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2013.06/29(SAT)

復古記 太政官編纂
東京大学史料編纂所編復刻版/全十五巻




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平成25年(2013)
・ 6月29日
 戊辰戦史解明に不可欠!/最高最大の維新史料集成とある
 総頁数1万3000と膨大なものだ

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以下、「内容見本」から一部を引用
復古外記 稿本

白河口戰記 第七
             自明治元年八月二十四日
             至同     晦  日

八月二十四日、總督、白河ニ抵ル。
總督府正親町殿、明廿四日當驒(白河ヲ指ス、)ヘ御著ニ付、各藩一人ツ、江戸口先御迎罷出、御著座之爲伺御機嫌参營可被成候、以上。

  八月廿三日     忍藩 山田求馬
                 大久保忠順家記

○陣中日誌ニ云、八月廿四日、蘆野驛御出馬、(卯刻過)白川驛著、(未刻過)御泊。

○官軍、若松城ヲ攻ム、城堅シテ拔ケス、乃チ火ヲ外郭ニ放チ、退テ其東北天寧寺、三日町、六日町、甲賀町、馬場町、大町、桂林寺、越後、米澤等諸口ヲ扼シ、長圍ヲ築キ、以テ諸路ノ官軍ノ到ルヲ俟ツ、是日、勢至堂口ノ賊、退テ天寧寺口ニ至リ、城中ニ入ラントス、官軍之ヲ邀ヘ撃ツ、賊轉シテ天神口(城ノ東南隅ニ在リ、)ニ赴キ、遂ニ城中ニ入ル。

○鎭將府日誌、八月廿七日、伊地知正治ヨリ大久保利通ニ贈ル書柬節略ニ云、廿日二本松出立、廿一日、ボナイ峠口ヨリ左右中三手ニ分シテ、會津口ヘ攻掛リ候處、其日中三ケ所之砲臺ヲ破リ、會津領ヘ一里餘進入、廿二日猪苗代攻取、其夜四番隊其外ニテ戸ノ口、十六橋ト云要地押渡リ、廿三日會津ヘ攻入、廿四日迄賊徒必死防戰候故、城下不殘燒拂云々。

○慶應出軍戰狀ニ云、八月二十四日、大手口ヘ出テ攻撃ス、城堅固ニシテ防禦嚴整ナリ、味方之諸隊晝夜之連戰ユヘ、一先ツ圍ヲ引テ、武士小路ヲ燒拂ヒ、遠攻スルニ如クハ無シトテ、軍議決セリ、就テ火ヲ放テ諸屋敷ヲ燒キ、兵ヲ揚テ大手口、天寧寺口、三日町口、六日町口ヲ堅ム、晝夜ヲ不別互ニ砲發、五番隊、外郭藩士之宅不殘燒拂、三日町口之郭門ヘ出候處、賊天寧寺ヨリ後之方ヘ廻リ候付、直ニ同所ヘ相進候處、賊小銃(竝)槍ヲ以進來候付、悉追散シ、同所ハ勿論、各藩共ニ外郭之諸門ヲ固、三番隊天寧寺門ヲ守ル、時ニ勢至堂口ヲ守ルノ賊、右門ヘ掛リ、城中ヘ歸ルノ機ヲ察シ、預メ伏ヲ設ケ置、機合ニ乘シ討撃、追テ近村ニ至リ、又本ノ持場ヘ歸ル。

○戊巳征戰紀略ニ云、八月廿四日、郭内ノ人家ヲ放火シ、郭門ヲ固メ、壁壘ヲ築ク。

○山内豐範家記ニ云、八月廿四日、城中城外砲戰不止、官兵不足セルヲ以テ合圍スル能ハス、徒ニ城ノ二面ヲ固メ、互ニ相睨ス、當是時ニ、猪苗代留守ノ薩兵竝ニ我三小隊ハ、頻ニ進軍ヲ請フ、谷之カ爲メ若松ニ赴ク、若松モ亦兵ノ不足ヲ憂ヒ、猪苗代ノ守兵ヲ進ムルヲ令ス、故ニ本日盡ク若松ニ著ス、(原注、只十六小隊、翌日ヲ以テ達セリ、)乃病院ヲ瀧澤山ニ移ス、兩参謀相議曰ク、城堅固ニシテ賊死守ス、我兵少ニシテ攻城ノ器備ハラス、無謀城ヲ攻ルハ、徒ニ兵ヲ損スル而已、不如、一旦外郭内ノ士第ヲ放火シ、賊ノ依テ隱蔽スル處ナカラ令メ、官兵退テ外郭ノ壘壁ニ依リ、守之兵ヲ市街ニ屯セハ、賊ノ進擊便ナラスシテ、我亦依テ以テ守ルヘキアリ、遂ニ兵ヲ市中ニ移シ、各藩分レテ盡ク外郭内ノ士第ヲ放火シ、存スル處市街而已、於是各信地ヲ定メ、市街ヲ衛ル、薩兵及佐土原兵ハ、追手通外郭門ヨリ天寧寺口南東ニ至ル迄守之、我兵ソノ右大町、馬場町ノ兩門竝ニ町ノ北方兩道ヲ守ル、長州、大垣ハ我兵ノ持口ノ西ヨリ越後、米澤、兩道ヲ守ル。(原注、大村兵ノ守口ヲ失セリ、大村兵、伊地知参謀ノ命ヲ奉シ、再ヒ猪苗代ヲ守レリ、本日ノ事ニヤ、今審カナラズ、)

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2013.06/28(FRI)

戰死吊祭塔 &黒羽表忠碑、軍夫死者之碑
黒羽大雄寺




 黒羽藩は奥州と接した位置にあって、小藩(一万八千石)でありながら近代的軍備を備えていた。早い時期から新政府に恭順の意を示し、良く戦いに挑み、転戦につぐ転戦を重ねて戦線は会津へと向かうのであるが、新政府への貢献は大きいものがあった
 これは戦後「大雄寺」に設けた招魂場である。黒羽藩主大関増勤等が祭主となり、戊辰戦争で戦死した藩士二十四名を弔うものであり「戦死吊祭塔」には戦死者の名が刻まれている。黒羽表忠碑・軍夫死者之碑も建てられた(吊祭塔の左)
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戦死吊祭塔
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黒羽表忠碑・軍夫死者之碑
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写真;2012.10/22



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2013.06/25(TUE)

栃木県道・福島県道60号
黒磯棚倉線




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平成25年(2013)
・ 6月25日
 峠を越え黒羽藩領から棚倉藩領に入る
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                とちゅうとうげ
写真(2013.06/24)は栃木福島県境 戸中峠
栃木県道・福島県道60号黒磯棚倉線は、栃木県那須塩原市から福島県東白川郡棚倉町に至る県道(主要地方道)である

制定年;昭和36年(1961)
 起点;栃木県那須塩原市鍋掛
 終点;福島県東白川郡棚倉町棚倉
Wikipedia 2013.06/25

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2013.06/25(TUE)

神武天皇遥拝所(ようはいじょ)
赤館(公園)




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平成25年(2013)
・ 6月24日
 赤館(公園)にあった記念の碑(標柱)

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※ 遥拝所とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所をいう

※ 紀元二千六百年記念行事とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す
(Wikipedia「紀元二千六百年」2013.06/24)

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2013.06/24(MON)

赤 館(あかだて、赤館公園)
棚倉町




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平成25年(2013)
・ 6月24日
赤館は標高345メートルの丘陵地にある。近世棚倉城が築城されるまでは丘陵に館が築かれ、この地を治めていた
現在は公園として整備され、棚倉の町並みが一望でき、春には300本の桜が咲き誇る

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以下、現地の案内板から

赤 館

 赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。標高わずか三五四mのこの丘陵は関東東北の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
 鎌倉初期この赤楯(館)は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の一円(直轄領地)となった。応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。
 一五一〇永正一〇年戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配した。やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
 一五七一元亀二年白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。この年は信長が延暦寺焼内した年であったが、棚倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍を被った。
 一五七五天正三年佐竹は前年に続いて赤館を攻めたが葦名・結城連合軍が撃退する。この時葦名軍は付近の稲を青刈した。青刈りはやがて情ある結城の武将斑目兄弟の悲劇となる。戦国無情の感がある。
 一五九〇天正八年正月伊達正宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七郡で、伊達氏は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。
 徳川の天下となると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。
 一六〇九慶長十四年立花宗茂が五万石赤館城主となった。翌年城の東に遷宮した宇賀神社は、今も棚倉町の氏神と栄えている。
 一六二二元和八年丹羽長重が五万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、五万石に相応しい家臣団を擁する城郭でなかった。かって越前等一二三万石を支配した長重は、二年後から現在の城跡の地に平地城を築城しはじめた。以後の赤館は廃棄された。長重は粗壁の乾かぬうちに白河十万石に転封され去った。
 一六二七寛永四年内藤信照が五万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。
 一六二九寛永六年京都大徳寺の玉室和尚が棚倉に流され、沢庵は上山に流された。中世的権利を主張する後水尾天皇の怒りを静めるため家光の乳母斎藤氏(春日局)が参内したが、天皇は皇女興子内親王に譲位するほどの紫衣事件であった。信照は根小屋観音堂の側に小庵を建て玉質を加護した。この草庵跡に「玉室宗珀謹居之跡」の大石碑あり、付近で「南無阿弥陀仏」と書かれた小石が見つかると古老は語る。
 一七八三天明の飢饉で根小屋村が滅んだ。山上に城のある麓の城下町を根小屋というが赤館の麓にも根小屋村があった。眼下の川は根小屋川と言い、根小屋堰は御城水と呼ばれ城堀に清水を注いだ。
 誰が名付けたか赤館と呼ばれ、古代人の足跡の上に、堀跡があり、その上に館跡があり、その上に公園がある。人間の汗と涙と喜びで綴る祖先の生活を私たちに物語ってくれる。現在の平和で活力のある棚倉の幸せを語ってくれる。未来の子孫もここから紺碧の空と四方の緑と眼下の街と川に愛着を感じ、家族を慈しみ町を愛し続けてくれるであろう。赤館は単なる遺跡や公園ではない。棚倉人の心の盾として生き続ける聖地だ。

     郷土史家 澤田周作
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写真;赤館から望む棚倉の街並み 2013.06/24



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2013.06/13(THU)

三斗小屋誌
会津中街道/三斗小屋の戦い




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平成25年(2013)
・ 6月12日
 図書館から「三斗小屋誌」を借りてきた。このうち、とりあえず戊辰戦争の項の整理が出来たのでupする

慶応 4年(1868)
・ 8月
 新政府軍は白河口の黒羽藩兵、館林藩兵に対し連合して三斗小屋より会津への進攻を命じた。軍勢は黒羽藩四小隊と館林藩三小隊の約二百名
 迎え撃つ会津軍は青龍寄合二番隊(隊長・原平太夫)と青龍足軽四番隊(隊長・有賀左司馬)の約二百名が附近に駐屯していた。この一連の戦いで両隊長が戦死した。二人とも大鳥圭介率いる旧幕府軍とともに藤原口で戦い、勇名をはせた隊長であった
--戊辰戦争全史(上)p169(山村竜也)--

三斗小屋宿~野際宿の戦い(2013.05/30)

・ 9月 8日 明治と改元

明治26年(1893)
・銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行なわれた
明治41年(1908)
・ 5月
 大火で14戸すべてが焼失
昭和32年(1957)
・最後の 1戸が転出して無人の地となる

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 写真;現在の三斗小屋宿 2012.09/03 宿北のはずれ、この先は大峠に至る
三斗小屋宿(2012.09/05)
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以下、戦いの様子を「三斗小屋誌」から引用する

三斗小屋誌 p90,91,92,93
戊辰戦争

明治元年八月廿一日月尚残ル頃ヒニ官軍ハ黒羽館林大垣等の藩兵ヲ以テ搦手ヨリ支隊トナリ各進軍シ一隊ハ白河口ヨリ發シ北湯ニ向ヘ他ノ一隊ハ月山ノ南北ヨリ湯本ニ向ツテ處々ニ潜伏セル賊巣ヲ衝拂ヒ以テ三斗小屋ニテ相會スルノ手筈ニテ共ニ勇進シ各々哨兵ノ衝突アリ二十二日モ互ニ攻守準備怠リナカリキ
幕兵初メ八千余人ヲ以テ三斗小屋關門ヲ守リ原田津島有賀左司馬 秋月昇之助等之レガ指揮者タリシガ配兵ノ都合アリテ會津ニ引キ上ゲ當時百餘人ニテ守備シ有賀左司馬隊長トシテ之レヲ指揮シタリ明クレバ二十三日朝ヨリ小雨浸々トシテ降リ雲霧山山ヲ包ミテ朦朧タリ午前八時頃ヒ月山ノ中腹ニテ互ニ衝突シ砲撃山靈ヲ驚カシ突撃勢ヒ凄シ有賀隊長豪然トシテ動カズ温泉ニテ入浴ナレド由々然ト構エタリ雨尚霏々トシテ雨霞朦朧咫尺モ弁セズ只砲聲ヲ的トシテ互ニ撃チ合フノミ幕兵□間ニ潜ミテ出没自在防禦スルヲ以テ官軍進ム能ハズ
其日哨兵ヲ張リ夜ヲ衛レリ又官軍ノ一隊館林ノ藩兵ハ沼ケ原マデ進ミ茲ニ露営セリ同日横澤附近ニ於テモ大衝突アリテ死傷相半バセリト
明クレバ弐拾四日天氣尚朦朧タルニ官軍ハ整々堂々幕兵ノ不意ニ三斗小屋ニ攻メ入リタリ一ハ黒羽藩先隊トシテ御澤口ヨリ一ハ大垣藩湯本温泉塲口ヨリ右翼隊トシテ一ハ館林藩兵沼ケ原ヨリ進軍即チ板室街道ヨリ左翼隊トシテ共ニ總攻撃ニ突進セリ然レドモ初メ幕兵ニ河戸川右岸ニ壘ヲ築キテ關門ヲ守リ勇敢防禦セシヲ以テ進ム能ハズ一時黒羽先隊困難苦戰終ニ隊ヲ乱シテ逃走シ雲霧深キ為メ纔ニ鏖殺ノ危ヲ免ルヲ得タリ隅々左右翼隊ノ應援アリシタメ茲ニ再ビ備ヒヲ立テ左翼隊ノ進軍攻撃ノ喇叭ト共ニ三方一時ニ大攻撃開始シ幕兵亦之レニ應ジ百雷轟キ山震フ火花散ル修羅塲トナレリ去ル程ニ官軍益々兵ヲ増シ次第に勢力ヲ得テ幕兵ノ關門ヲ占領シ益々追進シテ國界ヲ越エ悉ク幕兵ノ要砦ヲ畧取セリ終ニ幕兵支フル能ハズ山傳ヘニ會津ヘ遁去セリ
此ノ戰ヒニ有賀隊長會津野際中ノ峠ニテ指揮號令中銃弾ニ貫カレテ斃ル従卒首ヲ取リテ會津ニ逃ゲ去レリ其他幕兵ノ同日戰死セシモノ拾七名内旗本ノ勇士濱嶋□等モ茲ニ戰死セリ官軍ニ於テモ死傷相半バセルモ悉ク擔架ニテ後方軍醫ノ許ニ送リ應急手當ヲ施タリ
斯クシテ幕兵ハ遁走シ官軍ノ當地ニ至ルヤ尚モ幕兵ヲ追撃シテ會津ニ浸入シ三斗小屋ニハ僅二三ノ兵士残リテ番兵スルノミ去ルバ一且戰塲ノ巷トナリシ當地モ今ヤ戰地ヲ脱シ只一ノ通路タルニ過ギザリシナリ然ルニ番兵等番ニ倦ミタルニヤ□九月十日悉ク民財ヲ掠奪シ且ツ民家ニ火ヲ放チ全部ヲ焼キ拂ヒ而シテ何レカ出立セリ
     *
※秋月昇之助=秋月登之助
※纔(わずか)、鏖殺(おうさつ)、擔架(たんか)
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「三斗小屋誌(黒磯市図書館所蔵本復刻)」
発行日  ;平成15(2003)年 3月30日
原本の著者;田代音吉
編集/発行;黒磯郷土史研究会
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2013.06/11(TUE)

會津藩戦死二人之墓 福島県大沼郡昭和村大芦




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平成25年(2013)
・ 6月 9日
 昭和村、「奥会津昭和の森キャンプ場」入口(R401号沿い)
 墓碑前の道を右に行くと佐倉(さぐら)に至る


會津藩戦死二人之墓
 明治元年九月二十四日 
 矢之原戦死 野村新平
 屋敷原戦死 角田五三郎

野村新平の墓(2013.06/09)

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※ 墓碑右面(カーブミラーのある方が墓碑正面)
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写真;南会津、会津藩戦死二人之墓・昭和村大芦 2013.06/09

・野村新平  二百石/朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭/明治元年九月二十四日会津大芦村で死/二十五歳
・角田五三郎 助次郎伜/朱雀士中三番小野田隊/明治元年九月二十四日会津大芦で戦死/二十三歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2013.06/09(SUN)

「信州高遠石工作品」石鳥居
福島県昭和村大芦か?




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平成25年(2013)
・ 6月 9日

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以下、現地の案内板から

         しんしゅうたかとお         いしとりい
昭和村有形文化財「信州高遠石工作品」石鳥居

 元禄から明治初頭にかけて全国的に出稼ぎ石工として移動していた高遠藩石工の作品である。五十嵐徳右衛門の寄進により、明和8年(1771)7月に造立された。
 信州高遠藩笠原村 赤羽彦五良の施工。

  平成 9年12月 1日指定 昭和村教育委員会

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2013.06/09(SUN)

野村新平の墓 福島県昭和村矢ノ原湿原




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平成25年(2013)
・ 6月 9日
 田島から昭和村に行く(R400)

 明治元年(1868)
・ 9月22日
 会津藩は降伏したが南会津では未だ戦闘が続いていた
会津藩降伏後の戦い(2012.12/13)

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※ 写真;矢ノ原湿原(2013.06/09)

以下、現地の案内板から

戊辰の役古戦場
野村新平の墓
 明治元年(一八六八)旧八月二十三日、会津戊辰戦争で官軍が会津になだれ込んだ日である。
 そして九月十日頃から、御親藩を始め加賀藩を主に各藩から約六百人の官軍が繰り込んで野尻郷各村(現昭和村) へ宿陣し警備についた。
 九月二十四日朝八時頃、田島方面から進撃してきた会津軍の奇襲をうけ、官軍は敗走しこの道を下中津川方面へ退却した。
 これを追って会津軍朱雀三番寄合組隊、鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃して来た時、軍を立て直した官軍が逆襲し合戦となり会津軍は少数不利となり、大芦へ退却する。この時の戦で会津軍、野村新平ここで戦死する。星霜流れ一三〇年を経た。
  会津藩士 野村新平
    朱雀三番寄合組隊鈴木隊半隊頭
    町奉行、二百石、二十五歳
    明治元年旧九月二十四日大芦村矢ノ原にて戦死
    平成十二年 五月

・野村新平 二百石/朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭/明治元年九月二十四日会津大芦村で死/二十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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また、「奥会津昭和の森キャンプ場」入口(R401号沿い)に墓碑がある
 正面に     會津藩戦死二人之墓
 向かって右面に 明治元年九月二十四日
 〃   左〃  矢之原戦死 野村新平
         屋敷原戦死 角田五三郎

 会津軍は西軍の銃火に圧倒されて大芦村に退却したが、なお矢ノ原方面の山中から西軍の射撃をうけ、夕方には東方の浅布村をめざし退却した。そして大芦村の出口、屋敷原に留まって殿軍をつとめていた朱雀三番士中隊々士角田五三郎(つのだごさぶろう、23歳)は重傷を負い、同僚に介錯され死亡した
(参考文献;「戊辰戦争全史(下)」菊地明/伊東成郎編)
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會津藩戦死二人之墓(2013.06/11)



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2013.06/08(SAT)

戊辰戦争全史(下)
新人物往来社




戊辰戦争全史(上)(2013.06/08)
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平成25年(2013)
・ 6月 8日
戊辰戦争全史(下)
新人物往来社
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内容(「MARC」データベースより)
鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は日本全土を二分した激戦となり、北の果て、箱館戦争で終わる。敗者の側の記録を大幅に掘り起こし、現地を訪ねて描いた戊辰戦争の全貌。下巻には会津の戦いおよび北海道の戦いを収録

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一九九八年五月二十日 第一刷発行

編者  菊地明/伊東成郎
執筆者 伊藤成郎
    菊地明
    小桧山六郎
    前田宣裕
    間島勲
装丁者 幅正臣
発行者 菅英志

目次

会津の戦い
北海道の戦い

参考文献一覧
あとがき
執筆者略歴
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