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2013.07/30(TUE)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月28日




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平成25年(2013)
・ 7月26日
 大内宿で「美濃屋」を見たあと、市川峠方面が見渡せる場所を探したのだが見つからず、写真は撮れないでしまった
 代わりに地図上でイザベラの辿った道を推測してみた(機会があれば再度行って見たい)
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p.220 手に負えない早駆け
   噴火口のような凹地にある大宅(おおやけ)沼という小さな美しい湖の畔を通ったのち、市川峠に至る長々と続く大変な峠道を上っていった。すごい馬の旅だった。私たちは皮肉にも慇懃に本街道と呼ばれている道[西会津街道]をそれ、まったくひどい山道に入ったのである。幅一フィート[三〇センチ]の起伏が波のように続く道で、深さが一フィートもの凹みがある。駄馬が他の駄馬が踏んだ跡をどうしても踏んでいくためにできた凹みである。…
--「完訳日本奥地紀行1」金坂清則、引用--

 高度730メートルの市川峠への上りはきつく、峠を越えると道は一挙に急な下りとなり、ものすごい(と書く)峡谷に入った。1.6キロほどの下りの終りの方では馬が反抗し、[手に負えない早駆け]で市川の集落に突入する。ここは背後の崖から滝が落下して集落全体が湿り気を帯びている、と書き、住民は男の数が多い〈東京でも国全体でもそうだ〉と続いて、神仏・宗教についての見聞を書いている

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※ 地図;現地図上だと大宅沼があったのは大内ダム湖の底辺りなのか
 大内宿を北上し、大内ダム辺りで会津西街道を左に別れ、大内ダムへ注ぐ蛇沢に沿って進み、市野(市川)峠を越え、市野(市川)沢に至ったのだろうか
※ 現在あるダム湖を取り巻く車道で、峠への取り付きらしい位置は
 北緯 37度21分29.2秒/東経139度52分 0.1秒 附近
 ↑国土地理院・地理閲覧サービス(ウオッちず)から

 大内(27日泊)←10.3キロ→市川←9.1キロ→高田←12.2キロ→坂下(28日泊)

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完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
小佐越(2013.07/03)
鬼怒川(2013.07/04)
藤原宿(2013.07/05)
馬の草鞋(2013.07/08)
夢のような美しさ(2013.07/08)
中三依(2013.07/08)
貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
「山王峠」(2013.07/12)
糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
田島(2013.07/16)
豊成→栄富(2013.07/16)
大内(2013.07/17)
美濃屋(2013.07/26)
手に負えない早駆け(2013.07/30)
若松平野[盆地](22013.08/08)
峯越連絡林道(2013.08/09)
高田(2013.08/11)
マラリアがはやる所(2013.08/12)
[舟橋](2013.08/14)
片門(かたかど)(2013.08/20)
束松峠(2013.11/03)



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2013.07/29(MON)

下野街道(会津西街道)
下郷町中山附近




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写真;中山附近に残る下野街道(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から

下野街道

 下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋(下野街道・米沢街道・越後街道・二本松街道・白河街道)として、幕府に報告した中の一筋で、会津若松城下から日光神領今市宿までの総延長32里(約132キロメートル)、道幅二間(約3.8メートル)の街道です。
 この街道は、会津から江戸への最短の道として、会津藩をはじめ近隣諸国藩主が参勤交代に利用し、あるいは会津藩の年間数万俵にも及ぶ廻米(かいまい)の輸送路として、政治的・経済的に重要な街道でした。
 明治17年(1884)大川沿いに現在の国道が開通します。山間を通る下野街道は、一部県道や林道となって利用されますが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかるまでに荒廃した道となっていました。
 平成7年度から実施された「歴史の道整備活用推進事業」の調査により、街道の所々には石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋の遺構などが確認され、このたび、これらの整備を図ることができました。
 遠い時代に繋がるこの道を、往時の人々はどんな思いで歩いたのでしょうか。江戸時代の鼓動を確かめる上でも、ゆっくりとこの歴史の道に足を踏み入れてはいかがでしょう。

     平成11年 3月
     文化庁・下郷町
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以下、「長寿の湧水」にあった案内板から

下野街道の概要

 下野街道という呼び名は、会津を中心にその街道の行き先の地名をつけた呼び方である。越後街道・米沢街道・二本松街道・白河街道などにならった呼び方である。会津藩では、古くは関山街道・南通り・南山通り・下野路などと呼んでいる。一方関東側からすると会津街道・会津西街道などと呼ばれる。近年では分かりやすい点から会津へ通じる西側の通り、会津西街道がよく使われている。
 下野街道は、若松城下から下野(栃木県)の今市に至る道筋である。若松大町を起点に、福永(古くは本郷)~関山~大内~倉谷~楢原~田島~川島~糸沢~横川~三依~五十里~高原~藤原~大原~高徳~大桑~今市に至る三二里(約一二八km)の道のりである。さらに越後から江戸へ向かう場合、越後街道を坂下で分かれ、高田~市野~大内で下野街道に合流する。この道筋も含めて下野街道と呼んでいる。
 天正一八年(一五九〇)四月十五日伊達正宗は、小田原参陣のため下野街道を通り小田原へ向った。しかし、北関東の不穏な情勢を知り大内まで来て引き返している。八月九日奥羽仕置のため黒川(若松)入りした豊臣秀吉は、四日間の滞在後、下野街道を通り帰京している。このことからも、街道としての道筋は早くから整備されていたと考える。
 若松と今市を結ぶ下野街道の宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通行にしばしば利用され、ある程度整備がなされていたと考えられている。しかし本格的に整備が進められるのは、寛永二〇年(一六四三)保科正之の入部からである。
 下野街道の宿駅整備は、一七世紀初めから中ごろにかけて急速に整備される。その理由に次の三点を挙げることができる。第一に参勤交代の制度化。第二に日光東照宮の造営。第三に江戸廻米の実施である。このうち日光東照宮は 藩政時代を通じ下野街道と大きな関わりを持つことになる。日光は徳川幕府の聖地となり、下野街道は北の入り口となるからである。こうした物の流れや人馬の移動が、宿駅整備を大きく進める要因となる。

     倉水区
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2013.07/28(SUN)

八幡の大ケヤキ 南会津郡下郷町大字中山




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写真;2013.07/26
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平成25年(2013)
・ 7月26日
 会津西街道を北上。中山は豊成から栄富、倉谷を過ぎて大内宿に向かう途中にある集落だが、ここに大きくて見事なケヤキがあった 
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以下、現地の案内板から

八幡の大ケヤキ(中山の大ケヤキ)
(緑の文化財登録第四〇六号)

 所在地   南会津郡下郷町大字中山字中山
 管理者   二宮 仁
 樹 齢   九五〇年
 樹 高   三六 m
 胸高周囲  一二〇〇㎝
 科 名   ニレ
 樹 種   ケヤキ

〈由来・現状〉
 このケヤキには、次のような故事がある。「天喜三年(一〇五五年)、人皇第七〇代後冷泉天皇の御代、八幡太郎義家が、陸奥の豪族安部貞任を討伐の折、険路で難渋して、中倉村の司(つかさ)二宮太郎兵衛宅に休憩した。二宮氏は手厚く歓待をして、大沼郡尾岐村に至る間道を教えたため、賊軍不意を討たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜び、謝礼のしるしに庭先にケヤキを植えた」と伝えられる。
 樹形の良さは県内屈指で、豪壮雄大王者の風格がある見事なケヤキの巨樹である。



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2013.07/26(FRI)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月27日、28日(大内)




平成25年(2013)
・ 7月26日
 イザベラが泊まった「美濃屋」さんの写真を撮ってきた
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大内宿「美濃屋」
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※ 写真;大内村肝煎阿部大五郎の大内宿「美濃屋」(2013.07/26)
「美濃屋」は、イザベラが東北での止宿先では、唯一当時に近い形で現存するものだといわれる
※ 「美濃屋」さんの縁先に
『NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場してしている会津藩九代藩主松平容保候も、明治になって日光東照宮の宮司時代に当家に立ち寄っています』
と書いた張り紙があった(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から

重要伝統的建造物群保存地区 / 下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区
  面 積 約一一・三ヘクタール
  国選定 昭和五十六年四月十八日
 大内宿は会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の宿駅の一つである。
 この南山通りは、会津藩が江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして整備したもので、廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の際にこの道を利用するなど重要な街道であった。
 大内宿が宿駅として整えられたのは十七世紀中頃と推定され、本陣・脇本陣がおかれた。
 保存区域は旧街道に沿った旧宿場を中心とする南北約五〇〇メートル、東西約二〇〇メートルの範囲である。本地区の町並の特徴は寄棟造の建物が道路と直角に整然と並べられていることである。主屋は道路から空地を設けて敷地の北側に後退して建ち、南は余地をおいて奥の土間入口への通路となっており、倉や納屋は主屋の奥に建つ。
 主屋の多くは江戸時代後期から明治にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁をつけ、その奥の二室を座敷としている。
 道路の中央には広い溝が設けられ、宿場の用水路として利用されたが、明治十九年になって埋めたてられ道路の両側に側溝が掘られ洗い場を設けるなどの変遷があった。
 この町並みは、会津及びその周辺地域にみられたこの地方の宿場形態の典型的なもので、その多くが失われた今日もなお往時の姿をよく残している。
 また、周囲の社寺や自然環境とも一体となって優れた歴史的景観を今に伝えている。
     文 部 省
     福 島 県
     下 郷 町
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古戦場と大内峠(2013.07/26)

完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
小佐越(2013.07/03)
鬼怒川(2013.07/04)
藤原宿(2013.07/05)
馬の草鞋(2013.07/08)
夢のような美しさ(2013.07/08)
中三依(2013.07/08)
貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
「山王峠」(2013.07/12)
糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
田島(2013.07/16)
豊成→栄富(2013.07/16)
大内(2013.07/17)
美濃屋(2013.07/26)
手に負えない早駆け(2013.07/30)
若松平野[盆地](22013.08/08)
峯越連絡林道(2013.08/09)
高田(2013.08/11)
マラリアがはやる所(2013.08/12)
[舟橋](2013.08/14)
片門(かたかど)(2013.08/20)
束松峠(2013.11/03)



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2013.07/26(FRI)

大内峠一里塚
下郷町大内




平成25年(2013)
・07月26日
 大内宿「美濃屋」さんの写真を撮りに行ったついで、まづ「櫻木姫墳」を見て、「大内峠一里塚」、「大内峠茶屋跡」を見て来た。生憎、雨が降ったり止んだりで十分には楽しめず!
※ この一里塚・峠の茶屋までは車道を外れて旧下野街道(会津西街道)を歩く。戊辰戦争では戦場となった地である

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写真;大内峠一里塚(対のもう片方は写真左にある)2013.07/26
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以下、現地の案内板から

大内峠一里塚
 この大内峠一里塚は、会津城下「大町札の辻(おおまちふだのつじ)」から五里(約二十km)の位置にあたります。
 下野街道の一里塚は、そのほとんどが対で構築されたと考えられますが、現在ではそのほとんどが破壊されて消失したか、あるいは片側だけとなっており、大内峠一里塚のように対で現存していることは希なことで、県内でも貴重な文化遺産となっています。
 会津若松から江戸までは約六十一里(約二五二km)、会津藩主はこの区間を五泊六日の旅程で参府していますが、藩主の参勤通行はもとより、物資輸送のためにこの街道を幾度となく往還した人たちにとっても、一里塚は大きな目安となったことでしょう。



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2013.07/26(FRI)

大内峠 古戦場と峠の茶屋
下郷町大内




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以下、現地の案内板から

大内峠古戦場
 戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことです。
 すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されています。
 この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をみることができます。
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以下、現地の案内板から

大内峠の茶屋跡
一 大内峠見晴宜敷場所、茶屋前々之通、手軽ニ御駕篭立場設け候事 但し治定之所ハ申建置候間、追而可申聞候
一 右御小休場所御設入用之陣桐油、雪菰、手桶、柄杓、茶碗之類御貸渡之儀、申建置候間、追而可申聞候


 これは文政十年(一八二七)四月、会津八代藩主松平容敬(かたたか)が下野街道を通って江戸から下向する際に郡奉行から郡中各郷に出された廉書(かどがき)の一部です。南山地方にとって藩主の参勤通行は実に約百五十年ぶりの出来事で、この資料からも大内峠に茶屋があったことを確認することができます。
 発掘調査をしたところ茶屋跡からは当時の建物の遺構や江戸末期から明治初期までの会津本郷焼の陶器片などの遺物が多数出土し、礎石の配置から、当初は桁行六間、梁行四間半だったものが、最後には桁行、梁行ともに三間半の建物となっていたことがわかり、大内峠の茶屋は明治の初めまで営まれていたことが判断されました。
 大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのでしょう。

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写真↑;峠の茶屋(2013.07/26)

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写真↑;大内峠付近の下野街道(会津西街道)2013.07/26
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大内峠から関山の戦い

慶応 4年(1868)
・ 8月25、26日
 西軍は山王峠の会津勢を制圧し糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵)
・  29日
 田島に向け進撃を開始。田島に会津勢の姿はなく無血占領
・  30日
 西軍、後続の肥前兵を合流し大内集落を目指して進軍を開始する。途中、街道の東西の山から会津勢の抵抗を受けて敗走することもあったが後方からの増援により回復。会津勢を大内峠まで後退させた
・ 9月 1日
 大内集落に宿陣した西軍は、肥前・芸州・宇都宮・大田原兵の序列で大内峠を目指す。会津勢は山頂に胸壁を築いて正面からの敵に応戦、芸州兵は左右の山から攻撃を開始。この時会津勢の左側から迫った芸州兵に対し、清龍足軽三番隊の隊長、野村悌之助は奮戦したが討死した。これに奮起した会津勢は芸州兵を撃退したが、正面・右方からの激しい攻撃にあって堪らず大内峠を退き、さらに後方の氷玉峠を越え栃沢まで後退した
・   2日
 西軍、大内集落から再度の進撃。会津勢は栃沢に拠って抵抗したが西軍は苦戦の末栃沢を占領した。会津勢は北方三キロの関山に退く。追撃したが夕刻となり氷玉峠まで退いて野営した西軍を見て、会津勢はふたたび栃沢を占領したという
・   3日
 西軍、後続の諸隊を集結し攻撃前進を開始。薩摩・黒羽・宇都宮・中津・今治・人吉・肥前の兵が大内を出発した。戦闘膠着
・   4日
 会津勢、本道上で西軍に砲撃され、戸惑う間に西軍別動隊が前進した。さらに薩摩兵が突撃を開始したのを機に、会津勢は関山周辺から退却した。大山柏によると、会津勢は退却後の集結を予定に入れず「散乱」したという
--参考文献;「戊辰戦争全史〈下〉」菊地明/伊東成郎編・p.140・前田宣裕--

※ 大山柏(おおやまかしわ) / 1889年 6月 2日-1969年 8月20日
日本の華族、陸軍軍人、考古学者、公爵、貴族院議員(無所属倶楽部)、文学博士(慶應義塾大学)、戊辰戦争研究家。階級は陸軍少佐。明治の元老であり後の陸軍大将・大山巌の次男としても知られる
--参考文献;Wikipedia「大山柏」2013.07/27--
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2013.07/17(WED)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月27日、28日




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p.219 後から 5行目 大内
   私は大内という村にある養蚕場・郵便局・内陸通運会社継立所を兼ねる家で泊まった。〈大名〉が泊まった所[本陣]でもあった。この村は周りを山々で美しく囲まれた谷間にあった。翌日[六月二八日]は早朝に出発し、…
--「完訳日本奥地紀行1」金坂清則、引用--

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※ 写真;大内宿(2012.08/30)
 現在の「宿場」附近の写真を多く撮ってきたが、それに電柱・電線の写り込みの無いものは始めてかもしれない ^^;)

 [二七日]イザベラは、これまで山頂まで森に覆われた山々が連なる中を辿って来たが、広々とした大内は山王峠の頂きで見た景色よりもっと美しい、と書いている
 「この地方は実に実に美しかった」と..
「山王峠」(2013.07/12)
 大内では村肝煎阿部大五郎の「美濃屋」に泊まった。「美濃屋」は、イザベラが東北での止宿先では、唯一当時に近い形で現存するものだといわれる
大内宿本陣跡(2012.08/31)

 豊成←3.9キロ→栄富←9.2キロ→大内(27日泊)←10.3キロ→市川←9.1キロ→高田←12.2キロ→坂下

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古戦場と大内峠(2013.07/26)

完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
小佐越(2013.07/03)
鬼怒川(2013.07/04)
藤原宿(2013.07/05)
馬の草鞋(2013.07/08)
夢のような美しさ(2013.07/08)
中三依(2013.07/08)
貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
「山王峠」(2013.07/12)
糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
田島(2013.07/16)
豊成→栄富(2013.07/16)
大内(2013.07/17)
美濃屋(2013.07/26)
手に負えない早駆け(2013.07/30)
若松平野[盆地](22013.08/08)
峯越連絡林道(2013.08/09)
高田(2013.08/11)
マラリアがはやる所(2013.08/12)
[舟橋](2013.08/14)
片門(かたかど)(2013.08/20)
束松峠(2013.11/03)



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2013.07/16(TUE)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月27日




p.245 豊成→栄富 とよなり→えいとみ
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平成25年(2013)
・ 7月16日
 上三依からはイザベラが辿った道をなぞって(現主要車道だが)田島、豊成、栄富まで行く。「完訳日本奥地紀行」に”日光から新潟への旅程(鬼怒川ルート)”として地名の記載はあるが具体的な記述はない(どれがこの地を通過しての記述であるのか解らない)
 豊成は明治八年、岩本村・倉村など周辺の五ヶ村が合併して豊成村となった。現下郷町の中心地辺りであろうか。栄富は豊成から大内に至る途中にある集落で、往時の雰囲気を多く残していた。細いとか曲がったままとかの道路もその一つである
 で、今回は附近の様子を撮った写真のみのup..

 田島←9.2キロ→豊成←3.9キロ→栄富←9.2キロ→大内(27日泊)

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※↑写真;現下郷町豊成郵便局附近(2013.07/16)

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※↑写真;現下郷町栄富附近の集落(2013.07/16)
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完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
小佐越(2013.07/03)
鬼怒川(2013.07/04)
藤原宿(2013.07/05)
馬の草鞋(2013.07/08)
夢のような美しさ(2013.07/08)
中三依(2013.07/08)
貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
「山王峠」(2013.07/12)
糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
田島(2013.07/16)
豊成→栄富(2013.07/16)
大内(2013.07/17)
美濃屋(2013.07/26)
手に負えない早駆け(2013.07/30)
若松平野[盆地](22013.08/08)
峯越連絡林道(2013.08/09)
高田(2013.08/11)
マラリアがはやる所(2013.08/12)
[舟橋](2013.08/14)
片門(かたかど)(2013.08/20)
束松峠(2013.11/03)



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2013.07/16(TUE)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月27日




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※ 写真;田島の本通り(2013.07/16)

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p.217 田島
   私たちは田島で馬を替えた。ここはかって〈大名〉がいた所[城下町]で、日本の町としてはかなり趣がある。下駄や焼物・漆器・かごを製造し移出しているが、焼物・漆器・かごはいずれも洗練されたものではない。
 一枚が三〇平方ヤード[二五平方メートル]から四分の一エーカー[一〇〇〇平方メートル]まであるさまざまな大きさの田が続くなかを進んだ私たちは、荒海川[大川]という大きな川があるところにやってきた。田の畦には大豆[畦豆]がずっと植えられていた。ここに出るまで私たちは二日にわたってその支流[荒海川]に沿ってとぼとぼと進んできたのである。…

--「完訳日本奥地紀行1」金坂清則、引用--

 日光から六日間にわたって旅をしてきたあとの日曜日[六月三〇日]、車峠で書いた
「第十五報(結)・高度な農業」である
 先に引用した記述後半部分、”荒海川[大川]という大きな川があるところ”は、田島を過ぎて長野辺りの渡しであり、”二日にわたってその支流[荒海川]に沿ってとぼとぼと”進んできたのは、一日目は山王峠から川島迄、二日目は川島から長野辺りの渡し迄を指してのことであろう。ここで平底船で川を渡り行路を大川の左岸へと変えたようだ
 現在の川の名称だが、山王峠附近・荒海山(1581m)北面から流れ出る多数ある沢を集めて「荒海川」といい、田島附近では「阿賀川(又は大川)」となる。流れは北東or北に向い会津若松付近に至るとそれを西方に変え、只見川を合して県境を越えて新潟に入ると「阿賀野川」となって日本海に出る
 イザベラは六日間に亘って見聞きした旅の様子を書いたが、田島に関しては冒頭の記述のみである
 旅は大川に沿って豊成へ、栄富から大内宿へと進む

 川島(26日泊)←6.2キロ→田島←9.2キロ→豊成←3.9キロ→栄富←9.2キロ→大内(27日泊)

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田島陣屋跡と南山御蔵入五万石騒動(2012.09/02)

完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
小佐越(2013.07/03)
鬼怒川(2013.07/04)
藤原宿(2013.07/05)
馬の草鞋(2013.07/08)
夢のような美しさ(2013.07/08)
中三依(2013.07/08)
貧乏人の「子沢山」(2013.07/12)
「山王峠」(2013.07/12)
糸沢←4.4k→川島(2013.07/12)
田島(2013.07/16)
豊成→栄富(2013.07/16)
大内(2013.07/17)
美濃屋(2013.07/26)
手に負えない早駆け(2013.07/30)
若松平野[盆地](22013.08/08)
峯越連絡林道(2013.08/09)
高田(2013.08/11)
マラリアがはやる所(2013.08/12)
[舟橋](2013.08/14)
片門(かたかど)(2013.08/20)
束松峠(2013.11/03)



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2013.07/12(FRI)

日本奥地紀行 イザベラ・バード
明治11年(1878) 6月26日




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p.211 11行目 糸沢←4.4k→川島 (泊)
   糸沢では出された馬が我慢できないほどよろめくので最後の区間は歩いて川島(かわしま)という戸数五七戸のみじめな村に着いた。あまりにも疲れていてこれ以上先に進めなかったので、藤原よりももっとひどい宿であったものの、また宿の厳しさを堪え忍ぶ力も萎えていたけれど、ここに泊まらざるをえなかった。…
--「完訳日本奥地紀行1」金坂清則、引用--

 イザベラは川島で宿に入るがその酷さを、台所は煙が充満してガタピシの障子を抜けて部屋にまで入り込み、垂木は煤や湿気で黒光りしていて煙いうえに暗くて息が詰まるようだった。宿の主人は床に手をつきしつこく詫びたが、従者の伊藤は宿の主人らを大声で怒鳴り始めたのでこれを止めさせた。「礼を失し、弱い者いじめは外国人である私にとって堪え難いことで、住民にとって冷たい仕打ちはない」と書き
・宿の主人はとても礼儀正しい、と
 田植えの終わった祭りで農民が一晩中ドンチャン騒ぎをし、一睡もできなかった、とも
 27日早朝には宿の主人の息子の咳を治療したが、聞き及んで集まった住民の姿に驚き、ある人が買いためていた獣脂と硫黄華(いおうか)を貰って軟膏を作り、日常の清潔の大切なことや軟膏の使用法を話した
 日光を出てからずっと目にしてきた貧困や不潔、不快さは思いもよらないもので、これが英国の場合だと怠惰や酒浸りが原因だが、ここでは怠惰など及びもつかず、酒浸りの農民などいない。休日もとらずどこでも勤勉で、大地を無駄なほど沃野(ガーデン)に変えた
と書いている

 横川←(山王峠)11.6キロ→糸沢←4.4キロ→川島(泊)←6.2キロ→田島
                   26日
c0185705_1928030.jpg

※ 写真;現在の「糸沢宿」附近(2013.07/12)
山王茶屋と糸沢宿(2012.07/24)

c0185705_846692.jpg

※ 写真;現在の「川島宿」附近(2013.07/12)
 川島宿は町屋・尾出・金地・川島前・川島の五集落を集めて宿駅としたそうであり、宿内を通っていた街道は後に国道となって整備されたためか、町並みに往時の面影を見ることはできなかった
※ イザベラは目指して来た「田島」ではなく、手前の「川島」に泊まったさきは「橘屋」だといわれ、明治中頃には菓子屋を営み、現在でも「菓子屋、煎餅屋」と呼ばれているそうだ
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完訳日本奥地紀行1(2013.06/15)
日光からの出発(2013.07/02)
小百(2013.07/02)
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「山王峠」(2013.07/12)
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マラリアがはやる所(2013.08/12)
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