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2013.08/31(SAT)

自刃の碑 二本松
二本松城址




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写真;本丸天守台下、2013.08/27

以下、現地の案内板から

丹羽和左衛門(六十六歳/城代)
安倍井又之丞(六十五歳/勘定奉行)自刃の碑

 当碑は、慶応四年(一八六八)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自刃(割腹)した両人の供養碑です。
 丹羽の自刃の様子は、床几(腰掛け)に腰をおろし、軍扇(ぐんせん)を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。
 当初この碑は天守台の中央奥に建っていましたが、平成七年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、当所に移設しました。

※ 丹羽和左衛門(にわわざえもん)・安倍井又之丞(あべいまたのじょう)
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二本松藩士自尽の地
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写真;2013.08/27

以下、現地の案内板から

二本松藩士自尽の地
 慶応四年(一八六八)戊辰戦争において、薩摩・長州・土佐藩兵を主力とした西軍約七千名に対して、応援兵を合わせても兵力約千名の二本松藩は各所で戦いを繰り広げ、七月二十九日ついに城下・城内の戦いとなり正午頃二本松城は炎上し、落城しました。
 二本松藩の戦死者二百八名以上という戊辰戦争中最大の壮烈な戦いでした。
 ここでは、主戦論者であった家老・丹羽一学(にわいちがく)、城代・服部久左衛門(はっとりきゅうざえもん)、小城代・丹羽新十郎(にわしんじゅうろう)の三名が責任をとり自尽(割腹)し、壮絶な最期を遂げました。
     二本松市
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二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)



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2013.08/31(SAT)

二本松城、落城する 二本松
慶応 4年(1868) 7月29日




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写真;二本松城本丸と東櫓台、2013.08/27
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二本松城、落城する

慶応 4年(1868)
・ 7月26日
 守山藩の列藩同盟からの離脱・降伏に続き、三春藩も降伏開城した。この日、板垣退助の率いる新政府軍は三春城に入城した
・  27日
 平方面から進攻した渡辺清左衛門(参謀、大村藩士)率いる一軍が三春城に入る。いよいよ新政府軍は二本松攻略に向け進攻することとなるが、まず軍を二手に分けた。渡辺軍は三春藩を先導に小浜へ、板垣軍は本宮へ向けて夫々進攻した
 板垣軍
  先鋒 忍藩一小隊・黒羽藩三小隊と砲二門
  本隊 土佐藩三小隊と砲隊・三春藩一小隊・大垣藩二小隊・館林藩一小隊半と砲二門・彦根藩二小隊
〈遡って〉
・  26日夜
 板垣軍の一部である薩摩二、四、六番隊・土佐の二個小隊が板垣に無断で出撃した
・  27日
 払暁、糠沢村上之内の二本松兵を奇襲攻撃
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      【薩摩】              【二本松勢】
  隊長  薩摩四番隊長 川村与十郎(純義)  二小隊 樽井弥五左衛門
      〃 六番隊長 野津 七次(道貫)
  兵力  数百名               百三十~二百余名
  損害                    死傷者 凡六十名
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 この奇襲攻撃で間道を通った土佐二個小隊は戦闘に間に合わず。また軍を進めた板垣軍が阿武隈川をはさんだ本宮の対岸、高木村辺に着くがここに二本松兵の姿は無かった
 一方、二本松軍にすれば、新政府軍に本宮を占拠されれば手薄な二本松城は危機に瀕するため、郡山布陣の大谷鳴海隊二個小隊は本宮に移動していたが、板垣軍の進撃を知った血気の若侍たちはこれを迎撃せんと本宮対岸に舟で渡り、忍・黒羽の新政府軍兵を味方の樽井隊と見誤って近づき、至近距離から散弾砲をあびて四散した。しかも舟は本宮側に引き上げられており、追撃を受けて多くの溺死者を出した
 本宮の対岸に到着した板垣軍本隊も同様、本宮へ渡るにも舟は無く川を挟んだ銃撃戦が続いた。しかし、兵の過多と銃火器等の優劣もあり二本松勢は城方面へと退却した
・  28日
 郡山から進攻した仙台藩を主力の同盟軍、本宮奪還戦を試みるが失敗
 〈ところで〉
  二本松軍の総兵員   およそ 2300名
  うち郡山・須賀川方面     1400〃
  二本松             900〃(うち 500名は城下各部署に配備) 
 同盟軍の仙台・会津などの援軍を合わせてもせいぜい1000名ほどの兵力で新政府軍を迎え撃つことになるのである
・  29日
 本宮の板垣軍は 大壇(おおだん)口から
 小浜の渡辺軍は 供中(ぐちゅう)口から
 それぞれ二本松城下へ向けて進撃した。このとき大壇口の守備は二本松の丹羽右近隊、このなかには木村銃太郎(22歳)を隊長とする少年隊が入っていたのである
 > 板垣軍、尼子台で二本松の小川平助隊を撃破
 > 板垣軍、大壇口の丹羽右近隊と激しい銃撃戦(丹羽右近隊、供中口破られるの報に退却)
 > 渡辺軍、供中口を破る
 > 渡辺軍、城下各地で激しい戦闘後二本松城に突入した
 さて、藩主丹羽長国とその家族を米沢へ落とした二本松城内では重臣たちが最期を迎える。あくまでも降伏開城を拒み、大城代内藤四郎兵衛(正置)の指図により城に火が放たれた
 [自刃]
 家老丹羽一学(富穀/とみよし)
 郡代丹羽新十郎(正名/まさな)
 城代服部久左衛門(保定)
 城代丹羽和左衛門(弘道)
 勘定奉行安部井又之丞(良明)
 [討死]
 大城代内藤四郎兵衛(正置)
※ 自刃は降伏に等しいとし、城門を開いて敵陣のなかに斬りこみ壮烈な討死を遂げた
・ 9月 4日
 二本松藩主丹羽長国、帰順降伏の使者を送る
※ 藩主丹羽長国の正室・久子は美濃大垣藩九代藩主戸田氏正の二女であり、戊辰時の大垣藩主戸田氏共とは姉弟である。氏共は密使を二本松藩に送るなどして恭順、降伏を勧めていたであろうが、結果は姉と義兄に敵対して戦うこととなったのである

--参考文献;「戊辰戦争全史」菊地明/伊東成郎編--



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2013.08/31(SAT)

二本松少年隊 二本松
二本松城址



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以下、現地の案内板から

二本松少年隊

 慶応四年(一八六八)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣、七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
 この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
 なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
     二本松市
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二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)



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2013.08/31(SAT)

霞ケ城の傘マツ 二本松市
二本松城址




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写真;2013.08/27

二本松市指定天然記念物
一、名称 霞ケ城の傘マツ
 "八千代の松"といわれるアカマツの巨木で、根元周囲三.〇メートル、目通り幹囲三.九メートル、樹高約四.五メートルあり、地上一.六メートルで三枝している。南の支幹は枯死し、中央の支幹は周囲二.二メートル、北の支幹は一.五メートルあり、東西に一四メートルで傘状に広がっている。
 推定樹齢三〇〇年といわれ、樹勢も旺盛であり、独特の形状を呈している。
     昭和五十一年七月二十一日指定
     二本松市教育委員会
--現地の案内板から--



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2013.08/30(FRI)

霞ケ城公園[二本松城址]二本松
かすみがじょう




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写真;2013.08/27
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以下、現地の案内板から

かすみがじょうこうえん にほんまつじょうし
霞ケ城公園[二本松城址]

 二本松城は、室町中期に奥州探題(たんだい)を命じられた畠山満泰(はたけやまみつやす)が築城し、以後畠山氏歴代の居城として百四十年余り続き、天正十四年(一五八六)伊達政宗(だてまさむね)の執拗な攻撃により落城しました。豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)の重要な支城として、中通り(仙道・せんどう)警備の任を与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めました。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。
 寛永二十年(一六四三)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重(にわみつしげ)公が十万七百石で入城し、幕末まで丹羽氏十代の居城として二百二十余年続きました。しかし、慶応四年(一八六八)戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、七月二十九日に落城しました。
 明治から大正末年までは民間製糸工場として活用が図られ、その後は公園として開放され、春は桜花が全山を包み、ツツジ・フジが彩りを競い、夏は緑したたる庭池、秋は菊人形と紅葉が錦を織りなし、冬は老松にかかる雪景の風情は、市民の憩いの場として、また多くの来園者が訪れています。なお、本丸は平成三年の発掘調査を契機に石垣の修築・復元工事が行われ、平成七年に完成しました。
     二本松市
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2013.08/29(THU)

洗心亭 二本松
二本松城跡




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写真;2013.08/27
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以下、現地の案内板から

福島県指定重要文化財
洗心亭   一棟
     平成十六年三月二十三日 指定
 二本松城跡南西寄り、霞ケ池西畔の丘腹に東面して建つ茶亭である。桁行五間、梁間二間、浅い床と天地付の棚および簡素な平書院を飾る北端の上座敷から中座敷・下座敷を一文字型に並べて配し、東面から北面にかけて幅二尺の榑縁を外縁式に折り回す。柱や土壁・建具等をはじめ、軒天井や垂木などに至るまで、すべて数寄屋風の手法が採用されている。
 建立や沿革は、明治四〇年(一九〇七)旧二本松藩士安部井磐根の執筆による「洗心亭記」が残され、これによると前身は城内に建立された茶亭のうちの一棟「墨絵の御茶屋」で、天保八年(一八三七)背方の崖崩れにより阿武隈川畔地蔵河原に移築され、藩主の釣茶屋として利用されていたものであるという。明治維新後、旧藩士の授産などに従事していた山田脩に旧藩主から譲渡され、明治四〇年、城跡内の現在地(ほぼ旧所在地と推定)に再移築された。二本松市歴史資料館所蔵『安井時僚覚書』によれば、延宝七年(一六七九)にはその存在が知られているため、創建は一七世紀中葉ぐらいであったと推定される。
 大名による茶屋(茶室)の県下における数少ない遺構の一つとして重要である。
     二本松市教育委員会
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2013.08/28(WED)

箕輪門 二本松
二本松城跡




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写真;2013.08/27

箕輪門

 箕輪門は二本松城=霞が城の正門にあたり 江戸初期城主丹羽光重の建造である
 城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がある
 聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は十万石大名の威容を示していた
 戊辰戦争によって灰燼と帰したが再建の声高まり年余の歳月と二億円を投じて昭和五十七年八月に完成をみた
     二本松市
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2013.08/28(WED)

二本松城跡 二本松
本丸下南面大石垣




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平成25年(2013)
・ 8月27日
 二本松城跡を見て帰途、猪苗代で土津神社に..
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写真;2013.08/27

以下、現地の案内板から

本丸下南面大石垣

 二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつです。築石(つきいし)は野面石(のづらいし、自然石)と荒割(あらわり)石が用いられ、その積み方は古式の『穴太積(あのうづみ)』と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニックです。
 大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか”横目地(よこめじ)”の通らない、いわゆる「布積み崩し(ぬのづみくずし)」の積み方です。
 勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を主体に構築されています。天端(てんば)付近は数段高い石垣であったと考えられます。
 二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷(がもううじさと)に抱えられた城郭(じょうかく)石積み技術者集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって築かれた石垣です。

石垣規模
 [幅 ]現天端部;約15m
     基 底 部;約21m
 [高さ]約13m [ノリ長]約17m
 [勾配]約 8分 4厘(約50度)

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2013.08/27(TUE)

土津神社 猪苗代町
はにつじんじゃ




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平成25年(2013)
・ 8月27日
 二本松城跡を見て帰途、猪苗代で土津神社に..
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※ ↓拝殿、2013.08/27
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保科正之公御鎮座
国指定史跡 会津藩主松平家墓所

土津神社々記抄

  土津神社社務所
  電話(0242)62-2160
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※ ↓會津中将源君之墓、2013.08/27
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国指定史跡 会津藩主松平家墓所
見禰山御社々記抄

一、鎮座地  福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山
一、神社名  土津神社
一、祭 神  会津藩主松平氏の祖保科正之
   相殿  三代藩主~九代藩主

一、由 緒
 土津神社の御祭神である土津霊神・保科正之公は、二代将軍徳川秀忠の第四子、三代将軍家光の弟で、高遠藩藩主・保科正光の養子であり、寛永二十年(一六四三)会津に封ぜられ会津松平家の始祖となった。
 晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足(きっかわこれたる)を師として専ら卜部家(うらべけ)神道の伝を学び、道の奥義を極められた。
 寛文十一年(一六七一)公は惟足から霊号を『土津』と奉られた。土津の意は、惟足によると、土(つち、はに)は宇宙構成要素の根本であり、万物の始めと終わりであり、信実の主体である。その道理を公は体得された。また公は会津の領主であるから「津」の字に無関係ではない。故にこの二つから「土津」と申し上げたといっている。言い換えれば、宇宙の万理を究められた会津藩主の意といってもよいのである。
 公はこの時、『余の没後は神道の礼をもって磐椅(いわはし)神社の神地に葬ってもらいたい』という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経(まさつね)公に伝えさせた。
 寛文十二年(一六七二)八月二十一日、公は自ら猪苗代に参られ見禰山に登って墓地を定め、『我が身はここに納めてくれ。』と家臣に命じられた。そして『万代と祝ひに来にけり会津山高天の原にすみかもとめて』と詠まれた。惟足はかたわらにあって、御歌に応えて『君ここに千歳の後のすみところ二葉の松は雲をしのがん』と詠じた。公はことのほか感じ入られて、帰城された。
 帰途公はこの年没した大老田中正玄の墓に立寄られた。
 同年(一六七二)十二月十六日、江戸に戻られた公は容態すぐれず、老臣・友松氏興(うじおき)を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役として後のことを託された。同月十八日霊神ご逝去。そこで、友松氏興は公の遺命とおり神道の礼を尽くして見禰山に葬り、惟足を招いて葬事を行わせた。
 延宝元年(一六七三)、神祇官領長(しんぎかんれいちょう)・吉田兼連(かねつら)がご神体を奉じて仮殿に安置した。この時より、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝三年(一六七五)八月十九日竣工。同二十三日正遷宮(せいせんぐう)の式を行い、ご神体を正殿に安置し、磐椅神社の末社とした。
 土津神社は、神殿・回廊など奥日光又は東北の日光といわれるほど荘厳壮麗であったが、明治の戊辰の兵火で、神殿がことごとく焼失した。今の社殿は明治十三年(一八八〇)七月の造営に成るものである。

一、奥の院(正之公奥都城)  猪苗代指定文化財
一、土津霊神之碑  猪苗代指定文化財
一、御神宝  旧国宝太刀吉房県指定文化財太刀画像等
一、境内社  八社(岩彦、信彦、久彦、幸彦、石彦、忠彦、進功霊社、五社神社)
一、祭 日  春季大祭 五月三日
     秋季大祭 九月二十一日 もみじ祭 十月末日
     御祥忌祭 十二月十八日
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※ ↓土津霊神之碑、2013.08/27
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以下、現地の案内板から

町指定重要文化財(美術工芸品)
土津神社霊神之碑
     昭和六十年三月二十八日指定

 会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が撰文し、字数は一九四三、筆者は当時第一等の能筆家土佐左兵衛高庸である。
 神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野(河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
 伝説によると、初め亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出だしてしまった。そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
 亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。

     猪苗代町教育委員会
     平成八年二月設置


(碑文)
土津霊神碑

  土津者 東照大權現之孫源中将之霊號也霊神諱正之小字幸松 台徳院秀忠公之子 大猷院家
  光公之弟 大将軍家綱公之叔父母神尾氏慶長十六年辛亥夏五月七日生於江府焉七□ 台命信
  州高遠城主従五位肥後守源姓保科氏正光為義父弱冠義父卒任肥後守賜為清刀入高遠寛永九年
  壬申冬□叙従四位下甲戌之秋 家光公上洛霊神扈従七月十八日 公參内是日霊神任侍従拝
 皇帝 太上皇賜天盃丙子之秋大増封戸移于羽州最上城賜行光刀乃入最上巡封域加□諸士更召多
  士各頒職事無大無小咸自為之戊寅之夏最上近邑白岩民将叛霊神治之驛告辛已之秋八月三日
  世子家綱公誕霊神獣光忠刀左文字小刀癸未之夏韓使来貢 公引見南殿霊神侍座秋復益封戸移
  于奥州會津城正保二年乙酉夏任左近衛少将四月二十三日 世子元服霊神理髪獣来國光刀于
  公獣守家太刀行光刀于 世子 公賜長光刀 世子賜将監長光刀賜御盃秋叙従四位上冬十一月
 天子特贈□翰宮額於 大權現 勅使格于日光山霊神登山攝 御事慶安四年辛卯夏四月二十日
  公大漸召霊神於寝□託 世子而薨霊神常在府佐之秋 家綱公任内府拝大将軍 勅使来霊神登
  城承應二年癸巳秋 公任右府 勅使来霊神登城 公命謝上使霊神興副使侍従今川範英上京師
  冬十月十日參内拝
 帝 公事畢私覿賜天盃 仙洞 新院 女院如前儀□謁関白太閤亦會之反太閤関白送之十三日
  勅答賜天盃而退則任中将賜太刀乃辭官拝賜而出 仙洞勅答賜仙盃賜太刀 新院勅答如前式是

※ 正面のみ



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2013.08/22(THU)

天屋・本名 会津坂下
てんや・ほんな




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以下、現地の案内板から(写真も)
          あい  しゅくてんや  ほんな
旧越後街道間の宿天屋・本名
 天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
 明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。
     束松峠を護る会
     会津坂下町教育委員会
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