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2013.04/30(TUE)

福島県立博物館
若松城三の丸の堀跡




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NHK大河ドラマ特別展「八重の桜」 5月17日(金)~ 7月 3日(水)
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平成25年(2013)
・ 4月26日
 会津若松まで「石部桜」を見に行く。折角なので若松城北出丸ほかを見た後、県立博物館を見学し、そこで遅い昼食(ビーフカレー)をとった。帰ってから気付いたのだが、博物館の東側には三の丸堀跡の位置が表示されているそうだ。次に行った際には見落さぬようupしておく

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 県立博物館の東側に「若松城三の丸堀跡」の案内板が立っていて、それには次のように書かれていると云う(未確認)
     *
『博物館建設に先だって行われた発掘調査によって検出された若松城三の丸堀跡である。さつきの花列は地下に眠る三の丸堀のりんかくをあらわしている』



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2013.04/29(MON)

石 部 桜 会津若松市一箕町八幡石部




会津五桜、石部桜

 現在放映中の大河ドラマ「八重の桜」のオープニングに登場する「石部桜」を見て来た ^^;)

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種 類  エドヒガン、樹齢 600年、市指定天然記念物、会津五桜
所 在  会津若松市一箕町八幡石部
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 この桜は中世会津の領主葦名氏の重臣、石部治部大輔の屋敷にあった遺愛の樹であると言い伝えられていることから、「イシベザクラ」と言われている
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※ 「八重の桜」のポスター
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2013.04/27(SAT)

秋月悌次郎詩碑 若松城三の丸




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以下、現地の案内板から

北越潜行の詩
 北越潜行の詩は、会津藩士秋月悌次郎が、戊辰戦争直後の明治元年十月、藩の減刑嘆願等のため、越後駐留中の旧友・長州藩士奥平謙輔に使いしての帰途、越後街道束松峠で、雀鴉乱れる廃墟を懐って感あり詠んだ詩。
 悌次郎は秀才の誉れ高く、藩校日新館から江戸昌平黌に学んでは舎長となり、帰藩後は日新館教授、次いで関西各地を歴訪して、広く有意の材と交わりを結んだ。
 文久二年(一八六二)、藩主松平容保が京都守護職に就くや公用人として上洛、その翌年、薩摩藩士高崎正風と図って文久の政変を起こし、尊攘激派の一掃に寄与した。北辺蝦夷地への謫居もあったが、会津藩落日前夜には開城の使者となり、明治元年(一八六八)九月二十二日には、緋毛氈に涙しつつ降伏式の執行をつとめた。
 時移り明治二十三年、熊本五校の教授となっては、同僚ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)から「神のような人」と敬われ、五校健児の胸に今なお「剛毅朴訥の人」の思い出を残し、波乱の人生に終りあらしめた。
 諱は胤永、韋軒と号す。一八二四生、一九〇〇没。
 平成十一年(一九九九)十月  秋月悌次郎顕彰会
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秋月悌次郎 略歴
 幕末期の会津藩の藩士で、明治時代の教育者である。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る

・文政 7年 1824  7月 2日 丸山胤道の次男として会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校・日新館に学び、南摩綱紀とともに秀才として知られた
・天保13年 1842      江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など諸国を渡る
・文久 2年 1862      藩主・松平容保の側近として仕え、容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ宮中クーデターである八月十八日の政変を起こし、藩兵を率い、実質的指導者として活躍した
・慶応元年 1865      佐幕派の反対を受け、左遷されて蝦夷地代官となる。その後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みるが失敗
・   4年 1868      戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には手代木勝任とともに会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍首脳へ降伏を申し出た。また小川亮、山川健次郎の2人の優秀な青年を、面識ある長州藩士の奥平謙輔に預けた。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において謹慎した
・明治元年 1868      会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となる
・   5年 1872      特赦によって赦免される。同年新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。晩年は東京に住んだ

 八雲は、悌次郎の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格を高く評価し「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」という意味のことを記述している
--引用、Wikipedia「秋月悌次郎」2013.04/28--
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秋月悌次郎を題材とした作品

中村彰彦/著 「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎(上下)」中央公論新社、平成16年(2004)/中公文庫、平成20年(2008)/新田次郎文学賞受賞
落花は枝に還らずとも(2013.05/02)
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有故潜行北越帰途所得 会津 秋月胤永

  行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
  國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
  治不奏功戦無略 治(ち)功を奏せず戦いに略なし
  微臣有罪復何嗟 微臣罪ありまた何をか嗟(なげ)かん
  聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明
  我公貫日発至誠 我が公の貫日至誠より発す
  恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)はまさに遠きに非ざるべし
  幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
  思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思えば夕(ゆうべ)晨(あした)に達す
  憂満胸臆涙沾巾 愁いは胸臆(きょうおく)に満ちて涙は巾(きん)を沾(うるお)す
  風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲は惨憺(さんたん)たり
  何地置君又置親 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん
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束松峠(たばねまつとうげ)
 束松峠は、福島県河沼郡会津坂下町と同県耶麻郡西会津町の境にある峠。福島県道341号別舟渡線が経由している
--引用;Wikipedia「束松峠」2013.04/28--
束松峠 1(2013.11/01)
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奥平謙輔(おくだいらけんすけ)
 江戸時代後期(幕末)から明治時代の長州藩士、志士。名は居正。号は弘毅斎。萩の乱の首謀者の一人

 略 歴

・天保12年 1841  1月21日 長州藩士奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた
・文久 3年 1863      下関戦争、先鋒隊士として参加
・慶応 2年 1866      干城隊に配属された
・   4年 1868      その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。会津藩降伏後には秋月から会津藩士の少年二人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団の工兵大隊長を務めた小川亮大佐である
・明治 2年 1869      越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年 8月には職を辞している

              郷里に戻ってからは攘夷論を説き

・   9年 1876 12月 3日 前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、斬首となった。享年36
--引用;Wikipedia「奥平謙輔」2013.04/28--



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2013.04/27(SAT)

鶴ヶ城跡と桜の花




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以下、現地の案内板から

鶴ヶ城跡と桜の花
 「花は桜木、人は武士」と古言のとおり、鶴ヶ城跡は桜の花が実に美しく、多くの会津藩士の武士道が今にして偲ばれる。
 天守閣や石垣と桜の花は、とてもよく似合い、思わず「春高楼の花の宴・・」と土井晩翠の名作『荒城の月』の歌を口ずさむ。
 しかし会津藩時代の城内には、桜ヶ馬場以外に桜樹は殆んど無かったという。
 今日のように、桜の花がらんまんと咲き乱れる”花の鶴ヶ城”にしたのは、近くに住む遠藤十次郎(現夢先生一八六三~一九三五)の尽力であった。
 会津松平家からお城跡の管理・整備をまかされていた十次郎は、明治四十一年、城跡の近隣に陸軍の歩兵連隊が新設された記念に、同志とともに鶴ヶ城跡内外に染井吉野の桜苗一千本を植樹することを考え、率先して奉仕作業をしながら、その成果を見守った。
 十次郎はその後、爆発で岩石だらけだった裏磐梯を緑と野鳥の楽園にした植林作業をも苦心して成功させ、”裏磐梯の父”と仰がれた人物であるが、私たちは彼のような先輩を郷土の誇りとするとともに、この鶴ヶ城跡をいつまでも美しく保ってゆくよう努力していかなければならない。
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2013.04/26(FRI)

照姫稲荷
若松城三の丸付近、「鶴ヶ城会館」の敷地か?




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以下、現地の案内板から

照姫稲荷
 この稲荷神社は照姫稲荷と呼ばれています。照姫は上総飯野藩二万石九代保科正丕(まさもと)の三女として生まれ、故あって松平容敬(かたたか)の養女となりました。松平容保の義理の姉にあたり、戊辰戦争の籠城戦では、六百余の婦女子を総指揮して、寝る間も惜しんで炊き出し・傷病者の看護・城内に打ち込まれた砲弾の処理(火災の防止)・弾丸の製造等に力を尽くしました。
 照姫神社はそんな照姫の会津藩を守り抜こうとした逞しい姿勢や人々に対する愛情にちなみ、防火・家内安全・商売繁盛のご利益があるとされ、多くの人々に愛されています。

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※ 照姫(てるひめ)

天保 3年(1832) 12月13日 飯野藩(現千葉県)九代保科正丕(まさもと)の三女として生
             まれる
  13年(1842)      11歳で会津藩主松平容敬(まつだいらかたたか)の養女となる
嘉永 3年(1850)      18歳で豊前国中津藩(現大分県)十万石の奥平昌服(まさもと
             )に嫁ぐ
安政元年(1854)      離縁
慶応 4年(1868)  2月   会津藩江戸総引揚げにより会津に入る

             戊辰籠城戦では、城内婦女子の心の拠り所となり、傷病者の看
             護の指揮監督ををするなどし結束して鎮静を保った

         9月22日 開城後、妙国寺に。容保と養子の喜徳(のぶのり)とともに蟄居
             した
明治元年(1868) 10月19日 容保ら、東京へ護送
   2年(1870)  3月   照姫、東京青山の紀州藩邸預けとなる
        12月   飯野藩預け替えとなる(27年振りに実家藩邸で起居することに
             なる)  
  17年(1884)  2月28日 小石川の保科家において死去。53歳(東京正受院に埋葬)
大正 6年(1917)  8月20日 会津藩松平家墓所に改葬された
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2013.04/23(TUE)

南湖神社 なんこじんじゃ
福島県白河市南湖県立自然公園(南湖公園)




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松平定信(楽翁)像(2012.09/25)
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南湖神社

 南湖神社は、福島県白河市にある南湖県立自然公園(南湖公園)に鎮座する神社。祭神は松平定信(神号は守国大明神)
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大正 9年(1920)
・ 5月10日
 後に初代宮司となる中目瑞男の呼びかけにより、地元市民や定信を崇敬する人々、また渋沢栄一の支援もあり、神社設立が認可となる
大正11年(1922)
・ 6月11日
 竣工し、御鎮座大祭が行われた

例祭; 5月 3日・11月 3日
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松平定信

 松平定信は、江戸時代の大名、老中。陸奥白河藩第三代藩主。定綱系久松松平家第九代当主。江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の孫に当たる

宝暦 8年(1758)
・12月27日
 御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。母は香詮院殿(山村氏)で、後に御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となる

 幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれていた
安永 3年(1774)
 意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって久松松平家の庶流で陸奥白河藩第二代藩主・松平定邦の養子とされてしまった

 一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である
 同じ久松松平家の伊予松山藩主松平定静が、田安家から定信の実兄定国を養子に迎えて溜詰に昇格していたため、定邦も溜詰という家格の上昇を目論んで定信を養子に迎えた。家督相続後、定信は幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった

白河藩主就任
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天明 3年(1783)
 白河藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である。それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった

 教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる

享和元年(1801)
 文化においては、日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した

--参考文献;Wikipedia「南湖神社、松平定信」2013.04/23--



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2013.04/21(SUN)

遊行柳 ゆぎょうやなぎ
奥州街道芦野宿




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以下、現地の案内板から

遊 行 柳 
 諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(一四七一年)時宗十九代尊晧上人が当地巡化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
 いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。
     那須町教育委員会
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以下、現地の案内板から

謡曲「遊行柳」と朽木柳
 謡曲「遊行柳」はその昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
 夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞を通して念仏の利益を見せる名曲である。
 朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の時、使用の杖が根づき「朽木柳」「枯木の柳」と呼ばれる巨木になったとの説がある。
 星移って遊行十九代尊皓上人巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという、何代も植え継がれて来た。
     謡曲史跡保存会
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芭蕉の句碑
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 田一枚植ゑて立ち去る柳かな
     芭蕉
 元禄二年(一六八九)四十六歳の作だそうである
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2013.04/18(THU)

長沼城址 福島県須賀川市長沼




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以下、現地の案内板から

市指定史跡
長沼城址(千世城・牛臥城)
     昭和四十三年四月一日指定
 文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。
 その後戦国時代、ことに永禄三年(一五六〇)頃上り、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・芦名氏の激突が続いた。 遂に永禄九年(一五六六)芦名領となり、芦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、芦名氏の会津防衛および仙道攻略の拠点となった。
 天正十七年(一五八九)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌十八年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣秀吉が、八月七日長沼城に宿営している。このとき蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。
 慶長三年(一五八九)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同五年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。慶長六年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。
     平成二十一年十月一日
     須賀川市教育委員会
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長沼城址の桜

 管 理 者  須賀川市
 所 在 地  福島県須賀川市長沼字日高見山
 開花時期  4月中旬から下旬

サクラの特徴
 お城山(長沼城址・須賀川市指定史跡)に植えられた種類の異なるおよそ三百本ほどの桜は、満開時ともなると競い合うかのように全山を淡いピンク色に染め、訪れる人たちの目を楽しませてくれます。
 乱世風雲の時代が偲ばれる城址が淡いピンク色に染まるとき、「山間の小さな城下町」にも遅い春が訪れます。

 概要
 樹齢 … 約80年
 樹種 … ソメイヨシノ、彼岸桜、ヤマザクラ
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2013.04/18(THU)

道谷坂陣跡




平成25年(2013)
・ 4月16日
 白河から会津街道を北上。勢至堂峠に向う途中にあった陣跡である。案内板があって、そこには配置図もあったのだが、現地と見比べても何処がどうなのか見当もつかない
     *
 山、里にはサクラが咲いて、初夏の風が程よく気持ち良い

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以下、現地の案内板から

道谷坂陣跡(どうやざかじんあと)
     所在地  須賀川市江花字踏掛
     所 在  安土・桃山時代
 道谷坂の陣については、江戸時代に会津領内の城や砦等を収録した「会津要害録」の中で「道谷坂ノ隘口」として、「(上略)慶長五年ノ秋上杉景勝公矛盾ノ頃モ坂ノ隘口ニ土手ヲ築キ(下略)」と記されています。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の頃、会津一二〇万石を治めていた上杉景勝は家臣の直江兼続とともに、徳川家康率いる上杉氏討伐の軍勢を迎え撃つため、白河口を中心に大規模な防塁や陣を構築しています。
 この時の上杉軍の布陣を記したとされる「白河口戦闘配備之図」(米沢市立米沢図書館蔵)に「長沼」、「勢至堂」、「景勝公陣所八千人」の記述があり、この道谷坂陣跡が上杉軍の陣所であったことが想定されています。
 現在、道谷坂陣跡には、土塁や空堀、平場等の跡が残り、当時の様子を伺い知ることができます。
 また、道谷坂陣跡の東、およそ六キロメートルには、上杉氏が関東口の押さえを目的に戦略上の拠点として整備を行った長沼城があり、現在でも中心部の山城部分のほか、城を取り巻くように配置された三重の堀と土塁の一部を見ることができます。
     平成二十一年三月 須賀川観光協会
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2013.04/17(WED)

歴史散策太閤の道




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勢至堂峠、藩界表石(2013.04/16)
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歴史散策太閤の道
 至会津横三間之海道可作之事(秀吉朱印状)
 秀吉天正十八年(一五九〇年)八月八日長沼城から下る
 仮定県道等茨城街道大改修により明治二十八年(一八九五年)廃道
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 頂上の藩界表石まで十五分
 下りも五百メートル長沼町□□□水に至る



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