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2013.09/29(SUN)

八幡神社 北茨城市平潟
新政府軍、平潟に上陸




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八幡神社

平潟町の洞門をぬけると山腹に八幡神社があり、巨木が鬱蒼と茂り、海面上より高さ約50Mの断崖絶壁をなす。境内の芭蕉翁句碑の一首は絶景を物語る。(北茨城観光リーフレット)
※ 写真;神社の裏手、絶壁にあり・2013.09/27
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※ 写真;八幡神社拝殿・2013.09/27
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2013.09/27(FRI)

新政府軍、平潟に上陸 北茨城市
慶応四年六月




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平成25年(2013)
・ 9月27日
 平潟港(北茨城市)を見に行く。途中、いわき・ら・ら・ミュウで昼食(おすゝめ握り、1300円)後、勿来を経て着く。晴れて風も無く気持ちの良い日だ
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慶応 4年(1868)
・6月
 関東をほゞ制圧した新政府軍は諸藩から派遣された兵力を東北討伐に向けることになる。奥羽追討総督には参謀正親町公董(おおぎまちきんただ)、参謀補助には木梨準一郎、補佐には下参謀渡辺清左衛門をあて、海路平潟に向かわせることにした      
・6月16日 薩摩藩兵(一二番隊・私領一番隊・私領二番隊)、大村藩兵(銃砲隊と砲一門)、佐土原藩兵(一番・二番の二銃隊と一番砲隊)が平潟に着くと、以降..
・  20日 柳川藩兵、備前岡山藩兵
・  29日 笠間藩兵(四小隊と砲一門)
・7月 3日 参謀河田景与に印旛藩(六小隊)、備前岡山藩、大和郡山藩
・   9日 薩摩藩三隊と三番砲隊
      印旛藩十四小隊、砲二隊と砲五門が小名浜に到着
 こうして平潟に上陸した新政府軍と東北諸藩の兵士とが真っ向から対峙し、いよいよ決戦の時がせまった
     *
--参考文献;戊辰戦争全史(下)・菊地明/伊東成郎編 p.17 小桧山六郎--
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以下、北原亞以子/講談社文庫「歳三からの伝言」から引用
p.268
慶応 4年(1868)
・6月
 六月二十四日、棚倉城を落とした新政府軍は、大挙して白河へ向っている。平潟に上陸し、勿来関を越えると、泉、湯長谷(ゆながや)、平などの小藩がつづいて、平潟には仙台藩兵が、平付近には箱根の戦さで敗れた上総の請西藩主林忠崇(はやしただたか)や、もと京都見廻組の人見勝太郎が守りについていた。が、新政府軍はやすやすと平潟に上陸し、六月二十八日に泉二万石の館を、二十九日に湯長谷一万五千石の館をぬいた。平藩は湯長谷から押寄せた新政府軍を二度までも撃退、意気はおおいに上がっていると聞くが、新政府の兵は、続々と平潟に上陸しているという。
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平潟港
絶景の名勝地で、東に薬師堂、西に八幡神社が相向い、湾内は波静かで、まるで鏡の様に奇岩や草木を映し出しています。またこのあたりはアワビ・ウニの産地で、新鮮な魚と共に観光客の舌鼓を打たせています。小名の岬は東北に曲線を画いていて海岸を抱いています。(北茨城観光リーフレット)

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2013.09/22(SUN)

会津西街道横川宿附近




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境界杭(横川宿附近)
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 おそらく、旧会津西街道の境界に設置された新しい杭なのだろう
※ 写真;2013.09/22
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「山王峠」(2013.07/12)



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2013.09/19(THU)

一ノ堰の戦い戦死者墓碑 会津若松市門田町大字一ノ堰字村西 500
光明寺




一ノ堰の戦い(2013.09/11)

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伊与田図書墓
「秋□院明元恵忠清居士」

・伊与田図書  四百石/玄武士中組中隊長/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/四十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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写真左から
 □ 山本権八墓
 □ 有賀九左衛門墓
 □ 伊与田図書墓
 □ 田原重義(与五左衛門?)墓
 より左に「会津藩家老一之瀬要人墓」がある
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※ 写真;2013.09/11



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2013.09/16(MON)

乃木神社(那須野)例祭 西那須野
平成25年 9月13日




乃木神社例祭(2012.09/13)
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平成25年(2013)
・ 9月13日
 御祭神乃木将軍御夫妻の命日にあたるこの日、年に一度の最も重要な祭典「乃木神社例祭」が斎行される
 午前 9時30分頃に着いたのだが..
 昨年の例祭は10時30分からで今年もおそらくは同時刻からなのであろうと思い、都合があって写真も撮らずに退去した
※ 写真(2012.09/19)は「静沼」
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2013.09/13(FRI)

高瀬の大木(ケヤキ) 会津若松市神指町
神指城跡二ノ丸




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写真;2013.09/11
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以下、現地の案内板から

国指定天然記念物 文部省告示第二十三号
           昭和十六年一月二十七日指定
高瀬の大木(ケヤキ)
   会津若松市神指町大字高瀬字五百地

 慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある
 築城前から既に大木であったことが知られ…
   根元の周囲  12.55メートル
   目通りの幹囲 10.45メートル
   樹高     24.64メートル
 大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである

     昭和五十六年十一月 会津若松市教育委員会
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八幡の大ケヤキ(2013.07/28)



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2013.09/13(FRI)

中野竹子殉節之地 会津若松市神指町




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写真;2013.09/11
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--以下、現地の案内板から--
史跡 中野竹子奮戦の地
   会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原甲一〇一六/一〇一七/一〇一八

 明治戊辰(一八六八)の役で、西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が通っていた
 八月二十三日には、中野竹子・優子の姉妹を中心とした婦女子隊は坂下まで出陣したが、八月二十五日には、婦人の従軍が許されたので、黒髪を断ち、薙刀をかかえ、衝鋒隊に加わり、城下にせまる長州・大垣藩の兵士とここで遭遇し、激しい戦いが展開された
  竹子は辞世の

 武士の猛き心にくらぶれば
  数には入らぬ我が身ながらも

と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけ奮戦したが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげた。時に二十二歳であった
 墓は会津坂下町の法界寺にある
     昭和五十七年十一月/会津若松市教育委員会
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中野竹子の墓(2013.08/15)



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2013.09/13(FRI)

神指城跡 会津若松市神指町
こうざしじょう




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※ 写真;二ノ丸土塁北東隅、高瀬の大けやき(2013.09/11)
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以下、現地の案内板から

神指城跡

 神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて築城させた城です。
 慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
 面積は、本丸だけでも約56,000㎡、二ノ丸を含む全域では約500,000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の壮大な城でした。この土地は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。
 この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地として適していたためと考えられます。
 しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は中断されます。そして、関が原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
 このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
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慶応 4年(1868)
・ 9月
 新選組斉藤一(山口次郎)率いる十九名が二ノ丸如来堂附近に居たとき、若松に進攻した新政府軍に取り囲まれて壮絶な戦闘となった。この戦闘で新選組兵士ら会津勢十三名が戦死し、斉藤一ら六名は脱出したという
     *
※ 如来堂;二ノ丸土塁西南隅
※ 明治と改元するのは 9月 8日からだが 1月に遡って明治とするとあり..
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以下、本丸跡にあった説明チラシから

神指城本丸址(輪郭形の平城)
総面積 約166,386坪(55ヘクタール)

□ 二ノ丸土塁
   東西   五丁二十間(約 581m) 南北  四丁五十間(約 526m)[諸説あり]
   塁址(幅)    九丈(約 27m) 高さ   五丈五尺(約18.15m)
 外壕
   幅(広さ)   三十間(約 54m) 水深   一丈以上(約3m以上)
城門 石垣 四方に虎口を築き橋で渡る。外壕の水は応湖川及び大川(阿賀川)より引き込む。高瀬の大木(欅・昭和16年・国指定天然記念物)樹齢は推定で九百年~千年と見られる。直江兼続はこの欅と北極星で基点を決め、提灯測量で城の縄張り(設計)をしたと伝えられる。

□ 本丸の石垣
   東西   二丁四十間(約 290m) 南北  二丁五十間(約 308m)[諸説あり]
   塁址(幅)    十間(約 18m) 高さ   六丈五尺(約 19.5m)
 内濠
   幅(広さ)  三十二間(約57.6m) 水深   一丈以上(約3m以上)
城門 石垣 東・西・北に門と虎口を築き橋で渡る。内壕の水は主に大川(阿賀川)より引き込む。兼続の構想では、西口門濠から高瀬舟で大川を塩川の川湊に下り、帆掛船で阿賀野川を下り日本海に出る事が出来る。政治・経済を図り百二十万石の城下町を築き、諸国との交易を考えたという。

□ 築城(省略)
□ 廃城(省略)
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2013.09/12(THU)

一ノ堰の六地蔵 会津若松市一ノ堰




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写真;2013.09/11
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以下、現地の案内板から

一ノ堰萩の原六地蔵尊
会津若松市門田町一ノ堰にある地蔵尊。別名、一ノ堰の六地蔵。

 寛治4年(1090)6月、当村山田近右衛門が草刈の最中、萩株より一寸八分の黄金の地蔵尊を発見し、自宅の持仏堂に安置した。
 その22年後の天永3年(1112)大川が大洪水を起こした際、外から名を呼ぶ者があったので近右衛門が表に出てみると、そこには洪水によって流されてきていた大木があった。近右衛門の夢枕に地蔵尊が立って「あれは霊木である。あの霊木をもって6体の我が像を刻み、安置せよ」というお告げがあったのは、その晩のことである。
 さっそく近右衛門は6体の地蔵尊を刻み、お堂に安置して供養した。以来、人々はこの地蔵尊を「萩之原の六地蔵」と呼んで尊崇すること非常に篤いものがあったという。
 しかし寛永20年(1643)春にお堂が炎上してしまい、いそぎ再建はされたものの、非常に粗末なものとなってしまった。
 元禄12年(1699)、朽ちかけていた堂を見てこれを憂えた向誉上人が発願主となり、10年の歳月を経た宝永5年(1708)に入仏供養が行われて再建が成った。現在に残る方6間の堂がこれである。
 さらに大正14年(1925)には鞘堂が増築されて瓦葺となっている。

 8月23日・24日を縁日とし、安産・子育て・産土の仏様として地元の信仰を集めている。
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2013.09/11(WED)

一ノ堰の戦い 会津若松市門田町一ノ堰
光明寺の墓石




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平成25年(2013)
・ 9月11日
 南会津町、糸沢の「まんまパン」で、特に"ずんだあんパン"を買おうと出掛けたのだが、何故だか閉まっていて買えず。止む無くそのまま北上して会津若松一ノ堰あたりを目指す
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以下、現地の案内板から

戊辰戦争一ノ堰の戦いとは

 戊辰戦争終結直前である慶応4年9月中旬、ここ一ノ堰を中心として、小山田・青木・御山・堤沢・面川・雨屋・新村・中野・井出・徳久・羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していた
 旧暦9月15日と9月17日の2回にわたる激戦がこの一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出すことになる
 参加隊
 ・西軍 前戦い(9/15);薩摩外城二番隊、七番隊、佐土原□隊、長州兵、報国隊、小倉隊、宇都宮兵等
     後戦い(9/17);薩摩兵、佐土原兵、米沢兵、安芸兵、新発田兵

 ・東軍(会津軍)前戦い(9/15);後戦い(9/17);
     朱雀士中四番隊(町野隊)、朱雀寄合二番隊(西郷隊)、清龍士中三番隊(木本隊)、玄武士中隊(伊与田隊)、同寄合望月隊
     白虎寄合一番隊(原隊)、外結義隊の諸隊が主力部隊

 二回にわたる激戦で、東西両軍に多くの犠牲者を出したが、東軍(会津軍)の兵士の遺体は、そのまま放置されていた。これは、賊軍会津の兵士の遺体を埋葬することを禁じたためである。その後、現在の供養碑は、明治2年になってから、戦死した会津兵の遺体を収集し、光明寺境内に供養されたものである
 一ノ堰の戦いで戦死した会津兵は、67人とされているが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人である。残りの19人の埋葬先は未だに不明である


一ノ堰の戦い戦死者墓碑

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〈会津藩家老一之瀬要人墓〉
 会津藩家老で千三百石取/戊辰戦争では越後方面の総督となり、各地に転戦し、徳久村の戦いで傷を負い、22日に死亡/会津藩家老では唯一の戦死者/享年37歳

・一之瀬要人  千百五十石、家老/越後方面総督として転戦/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十二日桑原村病院で死/三十七歳/一関・光明寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈山本権八墓〉
 玄武隊に参加しており、山本覚馬、八重子の父/9月17日一ノ堰にて戦死/享年61歳

・山本権八  覚馬(のち京都府会議長)の父/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/六十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈会津藩士玄武隊有賀九左衛門墓〉
 玄武隊に参加、9月17日一ノ堰にて戦死/享年56歳

・有賀九左衛門 九次郎父/百五十石/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/五十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


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〈会津藩士田原重義墓〉
 与五左衛門?/玄武隊伊与田隊に参加、田原四郎父/9月17日一ノ堰の戦いで戦死/享年44歳

・田原与五左衛門 与五右衛門とも/直之助父/百石/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 写真;2013.09/11



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