<   2012年 11月 ( 19 )   > この月の画像一覧

2012.11/30(FRI)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




--------------------

棚倉城跡(2012.11/04)

平成24年(2012)
・11月29日
 「戊辰戦争と棚倉藩」近藤敏明(1989.02/24) 59p
 古書てんとうふ(郡山市池ノ台)から本を購入した。著者の近藤敏明氏は地元棚倉町在住
 以下、部分的に引用しながら要約し、何回かに分けてupしようと思う
--------------------
目次
--------------------
 三、幕末の白河・棚倉

 1.白河城

慶応 3年(1867)
・正月28日
 白河城主阿部正静(まさきよ、阿部氏八代目)、棚倉移封となる

慶応 2年(1866)
・ 6月
※ 棚倉城主松平康英の白河移封が中止になり、翌年、正静の棚倉移封後は明城となった。慶応4年には正静が再び白河移封となるところだったがこれも中止となった。よって白河領城付六万石は幕府の直轄となり、民政は小名浜代官森孫三郎支配、城郭は二本松藩主丹羽長国の管理となる
慶応 4年(1868)
・ 2月16日
 朝廷は白河城を奥羽、とくに会津攻略の基地として仙台藩に交付、伊達陸奥守の家来伊達筑前守らが官軍の先鋒として白河城に入る

 2.棚倉城

元治元年(1864)
・天狗党の乱に出兵
慶応 2年(1866)
・10月27日
 松平康英(やすてる)、川越城移封
※ 天狗党の乱鎮圧に功あって二万石を加増され川越城に移封。康英は寺社奉行、外国奉行などを勤めヨーロッパ使節団副団長として渡欧、さらに棚倉藩主としては幕府の老中職をつとめるなど功績を残した。川越城主となってからは、大政奉還後の時世を洞察し、戊辰戦争では官軍(新政府軍)についた

慶応 3年(1867)
・正月28日
 阿部正静白河より棚倉城に移封
※ 阿部氏は正権より正静まで八代43年間に渡り白河城主であったが、正静の棚倉移封によって白河城は明城となった。経緯については先にも記したが、松平康英が慶応2年6月、白河移封を命ぜられるも中止となり川越への移封となった
慶応 4年(1868)
・ 2月 1日
 ところが、再び阿部正静に白河への所替えの沙汰があり、棚倉へは正静の父正外(まさと)が入ることになったのであるがこれらも取り止めになった
※ これは、徳川慶喜は大政を奉還し王政復古の大号令が発せられ慶喜の辞官、納地が決定された後のことで、朝敵として幕府追討の密勅が下されており、この所替えは天朝に背くことになるため内密に取り止めになった、また薩長の謀略によって白河を明城にしたとも云われている
・閏 4月 5日
 大政奉還後、奥羽鎮撫総督九條通孝は奥羽各藩に対し、会津征伐の命が出され棚倉藩も三百人の兵を出す
 棚倉藩出兵について東白川郡史に次のように記されている

閏四月五日、総督九條、各藩に令を下して兵を動かす。
「棚兵出動」五日会津征討の命下り、翌六日改めて庄内征討の旨伝はる、家老富賀須庄兵衛を将とし、中老平岩頼母を副とし、士卒約三百、途を須賀川に取り堂々進発す。会々、参謀世良、白河に在り兵を会津に転ぜんことを命ず。乃ち将士須賀川に停まる。

※ 世良 西軍の奥羽鎮撫総督参謀、長州藩士、世良周蔵、後に暗殺される
--------------------
c0185705_1435039.jpg


 官軍征討と棚倉藩
慶応 4年(1868)
・ 1月15日
 新政府、奥羽十九藩に東征支援の令を出し会津追討の協力を呼びかけた
※ 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った官軍は、徳川慶喜、会津、庄内を征討すべく薩摩、長州、土佐三藩を主力とし東征の途についたのである
 一方の会津藩では抗戦準備を進めるとともに各藩へ応援を要請、棚倉藩にも使者が派遣された
 棚倉藩では非常の際の町方動員、町兵規制を示達して戦いに備えた
※ 藩は朝敵(賊軍)の汚名を着て官軍と戦うか、官軍に与して会津を討つか難しい選択を迫られ、諸藩の動向をうかがいつつ態度を決することとなる

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/27(TUE)

那須野ヶ原の開拓
旧青木家那須別邸




平成24年(2012)
・11月27日
 寒くなって雪になった。家に居て「那須野ヶ原開拓史」のお勉強 ^^;)


 那須野ヶ原主要大農場略図(大正末期、1925年頃)
c0185705_225845.jpg

--------------------
以下、現地(旧青木家那須別邸)の説明板から引用

1 那須野ヶ原

 那須野ヶ原は、「那須野」とも「那須野原」とも言い、「那須野が原」とも書く。その範囲は必ずしも明確でないが、一般には次のようであると言われる。
 広義(広い意味)には、箒川以北、福島県境までの台地・丘陵を言い(約7万ha)、このうち那珂川以南を狭義(狭い意味)の那須野ヶ原と言う。
 狭義の那須野ヶ原(約4万ha)は、那須扇状地とも言い、日本有数の扇状地である。この扇状地の扇端部(扇状地の末端部)は泉や小川が多く、古くから集落が生まれ、大田原のような城下町も成立した。
 しかし、扇頂部(扇状地の頂点に近い部分)や扇央部(扇状地の中央部)は、地下に厚い砂礫(砂利)の層があるため、降った雨や蛇尾川・熊川の水は深い地下にしみこんでしまい、水利に極めて乏しかった。それに加えて、那須東原・那須西原と言った地域は土地もやせており、農耕を営むにも、人が住むにも極めて条件が悪かった。
 そこで、江戸時代から明治初年にかけては、周辺農村の共同の草刈場(入会秣場)として利用された。そのため、毎年春先の火入れによって焼かれ(野火)、広大な原っぱが続いていた。その面積は約1万1000haに及んだ。

2 大農場の成立と開拓の進展

 明治初年、政府は産業開発(いわゆる殖産興業政策)に力を注いだ。その中で、那須野ヶ原の開拓の機運が盛り上がった。そして、那須東原・那須西原といった官有原野は、明治13年(1880)から同20年(1887)ごろにかけて、開拓を志す個人や結社に貸し下げられた(開拓成功後に払い下げ)。
 その主なものには、肇耕社(のちの三島農場)・那須開墾社・加治屋開墾場(のちの大山農場・西郷農場)・青木農場・品川(傘松)農場・毛利農場・戸田農場・鍋島農場・千本松農場・藤田農場等がある。その面積は数十haから三千数百haに及ぶ広大なもので、名称は様々だが、一般には「農場」と呼ばれる。その所在地は、現在の黒磯市と西那須野町を主とする。
 これらの農場は、移住人を招いたり西洋農具を導入するなどして、原っぱの開墾や、牧畜・植林事業等に力を注いだ。明治18年(1885)には、那須疏水が国営事業によって開かれ、水の問題は一応解消された。なお那須疏水は、安積疏水(福島県)・琵琶湖疏水(滋賀県・京都府)と並んで日本三大疏水の一つと言われる。
 農場は、当初は結社農場が多かったが、明治の末には、農場面積の約4分の3が爵位(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)をもつ華族の手に移った。いわゆる華族農場と呼ばれるもので、那須野ヶ原開拓史の上で大きな特色ともなっている。
 農場の経営は、水田・畑と言った耕地の小作を主とするもの、山林の直営を主とするもの、耕地小作と山林直営の双方に重きをおくものとさまざまだが、各々開発が進められた。
 こうして、昭和20年(1945)頃までに、水田約500ha、畑約2500haが開かれ、約8000haが山林に育成された。
 農場の土地は、明治時代に農場が解散して農民の手に渡ったところもあり、昭和戦前にもある程度の農場で土地を開放し、農民のものとなった。残りの農場も、戦後の農地改革により、耕地の大部分とかなりの山林を開放した。しかし、広大な山林を主とするいくつかの農場では、広い山林が解放されずに残った。
 なお、農場主の中には、農場内に立派な別荘を建てるところがあった。現在残っている主なものには、ここ青木別邸のほかに、大山別邸・松方別邸がある(ほかに矢板市には山縣別邸がある)。

3 大正14年(1925)における那須野ヶ原の主な農場
--------------------
 NO.農場名   開設(西暦) 面積(町歩) 開設者    代表的地位等 爵位 所在地
--------------------
  1 佐野農場  明治14(1881)  257  佐野常民   大蔵卿    伯爵 黒・大
  2 大山農場  〃       273  大山巌    陸軍大臣   公爵 西
  3 西郷農場  〃       248  西郷従道   海軍大臣   侯爵 大・西
  4 青木農場  〃       1576  青木周蔵   外務大臣   子爵 黒
  5 傘松農場  明治16(1883)  226  品川弥二郎  内務大臣   子爵 湯
  6 毛利農場  明治18(1885)  1436  毛利元敏   旧豊浦藩主  子爵 黒・那
  7 三島農場  明治19(1886)  561  三島通庸   警視総監   子爵 西
  8 長地農場  〃       100  渡辺国武   大蔵大臣   子爵 大
  9 戸田農場  明治20(1887)  887  戸田氏共   旧大垣藩主  伯爵 黒
 10 山田農場  明治21(1888)  111  山田顕義   司法大臣   伯爵 那
 11 千本松農場 〃       1640  松方正義   総理大臣   公爵 西・塩
 12 矢板農場  〃       204  矢板武    下野銀行頭取    西
 13 渡辺農場  明治24(1891)  135  渡辺千秋   宮内大臣   伯爵 黒・大
 14 鍋島農場  明治26(1893)  383  鍋島直大   旧佐賀藩主  侯爵 黒・羽
 15 植竹農場  明治32(1899)  375  植竹三右衛門 貴族院議員     羽
 16 藤田農場  明治33(1900)  842  藤田和三郎  薪炭商・県議    黒
 17 高田農場  〃       190  高田慎蔵   高田商会経営    西
--------------------
・各種の文献・資料により作成(面積は大正14年当時)
・所在地(合併前、旧表示)
 黒 黒磯市
 西 西那須野町
 大 大田原市
 那 那須町
 湯 湯津上村
 羽 黒羽町
 塩 塩原町
・那須野ヶ原に隣接する矢板市には
山縣有朋(総理大臣・公爵)開設の山縣農場(明治17年開設、 761町歩)がある
・1町歩は約0.99ha

※ 入会秣場(いりあいまぐさば)
  肇耕社(ちょうこうしゃ)
--------------------
※ 千本松農場(松方農場)を流れる那須疎水
c0185705_235281.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/26(MON)

青木周蔵の使用した馬車
旧青木家那須別邸




--------------------
とちぎ明治の森記念館(2012.08/02)

c0185705_1122281.jpg


以下、現地の説明板から
--------------------
青木周蔵の使用した馬車

 那須野ヶ原に農場を開いた明治の元勲たちは交通手段として主に馬車を使用していました。これらの馬車は主にヨーロッパで製造されたもので、非常に高価なものでした。
 周蔵は別荘を訪れる際、黒磯駅まで汽車を利用し、駅からは馬車を利用していました。黒磯駅から板室温泉に向かう通称板室街道を約7kmほど進むと、右手に整然とした杉並木があります。その杉並木が青木邸へのアプローチで、明治時代にはここを通り抜ける馬車がよく似合ったといわれています。
 馬車は一人乗りで座席の下が荷物入れになっています。馬車搭乗の際はここに荷物を入れて運んだようです。
 馬車の正面には、夜間でも使用できるよう証明にガス灯が備え付けられています。
 なお、この馬車は青木別邸に保管されていたものを2001年(平成13年)に黒磯市が修復したものです。
--------------------
c0185705_11311559.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/25(SUN)

青木嬢の結婚
旧青木家那須別邸




--------------------
榎本武揚外相からの書簡(2012.11/24)
とちぎ明治の森記念館(2012.08/02)
--------------------

1904年(明治37)12月19日、東京にて挙式
c0185705_1153924.jpg

 枢密顧問官青木子爵の娘HanaE青木嬢とドイツ公使館員であるHatzfeldt伯爵の結婚式が昨日午前11時に築地のローマカトリック大聖堂で行われた。
 同日正午、披露宴が子爵邸において開かれ、上級の政治家、国の大臣、枢密顧問官、外交官や主要なビジネスマンなど全約400人が出席した。

c0185705_11205490.jpg

※ 以下、展示とその説明から

明治三十七年十一月七日 青木周蔵の娘ハナの婚姻届

 青木周蔵とエリザベートの間の一人娘ハナは、青木に溺愛されて育った。青木はこの娘に日本人のしかるべき婿を探すつもりだったようだ(周蔵の没後、杉家から彼の養嗣子として青木家に入り、二代目子爵となった梅三郎も、おそらくは彼の花婿候補であった時期があるように思われる)が、成功せず、ハナは結局ドイツ貴族、アレキサンドル・フォン・ハッツフェルト・トラッヘンベルヒと結婚した。フォン・ハッツフェルトは外交官としてたまたま日本に駐在していたのである。華族の婚姻の場合宮内省の許可を要した。この書類はその許可願いだが、親族として桂太郎、曾根荒助、有地品之允といったお歴々が名を連ねている。しかしこれらの人々は親族ではなく、友人である。

婚姻届

獨逸國「シュレーヂイン」州「ポムメルスウス」領地主
在東京獨逸帝國公使館在任外交官補
夫 伯爵アレキサンドル、フォン、ハッツフヱルド、トラッヘンベルヒ
 西暦千八百七十七年二月十日生
獨逸國「シュレーヂイン」州トラッヘンベルヒ領主非職「シュレーヂイン」州長獨逸皇帝大膳大夫
父 公爵ヘルマン、フォン、ハッツフヱルド兼上公フォン、トラッヘンベルヒ
 貮男
母 公爵夫人ナターリー、フォン、ハッツフヱルド兼上公夫人フォン、トラッヘンベルヒ
--------------------
青木周蔵写真

 2004(平成16)年11月、青木周蔵の一人娘・ハナの子孫であるニクラス・ザルム・ライファーシャイト氏が青木別邸を訪れ、一冊のアルバムが青木邸へ寄贈された。
 アルバムは、ザルム氏が保管する青木周蔵の資料の中から自ら選抜した写真や新聞記事を貼り込んで作られており、これまであまり見られることのなかった周蔵の若い時代・海外駐在時・青木農場に滞在中の姿・家族写真など、貴重な内容となっている。

 明治時代の青木の景色、様々な場面での姿・表情を通して青木周蔵という人物や彼ら家族がこの別邸で過ごした時間を想像することが出来る。
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/24(SAT)

榎本武揚書簡
青木周蔵宛




平成24年(2012)
・11月24日
 五稜郭の、あの榎本さんの名をここで見るとは思わなかった
 旧黒磯、青木にある「旧青木家那須別邸」の内部を見て来た。以下、この書簡とそれに付けられた説明文をupする

--------------------

c0185705_11401136.jpg


 明治二十四年十月十三日 青木周蔵宛
 榎本武揚外相からの書簡

 大津事件後まだ間もない二十四年五月二十九日、青木周蔵は引責辞任の形で外相の地位を去った。これは「依願免官」の形を取ったが、青木の心情としては罷免させられたという感じであったらしい。十月十三日づけのこの後任外相榎本の書簡は、青木の履歴にかかわるもので、恩給願い書に青木が辞任に関して「論旨ニ依リ」と、書いたのに対し、それでは履歴に傷がつくことを考慮して、その文字を削って再度提出することを要請している。榎本は青木と比較的仲がよかった。文面によると心配した榎本はわざわざ青木を訪問してこの意向を伝えようとしたらしい。しかし青木が不在だったため書き残すとある。

--------------------
青木周蔵 (一八四四~一九一四)

 幕末の長州(山口県)に生まれた明治時代の外交官である。幼名を三浦団七と言ったが、蘭学と医学の修行を通じて長州藩の藩医である青木家の知遇を得、その養嗣子となった。明治の初め、最初のプロシャ(ドイツ)留学生として医学を学び、後、志を外交に向けた。
 明治六年、折から岩倉使節団の副使として欧州に滞在した木戸孝允に認められてプロシャ憲法を翻案した憲法案を作成することで官途が開け、やがて最初の駐独全権公使となった。明治十八年には井上薫外相のもとで次官、明治二十二年からは山縣有朋内閣の外相、二十四年には松方正義内閣の外相として条約改正を手掛けたが、来日中のロシア皇太子が護衛警官に襲われて負傷した「大津事件」の責任を取って辞職、成功に至らなかった。しかし、明治二十七年には伊藤博文内閣の陸奥宗光外相と協力、駐英全権公使として条約改正の端緒を開いた。明治三十一年、第二次山縣内閣の外相となり、北満事変の解決などに努力を傾けたが、対ロシア強硬策で閣内不一致のもととなり、山縣内閣総辞職の原因となった。
 青木は有能な外交官ではあったが、「ドイツ癖」とあだなされるほどドイツ一辺倒だったためもあって、三国干渉の予測を誤るなど、失敗も多かった。一方、伊藤博文のベルリン、ウィーンにおける憲法調査への協力を果し、また、ベルツやケーベル、モッセ、エンデ、ベックマンなど有能な学者・技術者たちの招聘に力を致すなど、ドイツ系人文科学・自然科学・技術そのほか、豊かなドイツ文化を日本に移し植えた功績は大きい。那須において造林などに重点をおいた独特な農場経営を行ったことも記憶されるべきである。
 明治二十年には子爵の爵位を賜い、大正三年、七十一歳で逝去、正二位勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。プロシャ貴族の出であるエリイザベート夫人との間に娘ハナがある。青木の私生活と公的生活のある部分は、森鴎外の小説「舞鶴」に投影していると思われる節がある。

 水沢周氏 監修
 青木盛久元ペルー大使は青木周蔵の曾孫です



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/21(WED)

皇居と向き合う一対の狛犬
山縣有朋記念館




--------------------
山縣有朋記念館(2012.11/20)

c0185705_94632.jpg


 記念館に向かう緩やかな傾斜を上り切ると、一体の狛犬(こまいぬ)が置かれているのが目に入った。水色がかった石像で、高さ1メートルほど。風雪のため摩耗してはいるものの、口を大きく開いたその姿は、はるか遠方を見据えているかのようだ。
 山縣睦子さんによると、有朋が第一軍司令官を務めた日清戦争の後、清国から日本に贈られた一対の狛犬のひとつ。もうひとつは皇居内に置かれ、「記念館の狛犬は皇居へ、皇居の狛犬は記念館へと、向き合って置かれているそうです」という。(小倉貞俊)

2008.02.13 東京新聞
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/20(TUE)

山縣有朋記念館 栃木県矢板市上伊佐野1022




平成24年(2012)
・11月20日
 山縣有朋記念館を見て来た
 山縣有朋
 戊辰戦争では新政府軍参謀として北越方面で戦い、明治になっては陸軍の確充に尽力し陸軍卿など要職を歴任し、陸軍大将・元帥となった。2度総理大臣を務め政界、軍部に絶大な権力を誇った

 記念館から新聞のコピーを頂戴したので以下に引用してupする

c0185705_9442832.jpg

--------------------
名建築を訪ねる・首都圏
山縣有朋記念館
質素な館、明治の重鎮集う

「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」--。
 位人臣を極め、近代日本の政界に君臨し続けた山縣有朋(1838-1922)。その燦然たる経歴に比べると、栃木県北部の森林にたたずむ「山縣有朋記念館」の質朴さには意外な感を受ける。
 隣接する木造二階建て二棟からなり、正面に向って左側の青い建物が「明治の洋館」。右側の赤い屋根が、昭和になって建てられた新館だ。
 明治の洋館はもともと、有朋が古希の年に建てた神奈川県小田原市の別荘「古希庵」敷地内に
一九〇九(明治四十二)年になって建築されたものだ。
 有朋の死後の二三(大正十二)年、古希庵の大部分ともども、関東大震災で損傷。翌年、嫡男伊三郎氏が保存のため栃木県矢板市の山縣農場内に移築。二七(昭和二)年には山縣家の別荘として、隣に新館が増設された。
 長らく賓客の応接用となっていた明治の洋館は九〇年、県の有形文化財に指定されたのを機に、ひ孫の故・有信氏夫人睦子さんが遺品や資料を展示し、新館と併せて「山縣有朋記念館」として一般公開を始めた。
 明治の洋館の建築面積はわずか八十平方メートルほど。一階にはロビーと一部屋、二階も応接室と寝室の二部屋しかない。そんな質素なたたずまいとはいえ、設計者が明治神宮などを手掛けた名建築家・伊東忠太(1867-1954)とあって、随所に当時最先端の装飾が施されている。
 玄関や各部屋に通じるケヤキの扉には、有朋の頭文字「Y・A」が、曲線を用いたアールヌーボー調の文字でデザインされている。二階の欄間はガラス製の回転式。いすやテーブル、赤いじゅうたん、インド更紗のカーテンと、応接室の調度品はすべて当時のものだ。
「広さも派手さもないが、一つ一つの意匠が調和しており、いかにも実用本位の有朋らしい」。七八年の調査、九一年の改修を手掛けた千葉工業大学の河東義之教授(近代建築史)は言う。
 二度の首相と枢密院議長を歴任後も、絶大な権力を維持し続けた有朋。晩年を過ごした古希庵には元老や首相、閣僚らが頻繁に足を運んだ。この応接室から近代日本の政治が動かされたのか--。有朋が愛用した調度品に触れながら、ふとそんな感慨を覚えた。(小倉貞俊)

2008.02.13 東京新聞
--------------------
c0185705_9445755.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/18(SUN)

棚倉城の石垣 棚倉町




平成24年
・11月 4日
 棚倉城跡を見て来たのだがそこで、城郭西二の丸外堀に残る石垣を見た。石垣の内側は民地となって住宅が建ち、外堀向うは棚倉中学校である
 石垣は先の震災(2011年3月11日)で一部が崩れたようだが大規模な修復は必要なさそうだ(修復がなされればだが)
 今、残る石垣の長さは50mか、80mなのか見当がつかなく、ただ見て来たのみであるのだが、よくぞ残って来たものだと、復元整備がなされればと思う
 一部、外堀らしき形跡はある

棚倉城跡(2012.11/04)
c0185705_1324547.jpg

c0185705_13242138.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/16(FRI)

弔魂之碑 棚倉町大字棚倉字新町129・蓮家寺




棚倉町「蓮家寺」にある
棚倉藩士四十六名と殉難者十二名の弔魂碑で、十三回忌の折に建立された

c0185705_16585259.jpg

写真;2012.11/04
--------------------
棚倉城(藩)

慶応 4年(1868)
・ 6月16日
 平潟に新政府軍千五百人が上陸。その後も上陸は続き七月中旬には三千の兵を擁するようになった
・ 6月24日
 平潟の上陸軍に呼応し、棚倉城攻略のため板垣退助の率いる新政府軍約八百が白河を出発した
 棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があった。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった
 結果、棚倉城は落城して棚倉藩降伏


--------------------
参考文献;Wikipedia「白河口の戦い」
     パンフレット「戊辰白河口の戦い」
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2012.11/15(THU)

馬場都都古和氣神社 棚倉町馬場
ばばつつこわけじんじゃ




 陸奥国一宮都々古別三社の一社である
 延喜式神名帳で名神大社として記載される古社で陸奥国一宮とされ、祭神は味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)と日本武尊が祀られている
 江戸時代頃には近津三社(馬場都都古和氣神社・八槻都々古別神社・近津神社)と総称された「上の宮」にあたる

c0185705_13255895.jpg

※ アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。「古事記」では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、「出雲国風土記」では阿遅須枳高日子と表記する
 また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される
 別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)
Wikipedia「アヂスキタカヒコネ」
--------------------
 会津藩元家老西郷頼母は都々古別神社の宮司をしていた時期があるが、棚倉には八槻都々古別神社もあって、どちらだったのかは解らなかった
 以下、Wikipedia「西郷頼母」から要約してupする
西郷頼母
 --戊辰戦争以降--
 会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった
明治 5年(1872)
・赦免されて伊豆で私塾を開く。その後は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務めるかたわら、戊辰の役で孤児となった甥の西郷四郎を養育し彼に柔術を教えた。その後一時期政治運動にも参加した。ただ、政府と袂を分かった西郷隆盛との関係から内通疑惑を抱かれた為、明治政府に職を追われた。実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりはあったが、慶応年間からの知り合いと伝承では成り立っている
 家族の受難は戊辰戦争の悲話として紹介され、頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価もされている

c0185705_13264068.jpg


 --明治維新後--
明治 3年(1870)
・西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となる
明治 5年(1872)
・依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる
明治 8年(1875)
・現福島県東白川郡棚倉町にある都々古別(つつこわけ)神社の宮司となる
明治10年(1877)
・西南戦争が勃発すると、西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任される。保科頼母は西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われた
明治12年(1879)
・長男吉十郎病没。志田四郎を養子とする
明治13年(1880)
・旧会津藩主であった松平容保が日光東照宮の宮司となり、保科頼母は禰宜となった
明治20年(1887)
・日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った
明治22年(1889)
・現福島県伊達市霊山町にある霊山(りょうぜん)神社の宮司となる。大東流合気柔術の伝承によると、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び
明治31年(1898)
・に霊山神社を訪ねた武田惣角(武田惣右衛門の孫)に御式内を伝授したという
明治32年(1899)
・霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻った
明治36年(1903)
・会津若松の十軒長屋で74歳で死去。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある
著作に『栖雲記』がある
--参考文献;Wikipedia「西郷頼母」--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]