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2013.01/31(THU)

大田原神社 栃木県大田原市




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以下、現地の案内板から

御由緒

大同二年の創建で、大田原藩祖大田原備前守資清大田原城築営に当り、城郭内に祠(ほこら)を建て、二神を奉齋し祭田百石を寄せて、奉賽の典を厚くした。
爾来庶民の参拝の便を図り、金田村中原の中宮に、中田原温泉(ゆせん)大明神と称し奉遷し、更に該丘上に移し、温泉神社を改めて大田原神社と称した。
明治三十七年現在地に奉遷すると共に神域の拡張整備をなし、清浄たる別天地を画し、大田原の総鎮守として現在に至る。

御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)  素盞鳴命(すさのおのみこと)
    少彦名命(すくなひこなのみこと) 大山祇命(おおやまづみのみこと)
祭礼日 例大祭 九月十五日
    八雲祭 七月十五日

 一四、九九五坪
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石灯篭  平成元年 5月22日 指定

 この石灯篭は、大田原神社の灯篭列中にある一対の常夜燈である。塔高170㎝、台座40cm×40㎝、宝珠、笠火袋、棹、台座を具備し、大袋の台には麻葉の文様が刻され花弁がある。
 棹には「奉獻湯泉社」「永代常夜燈」「江州日野住中井氏光武寄進之」「寶曆十二年壬午年正月吉日、信洲福島村住、石工井口包矩作」
 常夜燈としては、特筆する特色をもつものではないが、江州商人中井氏が大田原を拠点として商圏を北関東、東北に拡張していた過程を示す、貴重な資料である。

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2013.01/30(WED)

大田原神社、大田原護国神社 栃木県大田原市




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「翠嵐先生追慕之碑」

貴族院議員正三位勲四等子爵大田原一清篆額
下毛有君子曰印南君翠嵐明治四十五年一月二十四日以病卒門人故舊哀慕哭泣咸曰表我翠嵐先生君諱博文後更嵐號翠嵐其先播州印南郡人因氏焉世那須大田原神社祠官列士班考諱博厚妣鈴木氏君其次子也襲父職叙従五位下任壹岐守幼就藩儒金枝柳村受業稍長遊於磐城棚倉藩校才華煥發徳譽曰茂明治維新之初擢命藩校時習館文學教授而君竊有感於時勢遂辞祠官私開興風塾丁帷授業其設科皇漢爲經緯以講忠孝之義英語為羽翼以養時務之材從遊者前後三千餘人循循雅飾隨身成器君色和貌肅可畏而親其接人不設城府從容談笑襟痩豁如家素富裕常自奉甚儉而慊慊為人救窮恤乏是以一郷慕其徳而服其人嗚呼可謂有道之君子也平居嗜酒温克不亂醉輙賦詩澹宕雅雋亦自可觀焉晩年頗愛玩刀劍書畫然不至於喪志也室平野氏生一男四女長曰銀太郎嗣女皆配人末女夭君歾時年七十又七頃日門人故舊胥謀欲録君之遣
徳以壽子石來謁余文乃掲以銘曰
     造士鑄人 以資啓沃 温乎徳光 生髑芻如玉
     大正甲寅三年十二月 豐城居士渡邉重石丸撰
     瑞巖窟 平元峻谷書
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2013.01/25(FRI)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う

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慶応 4年(1868)
・ 5月15、28日
輪王寺宮公現法親王、後の北白川宮能久親王、五月十五日彰義隊が上野の戦で敗れると、宮は寛永寺を御出立になられ、幕府の軍艦長鯨丸にお乗り遊ばされて奥州に落延になられた
五月二十八日、常陸の平潟に御上陸。奥羽同盟の磐城の各藩重臣は色を正して宮を迎え奉った。宮の平潟御上陸の御扮装は浅黄色の法衣を召された。平潟甘露村の慈眼院で緋の衣に替えられ、深網笠にて御顔を隠し給ふ。従僧としては彼の豪傑寛永寺の別当覚王院義観である。常に宮の御側を離れなかった
・ 5月28日
  6月 1日
五月二十八日、本多能登守の泉舘に御一泊、御伴三十人、本多家より御見送の士一百人、正午泉藩を御発駕。平飯野八幡神社領、高月台の社司飯野盛容邸に入らせ給ふ
翌六月一日には平藩主安藤家から七百両、飯野氏より百両の献金があってこれを御用途に充てられた
・ 6月 2日 - 7月12日
斯く磐城三藩の御警護によって宮は上市萱村庄屋阿部宅に御泊の上小野新町に御着、神俣・大越を御通過、熊耳(くまがみ)街道から三春に御着。時に六月二日。三春藩主秋田万之助後見秋田主税出てゝ奉迎、龍穏院に御泊
三日、土棚を経て本宮に御着。四日、中山峠を越えさせ給ひて五日猪苗代御着。六日若松御着。御滞在。六月十八日、若松御発。檜原の険を越えさせられて二十日米沢御着。二十七日米沢御発。二十九日白石城御着。七月二日仙台に入らせ給ふ。時に御年二十二歳
宮は令旨を奥羽の諸藩に下して薩長の罪を算(かぞ)えられ、君側の姦を払ふべしとの事となった。諸藩は相謀って親王を推して軍事総督と仰いだ。七月十二日白石城に御出陣せられ仙台藩警護の任に当たる。此に於て朝廷は断然伊達・上杉の官位を褫った。宮の令旨は奥羽軍の士気を振はせた

仙台藩記に云
 七月二日、輪王宮、会津若松より仙台に転輿。城北仙岳院へ入輿。慶邦父子及び重臣其他奥羽列藩の家老共に至るまで面謁す

また仙台藩記云
 七月十二日奥羽列藩家老共会議の上、日光宮を促し軍事総督と称し、守衛の兵隊を付属し、刈田郡白石城まで出陣、各藩軍議す

此の頃白石城には各藩の重臣が出席してゐた。棚倉藩からは西村吉太夫等が出席してゐる
七月十五日には棚倉藩老侯葆眞(ほうしん)公が白石城に到って法親王に謁してゐる
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2013.01/24(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十章 西軍白河に滞在

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慶応 4年(1868)
・5月 1日~ 7月
五月朔日の大戦に西軍は全く白河城を回復し、白河市中に入る(白河城は前述の如く、奥羽鎮撫使世良修蔵在城、二本松藩及三春藩これを守る。然るに閏四月十八日世良参謀去るに及んで会津藩は白河城を取り、五月朔日には西軍が白河城を回復したのである)。西軍は五月の初から七月頃にかけて白河に滞在したものである
本町の芳賀本陣は西軍の病院に当てられた。皇徳寺も病院であった。銃丸の傷は竹製の水鉄砲で焼酎消毒をして荒縄で治療したといふ。当時の小銃丸は今日のものと違って直径一糎(せんち)四粍(みり)乃至一糎五粍、長さニ糎七粍乃至三糎もある鉛玉所謂椎の実玉であるから荒縄で治療したことも首肯される(当時尖頭弾丸を椎の実玉といった)
白河登町の大島久六氏宅には後の大山元帥(当時彌助)、天神町の菱屋には後の野津元帥が宿泊した。野津元帥は時に病に罹り菱屋飯田すいに世話になりたるを徳とし、元帥になられてからも同家に音信が屡々あった。先年元帥の女婿上原勇作閣下が来白、須釜嘉平太氏に一泊の時、専念寺の菱屋の墓に詣で義父の旧恩を謝された

 今南湖神社に奉納されてある上原閣下揮毫の「里仁為美」の額はすいの妹に当る大谷せいの奉納である。大山元帥は砲兵隊長として九番町口を攻め、五月朔日後は白河二番町酒屋大島久六方に滞在と同元帥伝にも見えてゐる

本町の佐久間平三郎氏宅は当時油製造を業としてあった関係上、イゴ煎釜が長州藩の兵糧部に利用されたといふ(イゴとは荏胡麻のことで油を搾る原料である)。大工町の吉成房次郎氏宅には薩藩の軍楽隊が滞在した。同氏の母堂かね媼は僅かに六歳であったが、今に太鼓の形や、笛の音を記憶してゐると語る。同氏には薩州四番隊金穀方と書いた大箱が保存されてゐる。大さは幅一尺四寸、深さ二尺、長さ三尺で、松材の五分板作りで左右に紐通しがある
年貢町の大槻佐兵衛氏宅は大垣藩の本陣であったので、戦後も長く大垣藩士との間に音信があった
松井幸太郎氏の父の宅は当時松並の権兵衛稲荷の前にあり、薩藩の宿舎であった。薩藩が白河を立って会津に向ふ時、永らく御世話になった形見にと陣羽織の裏地を置いて行かれた。今に同家に保存されて戊辰戦争の記念物となってゐる。その裏地は呉絽地で猩々(しょうじょう)が書かれてある
天神町今井清吉氏には、官軍御用の木札がある。表に官軍御用と記し、裏に官軍の二字が烙印されてある。材は杉、形は長方形で幅三寸、長九寸、厚四分、これは西軍が貨物に刺してその所有を明にしたのであらう

中町の荒井治右衛門氏には弾薬を入れた器物の蓋が残されてある。一尺一寸位の矩形である。黒地に朱漆で丸に十の字がある。薩藩の遺品である
天神町の藤田氏の記録に西軍の身支度を記して

 官軍の身支度は賊軍とは大に異なり、隊長及び卒・人夫に至るまで身軽にして、単衣着に白木綿のヒコキ帯を締め、刀一本落差にして羽織・袴等を着用せるものなく、小具足等は尚更無之。云々

西軍の服装に就ては長寿院の什物として保存されてゐる当時の薩・長・大垣・土・佐土原・館林の諸藩の忠死者百余人を描いた総髪姿の絵が最もよく説明してゐる
白河地方に今に残されてゐる服装談は、西軍は膝きりの単衣、中にはツツッポダンブクロ、坊主頭、銃は元込め、阿部様は陣笠で袴を着けた。概して和洋折衷の服装であったといふ
町内の商売は子供や婦女子は在方に避難したが、各戸相当に商ひをしてゐたものである。年貢町大谷鶴吉氏では味噌が売れたといひ、二番町の八田部万平氏などでは酒屋であったが、戦争が始まると酒は売れぬが、戦争が止むと売れたものだといふ
五月六日に、白河町問屋常盤彦之助が薩藩に殺された。白河町の常盤は、阿部の常盤か、常盤の阿部かと呼ばるゝ程の勢力を有したもので、徳川時代に於て住山・大森・大塚・芳賀の旧家と共に白河町年寄を勤め且つ問屋で地方道中取締の要職にあった

白河年貢町石倉サダ媼の談
 常盤の旦那が殺されたのは五月六日であった
中町の常盤の旦那の家には、大森町年寄や、夫の林蔵や、新宅常盤が居合わせてゐた
真夜中薩藩士二人が来て、旦那を用事あるによってと連出し、松坂屋横町、今の中町から手代町に通る横町にかゝると、旦那を二人の間に挟んで、後から斬殺した。即ち暗殺であった。旦那の首は大手前広小路に梟された
兼てから常盤家に別懇であった大工町の井筒屋の主人が、旦那の首を其の場から関川寺に持行き胴と共に火葬にして埋めた。井筒屋の主人の罪は問はれなかった。旦那の伴をした長吉は直に此の暗殺の由を常盤家に知らせると大騒となった。夫の林蔵はこれを久田野に避難してゐた奥様に知らせた。これから常盤家は勢至堂に避難した。戦争も止んだ十月になって常盤家では空棺で葬儀を行った

 序(ついで)に白坂村の大庄屋・本陣で問屋を兼ねた白坂市之助暗殺の事を記さう。市之助は江戸の御家人であるが、白河町年寄り大森家の養子となり、白坂宿の白坂家を嗣いたものである。閏四月二十五日西軍のために呼出され白坂宿の町はづれで殺された
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2013.01/22(TUE)

「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑
あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ




平成25年(2013)
・ 1月22日
 天狗党、田中隊の参謀土田衡平をネットで探していたところ、秋田県の広報誌にたどり着いた
「あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ」である
 以下、これを引用してupする

「碑(いしぶみ)の周辺」(第7回)土田衡平の碑
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藩主と脱藩浪士と

 維新前夜、日本の国情はむしろ騒然たるものがあった。勤王か佐幕か、はた擁夷か開国か、現状にあきたらず何らかの変革を望む雄藩のあいだでも、互いの思惑が麻の如く乱れて、去就が容易に定まらなかった
 この間、急激に結論を求めて行動に走った人たちの中には、志を得ずして消えていった人が少なからずあった。その多くは脱藩して浪士の身に甘んじながら、悠久の大義の前に殉じていったのである
 そうした一人に、わが矢島藩の土田衡平(つちだこうへい)がいる
     *
 戦前、矢島町の小学校では、講堂の正面に平田篤胤、佐藤信淵と並べて、もう二つの肖像を飾って全校生の師表とあおいだものであった。その一つは、矢島の最後の藩主(十三代)生駒親敬(ちかゆき)であり、もう一人は、土田衡平である
 ともに勤王の志厚く、生駒親敬は明治元年戊辰の役のさい、弱冠十九歳の年少ながら、東北諸藩が幕府側に組したにもかかわらず、いち早く勤王の決意を表明した。のち秋田藩が勤王に藩論を統一したので、やがて庄内軍と一戦をまじえることになり、一時は庄内の軍火に全町が焼かれるという厄にあったが、この戦功により八千石から一万五千二百石に加増され、生駒藩の有終を飾った人である
 片や殿様に配するに、土田衡平は一浪人にすぎない。天誅組の乱、筑波天狗党の乱と尊攘運動に参加して、二十九歳の花の命をあえなく散らした青年であるが、勤王の先駆者として歴史上に大いなる炬火(たいまつ)を点じた人として、今は郷里矢島の町に碑とまつられているのである

祖先を忘る勿れ

 矢島小学校は、町の中心地、生駒氏の陣屋のあった小高い地にある。校庭の端に、さらに一段の高処(たかみ)があり、そこは矢島神社の境内であるが、その校舎寄りの杉木立ちの中に、土田衡平を顕彰する碑がある
 題額の「勿忘汝祖」というのは、天狗党の乱の時に彼が組した田中隊の「義」「皇恩勿忘」などとならぶ、旗じるしの一つであった。いうまでもなく、田中隊の参謀たる衡平の選んだ言葉である
 碑文は「矢島藩士 土田衡平伝」とあって、宮内省蔵版「殉難録稿」よりの要約
末尾には
 白露の霜と変れる今ははや君が衣手うすくなるらん
という辞世が刻まれている
 四十一年十月、土田衡平の百年忌にあたって、矢島町郷土史研究会(伊豆甚兵衛会長)の提案から、かねて土田崇敬の念のあつかった大井直太郎町長を会長とする顕彰会が誕生、ほとんど全町民の寄付によって建立されたものである
     *
 土田衡平は天保七年(一八三六)七月二十二日、矢島藩士土田又右衛門の子として生を受けている。出生には、佐藤ふよの私生児という異説もあるが、ともかく幼にして父母に死別、親戚の金子七左衛門のもとで育てられている
 幼名を覚七、又は久七、久米蔵といった。久米蔵少年はいわゆる神童の誉れが高く、たとえば彼の算盤は"二度計算はさせない"という評判であった。ある時代官と競技し、三度まで二人の算盤の答えが違ったが、彼はガンとして正解を主張してゆずらず、怒った代官が改めて難問題を出してその答えを教授格のものに調べさせたところ、やはり彼の一回の計算に誤まりがなかったというエピソードが伝えられている
 算盤ばかりではなく、書道、和歌、俳句、漢学をはじめ、柔術は因州の島源蔵に関口流を学んで奥儀をきわめたといわれている。剣は、父又右衛門がその道の達人と称されたから、当然その血をひいていた

安政大獄の年に脱藩

 安政元年(一八五四)十九歳のとき、衡平は藩の選抜で江戸藩邸詰めを命ぜられ、留守居役書記を勤めることになる
 安政元年といえば、この年一月にペリーが再び軍艦七隻をひきいて神奈川沖に来泊、幕府はついに下田、函館の二港を開くにいたった年である。いっぽうでは吉田松陰、佐久間象山が捕えられ、諸藩の志士もようやく勤王にめざめて東奔西走の動きをみせはじめ、国家はまさに内憂外患こもごもいたるという激動の秋であった
 多感な衡平の目に、こうした社会状勢がただ漫然としたものに映ろうはずはなかった。次第に勤王に目を開きつつあった彼は、そのうつぼつたる志気を押えがたく、安政大獄の起った安政五年、ついに脱藩して皇事に身を捧げることに踏切った
 彼は身に二刀のほか、筆と硯をたずさえるのみだった。その脱藩の動機について、ある日江戸家老の加川氏と国事について論争、その熱意あふるる弁舌で相手を屈服させたことから、加川家老は、藩にこのような過激思想の持ち主がいては家の不為(ふため)として暗殺をはかったことを知ったためといわれるが、真偽のほどは明らかではない
 しかし、脱藩後の衡平が京都に行き、生駒家の菩提寺妙心寺に身をよせて法務を代理しているところをみると、加川家老は衡平の俊才とその生きるべき道とを知って、庇護をくわえていたのではないだろうか

天誅組の乱で散る

 京にあって衡平は、藤本鉄石に学んだ。鉄石その人は文武ともにすぐれ、とくに天心流独名流の剣と長沼流の兵学において知られていた。文久三年(一八六三)八月十四日、わずか三十余名で京都から大和へ討幕の兵を進めた、いわゆる天誅組の乱は、十九歳尊攘派の公卿中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎、三河の松本奎堂、そして藤本鉄石が中心人物である。土田衡平も、三十余名のなかの一人であった
 八月十七日、彼らは大和五条の代官所を襲って代官を斬った。その翌日である、いわゆる公武合体派による尊攘派排撃のクーデターが起ったのは。天誅組の蜂起はタイミングを失した。彼らは十津川に南下し、そこで"朝命"と称し十津川郷士千人の味方を得たものの、まもなく鎮撫の諸藩兵に挟撃されて、ようやく大阪の長州藩邸に逃げのびた中山忠光ら七人を除いては、藤本鉄石らすべて戦死か捕えられ、天誅組はあえなく潰滅したのである
 もっとも衡平は、藤本鉄石の門にあったまま天誅組に参加したわけではない。そのころ岩倉具視や三条実美ら尊攘派の公卿とも交わりを深くしていた彼は江戸の情勢をさぐるとともに、さらに学問の道を深めようと、いったん江戸に帰っている。そして昌平黌(しょうへいこう・幕府直轄の学校、当時の最高学府)の儒官古賀茶渓の久敬舎に入った
 そこで机を並べた一人に、越後長岡藩の偉材河井継之助がいる。河井は戊辰戦のとき長岡藩家老の職にあり、嘆願書を出して局外申立をはかったが容れられず、ついに賊将の汚名の下に死んだが、その器量は抜群の人といわれた。その人となりについては、最近司馬遼太郎が小説「峠」に描いている

河井継之助墓(2014.08/06)

変名し足利に雌伏

 久敬舎で二人は衆に抜きんでていた。河井に兄事した人に足利の鈴木三郎があり、河井が四国松山に儒者山田方谷を訪ねて西遊するときまったとき、鈴木はこののち誰を師とたのむべきかと問うと、河井は「それは他ない、土田衡平ばかりだ」と答えている。この時、河井三十六歳、衡平は二十四、五歳であろうか
 そして、天誅組の敗北から運よく死をまぬがれた衡平が、どうにか辿りついて身を寄せた先は、久敬舎時代にもかくまわれていた鈴木のもとであった。三郎の父千里は足利藩の医師だが、水戸の藤田東湖と通じ国事に奔走した人だった。三郎の十歳ぐらい下に園女(のち峰岸姓)という妹がいた。この人は昭和三十年ごろに亡くなったが、生前"上田衡平伝"に関して、貴重な数々の証言をしている。本文に掲げた衡平の肖像も、園女の証言からモンタージュ的に、矢島出身の絵師小野彦松が描いたものである。小野の父元佳は藩医で、ことに藩主親敬に勤王を説いた人として有名である
 園女はまた、衡平が鈴木邸にかくまわれていた時は「秋田」と変名していたこと、その志士的情熱を敬慕して彼に恋心を寄せた女性のあったこと、などを語っている。藤本鉄石も足利を訪ねており、おそらくこれが天誅組への勧誘であったろう。明治二十年に刊行の菊亭静著「錦の御旗」という小説には、同盟血判して天誅組に加わった土田兵庫のことが、くわしく描かれている

田中隊の名参謀

 天誅組の乱の翌元治元年(一八六四)三月二十七日、こんどは水戸藩の藤田小四郎(東湖の四男)を中心に、水戸町奉行田丸稲之衛門を総裁とする二百余人が、先君徳川斉昭の遺志を奉じて尊王攘を実現しようと挙兵した。筑波山に集結したので筑波隊とも、また異名を天狗党とも称されている
 この騎兵隊長に田中愿蔵がいる。昌平黌で安井息軒に漢学を学び十九歳で帰藩すると、那珂郡野口村にある藩校時擁館の館長となった俊才である。挙兵のときわずか二十一歳、しかも彼の徳を慕い、たちまちにして五百余人、しかもほとんど若者たちがその傘下に馳せ参じたほどの傑物であった
 衡平は他藩浪士ゆえ隊長にはなれなかったが田中隊参謀として終始愿蔵と行動を共にしている。二人の出会いのいきさつは不詳だが、矢島出身の土田誠一(元成渓高校校長)の「調査資料」によれば、藤田小四郎が軍資調達のため足利の鈴木千里を訪れて初めて衡平と知るが、この時彼は回天の機尚早として勧誘を固辞した。しかし田中愿蔵に強要されて、乱の途中からこれに加わったことになっている
 これに対し前掲「錦の御旗」は、先に衡平が天誅組に参加せんとして一面識にすぎぬ愿蔵に五十両の借金を申し入れ、逆に百両を貸し与えられた厚誼にむくいたものとしている

相馬の地に斬らる

 秋口にいたり、天狗党は分裂した。もともと攘夷が目的で倒幕の意志は弱かったので、急進過激な勤王派の田中愿蔵は、作戦上の食い違いもあって本隊を除名され、孤立して別行動をとることになった。しかし衡平の知謀よく、彼らは善戦した。その転戦の模様を今くわしく述べる紙幅を持たないが、各地で幾度か二本松勢を敗走させた戦は痛快で、九月十八日は助川(今の日立市)の城を占領した
 だが、その時期には衡平と愿蔵とのあいだにも、思想上か作戦上の齟齬(そご)があったようで、助川占領の前に衡平ら少数の者は那珂湊から東北へ脱出し再起をはかろうと試みている。しかし船は難破し、七人が漂流して相馬藩中村の仏浜へたどりつき、そこで捕えられた
 相馬藩の助命嘆願むなしく、衡平は同年十一月五日、斬首の刑に処された。享年二十九歳、辞世の歌には、稗に刻まれたもののほか
 徳川の濁りに身をや沈むとも清きその名や千代に流れん
 古もかかるためしを菊水の流れくむ身となるぞうれしき
 の二首がある
 衡平の遺骸は、相馬市内の向上に葬られたが、その忠死をあわれんだ雲洞寺住職がのち寺内に移し、裏に辞世を刻んだ碑を建てたという
 助川の城は、九月二十七日に千六百の追討勢に囲まれた。愿蔵ら三百五十余名は城に火を放って八溝山に逃れたが、戦はこれまでであった。各自に残りの軍用金を分配し、隊を解散してこもごもに下山した。これがかえってわざわいした。金を目当てに麓の農民たちに捕えられて密殺されたものが多く、逮捕の記録には百七十二人しかなかったといわれる。愿蔵は十月八日に斬罪さらし首の刑を受けた。時に二十一歳の若さである

町では叙勲運動中

 天狗党の一件は、数多くの小説に描かれている。戦後でも中山義秀の「黒頭巾異聞」や大仏次郎の「夕顔小路」があるが、昨年劇団民芸の上演した三好十郎作の「斬られの仙太」は天狗党の乱を農民の側から描いて武士階級--権力の側の非情と残離を告発したものであった
 最近作にユニークな時代作家として売出した八切止夫の「元治元年の全学連」がある。水戸の私学塾に学ぶ若い学生を主力の挙兵を現代の全学連になぞらえた発想だが、虚実とりまぜのもとより小説にすぎない。しかし土田衡平の智謀ぶりは、全篇にわたって描かれている
 ただ、峰岸園が「先生はなかなかの美男子で、目が丸くかわいらしく、くちびるの色のよい人で、子どもながらに美しい人だと思いました」と語るその容貌が、八切止夫によれば「土田はみつ口で眼がけわしく」というのは、いかなる資料によるものだろうか
 天狗党は、運用金調達のため豪商から金をまきあげた。一味には野州あたりの博徒くずれも加わっていたし、何かのいきさつで栃木の町を全焼させたのも天狗党の悪名となっている。しかし、天狗党のこうした犠牲があったからこそ、やがて維新の大業は果たされたのである
 いま矢島町では、土田衡平の叙勲について運動中である。明治二十四年十一月五日、法名、大極院義鑑忠衡居士は靖国紳社に合祀されてようやく名誉を回復したが、現在、他の田中隊の志士のなかには正五位、従五位を贈位されている人も少なくなく、町民たちは、せめてその程度の贈位をもって国家が衡平の勤王の赤心を認めてくれる日を待ちこがれている

1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2013.01/21(MON)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第九章 五月朔日の大激戦

慶応 4年(1868)
・ 5月 1日
五月朔日の白河口の激戦は、我が国戦史上での激戦の一つであらう
東軍は二十五日の勝報を得て白河城に兵数を増した。仙台藩の大番頭坂本代炊・佐藤宮内・瀬上主膳到り、一柳四郎左衛門もまた到る。棚倉藩平田弾右衛門も兵を率ゐて之に会したので東軍の勢は頓(とみ)に振った

復古記によれば
 閏四月十八日、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵・参謀伊地知正治に移牒して白河城の急を報じ援を乞ふ。正治乃ち薩・長・大垣・忍四藩の兵を率ゐて来援す
又二十五日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して白河城に迫る。賊嶮に拠って抗拒す、官軍克(か)たず、芦野に退守す
又二十七日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して芦野に次し、将に薩・長・大垣三藩の兵の宇都宮に在るものを合し大挙して白河城を攻めんとす、因って土佐・彦根二藩の今市駅及び日光山にある者を分ちて宇都宮を守らしむ

西軍の二十五日の敗報が江戸に達して因州・備前・大村・柳川・佐土原の兵が来援することとなり、芦野の西軍は宇都宮よりの増援を得て其の数、七百余人、砲七門を以て白河に迫ることゝなる
閏四月二十九日、西軍来襲の報あり、之に対して東軍は遠山伊右衛門・鈴木作左衛門・小池周吾・小森一貫斎の会将・瀬上主膳の仙将・棚倉の平田弾右衛門等兵を以て桜町方面を守った
白河口方面には井口源吾・杉田兵庫・新撰組山口次郎等が向った
原方々面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加はって其の兵数合せて二千余人、砲八門であった(日向茂太郎五月朔日米村に戦死)。いよ/\五月朔日午前四時、西軍三道より白河城に迫る
其の一は薩・長・大垣の兵、砲二門を以て黒川村より原方街道に迫った
(原方方面のこの西軍の案内役を勤めたのは上黒川村の問屋内山忠之右衛門であった。五月十八日に至って会津藩は忠之右衛門宅に押入り之を捕へて会津に連れ行き入牢せしめ、八月二十二日に斬首せりと伝ふ。忠之右衛門時に年四十二歳。墓所は西郷村大字小田倉字備前にある。後、官より祭祀料一百五十両下賜)
其の二は本道を進んだ薩・長・大垣・忍四藩の兵である
其の三は白坂村より大平八郎を案内として南湖の南に出で桜町方面、棚倉街道に出た
斯くして東西両軍の大激戦となったものである
(五月朔日の東西両軍の砲数に就て大山元帥伝に、東軍は会二門、仙六門、棚倉二門、西軍は本道四門、黒川方面三門、桜町一門とある)

維新史料に云
 閏四月二十八日、白河城を攻むるの議ありしかど、果さず。五月朔日午前四時を進発の期とし、兵を三道に分ち、薩の二番隊・四番隊は、白河の南湖をめぐり棚倉街道に進み、三番隊、大垣一小隊は本道より進み、五番隊並に大垣・長州・各一小隊は白坂駅より左の方黒川村に進み、それより原方へ出づ。此の時本道已に戦を始む。是れ即ち最初の約束にして、敵をして本街道に力を用ゐしめ、左右の翼各々敵の背後に至らば、火を揚げて以て一時に攻撃を始むるものとし、其の距離棚倉街道第一なるを以て同所に火を揚ぐるを期とす。已にして烟(けむり)炎天を蔽ふ、仍って進んで大に奮激す。敵兵三面に敵を受け、防戦二時間余、猶砲台によりて守禦す、官軍進んで砲台に迫る。賊遂に潰走す。先是我が三番隊は迂回して長坂山の賊を追撃し、四番隊と合し、町口の台場を横撃す。於是賊兵大に潰乱す。仍て又一小隊を二分し、本街道の後山に登り背後を断ち四方一時に攻撃す。賊兵狼狽し進退途(みち)を失す、此の日首級六百八十二なり。四斤半の旋條砲を鹵獲(ろかく)す。これ嘗て米国の贈る所、当時我が国僅に二門を有す。これその一なり

元帥公爵大山巌伝には
 五月一日
 敵軍は其兵力優勢にして、仙台・会津・棚倉・旧幕兵等約三千に達するに拘らず、白河南側に陣地を構築して官軍を待てり。第一次戦闘後官軍は増加隊を得て、其数七百余に達し、三方面より白河を包囲攻撃せんとす
右翼隊は棚倉街道方面を迂回し、敵の左翼及び其側面に出づ、その兵力薩二・四番隊・臼砲一
中央隊は正面に於て陽攻し敵を牽制す、兵力薩砲二門・臼砲打手・兵具隊。大垣二隊、長原田小隊砲一門、忍藩砲一門
左翼は黒川方面より原街道に出で、敵の右翼を包囲攻撃す。兵力薩五番隊・二番隊・砲隊二門、長一中隊と一小隊。大垣二隊・火箭(かせん)砲一門。忍一小隊
払暁予定の如く諸隊前進し、午前六時頃中央隊先づ砲火を開きしに、敵全く正面に牽制せられ、しば/\出撃せんとす。此間両翼隊の包囲全く成り三方より敵を攻撃し午後二時に至り是を潰滅す
諸隊は白河を占領し、隊伍を整頓し其地に宿営す。官軍の死傷約七〇。敵は死屍六百余を残し、本街道並に諸間道より散乱退去し、会兵は遠く勢至堂附近に、仙兵は二本松に退却す。爾後官軍は同地に滞在して前進せず
これが西軍の記事である

南湖公園鏡山にある阿部藩の碑に
 五月朔日、官軍囲攻、城兵禦之、奮激戦闘自晨至午、雷轟電撃殺傷相当、而衆寡不敵守兵弾尽刀折、城遂陥、乃退守金山

白河町九番町口にある会藩の碑に
 白河城当奥羽之咽喉、為主客必争之地、我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩・長門・忍・大垣之兵来攻、相戦半日、我兵大勝、四藩の兵退保芦野。五月朔日、復自白坂・原方・畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗其鋒甚鋭。我将西郷頼母・横山主税各率兵数百、与仙台・棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地裂、而我兵弾尽刀折、三百余人死之。仙台・棚倉兵亦多死傷、城遂陥

白河戦争報告記に
(この記は白河本町庄屋川瀬才一が明治三年八月二十七日に白河県へ戊辰の戦況を報告した記録である。川瀬庄屋は弾丸雨注の中を侵して見聞したと言われてゐるから実記と見るべきであらう)
 五月朔日卯の上刻、官軍勢五百人、九番町木戸外まで宵の間に潜み、彼所に潜みかくれ、夜の明を待ちて打出てたる砲声の烈しさ人目を驚かす。此度は東京口・米村口・原方口・棚倉口を官兵方は四方より討入候故、会藩の手配案に相違し大に周章し、棚倉口の固、第一に破れ候故、挟撃ならんと心付候哉、桜町・向寺町に放火して引退く有様東西に廃れ、南北に走る其の混乱蜘蛛の子を散らすが如し。東京口・米村口・原方口一度に破られ、人数引上げの時登町に放火す。如此四方共に破れ惣崩となり候故、其の日の死亡六百八十三人

此の日の戦に会藩の副総督横山主税は稲荷山に奮戦中弾丸に中って殪れた。戦猛烈にして遺骸を収めて退くに遑(いとま)なく、従者の板倉和泉僅に首を馘(かく)して退いたという

(会津史談会誌に柴大将の談として「白河で戦死された、家老横山主税殿の葬式行列は殿様の行列にも見ない奴振りなどが出て、立派なものであった」と、記してある)
軍事奉行の海老名衛門などは龍興寺の後山で血戦し、為すべからざるを知って自ら腹を屠って死んだ
寄合組中隊頭一柳四郎左衛門も死し、混戦状態となるや、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず。頼母決死進んで敵を衝かんとす。朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衝轡(くつわ)を把って諌(いさし)めて曰く、総督の死する時にあらず、退いて後図を計れと、頼母聴かず、時衝乃ち馬首を北にして鞭って向寺の方面に走らす、頼母遂に勢至堂に退く
棚倉藩の将阿部内膳は桜町口を守った所謂十六人組の勇将であったが、奮戦負傷し金勝寺方面に避難し遂に殪れた(金勝寺に避難する時、白河中町の商人五十八歳の小崎直助が力を添えて阿武隈河を越したといふ美談が今に伝はってゐる。小崎直助は白河町の旧家であり、阿部様出入の商人である関係上此挙に出でたものであらう)
「仙台からすに十六さゝげなけりゃ官軍高枕」
といふ里謡(りよう)が当時歌はれた
仙台からすとは仙台藩の細谷十太夫の率ゐた一隊で、須賀川地方の博徒百余人を募り衝撃隊と称し、神出鬼没、夜襲が巧で屡々(しばしば)西軍を苦しめたもので、黒い布で覆面し黒装束をして戦に参加したもので烏組の名がある。小田川村の宝積寺などが本営になってゐたものだと地方の人は話してゐる。西郷村の鶴生にも烏組が居って出没し、西軍を苦しめたとの話が残ってゐる
十太夫常に部下に謂ふ。「敵は銃隊であり、遠きに利あり、一二人斃(たお)るゝも意とする勿れ、先ず敵を衝け」と。西軍烏組に苦しめらる、これは五月朔日のみでなく、その後にも西軍を辟易せしめたのであった。十六さゝげとは、白河地方で栽培する大角豆(ささげ)の一種である。棚倉藩十六人組を指す。棚倉十六人組は洋式の軍装によらず、我が国古来の戎衣(じゅうい)兵器を用ゐ、甲冑に身を固め槍・弓矢での装束であったという
(棚倉藩決死十六人組の氏名左の如し)
     阿部内膳
     有田大助
     大輪準之助
     北部史
     志村四郎
     川上直記
     梅原彌五郎
     須子国太郎
     宮崎伊助
     鶴見龍蔵
     宮田熊太郎
     湯川賢次郎
     岡部鏡蔵
     村社勘蔵
     野村絢
     山岡金次郎
 有田大助は幕末の風雲に際し緩急に備ふるため、文久二年白河田町の刀鍛治固山宗俊に託して刃渡ニ尺六寸五分の名刀を用意した。この名刀は現に西郷村の鈴木市太郎氏が所有してゐる。此の種の用意は当時の武士には多かったことであったらう

五月朔日天未だ明けぬに西軍鼓譟(こそう)して路を分って迫り来る。仙台藩の参謀坂本大炒(おおい)は天神山に上って之を望む。時に西軍山に拠り、水に沿うて要路を扼してゐた。大炒先頭に立って命を下して突進し、敵を横合から衝いて西軍を辟易せしめたが、大炒が紫旗を林端に立つと飛弾雨注した。従者避くることを勧めたが肯んじない。決死の士十五・六人と阿武隈河を徒渉して進んだが銃丸に頭を貫かれその場に斃れた。僕の庄太夫これを背負うて逃れしも途に絶命し、今村鷲之助代って屍を擔ふて陣中に至ったので遺骨を漸く仙台に送るを得たりといふ。これが坂本参謀の白河口奮戦談である
曩(さき)に世良参謀を福島に暗殺するの計をなした仙台藩姉歯武之進の勇戦談もある。武之進は仙台藩五番大隊の軍監として瀬上主膳に属し白河に出陣し、奮戦するも仙軍利あらず退却の時、独頑として動かず、敗残の兵を指揮し自ら大砲を放ち、抜刀躍進したが弾丸頻に至り流弾に中って斃れた。これも五月朔日のことである

 今に地方に伝はる五月朔日の戦に就ての翁媼(おうおん)の談を記して見る

白河鍛冶町小黒万吉翁の談
 西軍で強いのは薩長、東軍で強いのは会津であった。戊辰の戦は会兵と薩長兵の戦であると言ってもよい。西軍は戦争は上手であったやうだ。兵器も西軍の方が新兵器を多く使った。又薩藩は一人でも二人でも銃の声を聞くと吾先に進んだ
五月朔日の戦の日、八龍神に水車屋を業としゐた□屋桝吉の妻が分娩後五日なので、八龍神の土橋下に避難してゐた。通り掛った西軍の士、赤児に勝軍太郎と名つけて、曰く官軍は町人や婦人には手は掛けぬ安心せよと。今に伝へて美談としてゐる

白河年貢町石倉サダ媼の談
 媼は当時十六歳
五月朔日、官軍は九番町、桜町方面から攻めて来た。会津様は敗れて血まみれになって町に逃げ込む。町の人達は老を扶け幼を負うて皆横町から向寺道を逃げたものだ。そのさまは大川の水が流れるやうであった。うしろを振り向く暇などあったものではない。躓くものなら倒れる。その狼狽さは何といふてよいか譬やうがない。今でも思ひ出すとゾットする。私達は向寺から根田・本沼を通って船田村の芳賀の親戚に身を託した

白河二番町の後藤みよ媼の談
 私が二十四の年だった。閏四月二十日に二本松様が白河城を守ってゐた所に、会津様が道場小路から攻入った。小峯寺の住職が鐘を撞いたので会津様に狙ひうちされた。二本松様は根田の方に退いて、会津様が白河城に入った
五月朔日には子供二人を連れて内松村の叔母の所に避難した。五月朔日の戦争の跡を見ようとして白河に来た時、九番町の所で大男の屍が路傍に横はってゐるのを見たが惨酷なものであった。内松を引あげて白河に帰って来たのは七月末頃と覚えてゐる。五月朔日の日はジクジクと雨の降る日であった

白河町熊本籐三郎翁の談
 私が二十一歳の年が戦争の年だ。白河城は明城で、仙台様は町固め、平様は市中廻り、三春様は木戸見張りの役であった
四月二十日に会津様が道場町から入って城を取った
四月二十五日、西軍と東軍との最初の戦で西軍が敗れた。四月二十七日には戦はない。五月朔日には大戦争があった。私は四月二十九日に棚倉に買物に行き留守をなし、その帰りは五月朔日、金屋町法雲寺の住職と上野出島で出会った。住職曰く、「大戦争である、白河に帰ってはならぬ」と。そこで私は桜岡の英助の家に行き、翌五月二日家に帰った。二日には勝負が決して至って穏であった
翁の談によって四月二十七日には戦争がなかったことがはっきりする。二十七日に戦があったようにも伝えられるのは誤である

西白河郡西郷村大字米の小針利七翁の談
 戦争の年は十五歳であったが。よく戦争は判ってゐる
五月朔日、米村に戦があった。当時米村は四十戸であった。皆会津様の宿をした。四百人からの屯所であった。私の家には十人も泊ってゐた。米村は会津贔屓であって何とかして会津様を勝たせたいと祈ったものだ。官軍は下新田の観音様附近に大砲二門を据ゑてドーン、ドーンとうった。会津様は立石に陣を取った
いよ/\米村の会津様が出発する。日向大勝(日向大勝は米村の兼子大庄屋に居られた)は陣羽織を着て、中山に官軍を激撃せんと指揮したが、官軍に狙撃されて死し、ために会兵の士気衰へ、米の南の田や堀を越えて米部落に引揚げた
この戦に会兵の一人が米の南で弾丸で腹を貫がれて斃れた。天保銭十三枚所持してゐた
仙台様は堀川の西南、古天神を守ったが破られて金勝寺に退いた。立石稲荷の前では会兵が十三人も討死した
この日に生捕になった東軍は、翌日に白河の新蔵の土橋や円明寺の土橋の所で斬られ、胴も頭も谷津田川に捨てられた。今円明寺の橋の袖にある南無阿弥陀仏の碑は、この供養のために後人の建てたものである

白河七番町青木やす媼の談
 私は十三歳
戦争となると馬に乗せられて、小田川村の芳賀須知の親の里に避難した。毎日親が迎に来るのを待ってゐた。十五日も立って白河に戻ると、また戦争となり此度は黒川の親戚に行った。芳賀須知では他所からも避難者が集って各戸人が一ぱいであった。戦争というものは本当にオッカネァものであった。白河に帰って見ると家は官軍様に占領されてゐて、私達は板小屋に寝起してゐた。官軍様は服を着てゐた。七番町の錠屋では炊き出しをした

白河町七番町の柳沼巳之吉翁の談
 私は十二歳
親は家に居たが、婦人や子供は在の方へ移った。武士は農夫には構わなかった
大平八郎が案内しなければ白河は破れなかった、大平の案内で桜町が破れ、それで九番町口も破れた。会津様が大平八郎を怨むのもわけがあることである

白河町桜町渡部泰次郎の談
 五月朔日の戦に東軍の士で十六七歳の者六人生捕となって桜町の街上に至ると、首を取るから首を差しのべよ。となった。六人の者何れも覚悟して西に向って手を合わせ立派に斬首されたといふ。その遺骸は町の人が寺小路の榎の下に葬った

著者が三神村酒井寅三郎氏に聞くに、海軍大将日高荘之丞閣下は白河口では白河町菖蒲沢で奮闘されたといふ。閣下は明治の晩年に数回に亘って矢吹の宮内省御□場に来り酒井氏に泊まられたのである

五月朔日の東西両軍の兵数に就て、復古記所載の五月七日白河口諸軍への達書に

 白河城乗取、大に朝威を賊地に振ひ敵鋒を摧(くじ)き、策違算なく、頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍(きんぜんようやく)の至りに不堪、天威之所為と雖、偏(ひとえ)に将士捐躬(えんきゅう)力戦功に非らずんば如何ぞ数倍の賊兵をして一時に敗滅せしめんや。云々

又復古記白河口戦記に左の文がある
 是より先、会津兵・旧幕府逋竄(ほざん)の徒等、白河城を陥る。既にして東山道総督府参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して之を克復す(五月朔日)賊退いて仙台・会津・棚倉等諸路に分據(ぶんきょ)し以て官軍の衝路を扼す。官軍亦兵を分ちて之に備へ、相峙(そうじ)して戦はざること殆どニ旬、此時に当り、仙台・二本松・棚倉・中村・三春・福島・守山等の兵前後賊軍に来り加はり、其の兵数凡そ四千五百人許に至る。而して官軍僅かに六百五十余人に過ぎず、衆寡敵せず、困りて援を大総督に乞ふ。是に至り大総督府東山道総督を更めて白河口総督となし、尋て応援兵を発遣す
 会津藩の白河出兵数は約千五百人か

五月十九日岩倉具定が東山道総督を免ぜられて奥羽征討白川口総督となり、同時に東山道副総督岩倉具経も奥羽征討白川口副総督となった
五月朔日の激戦地帯は、九番町口・稲荷山を第一とし、白井掛・薬師山・龍興寺の裏山・蛇石・藤沢等白河市街の南方丘陵地で、市街戦はなかったらしい(桜町方面に小戦があったといふ。今龍蔵寺境内にある仏像に弾痕あるを見る。この仏像は元西蓮寺のものである)
勝ち戦であった西軍の死骸は白河本町の長寿院に運ばれて回向(えこう)をした。長寿院の住職は豪胆で寺を守ってゐたので、この寺に運ばれたものだと伝えられてゐる。東軍は惜むべし、その死骸はそのまゝに遺棄せられて田圃に山中にあるを里人達に葬られて香華(こうげ)を手向(たむ)けられた。同情は勿論東軍に注がれた。後に至りそれ/\寺小路や花見坂や八龍神等に合葬されて里人に供養塔をも建てられた
九番町辺の民家には一軒に五人六人、白井文蔵氏の宅などには九人、その隣には十三人も自尽されてあったと言ふ。これは東軍の壮烈を物語るものである

大平八郎の間道案内
鎮台日誌第三に大平八郎の感状が載せられている。文に云
     大平八郎
 白川復城之節、棚倉海道間道筋案内、且白坂宿人場継立無滞致周旋(しゅうせん)、前後骨折奇特之至ニ候。依而手銃一挺下賜候事
     六月
官版の鎮台日誌に一農民が所載せられたことは栄誉とする所であった。彼も戦後、時々鎮台日誌第三を見よと豪語したといふ
然し会藩から見れば大平の案内がなかったら敗戦とはならぬと怨んだ
明治三年八月十一日会津藩士田辺軍次のために白坂村鶴屋旅館に大平は殺さるゝに至った。大平を殺した田辺はその場で切腹した。田辺の墓は白坂村観音寺にあったが、後白河九番町の会津藩碑の側に移された。観音寺にあった田辺の墓は、高一尺八寸、七寸角、操刃容儀居士とある碑で、大平八郎の子息に当る者が供養のために建てたもので、墓と共に松並の会津藩の側に移された
閏四月二十九日の夜、大平八郎は薩藩四番隊長河村與十郎(純義)に面接し、白河城討入の案内を託された。そこで白坂から五器洗を経、夏梨・十文字に出で、搦山の裏手に当る金山街道の蟇(ひき)目橋にかゝり、搦山の石切山で白河討入の合図の鋒火をあげ、桜町方面から入って東軍を破った。地理不案内の西軍にとってはこの案内が大成功の基をなした。その功によって大平は二人扶持となり、次で白坂町人馬継立取締役を仰付かり非常な勢力を持つに至った
白河町本町遲沢信三郎所蔵記録に
     大平八郎
     白坂順之助
     遲沢新左衛門
当分白坂宿取締人馬次立云々
  辰九月
     白河口
     会計官
この記録によれば大平八郎のみが取締役ではなかったものであろう
この方面の西軍の道筋は夜の中に石阿弥陀を通って土武塚、八龍神に出でたとも伝へられてゐて、幾筋にも通ったものであらう。西郷村の和知菊之助翁の談によると石阿弥陀から池下に出たといふ

白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
 田辺軍次が白河から白坂さして行く、皮籠原の一里壇の所に指しかゝった時、白坂から来た白河天神町の古物商大木某に出会った。軍次は何とかして大平を誘ひ出す工夫はないかと苦心してゐた時である。その日は雨が少し降ってゐた日なので、その商人に近づいて
 白坂方面の天気模様を尋ねた
大木は田辺のボロ袴を付け胡座を着てゐる醜き姿であるのを侮り、会藩士とは心得ずに
 何だかわからぬ
と答えた
武士に向って無礼をいふな、容赦はならぬと。なる
大木は恐れて白坂に引きかへし大平を頼んで一命を請ふことになって、当時会津藩の常宿であった鶴屋に詫を入れる
この話はいろ/\に伝はってゐる。千代吉翁は十二歳、畳職で父と共に鶴屋の畳替をした年だといふ
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2013.01/20(SUN)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第八章 白河口の戦争

慶応 4年(1868)
・閏 4月25日
閏四月二十三日奥羽同盟成り、福島に軍事局を置いて仙将坂英力(さかえいりき)これを督し愈々奥羽軍は西軍と戦ふことに決し、会藩もまたこれに加盟した
白河城が会藩の奪ふ所となったと聞えた西軍は、閏四月二十一日大田原を発し塩崎・油井・関谷の東軍を撃破して、二十四日芦野に宿した。東軍の間諜これを知り、鈴木作右衛門・木村熊之進・小池周吾・野田進等の会将等戦略を定め、白坂口へは新撰組隊頭山口次郎を先手とし遊撃隊遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口へは純義隊長小池周吾、原方街道へは青龍隊長鈴木作右衛門これに当って西軍の来るを待った
二十五日暁天、西軍来って白坂口を攻めたので山口次郎・遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦った
太平口の会藩部将日向茂太郎は進んで米村に在り、砲声を聞き急に進んで白坂口の横合から西軍に当った。砲兵隊長樋口久吾は白河九番町より進んで戦った。棚倉口より小池周吾、原方より鈴木作右衛門進撃、義集隊今泉伝之助・井口源吾等歩兵を率ゐて戦った。西軍は皮籠原(かわごはら)に散開して猛烈に東軍を衝いたが遂に三面より包囲され、西軍の参謀伊地知正治(薩藩)其の不利なるを知り、兵を収めて芦野に退いた
東軍勝に乗じて追うて境明神に至る。この日の戦、払暁より日中に亘り激戦数刻殆ど間断なかった
今に有名に語伝えられてゐるのは、この日の戦に薩長大垣十三人の首級(しゅきゅう)を大手門に梟(きょう)したことである。会藩はこの日士気大に振った
本道からの西軍は、小丸山・老久保・与惣小屋方面より寄来る。十三人は本隊より遥先に出で、白坂街道脇の用水堀に沿へ九番町口東軍の本塁に迫って、石橋下に潜み、稲荷山なる東軍を狙撃し多くの死傷者を出した。遂に東軍に捕らえられて斬首された

白河中町棚瀬利助翁曰く
 十三人の梟首は、大手門で、四寸割の板に五寸釘を打ちつけてそれに梟した。町々からそれ西軍の首を取ったといって、見に行くものが多く、大手門は黒山を築いた。戦慄しながらよく見た。首級に各藩の木札が付けてあったように記憶してゐる

維新戦役実歴談という書がある。これは長藩士の戊辰戦争の実歴談を編したもので、大正六年の出版である。同書中男爵梨羽時起の談に
 二十五日には僅かの人数であった。薩州の四番隊と、吾輩の二番中隊の小隊と、原田良八の小隊それだけで行って、其の他の兵は大田原に残ってゐたように覚えてゐる。白河の凡そ十町程手前に出ると、何時でも魁をするものが十人ばかりで先手の方でやってゐる小銃の音が聞える。敵は木や畳で白河の入口に台場を築いて小銃の筒を揃へて出てゐる。それで中々進まれなかった。その入口といふのは、双方が水田で細い畷手(なわて)道で並木がある。敵は向ふの低い山に畳台場を立派に拵へて畷手道へドン/\打出すから進めなかった。その中に左の方の後の方へ廻られて打出された。どうしても行かれぬので手前の山の所に戻った。所で先に行った十四五人のものはズット台場の下まで行って戦った。その中の半分は殺された
この時殺されたのは鹿児島の者と長州の者と半々と覚えてゐる。河村さんは右裏の方へ四番隊の中幾人かを連れて、黒羽藩を案内として行ったが道が分からぬので戻って来た。此の日は怪我が多かった。戦の終わったのは昼頃であった。芦野まで戻った。河村さんも一緒であった
全体二十五日には、伊地知さんは今日は僅かの人数であるから無理だといふたが、河村さんがヤレ/\と言ひ出してやったものだ
それから五月朔日に白河城を取ったのは人数を増して行ったからだ云々
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2013.01/19(SAT)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第七章 戦争当時の白河城

慶応 3年(1867)
   4年
戦争当時の白河城は明城であった。即ち城主の御留守の城郭であった
慶応三年に白河城主阿部氏は棚倉に移封され、慶応四年に至って復び阿部氏は白河に転封されたが、中止となって白河は明城を続けた。明城ではあったが、形からいへば今日の如き廃墟ではない。本丸・二の丸・三の丸があり、濠は深く水を湛へ、石垣の上には白い壁塀がまはり、数個の櫓が見えた堂々たる城郭であった。天主閣は白河城にはなかったが白壁塗の櫓や塀が遠くから白く望まれて実に立派な城郭であったと伝えられてゐる
白河郡栃本村の大庄屋根本家の慶応四年の御用書留帳に、阿部氏の慶応四年に於ける白河転封の事実が左の如く記録されてゐる

 此度棚倉より白河へ御所替につき、凡五十日の間人馬遣高二拾五人・二十五疋宛、釜子・金山両道□□□□日々遣払之儀、道中 御奉行領係来る二十一日より諸荷物差立に相成候旨棚倉表より御懸合並に頼談等相立候間、右両道継立人馬御領中一統之助人馬被仰付候間、先格之振合を以て令割賦(わりふせしめ)、継立向差支無之様取計可申候。以上
  辰二月十九日
  領奉行
    年番触元
        大庄屋
 右之通被仰出候間、此段御達申上候。以上
 三月廿日
        触元役所

移封の命によって阿部藩士は白河に移ったものもあり、棚倉に居残ったものもあった。中止となって白河に引移ったものは再び棚倉に引き戻った。若し阿部氏が慶応三年に棚倉移封とならずに白河城主であったとせば戊辰戦争はどう展開したものであったらう
(慶応三年阿部氏の棚倉移封は薩長の謀略に出づるものなりとも伝えられてゐる、阿部藩は当時新兵器元込銃二百挺を有し調練に努む)

慶応三年に阿部氏が棚倉移封となるや、白河領城付六万石は幕府の直轄となり、民政は小名浜代官森孫三郎が掌り、城郭は二本松藩の管理に属したのである
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
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2013.01/17(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第六章 会兵白河城を奪取

慶応 4年(1868)
・閏 4月16日
閏四月十六日、会藩は始めて大平方面に兵を出し眞名子(まなご)村に陣した。此頃の奥羽列藩の形成は白石会議既に成り、会藩討伐の意なく、只鎮撫総督の命を以て白河城に兵を置くに止まり、十八日には世良参謀は去ってゐる。此の機逸すべからずとして、閏四月二十日暁天、湯本口・羽鳥口に陣した会兵(丹羽長裕家記に会兵及び幕兵・彰義隊の兵とある)。その将小池周吾は搦手より、野田進は追手より白河城に攻入った。三坂喜代助は脇曲輪の女牆(じょしょう)を攀じ登って城内に入り城門を開いて会兵を導いたといふ
会藩兵先づ会津町に火を放ちて一挙にして城を抜いた。城中の兵驚愕狼狽城に火して根田方面に退却した。二本松藩和田右文城中に貯へて置いた弾薬が会津の有となることを憂ひて火に投じ、また千両箱は井中に投げ込んだと伝えてゐる(戦争後この井戸を浚って千両箱を探した者があったが何もなかったといふ。その後、この本丸の井戸は久しく埋まってゐたが、昭和十二年に旧に復した

 落城の時千両箱を舁(かつ)いだ話。後に白河の名町長になった大竹貞幹氏と川崎彌八郎氏が舁いた。大竹氏は代々城主に寒晒粉を納めた家で城中に出入しており、川崎氏は白河の名家川崎彌助の後で城中に出入して居った者である。その千両箱を舁ぐ時実に周章(しゅうしょう)したもので、前の者が立てば後の者が腰が立たぬ、後の者が立ては前の者が腰が立たぬといふやうな有様であった。三百年も太平であった当事の事で、大砲の音を聞えては全く腰がぬけて歩まれなかったものだと大竹氏が天神町の安田平助翁に後日話したといふ
 
鹿島の富山氏の記録に
・閏 4月20日
    21日
 四月二十日朝六ツ時、会津様御人数並に御旗本方都合百三十八人程と申す事、湯本・羽鳥村に固め居候処、二十日朝、米村より鉄砲を御城に打ちかけ候。白河城落城致し、丸の内残らず焼ける。家中は道場小路・会津町不残(のこらず)焼け、御城に固められた御人数千五百人根田に引くもあり、二本松藩は二百人許(ばかり)鹿島に引き俵籠の支度する様被申(もうされ)候処、その中に本沼まで引取。その中に白河城も静に相成候へば町方の者は申すに及ばず、近在の者まで丸の内の火消に参り候。この者共に御米蔵より米を下され候。町方の者は老若男女に至るまで皆貰ひ候。酒屋ではハンギリに酒を入れて表にて呑ませ候。質屋より品物を取出し皆呉れ候。廿一日、会津智慧様分にて番兵致し候。鹿島村はづれ文吉前街道にて篝火を焚き村方の者一軒一人づゝ出で焚き候。町方にても人足引出され、まことに末々どうなるものかと生きた空もなく仕事を致すいくじもなし、毎日唯日を暮し居候(富山氏の記録は大沼村鹿島の富山幸吉氏所蔵)
天神町藤田氏の記録に
 本城付の在米数千俵大庭御米蔵に貯蔵あり、兵火の為めに米蔵焼け落ちたるに、其の米は町民に与へるといふを聞き、二十日午後すぎには焼米の中より丸俵を掘り出し背負ひ来るもの蟻の卵を運ぶが如し、中には途中まで持ち出し、再び掘り出したるものを運び来る内に、他の者来りて持ち行くもあり、多きは三俵・四俵と運びたるものあり、それ故に戦争中貧民は飯米に差支たることなく、実に戦争の手始とて筆紙に尽し難し
二十日払暁、大砲の音するや戦争始まりたるを知り、家族一同家財を片付け、酒蔵の目塗の折、空飛ぶキュウ/\と砲丸の飛び行く音を聞き、慄然言語を発する事能はず、何れもウロ/\と立騒ぐのみ、空腹になりたれども飯食は更に通らず、水を飲むにも手足振ひて茶碗の水は飛出づる有様なり、宅には孫十郎と母と拙者のみ、奉公人は金之助・初蔵・宗兵衛・新三郎・孫三郎・下女イソ等都合十人なり、漸く昼過に至りて食事す。兄孫十郎は町役人なる為め会津の軍目付役と同行せり
・閏 4月21、22日
 二十一日、二十二日、市中一般表裏の戸明放しにて店飾は勿論、畳建具必要の外は夫々片付、今にも人家焼払の覚悟をなし居たり
・閏 4月23日
 閏四月二十三日、夕刻より徳川脱兵及び会津兵続々繰込み来り、寺院又は旅籠屋等に宿泊せり。武器は旧式にて火縄付鉄砲或は弓矢・槍等を多く持参せり
・閏 4月24日
 閏四月二十四日も同様繰込、徳川脱兵新撰組人数五百人位一に旗本の士なり。洋服又は野袴着用しあり。洋式鉄砲・ヘベル銃を携帯し頗る軍気を挙げたり

丹羽長裕家記云
・閏 4月20、21日
 閏四月二十日早暁、敵軍会兵・幕兵彰義隊等白河城外平藩・三春藩の警衛場なる会津町口・道場門を破り火を放ちて城中に侵入し頻(しきり)に発砲す、其の形況斥候の急報あり、城兵能くこれを防ぐ、然れども衆寡敵し難く防禦の術已に尽く、特に野村十郎城兵を指揮して本丸を自焼し遂に横町口を破って出づ、総軍根田に退く。敵兵白河を取る。城郭悉(ことごと)く焼失す。戦死一人(下士大友佐左衛門)

是日、醍醐参謀は郡山駅に抵り、将に白河に入らんとしたが、城の陥るを聞き二本松に引帰った
道場小路に火を放って会兵が白河城に迫る時、小峯寺の住職が梵鐘を搗いて之を報じた為めに、会兵に狙撃されて死んだ。と今に白河町に伝えられてゐる。白河城はその日の午の刻には全く落城した。之の戦に丹羽氏の家記に戦死者一人とあるのを見ても攻城の容易であり、城兵に戦意のないことが窺ひ知られる。此の日の会津方の兵力は百三十余人であったといふ。復古記には会藩の総兵三百人と註してゐる
翌二十一日には、下野・陸奥の両国の境に「從是北会津領」と大書した標を建てた。白坂村の石井勝彌翁曰く
 この標は丁度境明神の前に建てられた。西軍が入って来ると、この標を倒して進んだ
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
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2013.01/16(WED)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第五章 世良参謀福島に殺さる

慶応 4年(1868)
・ 2月16日
・ 4月 3日
慶応四年二月十六日朝廷は二本松藩管理の白河城を仙台藩に交付した。奥羽同盟の成立前、慶応四年四月三日仙台藩主伊達陸奥守の家来伊達筑前等官軍の先鋒となって白河城に入り市中の取締をなした。郡司代森孫三郎(旧小名浜代官)も白河城にあった(当時旧幕領の代官は朝廷の郡司代に任ぜられて其の民政に当ってゐたものである)
奥羽諸藩中鎮撫総督の命を受けて白河城に守備したものは仙台(三小隊)・二本松(兵員不詳)・棚倉・三春(二小隊)・湯長谷・泉・平等の諸藩である(督府は閏四月七日に平・泉の両藩に本月十日を期して討会応援として白河に出兵すべしと令してゐる)。二本松藩は城中に、三春藩は会津町の学館に、湯長谷藩は妙関寺に、平藩は常宣寺に屯営した
閏四月上旬、世良参謀は白河城本丸に入り奥羽鎮撫使の標札を掲げて号令し奥羽諸藩その指揮を仰いだ
・閏 4月18日
    19日
然るに奥羽同盟が結ばれ四囲形勢頗る険悪となるや、世良参謀は「奥羽皆敵」容易に鎮撫すべからずと考え、一方東山道先鋒の伊地知参謀に書を寄せ、急を告げて白河に援軍を求め、自らは仙台の総督府に往いて軍事を議せんと、閏四月十八日駕(が)を飛ばして福島に向ひ、十九日福島北町金沢屋に投宿した。福島に着したのは午後三時
この日仙台藩瀬上主膳・姉歯(しば)武之進等土湯口の荒井・鳥渡の陣を引揚げて福島に在った。これが世良参謀としては不運であったのである
前記の如く奥羽列藩は会津救解歎願書の斥けられたのを以て世良参謀の所為となし、奥羽は彼一人のために害を受くるとなし、列藩は皆彼を憎んだのである。固より大山・世良等の意図は追討にあったのだから、会藩救解の哀願の容れられないのは当然であった
世良参謀が福島金沢屋に入るや、福島藩鈴木六太郎を招いて、羽州出張の大山参謀(格之助)に送る密書を託し、明払暁(ふつぎょう)二人の飛脚を以て出発せしむべきを以てし、且つこれを仙台藩に洩す勿れといふた。これ姉歯の知る所となり、其の密書は瀬上主膳に提出されたのである

密書中に
 奥羽皆敵と見て進撃の大策に致候に付、乍不及(およばずながら)小子急に江戸へ罷越(まかりこし)、大総督につき西郷様へも御示談致候上、登京仕、尚大阪までも罷越、大挙奥羽へ皇威赫然致様仕度奉存候

・閏 4月19日
姉歯等この機を失はゞ後患来るべしとなし、急に計劃を進めた。金沢屋に投宿せるを幸に酒宴を設け、珍肴(ちんこう)を進めて遇した。瀬上・姉歯等福島藩の目明浅野宇一郎を通じ、即刻召捕るべき策を講じ、福島藩遠藤條之助、仙台藩赤坂幸太夫等をして、十九日夜三更(さんこう)に金沢屋の寝所に踏込ましめた。修蔵短銃を執って放たんとしたが発しない。立ち上って襖を背にすると、不運にもその襖が倒れて終に縛に就いた。参謀付属の勝見善太郎刀を振って対(むか)ったが仙台藩の田辺覧吉に其の場に斬られた(勝見は長藩で白河から伴い来た従者である)。斯くて修蔵は瀬上の宿である目明浅野宇一郎宅に引致されてしまった
姉歯押収の密書を示して詰る。流石の傑人世良も捕はれては弱くなる
・閏 4月20日
明けて二十日、宇一郎は世良を屋敷河原に斬った。屍は阿武隈河に投じ、首級は仙台藩大越文五郎見届の上、桶に入れ筵包みとなして奥羽越公議所の白石城に送った。白石城に着いたのは夜の四ツ半、仙台藩但木土佐これを城外月心院に葬る。世良参謀時に三十四歳
この参謀の暗殺は薩長の敵愾心を強めたものであったらう
記録に残る参謀の遺品調は
  一、刀一振
  一、短刀一振
  一、本込ニイール一挺
  一、ピストル一挺
  一、セコンド一
  一、蟇(がま)口一
  一、金五六十円
  一、紺縞木綿単衣(ひとえ)一
  一、蒲色(かばいろ)風呂敷一
奥羽人の世良参謀に対する余憤は七十年を経た今日尚熄(や)まぬものがあるが、世良参謀の傑士であったといふことは誰でも称賛してゐる
世良参謀が白河城に来り市中・市外を軽装で巡羅(じゅんら)し、其の画策を練るの時、誰も彼も参謀の胆力に服したものだと伝えられてゐる

 西白河郡小田川村佐藤眞太郎氏の談によれば
世良参謀は、豪胆な人で、白河城にある時、小田川や踏瀬に往来して自ら用を辨じたものだといふ
参謀が福島に出発する時、白河を出ると狙撃に会った。参謀は直に自らこれを殺してその首を十文字清之丞といふ者に託し白河城に送り福島に向った。その時小田川を駕籠で過ぎたといふ

東巡録によれば、明治九年六月白石御通輦(つうれん)に際し、世良参謀に金幣を下賜せられ磐前県をして祭祀を行はしめられた。世良参謀地下に感泣したことであらう
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
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