地三島は明治十四年八月明治天皇東北御巡幸の際「那須野開墾の状を視よ」との聖旨により御名代として有栖川宮熾仁親王殿下を差し遣わされたこの時有栖川宮が親しくその状況風物を見学された所で其の後岩倉右大臣を始め顕宮の視察などあった時の県令三島通庸は開墾事業を起こすと同時に自ら母智丘の頂に一祀を建立し崇敬したので入植者も亦崇敬するに至りました
明治三十九年建立以来明治四十年十月改築がなされ明治四十二年十月本殿以下神社施設竣工、更に昭和四十七年十月十三日開墾事業開始時(明治十三年)より明治三十年に至る入植者小林熊蔵を始め百四十二命を合祀し、又昭和五十年には神輿庫の建設諸施設の修理整備がなされ三島赤田地域住民の守護神として崇敬され現在に至っています
一、境外神社
母智丘神社母智丘頂(赤田山頂)本神社の奥宮である
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※ 写真;2013.10/21
三島農場事務所跡(2012.07/27)



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2013.10/20(SUN)

聖観音堂 日光市上鉢石町
観音寺




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 南無観世音ととなえ願かけてお祈り下さい。
しょうかんのんどう
聖観音堂
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※ 写真;2013.10/17



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2013.10/20(SUN)

目薬師さま 日光市上鉢石町
観音寺




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以下、現地の案内板から

観音寺 薬師堂
                       めやくし
 薬師如来を本尊とする薬師堂で、地元の人から「目薬師さま」といわれ、目の病を治してくれるご利益があると信仰されてきました。
 薬師瑠璃光如来が正式な名称なので、「瑠璃殿」の額がかけられています。
 健康祈願や病気治癒の願いをこめてお参りください。
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※ 写真;2013.10/17



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2013.10/19(SAT)

向山天神 日光市匠町
浄光寺脇




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※ 写真;2013.10/17
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以下、現地の案内板から

向山天神

 この天神様は、凡そ三百四十年前にこの辺りに住んで社寺殿堂の営繕に係わっていた六職人の大工棟梁鈴木弥次右衛門をはじめ、木挽棟梁ら、十数名の人々が向山の麓にお祀りした由緒ある古祠です。
 学問の神様菅原道真公を尊ぶ天神信仰に係わるもので、寛文四年(一六六四)、まず御正躰が造られ、ついで七年(一六六七)石社が建てられました。
 以来年久しくいつしか草深い山陰に埋もれていましたが、昭和五十四年、向山に自動車道路が開発されましたのを機にゆかりの町内へ移遷、再興いたしました。
 数少ない日光の天神様として学問向上のため大方の御信心を希い願い上げます。
     平成十六年十月吉日
     匠町第一自治会
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2013.10/19(SAT)

阿弥陀如来坐像・地蔵菩薩坐像 日光市匠町
浄光寺




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以下、現地の案内板から

日光市指定文化財
石造 阿弥陀如来坐像・地蔵菩薩坐像

  種別・・ 有形文化財(建造物)
  員数・・ 三基

 通称「導地地尊」と称される尊像で二体に中世の年紀銘がある。中央の地蔵菩薩坐像(総高一八四cm)背面には「天文十九庚戌七月十日 皆成河大工」(十五五〇)と刻まれている。皆成河は現在の稲荷川のことである。左は阿弥陀如来坐像(総高一四八cm)で「文禄五年丙申六月七日」
(一五九六)とある。右は地蔵菩薩坐像(総高一四〇cm)で「寛永十三丙十一月日」とあり近世の建立である。
 中世の坐像は肩が極端になで肩であり、腰幅と膝幅には大きな差が認められず、蓮台も同じ幅で高さがある。袈裟の文様線は単純で、首部の襟ぐりが深い。近世のものと比較すると像に厚みがあり、量感にあふれるが全体的に簡素である。
 一山菩提所往生院が寛永十七年(一六四〇)にこの地に移され、浄光寺となるが、これにともなってこの基地に安置されたと考えられる。

     平成十八年三月三日指定
     日光市教育委員会
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※ 写真;2013.10/17



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2013.10/19(SAT)

防火隊碑 日光市匠町
浄光寺




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※ 写真;2013.10/17
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以下、現地の案内板から

日光市指定文化財
防火隊碑

種別・・ 史跡(旧跡)
員数・・ 一基

 承応元年(一六五二)幕府は「日光火之番」を創置き、槍奉行配下の八王子千人同心にこれを命じる。火之番は一組の編成を頭一人に同心五十人とし、二組宛五十日交代で勤務したが、
寛政三年(一七九一)からは一組で半年交代の在勤となる。そして、慶応四年(一八六八)まで二百十余年間、山内の巡察警火を勤める。ことに、焼失家屋七百戸余といわれる貞享元年(一六八四)の大火災や、文化九年(一八一二)の大楽院炎上の際などの消火活動に当たった。
 承応元年から文化十一年(一八一四)までに当地において客死した十名の供養が在勤頭の原胤敦(半左衛門)によって行われ、天保五年(一八四三)にいたって在勤頭の山本金右衛門が、同志の協力を得てこの碑を建てた。
 この縁から、八王子市と旧日光市は昭和四十九年に姉妹都市の盟約を結んでいる。

     昭和四十二年二月十五日指定
     日光市教育委員会
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八王子千人同心顕彰之燈(2013.04/01)



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2013.10/18(FRI)

小花和(おばなわ)重太郎の墓 日光市匠町・浄光寺(蕎麦処「たくみ庵」附近)





ちくう
竹塢君之墓

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      ちくう
 墓碑には「竹塢君之墓」とのみ刻まれている
 幕臣小花和(おばなわ)重太郎の墓。幕府歩兵第七連隊に所属し、指図役頭取であった
     *
慶応 4年(1868)
・ 4月22日
 安塚の戦で腹部に重傷を負う
壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
・  23日
 宇都宮に送られたが手当ての甲斐なく死亡した。遺体は弟の歩兵頭米田桂次郎(立石斧次郎)が背負って運び、今市で荼毘に付され、27日ここ浄光寺に葬られたという。享年二十九
     *
※ 米田桂次郎(立石斧次郎・たていしおのじろう)1843-1917
 幕末から明治時代の通訳である。天保14年9月16日生まれ。オランダ通詞立石得十郎の養子となって、安政7年遣米使節に随行し、現地ではトミーの愛称で大歓迎をうけた。文久3年幕臣となり、慶応4年戊辰戦争では実兄小花和重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に加わる。兄重太郎は宇都宮で戦死したが、この後桂次郎は大鳥圭介と共に仙台へ脱出、大鳥は箱館へ、桂次郎は武器調達のためフランス船で上海に渡った
 維新後は長野桂次郎と改名し岩倉使節団に参加。ハワイ移民監督官、大阪控訴院通訳官などをつとめた
 大正 6年 1月13日没。75歳

※ よく知られる珍しい写真の1枚「ビールを酌み交わす姿を写した最初で最後のサムライ」で、この兄弟の笑顔を見た
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浄光寺
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以下現地の案内板から

かんげんさんみょうかくいんじょうこうじ
還源山妙覚院浄光寺

 浄光寺には、一二〇〇年を越す歴史がある。日光開山の祖勝道上人が日光一山の菩提寺として、仏岩(山内)に住生院を創設した。これが浄光寺の起源である。
 延応二年(一二四〇)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永十七年(一六四〇)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。本堂は、昭和四十八年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊坐像。
 本堂には、鎌倉時代の青石の板碑があり、弘法大師真筆と伝えられる「妙覚門」の額が掲げられているが、これも往生院との繋がりを示すものである。境内にもこの寺の長い歴史を物語る史跡が数多くある。
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※ 写真;2013.10/17

--参考文献;幕末偉人伝(無名の偉人たち)http://konn3563.seesaa.net/ --



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2013.10/17(THU)

大鳥軍参謀柿澤勇記墓 日光市上鉢石町1003・観音寺




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写真;2013.10/17
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現地の案内標柱〈戊辰戦争隊士の墓〉に
「会津藩士で大鳥軍参謀の柿沢勇記重任の墓、慶応四年(一八六八)四月二十三日、宇都宮の戦いで□□を□□(重傷を負い)同二十七日、日光和泉屋金右衛門宅で死亡した。三十六才であった」
  日光市教育委員会
とある
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 柿沢勇記信任 大鳥圭介軍に属し参謀/変名森三之丞/明治元年四月二十三日下野壬生(宇都宮とも)で傷、二十七日日光で死/三十六歳/日光・観音寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)
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以下、現地の案内板から


はっせきざん むりょうじゅいん かんのんじ
鉢石山 無量寿院 観音寺

 当寺は、弘仁11年(820)、弘法大師空海の開基と伝えられ、山門右手の石段を上った見晴らしの良い山上に、大師自刻の千手観音を祀った観音堂がある。中世には、栄蔵坊という名の真言密教の道場として、山下に六宇の支坊(宝珠院・円長坊・真乗坊・守藏坊・安養坊・宝藏坊)を擁し、「坂本」とよばれる町並みも形成された。永正6年(1509)に来た連歌師宗長は、紀行文『東路のつと』に、「坂本の人家は数を分ず続きて福地と見ゆ 京・鎌倉の町有て市の如し」と記している。
 しかし戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めにそむいた日光山が、寺領を没収されて衰退し、当寺も六つの支坊が宝珠院・宝蔵院の二坊に減じた。
 元和3年(1617)、東照宮の鎮座によって鉢石町付近は日光街道の終着宿として繁栄にむかい、当寺も鉢石宿の香華院として復興。寛永4年(1627)、天海大僧正から「鉢石山無量寿院観音寺」の三号を賜って天台宗に改宗、日光山輪王寺の直末となった。以後住職が定住して現在にいたるが、貞享元年(1684)・弘化3年(1846)二回にわたって罹災し、現在の本堂は弘化4年(1847)再建のもので、本尊は阿弥陀如来坐像。
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