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2013.03/27(WED)

桝 形 鶴ヶ城北出丸
ますがた




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写真;北出丸桝形、2013.03/12

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以下、現地の案内板から
ますがた
桝 形
 ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。
 若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(桝形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門)がありました。
 この桝形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。
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2013.03/23(SAT)

大日如来石仏像 会津中街道板室宿(板室本村)




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板室本村(2012.07/14)

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写真、【大日堂外にある大日如来石仏像】2013.03/23



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2013.03/21(THU)

天守台、塩蔵




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写真、【籠城戦当時のまま現存する塩蔵内部の石積み】2013.03/12

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天守台、塩蔵

 天守台(天守閣をのせる基壇)の内部には蔵が作られ、俗に「穴蔵」と呼ばれた。通常は一階であるが、鶴ヶ城は二階の仕組みで、此処には常時千七百余俵の塩が蓄えられていた。海を持たない山国の会津で、塩は特に貴重であり、籠城戦ではかけがえのない食料品であった
 塩のほか、籠城戦では、良く煮て十分に乾燥させたタニシが蓄えられていたと云われている

--参考文献;佐藤恒雄「鶴ヶ城を歩く」1998年 9月19日発行、歴史春秋出版株式会社--



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2013.03/19(TUE)

西出丸




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写真、【西出丸北側の石垣】2013.03/12

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写真、【西出丸】2013.03/12

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西出丸

 もとは本丸の西につながる馬出しであったが、寛永十六年(1639)加藤明成の代に出丸として大改修され、これにより西の防禦は一層強化された。本丸帯郭とは梅坂で繋がり西大手門を通じ、大町通りに続いていた
 この出丸には塩硝蔵、漆蔵、蝋蔵、玉薬蔵等があった。幕末、会津藩が京都守護職に就いた時、出費がかさむことから幕府の許可を得て金銀吹所を設け、一分・二分・一両通の三種の銀判を鋳造して軍備を助けた。維新後も明治政府により正規の貨幣として公認された
   *
※ 今は駐車場となっている

--参考文献;佐藤恒雄「鶴ヶ城を歩く」1998年 9月19日発行、歴史春秋出版社--



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2013.03/18(MON)

御三階跡




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写真、【御三階跡】2013.03/12

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以下、現地の案内板から

御三階跡(おさんかいあと)
 ここには本丸唯一の高楼建築「御三階」がありました。
 藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられます。
 戊辰戦争(1868)でも焼失することはありませんでしたが、戦いの後、戦闘によって本堂を失った市内の阿弥陀寺へ建物は移築されました。
 大正年間に城跡公園として整備が始まってからも、建物のあった石垣は残り、会津若松市としては将来、再び往時のような姿でよみがえらせることも含めて、城跡全体の整備計画の中で検討しているところです。
 現在は、石垣が積まれたところやその周囲の地面の中に、むかしのことを知る手がかりがあるかもしれないとして発掘調査が行われています。
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2013.03/18(MON)

太鼓門(大手門)




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写真、【大手門(追手門)】2013.03/12

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以下、現地の案内板から

太鼓門
 北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、そこには多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、胴の径五尺八寸(約一・八メートル)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから太鼓門と呼ばれていた。
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2013.03/17(SUN)

田中玄宰ゆかりの地「藩校日新館跡」




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写真、【日新館跡の標柱】2013.03/12

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以下、現地の案内板から

まちに歴史あり
--会津の先人たち--
田中玄宰(たなかはるなか) 寛永元年~文化5年(一七八四~一八〇八)
 田中家は代々会津藩の家老を務めた家柄。中でも、寛永時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名なのが田中玄宰です
 会津藩は天明2年、3年(一七八二~三)に大変な冷害を受けました。特に天明3年は餓死者も出るほどの大飢饉となり、藩も膨大な赤字を抱えました
 儒学を学び、34歳で家老になった田中玄宰はこの時、藩主・松平容頌(かたのぶ)に藩政の抜本的改革を願い出ますが、許されず一度は職を辞します。しかし、天明5年に再び家老に任命され、天明7年にもう一度藩主に改革案を提出、認められ有名な「寛政の改革」が実施されます。玄宰がすすめた殖産興業や軍政・学政改革は、多方面で大きな成果を上げます。特にその功として、のちに白虎隊士らも学んだ「藩校日新館」の設立があげられます。日新館は日本三大藩校に数えられ、優秀な人物を輩出しました。玄宰の改革が文武ともに天下の雄藩と呼ばれる礎をつくったのです
 「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言によって小田山山頂に墓があります
     会津若松市観光協会
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田中玄宰墓(小田山)(2015.10/17)



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2013.03/14(THU)

干飯櫓 ほしいやぐら
甦る鶴ヶ城「干飯櫓の復元」




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写真、【左から走長屋、鉄門、南走長屋、の先に「干飯櫓」】2013.03/12
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以下、会津若松市干飯櫓復元資料から要約

干飯櫓(ほしいやぐら)
 干飯櫓は若松城内にあった十一の二重櫓の中で一番大きく、天守閣につながる重要な位置に建てられた櫓である。会津藩の文献資料である「家世実紀」では「糒櫓」とも書かれており、米を備えると書くその字のとおり、糒(干飯)などの食糧の貯蔵庫として使われていた

明治 7年(1874)
・開城後、この年迄に天守閣を始めとする全ての建物が取り壊された
昭和40年(1965)
・天守閣再建
平成 2年(1990)
・茶室「麟閣」が移築復元された
平成 8年(1996)
・「史跡若松城跡総合整備計画」を策定(市)
平成10年(1998)
・ 2月
 干飯櫓、南走長屋の復元工事着工
 昭和40年に天守閣が再建されたが、干飯櫓と南走長屋を復元することで、鶴ヶ城が持つ歴史的空間をより実感できるように、との考えである
平成13年(2001)
・ 4月
 竣工
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2013.03/14(THU)

山本覚馬・新島八重生誕の地




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写真、【山本覚馬・新島八重生誕地】会津若松市米代1丁目・2013.03/12
 西出丸先、日新館跡地の南方にある

 山本覚馬(1828~1892)新島八重(1845~1932)の生家はこの場所とされています。父 山本権八は会津藩砲術師範で、屋敷内には砲術の練習場があり、八重の夫、川崎尚之助も山本家に寄留していたと思われます。
隣家には白虎隊に入隊した伊東悌次郎がおり、山本家で八重にゲベール銃の撃ち方を習いました。また近所には日向ユキ、高木時尾が住んでおり、一緒に裁縫を習っていました。(現地案内板)
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以下、現地の案内板から

山本覚馬・新島八重生誕の地

 会津藩士・山本覚馬(一八二八~一八九二)は、砲術師範で日新館教授。一八六四年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に移住。鳥羽・伏見の戦いで囚われるが、その見識を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献する。一八七五年、新島襄と同志社英学校(現同志社大学の前身)を創立した。
 覚馬の妹・八重(一八四五~一九三二)は、砲術が得意で、白虎隊には八重が指導したという若者も入隊した。戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。城明け渡しの前夜、城壁に

 明日の夜は何国(いづこ)の誰かながむらん
 なれし御城に残す月かげ

と簪(かんざし)で刻んだ。
 一八七一年、兄を頼って京都に転じ、一八七六年に新島襄と結婚。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めた。兄同様に、京都でキリスト教に入信。ともに洛東・若王子(にゃくおうじ)の同志社墓地に眠る。
 なお、この碑は、この附近にあった旧山本家を記念するため、宮崎家のご支援を得て建立し、
一九八九年五月三〇日に序幕した。

     学校法人 同志社
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2013.03/13(WED)

鐘撞堂 かねつきどう
鶴ヶ城籠城戦




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写真;2015.09/02
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以下、現地の案内板から

鐘撞堂(かねつきどう)
 時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は延亨四年(一七四七年)若松の鋳工早山掃部介安次(そうやまかもんのすけやすつぐ)等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。
 戊辰の役(一八六八年)には、ここに西軍の砲火が集中し、時守相ついで斃れたにもかかわらず、開城の最期まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。
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