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2012.12/31(MON)

「城鍬舞」が記念スタンプに
塩原・関谷郵便局/切手シートも発売




平成24年(2012)
・12月31日
 今日は大晦日。古い新聞記事と「切手シート」を見つけた

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 塩原町関谷地区に伝わる「城鍬舞(しろくわまい)」が記念スタンプに。同町の関谷郵便局(室井利一郎局長)では、同地区に伝わる県民俗無形文化財の城鍬舞をかたどった記念スタンプを郵政局に申請していたが、認可が下り、十五日から使用を開始する。同局ではこれに併せ、普通切手シート(タトウ)の発売も行う。同局にはこれを聞きつけた全国のマニアから「返信はがきに記念スタンプを」という申し込みが殺到している。
 同地区に伝わる「城鍬舞」は慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いのさい、会津の上杉景勝が反徳川の旗揚げをした。大田原城は家康に味方し、会津の攻撃に備えて城の改修を行った。その完成祝いの席上、農民が「すき」や「くわ」を持って即興の舞を舞った。この舞が「城鍬舞」として今日まで受け継がれてきた。一時中断したが、五十七年に地区住民有志らによって復活された。現在は保存会が結成され、毎年秋に同地区の箒根神社に奉納されている。
 この保存会有志から出た案が「城鍬舞」をデザイン化したタトウ発行。「地区の文化財をPRしよう」というもの。そこで、まず、記念スタンプの認可申請を。記念スタンプのデザインは同町横林小の佐藤薫校長が当たった。一つは塩原温泉の渓谷とモミジ、それに「城鍬舞」をデザイン化したもの。直径は三・五センチ。もう一つは城鍬舞を舞うときにかぶる兜(かぶと)をかたどったもの。直径五・四センチ。このほど郵政局の認可が下り、十五日から使用開始する。
 同郵便局ではこれに併せ、記念普通切手シート(タトウ)の発売を決め、千枚を作成。表紙は同局職員がデザインした「城鍬舞」が描かれ、中には「城鍬舞」のいわれがあり四十円と五十円、七十円の切手(お祝いの切手でツルと松竹梅をデザイン化したもの)が貼られ、そこに記念スタンプを押している。
 このタトウは一部百七十円(切手の現価)で十五日から売り出される。申し込みは五月十五日までに同局へ。
 この報を聞いたマニアからすでに同局へ申し込みが殺到、全国各地から「返信用はがきに記念スタンプを」と約千通が届いている。同局の職員たちは記念スタンプの使用開始を目前にし、この対応に追われている。
昭和60年(1985) 4月14日・栃木新聞

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関谷城鍬舞由来

慶長五年(1600)関ヶ原の戦のさい、会津の上杉景勝は反徳川の旗あげをした。大田原城は家康に味方し、会津の攻撃に備え城の改修を行った。その完成祝いの席上、賦役に出ていた農民が、鋤や鍬を持って即興の舞を舞ったという。この舞が「城鍬舞」として塩原・大田原地方に伝承されている。
 笛4名、太鼓打ち2名、鍬取12名、旗持2名で演じる。曲目は明神、東天、下座、トートノ舞、和楽、鎮め、九練、街道下りでかわいい子供が踊る。
 一時中断したものを昭和57年復活したもので、栃木県の無形民俗文化財になっている。



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2012.12/27(THU)

現在の芦野宿
奥州街道を、越堀宿→芦野宿→白坂宿→白河宿と続く




 戊辰戦争では白河攻略の新政府軍が兵の集結拠点とし、奥羽列藩同盟諸藩との前哨戦が行われた国境に接した宿である

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2012.12/24(MON)

芦野氏居館跡 栃木県那須町芦野




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奥州街道芦野宿(写真)
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以下、現地の案内板から

芦野氏居館跡
大字芦野字熊野堂の周りを水田に囲まれた一段高くなった畑地である。
居館跡は、東西約一〇〇メートル、南北約一二〇メートルあり、周囲には短冊形に堀と推定される水田があった。
内部には土塁がめぐっていたと思われるが、長い年月の間に削平され、北側にわずかにその痕跡が認められる。
形式は南北筋の長い典型的な回字型の居館である。建物の配置は未発掘のため不明である。
吾妻鏡の慶長元年(一二五六)六月二日の条に「奥の大道に夜盗強盗が蜂起しているので取り締まるよう」鎌倉幕府が街道筋の御家人に指示した一人に葦野地頭の名が見られることや形式から、居館跡は鎌倉時代初期まで遡るものと推察される。
     那須町教育委員会
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2012.12/23(SUN)

山 岳 戦
那須山塊と戊辰戦争




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板室・三斗小屋・大田原城の戦い(2012.06/21)
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 会津中街道が通る三斗小屋宿から大峠・中峠での戦闘があった。いづれも高地での戦いである。写真で見る事は出来ないが、那須山塊の北(裏側)、三斗小屋宿から凡そ3.5キロで大峠(標高1468メートル、大峠から三斗小屋温泉辺りを見ると相当な下り)の国境となる

 慶応 4年(1868)
・ 8月23日 三斗小屋宿の戦い
・ 8月24日 大峠の戦い
・ 8月26日 中峠・駒返坂の戦い
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2012.12/21(FRI)

報徳二宮神社 旧今市市




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以下、現地の案内板から

報徳二宮神社 由緒

 御祭神(主神) 二宮尊徳命
 配神      二宮尊行命、富田高慶命
 ご利益     学業成就・経営、商売繁盛・立身出世・五穀豊穣
 例大祭     毎年十一月十七日

ご祭神二宮尊徳命は江戸時代 天明七年(1787)現神奈川県小田原栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、二十四歳のとき独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージはその頃のものである。
この経験を元に小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させ、武士として登用された尊徳命は、その後下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約六百の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。
晩年の嘉永六年(1853)徳川幕府の命を受け旧日光領八十九カ村の復興に尽力し、安政三年(1856)報徳役所にて七十歳で逝去され、手厚く埋葬された。
即ち、「栃木県史跡 二宮尊徳の墓」である。葬列は報徳役所のある春日町より続いたという。
その後、尊徳の終焉の地であるという全国唯一の由緒を持つこの霊地に明治三十一年神社が創建され、今日まで学問・経営の神様として信仰されている。
尊徳命の建て直しの方法は「報徳仕法」と呼ばれ普遍性を持つことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され弟子たちによって継承された尊徳命の思想は「報徳運動」として実践されている。

     報徳二宮神社 社務所
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2012.12/20(THU)

今市の戦い 第二次今市戦/大鳥圭介と再編伝習隊




第一次今市戦(2012.12/19)
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平成24年(2012)
・12月18日
 「今市宿」を見に行く
 昨夜は雪だったようで、日光・高原・那須の連山が薄曇りの空に神々しい姿を見せていた。この山魂の中腹、峠路を越えれば会津領に入るのだが、冬だと地形の険しさが際立って見える。当時は初夏とはいえ双方、決死の攻防であったことが想像出来る
 「今市宿」辺りは日光への手前参道とあって、以前は相当な賑わいであったのだが、今は商店等の閉められたシャッターの多さにその面影を見るのは寂しい
 閑散としていた
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戊辰役戦死者供養塔(今市市・如来寺)

 第一次今市攻防戦の死傷者数をみると、土佐藩兵戦死二、負傷十三名に対し会幕軍は戦死二十四、負傷数十名とある。この供養塔は大正六年(1917)、戊辰戦争五十周年にあたって地元有志により建碑され、戊辰戦争で亡くなった新政府・会幕軍・住民の諸霊の冥福を祈ったものである

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写真;2014.01/04
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 以下、「南柯紀行」を引用して第二次今市戦をupする

慶応 4年(1868)
  5月 1日 - 6日 第二次今市戦

・ 5月 1日

    五 月
 朔日先頃是非今市を取らんと工夫すれども何分霖雨にて大谷川充満し、橋梁悉く流れ落ち殊に此河は河中大石多く水流急激なるを以て渡る手段なく、空しく日を送りしが天の晴るるを待つも限りなきことなれば、諸隊長は群議し先ず本陣を小百に移し置けば今市との距離二里程になれば総て兵隊の運動にも事速かにして便なりとて、本日早天より第二大隊を残らず小百へ移し第三大隊を大桑へ出張せしめて、余も本日、原平太夫の一中隊(先頃より日蔭に出張せしが今日小百に出でて日光の形勢を告ぐ)の内一小隊計出で来り日光を打たば利あるべしと云うにより、浅田鱗(麟)之助の一小隊を高百村に出し原隊と合し、大砲一門を以て日光松原の河原に向わしめ山上より大砲を打たしむ、彦根兵格別の応砲も発せずして逃去る、小銃其外少々分捕して帰る時刻晩きを以て日光まで入ること能わず。

    2日 - 5日 瀬尾村前まで行き地形など見定む

 二日、三日、四日、五日、無事瀬尾村前まで行き胸壁築立の地を見定む、連日大雨にて橋梁流れ落ち何方へも通行する能わず、五日、晩諸隊長会議し今市を撃つの策を定め、本日何れも兵隊を引連れて大桑村に聚り前沢辺に橋を架し、大沢口より今市を撃(打)つの策を定め、明六日、早天、大桑を発す其人員次の如し。
  第二大隊  二百十五人   第三大隊  三百五十人(内百人を大桑に残す)
  田中隊   八十人     城取隊   八十人
  合凡五百六十
  外に大砲一門
  総人員凡六百人  

    6日 夜、大桑村を出て今市で戦闘

 六日夜八つ時大桑村出発、荊沢前にて大谷川を渡り五ツ時頃森友村の前に至り、城取隊を大谷川にて右翼となし田中隊を左翼となし板橋街道より向わしめ、第三大隊は本道の先鋒となり第二大隊は本道の二番となり進む、本道の兵と共に森友村に出で、夫より本道杉並樹(木)の間を通りて今市関門より二三丁の処に進みしに、先鋒已に戦を交え左右の翼も互に今市近く進み砲声盛なりしゆえ、少し塩(潮)合を見合せ第二大隊も亦繰出し敵の正面に撒布進撃しければ、敵も大奮発にて胸壁より打出し又左右の林間より頻りに小銃を狙撃せしゆえ、味方の役に多分に手負いけれども皆必死に噴(奮)戦したり、然れども敵は胸璧(壁)要害により味方は並樹(木)を盾に取れども三方より砲丸来るに由て、容易に進取する能わず、已に八ツ時とも思ぼしき頃宇都宮より敵の援兵一小隊計も本道より押来りて、背面より打懸られしにより味方何れも後顧の患を生じ遂に引足になり追々に引揚げたり、余は恰も本道の処にあり後より敵の来るを以て僅かの手勢十人余にて之を防がんと之を迎え戦い、敵両三人は打斃したれども左右に在りし者も亦両人程戦死したるゆえ、左方へ避け林間に入り夫より又元の路へ出で、山川大蔵、板垣某外と一同野原に出で此に暫時休み、味方の帰るを待合せ隊を整頓し退かんとせしに、大谷川の岸に当りて兵一小隊程行進せり、我等の立休いける処より一丁半とも思わしき処へ来り立止り、五六名振旗を持ち先に立てり、因て考う(る)に是れ城取隊の引揚げ来たるなるべしと、我等も少し進みて之を視れば彼ら則振旗を上げたり、之を視るに敵の印なり、是に於て愕然暫く身を潜匿せんと欲すれども樹木なき嚝原なれば身を寄するに物なし、不レ得レ已之を避けむとて南方に向て駈けしに敵声を上げて烈しく打懸たり、然れども何れも逃延びて七八丁も行きたれば林ありしゆえ此内に入りたり、然る処敵逐いかけ来り頻りに狙撃せられたれども、樹木に沿うて去りしゆえ一発も中りしものなし、其後敵も亦長逐いせざりしゆえ辛うじて大桑へ出で、小佐越へ帰ることを得たり、本日戦争終る頃より雨降り道路泥濘殊に早暁より三里余も歩し、八ツ時過迄も憤(奮)戦し帰路敵の追撃に会い、林壑の間無路の処を穿ち又三里余も還り来りければ、兵隊一同我輩困疲(憊)甚だし、此等の苦難は我家に居て暖衣飽食する徒の察し及ぶ所にあらず、本日死傷概算如左。
  士官即死 頭取 高木銓之助
       同  吉沢鎌五郎
  士官傷  隊長 米田桂太郎
       頭取 中根量蔵
       第三大隊長 天野電四郎
       同     森川喜之助
 其外五六名、会人一二三名、合二十三四名、兵卒即死二十人程、手負五十人、総計百人程、伝習隊の加藤隣(麟)三郎獲らる、此者沼間と共に会津にありしが此度戦争に出で途中にて手負い行歩する能わず遂に俘虜となれり。
 高木銓之助は一昨年已来我等と共に横浜に行き、仏人より陸軍伝習を受け頗る勉励して操練の事に巧みにして善き士官なりしが、忽ち今市の土と化せり。
 吉沢鎌五郎は年齢十九歳にして元指図役なりしが、是迄数度の戦争毎に単身憤(奮)戦士卒に先ち大勲ありしに由て追々之を抜擢し、頭取にまで上げたり、此迄日光に向いしときも兵四五人を引率し自ら先頭に進み、敵の砲発盛なる胸壁に近づき兵士等をして剣を附けしめ、胸壁に駆登り敵を逐い散し分捕物して帰れり、本日も余より一丁も先きにあり振旗を麾(ふる)いて士卒を指揮せしが、敵丸咽喉に中り一発にて斃れ、今市の土になりしこと最も酸鼻に堪えざるなり。

    7日 無事
    8日 総軍を一旦大原、藤原へ引揚げ
   10日頃 敵人大桑、小佐越、小原を悉く焼払う
    8日 -15日 別段異事なし
   15日頃 若松に行く(山川大蔵と、滞留五六日)
   20日 藤原に戻る
  5月末 - 6月20日頃 格別の戦争なし

今市攻略に失敗した会幕軍、戦線は藤原へと移る
藤原の戦い


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参考文献;大鳥圭介、今井信郎「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」
     1998年第 1刷/新人物往来社刊 277p
    ;Wikipedia「如来寺」2012.12/18
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2012.12/19(WED)

今市の戦い 第一次今市戦/大鳥圭介と再編伝習隊




平成24年(2012)
・12月18日
 「今市宿」を見に行った
 昨夜は雪だったようで、日光・高原・那須の連山が薄曇りの空に神々しい姿を見せていた。この山魂の中腹、峠路を越えれば会津領に入るのだが、冬だと地形の険しさが際立って見える。当時は初夏とはいえ双方、決死の攻防であったことが想像出来る
 「今市宿」辺りは日光への手前参道とあって、以前は相当な賑わいであったのだが、今は商店等の閉められたシャッターの多さにその面影を見るのは寂しい
 閑散としていた
 以下、「南柯紀行」を引用して第一次今市戦をupする

※ 現在の今市宿
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経 緯

慶応 4年(1868)
・閏 4月 1日
 旧幕府軍(都督大鳥圭介)は軍を再編するため一旦日光を撤退し田島(現福島県南会津町田島)に向かう
・閏 4月 2日
 「六方越」を経て日向村で宿泊。大鳥が宿泊している名主宅に、会津藩士和田忠蔵と同磯上蔵之丞が訪ねてきて家老萱野権兵衛からの伝言を述べた。旧幕府軍の会津領退去要請であった。大鳥は要請を拒否
・閏 4月 3日
 大鳥、五十里宿で会津藩家老萱野権兵衛に面会し、宇都宮や日光での戦況を伝え承諾を得る。五十里宿と三依宿(現日光市三依)に分散して宿泊
・閏 4月 4日
 横川宿(現日光市横川)
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・閏 4月 5日 横川を出て山王峠を経て、糸沢で山川大蔵に会い共に田島へ
     6日 -16日 田島にて軍再編
    17日 第三大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、横川泊
    20日 藤原着

    21日 -26日 第一次今市戦
以下、「南柯紀行」から引用

 二十一日高徳出張の貫義隊(隊長松平兵庫)の兵士数輩大桑へ斥候の為至りしところ、土州の斥候隊に出会い少々発砲し、味方、下役一人死す兵士二人傷るよし報告あり。
 第三大隊は藤原着、直に小佐越(こさごえ)へ出張す前件の報告ありしにより余も其翌二十二日、小佐越へ武蔵楼橘と共に至りしに同村本陣伝右衛門方にて山瀬主馬、加藤平内、天野電四郎に面会し余も亦此に同宿し、敵の動静を仔細に尋ねしに昨日聞くところに異なることなし。
 田中蔵人の一中隊は先頃より藤原にありしが此頃栖倉村に出張す、栖倉は小佐越の枝村にて其間十二三丁あり。
 前の隊長と共に謀りて思うに明朝は日光幷今市の敵当村へ侵襲し来ること必定なり、之に備えずんばあるべからず、即其策略を高徳の貫義隊へも通し明早朝大桑村まで一小隊斥候を出すべき赴(趣)を第三大隊へ窃かに命じたり。
 二十三日第三大隊、一小隊、八つ時、小佐越村を発し大桑村の方へ至り栗原村の前なる板橋を渡り少し進み行きしに、果して敵の斥候隊と出会い双方より発砲に及び互に聊かの手負はありたれども、暗夜ゆえ我が斥候格別の戦争にも及ばず引揚げ来たり、夫より敵兵追々進み来る由なれば已に夜も明けたれば、田中隊並に第三大隊を出し陣所を定め待ちかけ、別に土地の猟兵を聚めしもの五十人計も田中隊に附属せしゆえ之に命じて右側の山上に散布せしめたり、戦地は右に山あり左に鬼怒川の一派流れ、平野長さ半道余幅十町余もありて可なり良き地なり。
 朝已に五ツ時にもありける頃、右の平原へ敵凡四小隊程先鋒に進み来り、互に樹陰溝洫(こうきょく)に隠れ暫く打合いけれども格別勝敗も見えず、其内に敵又一丁程も進み来れり、因て第三大隊の予備隊を出し一斉に烈しく打ち縣け田中隊も大奮発にて横襲し、山上に散布したる猟兵とも和銃を以て射下せしにより、奇兵を放て進撃せしに敵停止する能わず退きながら発砲す、因て味方を合し奮進せしに敵遂に敗走す、味方北(に)ぐるを逐て板橋を渡り大桑の手前なる林間にて敵潜伏し、暫時戦う内、敵を退け味方も長駆せず其儘にて引き揚げの喇叭を吹かしめたり。
 右戦争のとき味方死傷左の如し。
 即死無之傷人士官三四名(内一人病院にて後ちに死す)兵士八九名。
 敵は土州彦根にて其死傷不明。
 戦地に遺したる死骸五名。
 持ち帰えりたる傷人双方にて五十人程ありしこと後に知れたり、夕方各隊へ酒を分与して其勲労を称したり。
 二十四日藤原にありし第二大隊も小佐越に呼寄せたり。
 二十五日無異事。

    26日 今市で戦闘

 二十六日早暁今市を攻む其手筈は第二大隊の一小隊を貫義隊と合し、大沢口に向わしめ第二大隊其余の小隊を以て小百に出で御料兵を小百高百の押えに残し置き、伝習隊は残らず瀬尾に出で大谷川を渡り七里村と今市の間に進みたり。
 但し小佐越より今市までは三里余あるを以て合撃の時刻相違し、大沢口の侵襲早きに過ぎ第二大隊未だ大谷川を渡らざる前已に南方に当て大小銃の声聞えしに由り、急ぎて流を渡り杉並樹(木)の間に出で大川正次郎は一小隊を率いて七里村に出で、日光より来る援兵の押えと為り、沼間、滝川は今市に二小隊を以て向いたり、此の戦争始まりし頃は南方の銃声は已に止みたり、今市の入口にて暫時挑み戦う中に南方を防ぎし兵は亦応援に出で来り味方少数にて進む能わず、且つ死傷も追々出来けれども援兵も之れなきゆえ、苦戦不利河を渡りて引退きたり、大川正次郎の隊は日光の兵出て来らざりしを以て一戦もせず引揚げたり、但し引揚げて川を渡りし頃少し打たれたる由なれども傷人等もなし。
 本日戦争味方死傷凡如左
  即死上等士官二人   杉江某  頭取
  兵士死傷十四五名
 南方より向いしは貫義隊を山川大蔵率いて進みしが、格別の戦争もなく敗走せり、某兵士怯懦(きょうだ)にして用ゆるに足らずと後にて承れり、第二大隊の一小隊は道を誤り、遅延して戦いの間にあわず、
 南方の死傷  会人浮洲某即死
  兵士の死傷は数人
 右何ケ隊も引揚げて小佐越、栖倉に帰れり、但御料兵のみは小百の押えに残り居れり。

 右の戦争敗績せしは戦の罪にあらず我輩謀略の至らざる所より起きたるなり、其故は第二大隊を余り分ち過ぎて勢を殺ぎしにあり、一番小隊を南方に向け、今一小隊を日光の押えとなし直に敵に当りしは僅か二小隊に過ぎず、南方へ分けし一小隊をも今市と日光の間に出し予備となし置かば、仮令敗るるも殿となるべきに甚だ遺憾なりと謂うべし。
 兵隊を分割するの害は泰西の兵書にも深く戒むる所にして兼て銘記せざりしにはあらざれども不得已次第にて敗を取ること失策なり、蓋し余今此に之れを記するものは敗れたるを恨むにあらず略の至らざるを恥じて後車の箴(いましめ)と為すのみ。

    27日 -30日 無事

 二十七日、二十八日、二十九日、三十日無事 
 但本月二十日頃より五月末頃まで連日霖雨にて道路泥深く鬼怒川支流溢流し渡りがたく、已に今市を攻めしときも大谷川満水にて腰の上まで濡るる程なれば進退に大に困苦せり。
 今市攻めのときは余は第三大隊と共に小佐越に残り居りて、敵の大桑道より来りて本陣を衝くに備えたれば出陣せず。
 右の件は沼間、滝川、山川に聞きて記す。


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参考文献;大鳥圭介、今井信郎「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」
     1998年第 1刷/新人物往来社刊 277p
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2012.12/13(THU)

会津藩降伏後の戦い
佐川官兵衛




明治元年(1868)
・ 9月22日
 午前十時、若松城北追手門に「降参」と記された白旗があがり、新政府軍各藩に停戦を伝える二発の砲声が響いた。正午、大総督府直属の軍監桐野利秋らに続いて会津藩主松平容保父子らが降伏式場に入場し、容保は「降伏謝罪文」を読み上げた
・ 9月23日
 前日に降伏した会津藩であったが、猛将佐川官兵衛は田島を拠点として猛烈な攻勢に転じた。佐川隊の追撃は田島西方八キロの針生から駒止高原を越え沼田街道の宮床、山口にまで達し、西部山峡に布陣していた加賀、高藤、飯山、富山藩といった新政府軍を敗走に追い込んだ。大沼郡の要衝大芦、喰丸に進攻した支隊も高崎、加賀藩兵を圧倒し、これら猛攻は岩代国境から敵を駆逐する勢いであった
・ 9月26日
 大内村の本営にあった佐川の許へ、抗戦を憂慮する容保の親書が届いた。佐川は部下将兵に投降を命じた
 会津領から砲声が止んだのは八日後、10月 4日だと云う

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※ 佐川官兵衛(さがわかんべえ)
 天保 2年(1831) 9月 5日 -明治10年(1877) 3月18日
 幕末の会津藩家老

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※ 会津西部抗戦の拠点とした鴫山城跡

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写真、【鴫山城跡】南会津町(旧田島町)/2009.10/10


以下、現地の案内板

福島県指定史跡
鴫山城

 鴫山城は、愛宕山々頂部の山城域と、麓の本城域を中心とした城郭域、さらに大門前方の根小屋地区の外曲輪から成りたちます。山城は南北朝争乱期から室町中期。麓の城郭は、戦国時代と桃山時代の築城技術が駆使されています。各時代の遺構、なかでも中世から近世への過渡期の技術が各所に残り、全国でも貴重な城跡です。

--参考文献;島遼伍「北関東会津戊辰戦争」2004年第 1刷/随想社刊 246p--



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2012.12/08(SAT)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦
五、白河口の戦い②
 4.五月一日以後の白河城攻防戦
六、棚倉城の戦い
 1.西軍棚倉城に迫る
 2.棚倉城落城
 4.浅川城(青葉城)の戦い
七、落城後の棚倉
 1.政府軍占領下の棚倉
 2.黒羽藩管理下の棚倉

 八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰

 1.戊辰戦争の終結

慶応 4年(1868)
  5月 1日 白河城落ちる
  5月15日 彰義隊破れる
  6月24日 棚倉城落ちる
  6月28日 磐城泉城落ちる
  6月29日 磐城湯長谷城落ちる
  7月13日 平城落ちる
  7月26日 三春藩降伏
  7月29日 二本松城落ちる
  8月 4日 中村城落ちる
明治元年(1868)
  9月 8日 (明治と改元)
  9月10日 二本松藩主降伏
  9月15日 仙台藩主降伏
  9月18日 棚倉藩主降伏
  9月22日 会津藩主降伏
  9月23日 庄内藩主降伏
  9月24日 泉・湯長谷・平藩降伏
明治 2年(1869)
  5月18日 榎本武揚降伏、戊辰戦争終結

 2.阿部氏の復帰と領民の反発

明治元年
・ 9月18日
 阿部正静、白河口総督に謝罪□願書を提出し降伏した
 謝罪文(一部)

「素心勤王之外毛頭ニ念無御座候処、全遠境之僻土に罷在、春来天下之事情も隔絶仕、恐多も厚き叡慮之程も具に不奉伺、一時之行違より終に今日之仕儀に立至候段、誠以奉恐入、悔先非謝罪仕候。」

 各藩主の謝罪を受けた政府は仙台・南部・二本松・棚倉等の前藩主の罪を許した
 棚倉藩阿部正静は義理の叔父にあたる基之助(正功)に家督を譲り、基之助は棚倉藩主に復帰することとなった
 ところが、長い間幕藩体制の重圧に苦しんだ領民は、戊辰戦争終結に至って新政府施政に微かな曙光を見出したのも束の間、阿部氏復帰に不満を持ちこれを阻止しようとした
明治 2年
・ 2月 8日
 南北両郷の農民、中山本村大地平に集合し「天朝御領化」の歎願について相談した
・ 2月 9日
 西河内村、堀越村の農民が山林に集合
・ 2月10日
 四、五百人の農民が集合し、11日にかけて八溝山を越えて黒羽領に入り兵糧の下げ渡しを歎願した
・ 2月15日
 農民惣代富岡村の源右衛門、福岡村の善右衛門、中山本村の新三郎、北山本村の八之右衛門の四名が歎願書をもって東京に向った

 明治己巳年二月
  歎願書
  乍恐以書付奉歎願口上之覚
 大関美作守様御取締所之内磐城国白川郡棚倉附郷村中より奉歎願惣代之もの共奉申上候..
(以下省略)

※ 歎願は黒羽藩主大関増勤にあて、黒羽藩の支配を請うものであったが..

・ 2月15日
 黒羽藩大関美作守から阿部基之助へ棚倉藩引渡しの沙汰書が届いた
・ 2月16日
 領内農民は取締役所前に集合し阿部氏への領分引渡し延期を要求した
・ 2月17日
 領民の抵抗空しく領地引渡しが完了した

 四ツ半時御引渡無滞相済候
   渡し方 家 老    益子右近
       郡奉行    那須真小一
       徒目付兼作事 松本調平
   受取方 家 老    平田治部右衛門
       参 政    鈴木源右衛門
       応 接    長谷川林右衛門
       郡奉行    江森鎮八郎
       地方支配   岡本与右衛門

 これにより黒羽藩の棚倉取締はすべて終了し、再び阿部氏支配に戻ったのである

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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2012.12/06(THU)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




平成24年(2012)
・12月06日
 「戊辰戦争と棚倉藩」近藤敏明(1989.02/24) 59p
 古書てんとうふ(郡山市池ノ台)から本を購入した。著者の近藤敏明氏は地元棚倉町在住
 以下、引き続き部分的に引用しながら要約してupする
※ 残りあと1回なり ^^;)
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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦
五、白河口の戦い②
 4.五月一日以後の白河城攻防戦

 六、棚倉城の戦い

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 1.西軍棚倉城に迫る

・ 5月29日
 東山道先鋒総督参謀板垣退助は宇都宮より土佐軍を率いて白河に入る。大工町の常端寺を陣営とした
・ 6月23日
 六月十四日阿波藩を率いて江戸を発った大総督参謀鷲尾隆聚(たかつむ)、白河に入り常宣寺を本営とした
・官遣密使(東白川郡史)
「官参謀伊地知正治、阿部家元主家と縁あり、撃つに忍びずとなし、川村純義と謀り、僧賢邦をして窃に、降を棚倉に勤めしむ、賢邦、蜜旨を齎らし下るの途、会々棚倉藩士石山斎兵衛に逢ふ、斎兵衛、賢邦の往くを遮る、賢邦、還りて命を複す、伊地知等怒り、棚倉攻撃の議を決す。」
・6月24日
 鷲尾大総督参謀白河着によって棚倉城攻撃の軍議が決し、参謀補助(副参謀)板垣退助の指揮する薩・長・土・忍・大垣五藩の兵八百余人が大砲六門をもって棚倉に向かう
 関山前から二手に分かれ
 一隊は薩兵百五十人、土兵百余人旗宿を通る
 他の一隊はその余の兵で本街道(棚倉街道)郷土を通る。郷土には東軍砲台を設けるも破られ、関山上からも砲撃したが効果はなかったと云う
 黒羽兵八十は白坂村から中野村に出て、白河からの旗宿通りの兵と合流、中野の東軍を破り、番沢で戦い、金山村に出て本道隊と合流した
 金山村には仙台・相馬・二本松・棚倉の兵四百余が守備していたが、番沢の砲声に驚き退却した

 2.棚倉城落城

・西軍は金山を出て二手に分かれ、薩・長・大垣・黒羽の兵は間道を通り小菅生から小丸山に出て棚倉を砲撃
 戊辰戦争記阿部正功家記によると
 「西軍金山口を破りて、熊坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻りなり」
 とある。小菅生を通ったのか熊坂であったのかは不明
・一隊は本堂を進み逆川に至る(長・土・忍の兵)
 逆川の東軍は防戦するが、先に相馬の援兵は逆川から浅川へ、会津兵は須賀川へ引き揚げてしまっていた。棚倉藩兵孤軍支えきれず城下に退く
 釜子にいた兵も棚倉の砲声を聞き西軍を横撃しようと進軍したが、社川が増水していて来援は叶わなかった
・四方に出兵し、相馬・会津の兵は引き揚げ、来援は来たらず、城を守るのは棚倉藩兵三百士。死力を尽くしても城を支えることは不能とみて、自ら城と城下に火を放った
 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
 棚倉藩戦死者
本多九左衛門、奥原一、三沢錦八郎、内儀茂助、上田源八、村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、郷夫・惣内、郷夫・新吉、郷夫・竹次郎
 東白川郡史によると
「六月二十四日、棚倉城落城。
夜半の大雨、暁に至りて竭み、炎晴、銕を燬く時、六刻、砲声、殷々,城下を圧し,金山の関門破ると伝ふ、老若先づ走り、男女、家を舎て北ぐ、全街人無き、狗子、影を滅す、官、赤館に迫る、大砲隊長、吉田七郎左衛門、其子、国之進を始め、部下を従い防戦死力を尽す、突如、小丸山上、銃声、急霰の如く起る、支え難きを覚り、砲を壕に投じて走る、先是藩兵、火を城に放つ、焰、天に渦き、英俊苦心の名城、一瞬にして消ゆ、次いで、炬を街に挟む、官、来りて水を濺くも、古町以南、全く玄野と化す」
 西軍の記によると
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧らが如く..
 この日東軍の首級十五、長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人とある

 4.浅川城(青葉城)の戦い

・ 7月16日
 すでに棚倉城は落城していたが、会津・仙台・二本松・棚倉の残兵は棚倉城を奪回しようと計り、棚倉の外郭陣地浅川城に集結
 西軍の記録によると
「敵は七月十六日払暁、雨をついて浅川の東北で、社川の対岸にある城山上に大砲五門を引き上げ、ここから浅川の西軍陣地を眼下に見て砲撃し、歩兵も山を降って前進攻撃してくる。西軍は砲二門で応戦したが、東軍の勢力は衰えをみせず、必死の防戦をし、援軍の来るのを待った」

「臨時救援隊の応援で急峻な城山の敵をその側面攻撃が成功し、敵の陣地に突込み敵は全くの不意打ちをくって山下に逃げ滝輪方面に逃走した」

 七、落城後の棚倉

 1.政府軍占領下の棚倉

 棚倉城が落ちると総指揮をとっていた前藩主(白河)阿部正外は敗残の兵を集め、所領地伊達郡保原に退き、援兵要請のため会津に行っていた正静も保原に入った
 落城後城下を占領した政府軍は住民の帰住を呼びかけた

 阿部美作儀
 朝敵たるにより追討被
 仰付候、然に農工商三民之儀ハいささか御かまぬ不被為在候間、早々帰住安堵いたし、成丈生業相いとなみ可申候事
   辰 六月     棚倉在陣
              下参謀
              軍監

・占領下の棚倉では掠奪、無法が横行した
「家々の諸道工衣類に至る迄不残官軍の中ニハ、人足等を至り分取りいたし候事ハ、咄し筆舌につくしがたき其内ニも商人ごふく太物によらず堅口五穀ニ至る迄分取はげしく事かぎりなし。」
 これは木谷正男文書の日記覚控にある文章と云う
・見かねた大総督府は板倉参謀補助らに宛てた示達に
「去ル二十四日、棚倉落城の節、各藩之内敦レノ藩ニ候哉、市中或ハ農家ニ立入、金銀其外衣服等奪取候徒も有之趣相聞、如何之事ニ候、兼テ被仰出御箇条モ有之候故、向後屹度取締可申旨、仰出候事」
とある
 棚倉藩兵の放った火によって焼け落ちた家の復旧もままならず、政府軍の労役に従い、小屋掛け住い、焼け残った家は政府軍宿舎に提供しなければならなかった

 2.黒羽藩管理下の棚倉

 慶応 4年(1868)
・ 7月24日
 棚倉城下を占領していた政府軍は、板垣退助に率いられて棚倉を発し、三春・二本松攻略に向かって、棚倉は黒羽藩の管理となる
・黒羽藩は棚倉に取締役所を置き、新政府からの示達等を村・町役人などに知らせる一方、願書・届書を処理するなどの業務を行った。黒羽藩支配の基調は、戦災のために荒廃した城下や村々が一揆など起さぬよう、かつ復興することにあった
 旧棚倉藩の封建制とは対照的な施政は領民に朝廷の恩恵を印象付けたのである

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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