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2013.02/26(TUE)

二・二六事件
昭和11年(1936) 2月26日-- 2月29日




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※ 投降を呼びかけるチラシ

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平成25年(2013)
・ 2月26日
 寒かったり雪が降ったりして史跡を見に行く気になれない。そこで、二・二六事件をネットで見ていたところ、事件首謀者の一人である磯部浅一(陸軍軍人、国家社会主義者、陸軍一等主計)の獄中手記に「…藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして…」とあった

※ 藤田東湖は江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者、東湖神社の祭神。水戸天狗党の首領、藤田小四郎は東湖の四男
※ 奚んぞ(いずくんぞ)
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二・二六事件

場 所   東京府
日 付   昭和11年(1936) 2月26日から 2月29日
概 要   大日本帝国陸軍青年将校が1483名の兵士を率い政府中枢を襲ったクーデター未遂事件
兵 器   機関銃、拳銃、銃剣、軍刀
死亡者   松尾伝蔵
      高橋是清
      斎藤実
      渡辺錠太郎
負傷者   鈴木貫太郎
他の被害者 警察官 5名殉職、 1名重傷

--参考文献;Wikipedia「二・二六事件」(2013.02/26)--



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2013.02/21(THU)

黒羽、八雲神社 栃木県大田原市黒羽田町 501




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神社の階段
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※ 写真、「黒羽八雲神社」・2013.02/19


栃木県大田原市黒羽田町に鎮座する(旧黒羽町)
主祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)。例祭は毎年 7月20日
慶長 5年(1600)
・字大宿と称する地から現在地に移転した
宝永 2年(1705)
・大修理、例祭には藩主大関家より祭祀料として玄米五斗八升の奉納があったという
明治43年(1913)
・拝殿を新築した
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2013.02/20(WED)

大関増裕公像 おおぜきますひろ




黒羽藩第15代藩主(2012.10/22)
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 黒羽神社にある大関増裕公の胸像である
改称
※ 昭和22年(1947)2月、宗教法人法の制定により黒羽護国神社は「黒羽神社」に改称された
※ 官祭黒羽招魂社(のち黒羽護国神社から黒羽神社)は、明治2年12月(西暦1869年)に慶応戊辰の役で戦死した黒羽藩士等47名の霊を祀るため、黒羽藩主大関増勤公らにより黒羽田町に創建された

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2013.02/19(TUE)

黒羽神社 黒羽護国神社
併せて「興野隆雄と興野家文書の世界」




平成25年(2013)
・ 2月19日
 黒羽芭蕉の館・平成24年度企画展
 近世黒羽の林政家「興野隆雄と興野家文書の世界」が開催されている。これを見て後「黒羽護国神社」に参拝

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興野隆雄(きょうのたかお)

黒羽藩の重臣。造林方法を研究して、実生苗の育苗方法を黒羽藩内に定着させ、スギ造林の基礎を固めた。その集大成が、「太山の左知(とやまのさち)」であり、嘉永二年(1849)に発表された。机上の空論ではなく実地体験によるものであった
18世紀後半には那珂川の水運の発展から江戸経済圏に取り込まれ、その需要を満たそうと、丸太ではなく板材で出荷するために、大径スギ材を生み出す2間(3.55m)間隔での植林を推奨した

1町歩 750本という粗密度での植林を理想とした

寛政二年(1790)生まれ、文久二年(1862)没。生涯に植えたスギの木は18万本以上とのこと

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黒羽神社(黒羽護国神社、黒羽招魂社)
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以下、現地の案内板から

黒羽神社(通称・黒羽招魂社)の歴史について

・ 黒羽神社は、明治2年12月(西暦1869年)に慶応戊辰の役で黒羽藩士等47名の戦死者の霊を祀るため、黒羽藩主大関増勤公らにより黒羽田町に官祭黒羽招魂社が創建されました
・ 明治8年4月(西暦1875年)には関東では館林、宇都宮、黒羽の3つの神社が、太政官達に依り「官祭招魂社」となりました
・ 明治27・28年(西暦1889~1890年)に日清戦争の戦死者の霊が合祀されました
・ 明治37・38年(西暦1904~1905年)に日露戦争の戦死者の霊が合祀され、合計150柱となりました
・ 昭和14年4月(西暦1925年)には内務省令による護国神社制度の制定により黒羽招魂社が「黒羽護国神社」に改称されました
・ こうして、日中・太平洋戦争の戦死者を含めて現在までに1,983柱の霊が合祀されてきたところであります
・ 昭和22年2月(西暦1947年)に宗教法人法の制定により黒羽護国神社から「黒羽神社」に改称されました
・ 昭和37年9月には昭和30年2月の2町2村の合併後はじめて、明治維新以来の戊辰・日清・日露・日中・太平洋戦争等に殉じられた戦没者の慰霊に努めることを目的として「黒羽神社奉賛会」が設立され、今日に至っています
・ 黒羽神社の社殿・参道・境内の一部は、昭和28年から宗教法人黒羽神社が所有し、黒羽神社奉賛会がその管理運営を行うとともに、毎年10月13日に「黒羽神社例大祭及び戦没者慰霊祭」を行っております
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2013.02/17(SUN)

四斤山砲 よんきんさんぽう
Canon de montagne de 4 rayé modèle 1859, Canon de montagne de 4 La Hitte




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1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲である。「四斤」とは、砲弾重量が4キログラムであることを意味する。日本でも幕末から明治初期にかけて主力野戦砲として使用された

山砲として設計された本砲は、砲身が短くて射程などは四斤野砲に比べて劣ったものの、軽量で機動性に優れていた。分解すれば馬2頭に駄載することが可能で、山岳地帯での運用に適していた。一方、野砲では馬 8頭が牽引に必要だった

日本での使用

四斤山砲は、幕末の日本にも導入され、戊辰戦争から西南戦争にかけての主力野戦砲として使用された。オランダからの情報で輸入が始まり、幕府陸軍をはじめ薩摩藩などの各藩が洋式野戦砲として導入した。輸入品ばかりでなく、後述するように国内でのコピー生産も行われた。日本で最初に本砲を実戦使用したのは幕府陸軍で、慶応 2年(1866)の第二次長州征討において使用した

諸元

 重量   218kg(全備)、100kg(砲身)
 銃身長  0.96m
 口径   86.5mm
 砲身長  0.96m
 砲尾   前装式
 反動   駐退機なし
 砲架   単脚式
 仰角   -9°~+16°
 初速   237 m/秒(榴弾)
 最大射程 2,600m

--参考文献;Wikipedia「四斤山砲」2013.02/15--



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2013.02/15(FRI)

大田原城本丸西の土塁




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板室・三斗小屋・大田原城の戦い(2012.06/21)
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 桜の咲く頃、ここから城下を眺めたら気持ち良さそうだね!
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以下、現地案内表示から(再掲)

大田原城跡

 天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。
 東西 210メートル、南北 327メートル、面積 9.1ヘクタール。
 本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外、北・西両曲輪・馬場・作事場等、築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。明治5年(1872)兵部省に引渡され取り壊された。
 慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同9年新たに造営した。
 戊辰の役には西軍の軍事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬかれた。
 明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年嗣子千冬(司法大臣)が、これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場となっている。
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・比高約25メートルの龍体山に築かれた平山城
・大手は西の奥州街道に面する
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2013.02/14(THU)

千石倉跡 大田原城跡




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現地の説明表示

城詰米蔵とも公倉ともいう。徳川幕府は譜代並の扱いを受けた外様大名に命じて、その居城に幕府の米を詰めさせ、年々詰め替えをさせたものである。これらは外様大名を睨んだ全国各地の軍事的な重要拠点に配置されてている。
当城のものは、寛永四年(1627)三月に貯蔵させた蔵跡である。

※ 「城附御詰米蔵」のとこ
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2013.02/13(WED)

大田原伏見稲荷神社




平成25年(2013)
・ 2月13日
 大田原神社に併設する形である大田原護国神社を見ようと出掛けたのだが、見付からない!
 で、近くにある大田原伏見稲荷神社を

以下、現地の案内板から
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御祭神
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

御事歴
 倉稲魂神とも申し速須佐之男命の御子で御母は大山津見神の女神大市比売命であります。
 食物の事を掌り給う事を本質とし農工商水産あらゆる殖産興業の守護神として、私共の生活のすべてに御神徳を垂れ給う大神様であります。

御創建
 昭和五十一年春旧大田原藩主一清氏の嫡孫晴康氏から同家累代の家宝として伝えられてきた鉾が寄進せられた。
 この鉾は平安の昔朝廷の信任を一身に集めた古今の名匠三条小鍛冶宗近の作であり宗近は伏見稲荷の信奉者で日夜祈願をこめて製作に当り幾多の名品を残した巨匠である。
 昭和五十三年秋御社殿を創建せられる。
 総本営(京都伏見稲荷神社)の御分霊をも御鎮座奉斎されました。
 この境内地はもと龍城山稲荷神社の跡地で藩主とも深い...

例大祭日
     大田原伏見稲荷神社
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宇迦之御魂神

ウカノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
(Wikipedia「宇迦之御魂神」2013.02/13)



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2013.02/06(WED)

八槻都都古別神社 棚倉町八槻
やつきつつこわけじんじゃ



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馬場都都古和氣神社(2012.11/15)
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随神門
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随神門から本殿を
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■ 御由緒
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延喜武内社で陸奥国白川郡の明神大社であり、奥州一の宮の旧国幣中社である。
日本武尊の御創建にかかわり、祭神は味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)で相殿に日本武尊が合祀されている。
伝記によると「日本武尊東夷征討の時高篠山に陣を取り、八満山の夷と戦うこと数度、敵強制にして屈せず、天地神明に祈り給う時味耜高彦根命が現れ、尊を助け、この国を護らんと宣せられ給うよって力を得て一気に夷を討ち平らげた」とある。
南郷北郷合わせて18郷に近津大明神を通じて農業を殖産した。
■ 祭礼日
       歳 旦 祭    1月 1日
       節 分 祭    2月 3日
       御田植祭  (旧正月 6日)
       祈 年 祭    3月 1日
       新 嘗 祭   11月23日
       例 大 祭  (12月の第 2土・日曜日)
       霜月大祭  (12月の第 2土・日曜日)
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2013.02/05(TUE)

塙代官陣屋跡 福島県東白川郡塙町




元治元年(1864)
・10月
 水戸天狗党田中愿蔵は八溝山に逃れて潜伏したが、塙代官所の手の者によって捕縛され同地内久慈川の川原で斬首された
※ 愿蔵に関った、この代官所の跡が小規模ながら残されていた

以下、現地の案内板から
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 塙代官陣屋跡

   塙町指定  昭和五十一年二月十二日
   所 在 地  塙町大字塙字本町□五-二

 陸奥代官塙陣屋は、江戸幕府が、享保十四年(一七二九)二月、塙の近隣五万石余を直轄地とし、竹貫(石川郡竹貫村)に陣屋を開設し、同年九月、塙に陣屋が移された事により始まる。
 塙に陣屋が移された理由は、塙の地が常陸太田街道、平潟街道沿いに位置し、久慈川流域の年貢米の輸送の便、更には奥州外様大藩のけん制、或は、江戸防衛の重要な地点に位置するためと考えられ慶応四年(一八六八)四月まで置かれていた。
 塙陣屋の敷地面積は、五四三四㎡、建物面積は一一三四㎡余で、堀を巡らし、「表御門」をくぐると、「御殿」と代官の住居を兼ねた建物が南東に面して中心をなし、その北東には、「元締長屋」と「公事方長屋」、御殿真後ろに「手代長屋」と「物置」、南西に「板倉」があった。
 また、表御門前には、「年番所」が置かれていた。
     塙町教育委員会
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