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2013.05/30(THU)

野際宿に残る家(のぎわしゅく)
会津中街道/松川街道




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平成25年(2013)
・ 5月24日
 大峠を見た帰り、野際宿あたりの道脇に「戊辰戦争で焼け残った家」があって、これを覗き見させて貰ったが、いきさつなどの詳細は不明である。また、道に面したこの家の写真は裏口のように見える。だとすれば、旧道は家の向こう側であったのかも知れない..

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※ 三斗小屋宿~野際宿の戦い
慶応 4年(1868)
・ 8月23日 
・西軍、三斗小屋宿に滞陣していた会津藩隊を襲撃
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れ進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
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2013.05/26(SUN)

大峠の石仏
会津中街道(松川街道)




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 大峠の石仏(首無し地蔵?)
 24日、大峠に行ったがこの峠にある石仏である。観音沼から峠を目指したのだが、ここに出ると一気に視界が開ける。西に流石山、東に三本槍岳、南下ると三斗小屋宿に至る

大峠(会津中街道)(2013.05/24)
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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写真;2013.05/24
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2013.05/26(SUN)

今に残る会津中街道(松川街道)
下郷町観音沼附近




 写真は会津中街道、観音沼附近に残る旧道部分である
 この街道は会津西街道に替わる街道として開削されたもので、会津から江戸へは最短の距離であったと云う。しかし、この先藩境には那須山塊の「大峠(1468m)」が待ち構え、越えて山中の三斗小屋宿まで急な下りとなるなど山、谷が連続し、ここ観音沼から板室宿辺りまでは風雪雨の被害が絶えぬ厳しい街道だったのである
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写真;2013.05/24
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2013.05/25(SAT)

野際宿番所跡
会津中街道(松川街道)、大峠




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以下、現地の案内板から

大峠

野際新田から三斗小屋温泉、板室、矢板へと通じる松川新道の途中に標高1468mの大峠があります。会津藩主加藤明成の通ったこの道は「南山松川通り」と呼ばれました。会津藩の参勤交代の道として、野際新田と三斗小屋には口留番所が設けられ、行き交う旅人や荷馬で賑わいましたが、深い谷と険しい山道の連続で風雪雨の被害が絶えなかったと言われています。当時の石畳を現在も見ることが出来ます。
     福島県南会津農林事務所
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※ 番所跡の近くにあった鳥居
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2013.05/24(FRI)

大 峠 会津中街道(松川街道)




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平成25年(2013)
・ 5月24日
 観音沼から林道と徒歩の安直な「大峠行」である。旧道を三斗小屋宿から歩いてみたいとの思いはあるが体力不足で無理!
 大峠は標高1468メートル、里は既に夏めいてきたが此処ではまだ木の芽も出きらずに見通しも良くて、しかも快晴。大峠付近には僅かだが雪も残って風も涼しく、頗る快適であった
     *
慶応 4年(1868)
・閏 4月
 会幕軍(会津・旧幕府の連合軍)は新政府軍の会津侵攻を阻止するため会津中街道を南下。三斗小屋宿を拠点に兵を配置した

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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会津中街道

概要

 1883年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道が通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備された。氏家宿から矢板宿、板室宿を経て那須山中の三斗小屋宿、標高1468mの大峠、松川宿などを経て会津に至る代替街道である。会津西街道が再整備され次第に使われなくなっていった
 自然湖である五十里湖は、その後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ

歴史

1646年(正保 3年) 会津藩により辰街道が整備される
1653年(承応 2年) 会津藩により辰街道の宿駅に附子村を指定される
1667年(寛文 7年) 会津領内の街道に一里塚の整備令が出される
1683年(天和 8年)  9月に発生した日光大地震により会津西街道が交通不能になる
1694年(元禄 7年) 湯宮村又衛門ほか 2名により大峠開発請願書が会津藩に提出される
1695年(元禄 8年)  3月、会津藩による道筋村々の調査が行われる
            また、坂巻家より矢板宿問屋開設願いが出される
同年        7月、荒井村名主により「間数相改差し上げ調」が報告される
同年        8月、田嶋にて工事入札行われる
同年        9月 5日、工事着工される
同年        9月28日、会津松川宿~下野板室宿で「新道はじめ」廻米 2駄
同年       10月 9日、完工する
同年       10月15日、工事完成が南山代官依田五兵衛により会津藩へ報告される
同年       10月19日、各継立場間の測量が行われる
1696年(元禄9年)  1月、下野川崎宿に高札が立つ
同年        4月、会津藩 3代藩主、松平正容が参勤交代のため通行する
同年        5月、越後村松藩 3代藩主、堀直利が参勤交代のため通行する
1697年(元禄10年)  6月、会津藩主、松平正容が参勤交代のため通行する
1698年(元禄11年)  5月、越後村松藩主、堀直利が参勤交代のため通行する
1699年(元禄12年)  8月、暴風雨により各所に被害が出る
1704年(元禄17年)  6月10日、田町問屋の大橘家が日限定書のため評定所へ召し出される
同年        7月、暴風雨により通行困難になり、脇街道に編入される

宿場

1 .若松城下 (福島県会津若松市)
2 .面川宿  (福島県会津若松市門田町面川)
3 .香塩宿  (福島県会津若松市大戸町上三寄香塩)
4 .小塩宿  (福島県会津若松市大戸町上小塩)
5 .桑原宿  (福島県会津若松市大戸町上小塩)
6 .小出宿
7 .弥五島宿
8 .松川宿
9 .野際宿  (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠;標高1468m)
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10.三斗小屋宿(栃木県那須塩原市那須岳国有林)
11.板室宿  (栃木県那須塩原市板室)
12.百村宿
13.高林宿
14.横林宿
15.石上宿
16.山田宿
17.矢板宿  (栃木県矢板市)
18.川崎宿  (栃木県矢板市川崎反町)
19.乙畑宿  (栃木県矢板市乙畑)
20.氏家宿  (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
阿久津河岸・船玉神社(2015.09/15)

--Wikipedia「会津中街道」2013.05/25--
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※ 奥州駒返坂について
会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである/その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31里10町52間の街道である/旧街道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を上り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる/険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる
  下郷町
--現地の案内板から--
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林道大峠線終点

終点位置  下郷町大字音金字大峠地内
施工年度  昭和二十七年
路線延長  四、九二五米
幅  員  三、六  米
管 理 者  下郷町役場
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2013.05/21(TUE)

白河城三重櫓




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 2011年 3月
 東日本大震災により、本丸南面をはじめ多箇所で石垣が崩落した。今、復旧に向けて工事が続けられているが、完了までまだ相当の期間を要しそうだ
 写真は本丸北の堀をはさんで見た「三重櫓」(この辺りの震災被害は無かったようだが?)

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平成24年(2012)
・ 6月 1日
 平成23年 3月11日の東日本大震災及び 4月11日の余震によるもので、崩落は10箇所

  ・ 本丸南面
  ・ 月見櫓台
  ・ 本丸北・西面
  ・ 帯曲輪北面
  ・ 搦手門跡
  ・ 竹之丸南面西
  ・ 〃    東
  ほか 3箇所

 修復は平成23年度に本丸南面、24年度に月見櫓台ほかの予定。崩落石材に番号を付け、崩落前写真との照合などきめ細かな作業が予定されていて良質な修復が期待出来る。なお白河市は崩落原因を究明するため地質調査等を行って来たとのこと



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2013.05/21(TUE)

最後の白河藩主 阿部正静




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※ 阿部正静(あべまさきよ)は、江戸時代の大名。陸奥白河藩の第8代藩主。陸奥棚倉藩の初代藩主。忠秋系阿部家16代。

嘉永2年(1849年)11月28日、第7代白河藩主・正外の長男として生まれる。慶応2年(1866年)6月19日、父が兵庫開港問題により強制隠居処分となったため、その跡を継いで白河藩主となる。慶応3年(1867年)1月に棚倉藩へ移封される。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加していたが、白河城の戦いに敗れ、棚倉城も陥落すると降伏する。新政府より同盟に参加した罪を問われて、4万石削減の6万石となった上、家督を養子・正功に譲って強制隠居処分に処せられた。明治11年(1878年)1月23日、東京で死去。享年30
--引用・要約;「阿部正静」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2013.05/21--



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2013.05/20(MON)

慶応四年五月朔日白河口戦闘図
稲荷山




白河城の攻防(2012.06/02)

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以下、現地の案内板から

 官軍白河攻撃要圖/慶應戊辰五月朔日
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 この地は稲荷山と呼ばれ、戊辰戦争白河口の戦いにおいて新政府軍と奥羽越列藩同盟軍による激戦の舞台となった場所である。図には青色で新政府軍が南・東・西の三方に分かれて小峰(白河)城下に進軍する様子が記載されている。新政府軍の中央隊が奥州街道を城下南側に向けて進軍し、小丸山に大砲四門を据えて稲荷山の同盟軍を攻撃、右側には城下東側の雷神山に向けて進軍・攻撃する右翼隊、左側には城下西側の立石山に向けて進軍・攻撃する左翼隊。一方、赤色で図示される同盟軍がこれに対応するように、それぞれ稲荷山、雷神山、立石山で守備するが、新政府軍に押されて城下北側の阿武隈川を越えて退却する様子が描かれている。この日に戦闘では同盟軍死者約七百名、新政府軍約二十名と伝えられており、新政府軍の圧倒的な勝利により小峰城が制圧された。

   平成二三年度
   県南地方観光推進事業
   「”桜”プロジェクト」
   財団法人白河観光物産協会

※ 「戊辰白河口戦争記」より作成


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※ 横山常守(よこやまつねもり)
  横山主税

弘化 4年(1847)-慶応 4年(1868) 5月 1日、幕末の会津藩士である。通称主税(ちから)

【養父・常徳】

弘化 4年(1847)
・江戸藩邸に生まれる。諱は常守
 父は山川兵衛重英の四男・常道(山川浩兄弟姉妹は血縁である)
 養父は会津藩江戸家老横山常徳。常徳は江戸の三家老と称された人物で、藩主松平容保を補佐して功績があり、家禄700石から1300石まで加増された
文久 2年(1862)
・藩主容保に京都守護職の命が下る。父常徳は、容保に従って京都に上り政務処理にあたる
元治元年(1864)
・ 8月
 父常徳は病に倒れ帰郷。禁門の変直後に死去した
 京都守護職就任の内命を松平春嶽から受けたのは常徳である。秋月悌次郎、広沢安任を抜擢するなどし、幕末の京にあって会津藩を指導した

【ヨーロッパ歴訪】

家督を継いだ横山は、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として、海老名季昌とともに選ばれた

慶応 3年(1867)
・ 1月11日
 フランス船アルファ号に乗船し横浜を出港
・ 3月 7日
 パリへ到着した。パリでは先に渡欧していた同藩の山川浩、田中茂手記と再会している。欧米諸国の視察を命じられていた横山は、イギリス、プロシャ、オランダ、ロシアなどを歴訪した
 しかし日本では大政奉還が行われるなど会津藩を取り巻く情況は切迫。急遽帰国することになる
 風雲急を告げる
・11月 3日
 横浜港に帰着
慶応 4年(1868)
・ 1月
 鳥羽・伏見の戦いが勃発。幕府軍は大敗し、藩主容保は徳川慶喜と共に海路を江戸に後退
・ 2月
 藩主容保に従って会津に帰国、藩境守備の任に着いた

【白河口副総督】

横山は若年寄に任じられ、白河城防衛のため編成された会津藩部隊の副総督となり、総督西郷頼母を補佐することとなった

・ 5月 1日
 奥羽越列藩同盟軍は官軍の攻撃の前に敗勢となり、横山は稲荷山に現れた敵を攻撃しようと山を駆け上がったが、被弾のため戦死した。従者が遺体を収めようとしたが、弾丸が集中し、やむなく首級のみを持ち帰ったという
 行年22。零号は「常忠霊神」である
(参考文献;Wikipedia「横山主税」2013.05/21)
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白河戦争報告記に

(この記は白河本町庄屋川瀬才一が明治三年八月二十七日に白河県へ戊辰の戦況を報告した記録である。川瀬庄屋は弾丸雨注の中を侵して見聞したと言われているから実記と見るべきであろう)
 五月朔日卯の上刻、官軍勢五百人、九番町木戸外まで宵の間に潜み、彼所に潜みかくれ、夜の明を待ちて打出てたる砲声の烈しき人目を驚かす。此度は東京口・米村口・原方口・棚倉口を官兵方は四方より討入候故、会藩の手配案に相違し大に周章し、棚倉口の固、第一に破れ候故、挟撃ならんと心付候哉、桜町・向寺町に放火して引退く有様東西に廃れ、南北に走る其の混乱蜘蛛の子を散らすが如し。東京口・米村口・原方口一度に破られ、人数引上げの時登町に放火す。如此四方共に破れ惣崩となり候故、其の日の死亡六百八十三人
此の日の戦に会藩の副総督横山主税は稲荷山に奮戦中弾丸に中って倒れた。戦猛烈にして遺骸を収めて退くに遑(いとま)なく、従者の板倉和泉僅に首を馘(かく)して退いたという
(佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941))


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参考文献;Wikipedia「横山主税」2013.05/21
     佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)
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2013.05/19(SUN)

会津門 あいづもん
白河市白河城




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以下、現地の案内板から

会津門(あいづもん)跡

 小峰城に西側に設けられた会津町(※)の武家屋敷から三之丸への入口にあたる門で、会津町に通じる門のため、この名称になったようです。
 会津門は入口が南に向いて建てられており、高さ約7メートル、屋根は柿(こけら)葺きとなっていました。
 門の上に部屋はありませんが、二階部分の下部には「腰板並」と記載があり、一見すると腰板を装備した櫓門(二階は櫓・階下に門を設けた形式)に見える建て方をしていたようです。また城郭の外周にあたるため、門の周辺が石垣のほかは主に土塁となっていました。

※ 会津町の名称については、文化2年(1805)に完成した「白河風土記」によると、会津藩旧臣を召し抱えて住まわせた事に由来する、とあります。

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2013.05/18(SAT)

長州大垣藩戦死六名之墓 白河市松並




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写真;2013.05/17

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碑石一基、白河町松並にある。所謂九番町口にある。碑名に

慶応四年
薩長大垣戦死十三人之墓
閏四月二十五日

とあった(大正四年に小峰城の東、鎮護神山に薩藩戦死者七名の合祀後、長州大垣藩戦死六名の墓と改刻して現在に至る)。これは慶応四年閏四月二十五日の白河口戦争の第一線で、戦死した西軍勇士の霊位である
明治九年六月、明治天皇奥羽巡幸の折御車を駐めさせられて暫し弔われた
明治四十一年九月八日には、東宮嘉仁親王白河に行啓。松並にその霊を弔われた
--「戊辰白河口戦争記」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔--
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以下、現地の案内板から(2012.06/26)

 長州大垣藩六人之墓(松並地内)
 この墓には、慶応四年閏四月二十五日の白河口の戦いで戦死した長州、大垣藩将兵六名が葬られている。大正四年まで薩摩藩七名の戦死者も葬られていた。
 明治九年六月に明治天皇が、同四十一年九月には東宮嘉仁親王が立ち寄り供養された。
 平成十三年   白河観光協会
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慶応 4年(1868)
・閏 4月25日
 新政府東山道軍、参謀・伊地知正治、部隊長・野津鎮雄、川村純義(薩摩藩兵を中心とした大垣、長州、忍の各藩兵)は宇都宮から大田原まで進軍しており、すぐさま白河へ前進、白坂口を奇襲したが会津藩兵の迎撃にあい、損害を出して芦野(現那須町)へ撤退した

--参考文献;Wikipedia「白河口の戦い」・ パンフレット「戊辰白河口の戦い」--



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