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2012.10/18(THU)

大原村の戦い「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月25日




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小原沢の戦い(2012.10/17)
藤原の戦い(2012.10/16)
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 会幕軍は本営を藤原(新藤原駅付近、現星七郎氏方)に置き、前哨陣地を大原(地図で大原、信号のある三叉路附近、現藤原中学校辺)に置いた
 新政府軍、肥前佐賀藩と宇都宮藩は連携して藤原・大原の攻撃を開始した(この時大鳥、山川は不在)。攻撃は佐賀藩の持つ後装式アームストロング砲が威力を発揮するなどして快勝。藤原本営の占領は出来なかったものの、小佐越、大原の前哨陣地を占領した
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慶応 4年(1868)
・ 6月25日 大原村の戦い
「南柯紀行」から引用


 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是れ大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ返らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り、途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、猶駕(籠)を急がせ高原へ帰り来りし処歩兵体の者追々南方より来るを見るゆえ何者ぞと尋ねしに、第三大隊の兵士にて今朝より大原にて敗軍し此村に引揚げ、則隊長も来り居れりと云余愕然切歯に堪えず隊長に会いしに其の語る処今兵士より聞きし次第に異ならず、敵小佐越の方なる川岸より「アルムスツロンス(アームストロング)」の野戦砲を以て頻りに射撃せし故、之れに向て打(撃)合いし故、敵は散兵を左側の山へ登せ我が左側幷に背面を打ちし故之を防ぐ能わず引退き大原村にても防ぐ能わず、同村迄は草風隊の援兵来りしかども烈戦にも至らず引揚げ、同村も敵の為に放火せられ藤原迄返りし処、同村には宿陣の処もなく当駅まで引退きたりと云、余之を聞き余が留主(守)中と雖も手筈の事は兼ねて隊長へ申含め置たるに、其詮なく不埒の挙動なりと甚だ奇怪に思えど今更之を譴責するも益なし、今日戦い負けて是迄引揚る程なれば敵軍又明日藤原へ押寄る事必定なり、是より急ぎ帰り防戦の手筈を為し今日の恨を晴さんと言い捨て直ちに乗駕し、四ツ過ぎし頃藤原に着き本日の戦いの模様を一と通り糾明し、明暁敵又襲来するに相違なし因て何れも大憤(奮)発して今日の恥を雪ぐべしと一同へ令し、即ち専ら防禦の索を運らしたり、藤原村の向岸なる下方に、滝の湯とて温泉場あり、此辺の人家へ敵今夕方より潜伏し居る由なりと聞きし故、凡距離も分りおれば手臼砲打にて驚かすこと一索なりと思い付き、其掛りの者へ命じ三四発撃たしめしに果して敵二十人計りも隠れ居り、此砲声に怖れ逃げ帰りし由なり。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.10/17(WED)

小原沢の戦い 「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月26日




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藤原の戦い(2012.10/16)
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※ 小原沢(鬼怒川公園駅付近)に陣を置いた大鳥圭介軍は、新政府軍を迎え撃つ体勢を整えた

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慶応 4年(1868)
・ 6月26日 小原沢の戦い
「南柯紀行」から引用


 今夜は暫く眠らず、小泉村胸壁築立の事を指揮し七つ時頃より余も小原に出張し先ず本道と川向うとを防ぐ、胸壁を築立てんと頻りに人足を鞭韃(撻)して之を急ぎ、漸く半出来たる頃、即二十六日朝五つ時頃にもありたるか小佐越の方に当り小銃の声遥に聞えたり、暫時ありて兼て差出し置たる物見の者馳せ帰り、敵鬼怒川の両岸に上り来り、先鋒は已に二十町計の処まで進来れりと云、未だ胸壁は成らざれども草風隊を正面に備え伝習士官隊の者を川岸に配ばり第二大隊の内を山林の間に散布し、其余の第二大隊を応援に残し、夫々手筈を定め今や来ると待かけし処間もなく敵の先鋒川向に来り、大砲を放ちながら次第に進み来れども身(味)方格別発砲せず敵愈勢いに乗じて前進し、又本道の方へも追々押し来り互いに血戦に及び、敵は多勢の強兵なれば容易に辟易する色なく大小砲連々打続て、川向の岸を経て猶奥深く進み我陣の横を撃たんとせしを、我樹陰の胸壁より一斉に小隊打を為せしに由り、大に驚き少し引色見えし故味方猶烈敷打立て、本道の方にては午時頃迄は互いに小銃の打合盛なりしが、敵味方とも小谷を隔て小高き処にあれば双方とも近寄る能わず、味方も今朝より引続き戦いければ、余程疲労せり、於是予備に残し置きたる兵半小隊計を浅田鱗(麟)之介(助)に率かせ、本道の方に向わしめしに、味方新兵の加わりたるを以て大に気力を得、第二中隊の者並に草風隊の兵士勇を奮い、士官は刀を抜き兵士は剣を附け、声を揃えて胸壁より飛び出し、谷川を渡り切り入りしにより、敵狼狽敗走踏止りて戦い者も余程ありたれども、大抵之を打倒し切斃し追行きしに、谷間に下り戦い居りし者は急卒の事なれば、逃げ道を失い困迫せるを切殺したるも多し、已に本道敗れ味方之を追撃したる上は、川向うの敵後しろを断たるるの患ある故、益引色にて戦う処を愈烈敷連発せし故多く弾薬器械を打棄て散々に敗走せり、乍去二十町計りも追撃して之を逐うことを止め、八つ時凱旋せり、川向うの敵は順道を経て帰る能わず、多くは山へ逃げ登りし処深山にて素より路なき処なれば、大に餓え翌晩漸く今市に帰りたる者ありと云事を後ちに聞き知りたり。
 本日味方死傷大抵如左
  士官戦死 草風隊長 村上求馬 隊士一人
   傷  者 草風隊軍目会入(人)某一人
   兵士薄手三人戦死無之
    分 捕
   小銃 二十挺計  元込弾薬 五六千発  刀 十四五本  長持 一棹  雑具品々
  斬首十四五
 此戦争に最功勲ありしは草風隊の村上求馬、鈴木弥七郎今一人は名を失したり、第二大隊中にて滝川充太郎、浅田鱗(麟)之助、大村卓司なり会津候より羅紗を贈りて其功を賞せられたり。
 後ちに川向うの戦地に渡り之を巡視せしに、路傍の松杉等小銃の弾痕星の如くにて其辺り血流れ弾薬兵糧散乱せり。
 其後敵大原辺迄は巡邏に来りたり、互に番兵の者と砲発すれども格別の戦いに至りし事なし。
 六月中無事。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.10/17(WED)

藤原町(現日光市)の小原沢に行く途中にあった郷土資料館




以下、現地の案内板から
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日光市郷土資料館
-- 仲附の旅籠(なかつけのはたご) --

 この建物は、会津西街道の藤原宿で明治元(1868)年に建築された仲附の旅籠を、昭和五十六年藤原町がここへ移転したものです。
 江戸時代、会津西街道の仲附は信州の「中馬(ちゅうま)」と並ぶ特殊な輸送手段でした。
 仲附輸送の特色は、会津藩が設置した宿駅を継ぎ送るというしくみでなく、一人で五~七疋の馬をひき目的地まで附け通すというところにあり、輸送も早く、運賃も安く、荷物のいたみも少ないという便利なものでした。
 幕末、藤原宿には五軒の仲附宿がありましたが、この宿は「加登屋(かどや)」の屋号で呼ばれ常時十人前後の仲附が宿泊していたといわれます。
 なお、この建物は、持主であった斎藤敬作氏が、藤原町に寄贈したもので屋根はかやぶきでした。

 ・建 物 木造平屋
 ・面 積 159.20㎡(48.15坪)
 ・平面図

      平成七年一月
      日光市教育委員会
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写真;2015.03/25



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2012.10/16(TUE)

藤原の戦い  6/25 大原村の戦い、 6/26 小原沢の戦い





 今市攻略に失敗した会幕軍は藤原に陣地を築き、会津街道口の防禦持久戦に移った

慶応 4年(1868)
・ 5月
 会津侵攻路を確保するため進撃していた土佐藩だったが、白河口の攻防が膠着するとその増援に向う。これに代わった佐賀(肥前)藩が今市に着陣した
・ 6月25日
 佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍は連携し、会幕軍が守備する藤原口を攻撃する
 その一隊を小百(今市市)から、もう一隊は大渡(同)から鬼怒川を渡河し、宇都宮藩兵は鬼怒川左岸の船生(塩谷町)から会幕軍の第一線陣地(小佐越、藤原町)を攻撃した。ここを突き進むと大原(同)で陣を構えた会幕軍と交戦し、船生から山を越えて大原陣地の背後に回った別働隊の働きとアームストロング砲が威力を発揮して敗走させた
 会幕軍、藤原方面に退却した
・ 6月26日
 新政府軍、藤原に向け鬼怒川の左右両岸から進撃を開始した
 迎える会幕軍、左岸ではモウキ山(藤原町)の断崖上から攻撃し、右岸では上滝まで兵を引かせ、敵を引き付けると一斉に射撃した。新政府軍、会幕軍の猛攻に堪らず四散敗走する
 会幕軍は地形を利しての大勝であった

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・ 7月21日
 大鳥圭介、伝習大隊を率いて会津若松に向う
・ 8月7日
 宇都宮藩兵を主力とする新政府軍、船生の戦いで会幕軍を撃退する
・ 8月21日
 新政府軍、薩摩藩士中村半次郎(桐野利明)を藤原口軍監に任命
 会幕軍、藤原村に放火して退却
 山川大蔵、藩兵を率いて五十里から会津若松に向う
・ 8月24日
 宇都宮・佐賀藩隊、小百から栗山に向う

・ 9月14日
 若松城総攻撃
・ 9月22日
 会津落城。松平容保、城を出る

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以下、現地の案内板から

戊辰戦争「大原村の戦い」 6月25日

 日光山の戦火回避後、慶応四年(一八六八)、閏四月から五月初めの二度にわたる今市宿攻防戦は、政府軍がこれを死守した。
 敗退した会幕軍は、陣容を立て直すために一旦会津へ退き、再び南下して政府軍の進撃に備えた。
 会幕軍は、下原(小佐越駅付近)・大原(藤原中学校付近)・藤原(新藤原駅付近)など街道筋へ主陣や前線基地を築き、装備を整えて、一日でも長く戦闘を持ちこたえ、若松城下をめざす政府軍の前進を阻もうとした。政府軍は、頑強な抵抗に苦しめられたが、八月、会幕軍の主戦場白河口へ結集する退却によって前進できた。
 大原・藤原などの集落は、会幕軍の退却に伴って焼き払われた。

政府軍 約1200名、砲 4門、木砲 数門
会幕軍 約 500名、伝習第二大隊・別伝習隊・草風隊 
「藤原町誌」通史編から
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戊辰戦争「小原沢の戦い」 6月26日

 ここ小原沢も、激戦地であった。この辺りは、モウキ山の曽根が鬼怒川へ突き出て、「大べつり」と呼ばれる最大難所の一つであった。戦争当時は、荷物を積んだ駄馬がやっと一匹通れるぐらいの小道が、曽根をへつって通じていた。
 進撃する政府軍が、難所を越えると、道は切り通し風の上り坂になり、大きく蛇行している。陣地を構えて政府軍を迎え撃つのに絶好の地形であった。会幕連合軍は、近隣の農民を使役して、左手小高い丘に溝型の防御施設を設け、モウキ山の麓に姿を見せた政府軍兵士を一斉射撃したのである。
 近くの殉難碑に、両軍の戦死者名が刻まれている。
     藤原町
「藤原町誌」通史編から
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写真;【殉難碑】、2012.10/16

小原沢「殉難碑」
碑文

当地の渓流を挟んだこの附近一帯は、慶応四年(一八六八年)六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に築いた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉迫して来た西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し西軍の会津進出を阻止した。この日の戦死者は、東軍の隊長村上求馬ら三名、西軍の佐賀藩小隊長嬉野弥平次、宇都宮藩家老長男安形靭負太郎ら十八名にのぼった。裏面に誌した人々は、この戦前後の藤原町地内での戦死者を含んでいる。依って、ここに碑を建てて永えに其の雄魂を弔うものである。なお慶応四年は同年九月より明治と改元された。
     昭和五十六年六月二十六日建之
     齋藤茂吉 撰文
     木村 始 謹書

※ 宇都宮藩家老 長男 安形靭負太郎(あがたゆきえたろう)

※ 昭和56年(1981)
・ 6月
 田辺昇吉氏(日光山麓の戦)や友人の星光二氏(当時藤原町長)らによって建立された

--参考文献;「下野の戊辰戦争」大嶽浩良--



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2012.10/15(MON)

大山捨松 出生、渡米から帰国




大山巌那須別邸(2012.07/11)

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大山捨松年譜(引用)
年        月・日  大山捨松関係          国内・外
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出生
万延元年(1860)   2・24  捨松、会津藩家老山川尚江・唐
              衣の末娘咲子として会津若松に
              生まれる
文久 2年(1862)   8月                   会津藩主松平容保、京都守
                              護職に任命さる
元治元年(1864)   6月                   京都池田屋事件
          7月                   金門の変
慶応元年(1865)   9月                   アメリカヴァッサーカレッ
                              ジ創立
慶応 2年(1866)  12月                   孝明天皇崩御
慶応 3年(1867)  10・15                  大政奉還
         12・ 9                  王政復古
会津戦争
慶応 4年(1868)   8・23  会津戦争。捨松、母姉達と鶴ヶ  白虎隊、飯盛山で自刃。山
              城に籠城            川浩隊無血入城成功(8/26)
明治元年      9月   会津藩降伏(22)。捨松、家族と
              共に塩川村に移される
         10月   山川浩、藩主容保に同行し東京
              の謹慎所へ
         11月   山川健次郎、会津を脱出、越後
              へ向かう
明治 2年(1869)  11月                   容保の嗣子容大に家督相続
                              が許され斗南藩を賜る
明治 3年(1870)   6・ 6  捨松、兄浩に引率され母姉達と
              会津若松を出発
          6・21  新潟より海路にて野辺地港に上
              陸
明治 4年(1871)   1月   山川健次郎、開拓使留学生とし
              てアメリカへ出航
          2月   藩庁田名部に移り捨松も家族と
              共に移動、後に箱館に一人送ら
              れる(月日不明)
          7月                   廃藩置県
渡米
         10月   捨松、開拓使募集の女子留学生
              として渡米のため上京。幼名咲
              子を捨松と改名
         11・12  捨松、岩倉使節団一行と「アメ
              リカ号」で横浜港出発
         11・13  大山巌、フランス留学のため横
              浜港出発
         12・ 6  岩倉使節団サンフランシスコ到
              着(陽72.1/15)
         12・22  岩倉使節団サンフランシスコ出
              発(陽72.1/31)、途中雪のため
              ソートレイクシティに滞在
明治 5年(1872)  1・21  岩倉使節団ワシントン到着(陽
              72.2/29)。捨松ら五人の女子
              留学生ジョージタウンのチャー
              ルズ・ランメン宅へ。後ワシン
              トンのコネティカット街に下宿
          2・ 3                  岩倉大使一行、米側と条約
                              改正交渉に入る(陽72.3/11
                              )
          6・17                  条約改正交渉決裂(陽72.7/
                              22)
          7・ 3                  岩倉使節団イギリスへ出発
                              (陽72.8/6)
          8・ 3                  学制公布される(陽72.9/5)
         10月   女子留学生の吉益亮子と上田悌
         (陽)  子は病気のため帰国  
         10・31  捨松と永井繁子、ニューヘィヴ
         (陽)  ンのベーコン牧師宅へひきとら
              れる。津田梅子はランメン宅へ
         11月                   太陰暦を太陽暦に改める
明治 6年(1873)   2月                   キリスト教禁制の高札の撤
                              廃
          9・13                  岩倉使節団帰国
明治 8年(1875)   8月   山川健次郎、エール大学を卒業
              。日本へ帰国
          9月   捨松、ニューヘイヴンのヒルハ
              ウス高校に入学
明治 9年(1876)  1・11  大山巌、宮内少輔吉井友実の娘
              沢子と結婚
明治10年(1877)   2月                   西南の役起こる
明治11年(1878)   9・18  捨松、ヴァッサーカッレジに入
              学
明治12年(1879)   9月                   学制が廃止され教育令制定
明治13年(1880)   2月   大山巌、陸軍卿となる
明治14年(1881)  12・24  ベーコン牧師死去
明治15年(1882)   2月                   北海道開拓使廃止
          6・14  捨松、ヴァッサーカッレジ卒業
          7月   捨松、ニューヘイヴンのコネテ
              ィカット看護婦養成学校に短期
              入学
帰国
         10・31  捨松、津田梅子と「アラビック
              号」でサンフランシスコを出発
              帰国の途へ
         11・21  捨松、横浜港に到着
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著者プロフィール
昭和15年(1940)、東京に生まれる。64年、慶応義塾大学文学部西洋史学科卒業。在学中、慶応・スタンフォード大学夏期交換留学生として渡米。のち、ホープ・カレッジ及びミシガン大学で学ぶ。
64年、東京オリンピック組織委員会渉外部勤務。68~71年、CWAJ(カレッジ・ウィーメンズ・アソシエーション・ オブ・ジャパン)に入会、日本及び外国人女子留学生の奨学金支給のための活動を行う。85年、CWAJ会長を務める。現在、日本協会理事。(引用)
大山捨松は曽祖母

--参考文献;「鹿鳴館の貴婦人/大山捨松」久野明子--



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2012.10/14(SUN)

西郷頼母歌碑




 10月11日、母成峠に行った。近くには「東軍殉難者慰霊碑」があって行ったのだが、そこに西郷頼母の歌碑があった

母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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以下、現地の案内板から

 なき魂も
  恨みは晴れてけふよりは
  ともに長閑く天かけるらん


この和歌は会津藩家老西郷頼母が明治二十二年四月二十四日、会津若松市阿彌陀寺で、会津藩殉難者慰霊祭が、晴れて執行出来るようになった喜びを詠んだ和歌で、西郷家で自刃した二十一人のうち六名までが小森家の血縁につながる人々であったこと、又、小森一貫斉が母成峠で戦ったことに思いを馳せ、一貫斉の曽孫である小森昌子さんが殉難者への鎮魂のため昭和五十九年九月、ここに建設したものである。
     母成弔霊義会

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※ 西郷頼母(さいごうたのも)
 文政13年(1830)閏3月24日 -明治36年(1903) 4月28日、幕末期の会津藩の家老。家禄1700石
※ 長閑く(のどけく)



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2012.10/13(SAT)

渡邊信任翁頌徳碑




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母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)
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猪苗代湖の水が灌漑用に供されたのはそのはじめ會津の國主蒲生氏郷が地方民の建言をいれて布藤堰と戸の口堰とを開いたのに始まる
下って明治十五年に安積疏水が設けられてから湖水の利用は飛躍的に盛んになった
利用率の増大は他面爭いの因となる
そこで右の三堰の利用者を福島縣及び電氣業者を誘い合わせて一種の聯盟を結成し利用の公平をはかりあわせて利用方法の改良を期する必要がある
かくして出来たのが猪苗代湖利用聯盟でありこれを□案し今日の盛運に導いた達眼の士が郷土の人渡邊信任翁である
翁は大正十年に安積疏水普通水利組合會議員に昭和四年には同組合常設委員に選ばれて以来挺身奮闘して水位の調整權を確立し湖面低下を斷行して發電力の増強を實現し工業の振興に目覺しい貢献をなした
食糧増産をもって立國の大本とすることは翁の宿志である水利事業の作振に未開墾地の開拓に翁は粉骨砕心すること三十余年その熱意と成果はついに政府の認める所となり昭和十九年十一月三日に藍綬褒章を授けられた
猪苗代湖利用聯盟はゆかりの地であるここ十六橋畔に頌徳碑を建てて翁の遺功をしのぶよすがとする

昭和二十七年六月二十五日 農林大臣廣川弘樿撰 清超金子哲太郎書

※ 勝手に適当なところで改行を加えた
※ 渡邊信任(わたなべのぶとう) 明治19年 -昭和32年、郡山出身

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※ 渡邊信任翁頌徳碑はこの写真(園地?)の左方にある



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2012.10/12(FRI)

東軍殉難者慰霊碑




平成24年(2012)
・10月12日
 11日に母成峠を見たが、峠から猪苗代よりに少し下ると右手に「東軍殉難者慰霊碑」入口の案内板があって、車道から100メートル程行った先である

母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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東軍殉難者慰霊碑
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写真 2012.10/11

以下、現地の案内板から

 母成峠の戦いは、慶応四年(1868)八月二十一日、こヽ母成峠周辺を戦場として戦われた。この日、本宮、玉ノ井村に結集を終った西軍は、兵を三分し、谷干城(土佐)の率いる凡そ千名は勝岩(猿岩)口へ、板垣退助、伊地知正治の率いる凡そ千三百名は石筵本道口へ、川村純義(薩摩)の率いる三百名は山葵沢より達沢口へ、一斉に進発した。これを迎え撃つ東軍は、総数僅かに八百名、勝岩口には勝岩上に、大鳥圭介の率いる伝習第二大隊及び会・二本松兵併せて三百名が守備に当り、勝岩下には、新選組凡そ七十名を配置し、土方歳三・山口次郎がこれを指揮した。
 石筵本道口の第一台場(萩岡)第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中源之進・二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助らの指揮する会・仙・二本松及び伝習第一大隊併せて四百数十名が守備に当った。
 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分れ、午前九時頃から凡そ七時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、東軍は北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。このため、西軍は、二十二日十六橋を突破し、二十三日戸ノ口原を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に殺到した。
 東軍戦死者 八十八名 西軍戦死者 二十五名

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以下、現地の案内板から

東軍殉難者埋□□
慶応四年八月二十一日、母成峠の戦いの東軍戦死者の遺体は当時西軍のきびしい命令により埋葬を許されず戦後暫くの間、放置されたままになっていたがこれを見かねた近くの人々が西軍の眼をぬすんで遺体を集め仮埋葬した。その後この地は雑草に覆われてその所在がわからなくなっていたのを、百十余年後の昭和五十三年六月二日猪苗代地方史研究会の手によって発見された。その後子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきたが、昭和五十七年十月六日東軍殉難者慰霊碑建設と同時に長く保存することにしたものである。

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2012.10/11(THU)

母成峠、十六橋の戦い




平成24年(2012)
・10月11日
 母成峠(現福島県郡山市、猪苗代町)から十六橋(猪苗代町)に行って来た。母成峠の戦いがあったのが新暦だと今時分で季節感は丁度良い。ただし天気は晴れていて、当時の濃霧とは程遠いものだった

 また、峠付近に戦いのあった形跡は無かったように思えたのだが…
 …新政府軍を迎え撃つために築いた堡塁が峠の稜線の東側に延々と伸び、頂上近くには、砲台の跡が残されている(2013パンフレット「八重のふるさと福島県」)とのこと
※ 朝10時に家を出、郡山を経て正午を30分程過ぎて母成峠に着いた

写真 2012.10/11
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正面には
 戊辰戦役 母成峠古戦場
 松平保定書
向って左側面には
 東軍 大鳥圭介 田中源之進 丹羽丹波 土方歳三 以下八百名
 西軍 板垣退助 伊地知正治 谷 干城 川村純義 以下三千名 
右側面には
 決戦日(1868)
 慶応四戊辰年八月廿一日(太陽暦十月六日)
裏面には
 昭和五拾七年拾月六日
 母成両碑建設実行委員会建立
と刻まれている
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経過
慶応 4年(1868)
・正月
 戊辰戦争が始まり、戦域は次第に東へと移った
・ 3月
 新政府軍、江戸に進駐した
・ 4月
 江戸城明け渡し(無血開城)
 旧幕府の抗戦派は関東各地に脱走した
 ことに大鳥圭介率いる伝習歩兵隊を主力とした脱走軍(大鳥軍)は一時宇都宮城を占拠するなど、下野国周辺の新政府方諸藩にとって脅威となった
 以降、各地で戦闘が繰り広げられた
・ 5月  
 新政府軍、奥羽越列藩同盟軍(同盟軍)に占拠された白河城を奪取し、奥羽への突破口を確保した
 江戸では上野戦争に勝利して奥羽への兵力増援が可能になり、列藩同盟軍に対する本格的な攻勢作戦が準備され始めた
 浜通り地方の各藩を制圧
・ 7月
 新政府軍、二本松城を占領。一挙に会津攻略を目指す事となる
 この頃、越後口では山県有朋が4万もの大兵力で同盟軍を圧迫していたが、山脈を越えて会津への突破口を確保するには相当な時間が必要であった
 薩摩の伊地知正治と土佐の板垣退助は東山道総督府単独での会津侵攻を主張し、開始した

 侵攻を開始して、まず母成峠で大鳥軍と衝突した

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戦力
 新政府軍(東山道総督府)の戦力の中核は薩摩、長州、土佐、鳥取の各藩兵で補助的な兵力として北関東諸藩の部隊であるが日光口の中村半次郎支隊を併せれば三千
 指揮は参謀の伊地知、板垣両名の合議によって為され、この両参謀はともに少数精鋭主義を唱えている
 一方の同盟軍は兵力の過半を越後口の防衛に投入しており、会津国境の各峠にも兵力を分散配置していた。さらに二本松奪還に失敗したため予備兵力もなく、兵士は士気阻喪しつつあって、母成峠では大鳥軍は独力で守備しなければならない状況にあった
 母成峠の守備隊は伝習歩兵を中心に総数8百。地の利を考えても圧倒的な差があった
 装備した小銃は最新式のシャスポー銃(使用されなかったと云う説もあるのだが、あえて)であったが、新政府軍の各部隊でもスナイドル小銃を調達しており、火力は同等といえた
シャスポー銃(2012.07/07)
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侵攻路 新政府軍
・ 8月20日
 伊地知は母成峠を越えて猪苗代湖の北岸を進むことを主張し、板垣は御霊櫃峠を越えて猪苗代湖南岸を進むことを主張した
 母成峠を越えれば比較的平坦な地を会津まで進むことになり、電撃的な侵攻には向くが、猪苗代北岸の十六橋を破壊されれば侵攻は困難になる。伊地知はこれを承知の上、なお電撃的侵攻に自信があったのであろう
 この薩摩と土佐の意地の張り合いに、長州の桃村発蔵が調停に立ち、伊地知案による会津侵攻が開始された
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防御態勢 大鳥軍
 二本松失陥以前、同盟軍の母成峠陣地は会津と二本松を結ぶ連絡拠点であり、会津兵が守備についていた。二本松失陥以後は奪還攻撃のための前進拠点となり、奪還が失敗した後は国境防御の拠点となった。陣地も麓から中腹、頂上付近と追加構築され、次第に防禦主体陣地へと変わって行ったのである
・ 8月上旬
 大鳥軍、母成峠の守備につく。越後口では新政府軍の勢いが激しくなり、同盟軍は越後口の防御に力を注ぐ必要があった。そのため大鳥軍が母成峠守備に任じたわけである
 母成峠に入った大鳥軍は保有戦力に比して守備区域が広すぎる事から第三線陣地を構築した。既設の第一線、第二線陣地を活用しながら、最終的に第三線陣地で新政府軍の侵攻をくい止めようとしたのである
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前哨戦
 新政府軍は、母成峠攻撃に先立って中山峠に対する攻撃を開始した。この攻撃は陽動であり、3千の主力部隊はその間に母成峠へ向けて前進していた
 大鳥軍、新政府軍主力が母成峠へ前進中であることを察知、たまたま坂下にあった二本松藩兵残余三小隊、仙台藩兵三小隊、会津藩兵二小隊、伝習歩兵一大隊(当時の大隊の定員は戦闘員4百)を増援させて同地に展開させ、新政府軍を待ち伏せた(大鳥は猪苗代で開かれる同盟軍の軍議に参加のため、指揮を部下に任せ同地を離れた)
 新政府軍も坂下に敵軍が展開中との情報を得て、薩摩藩兵から一小銃隊(戦闘員80、中隊規模)を派遣した
 先着した薩摩藩兵は台地上に展開を済ませた大鳥軍の陣容を見て独力での攻撃は不可能と判断、薩摩藩、長州藩、土佐藩の合計6隊(5百名程度か?)の増援を得て攻撃を開始した
 台地に地の利ある大鳥軍への正面攻撃は無理で、新政府軍は左右両翼から攻撃を開始した。が大鳥軍の隠蔽陣地からの砲撃で近づけず
 新政府軍、土佐藩の一小隊が台地の後方に迂回し大鳥軍への背面攻撃を開始した。左右両翼は直ちに突撃を開始して形勢の逆転を図った
 伝習歩兵隊はこれに適切に反応して背後の土佐藩兵に一隊を向け、友軍を自陣に収容しつつ徐々に兵力を背面に向け、退路を確保した
 二本松、仙台、会津各藩兵は、殿軍戦闘を伝習歩兵隊に任せて戦場を離脱、踏み止まった伝習歩兵隊は30名余の死傷者を出し、頭取(隊長)であった浅田麟之助までが重傷を負いながら、日没まで新政府軍をくい止めた
・ 8月20日夕刻
 軍議のために猪苗代城へ赴いていた大鳥が母成峠に戻った

以下、南柯紀行より引用する

夜四時頃にもありけるが本多兵数人と共に帰り物語りけるは、今日の戦い全軍敗走せるによって帰路を絶(断)れ漸く小林の間に潜匿し敵数歩の処まで来れども幸い見付ること能わず、其去るを見て迂路を取り山に登り還りたりとぞ、而して会、松、仙の兵を問うに死傷甚だ少し、伝習隊は士官の戦死三四人頭取浅田鱗(麟)之助も重傷を蒙り、兵士死傷凡三十人なり、余益々三藩の兵の頼(恃)むに足らざるを知れり、然れども亦本多、大川其他士官の無事にて帰るを見て悲喜相交り手を執て涕を流せり。
 今夜は兵隊と共に石筵山の山上に宿す。
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母成峠の攻防
・ 8月21日
 朝、母成峠は濃霧であった
 新政府軍は正面と左右両翼の三隊に分かれて母成峠に迫った。母成峠には三線の陣地がある。正面隊は敵正面の部隊に砲撃を集中し、左右両翼隊は同時に迂回して、第三線の背後へ左右から一隊ずつ送り込んで敵の退路を遮断し、三線の敵陣全体を包囲することにした
 ・伊地知は左翼に薩摩小銃一番隊から六番隊までの最精鋭六隊を集中
 ・右翼は長州三番隊(戦闘員九十名、中隊規模)と土佐藩の七小隊が担当
 ・正面中央には薩摩藩準主力級の七隊に加え、大砲一番隊から三番隊までの三砲隊を集中した
 新政府軍の三隊は濃霧の中を前進、午前9時頃には右翼隊が第二線陣地に接触した
 大鳥軍は接敵の合図に号砲2発を撃ち、戦端が開かれた
 新政府軍中央隊は第一線陣地を攻撃
 大鳥軍は第一線を放棄し第二線陣地へ後退した。第二線陣地を堅固に守っていたが、敵右翼隊一部が北方へと迂回するのを察知すると、大鳥軍一部を敵迂回隊に向けた。この大鳥軍一部が迂回隊との戦闘に破れて第二線陣地へ潰走したことで大鳥軍は動揺した
 新政府軍中央隊が第二線陣地に接近すると、大鳥軍はさらに混乱し、右翼隊が陣地に突入すると第三線陣地目指して後退した
 その頃、新政府軍左翼隊は濃霧の中、道無き山中で進撃が出来ず戦闘に加われずにいた
 新政府軍右翼隊と中央隊は第二線陣地で合流、正午頃に第三線陣地の攻撃に向かう。峠の頂上に停止すると砲兵団を展開、間断無く第三線陣地へ砲弾を放った
 大鳥軍、猛砲撃に堪らず後退したが、敵左翼隊の前進が遅れ背後には未だ到達していなかった。包囲こそ免れたものの、反撃中であった伝習歩兵隊はまたしても味方から置き去りにされ、山中への逃亡を余儀なくされたのである

以下、南柯紀行より引用する

 二十一日敵来るときは、萩岡の台場に木砲二発を打ちて合図と為すこと兼て約束なり、余昨日已来の奔走にて大に疲れたれば早暁まで熟睡せり、然る処六つ半頃なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり、是れ敵来るなりと直ちに起き、飯を喫し兵隊へ令を伝え中軍山へ上り見れば、敵軍両道に分れ一は南方の谷間より進み、一方は北方にある山上に来れり、因て兵を夫々分配し田中は中軍山に趣(赴)き、余は大隊幷に二本松の兵を帥いて勝岩の上に登り北方の敵に当れり、先ず本多大川を兵隊に付けて遣し少し後より至り見れば、已に砲声盛にして互に渓を隔てて打合い居れり、我に胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰(選)組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元(許)なく思い少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず、余種々之を指揮し置き四つ半頃にもありけるか、南方の砲声衰えたる模様(第二大隊の持場と南方の口とは距離一里余)なれば、心掛りの儘南方に下りて中軍山近く至り見るに、萩岡に火焔颺れり甚だ不思議に思い歩み行く内に、萩岡の方面破(敗)れ会津の兵引上(揚)げ敵入りて陣小屋に火を放ちたりと言伝う、而して勝岩よりの上の敵は我が火の烈しきによりて、胸壁に近づく能わず次第に引退き、勝岩より下に回り南方へ進みければ、勝岩の方も砲声減ぜり、因て第二大隊の内一小隊を中里山に廻し援助を為さしめんと思い、十丁計りも上りける処中軍山の辺の砲声近く聞え、歩兵共追々引退く色に見ゆる故如何なる事にやと思う内、八時前なる頃敵早中軍山よりも近き山上に来り発砲せり、於是余又関門の傍に下り敗兵を集め此にも堅固の胸壁あれば、今一防戦と頻りに指揮せる内、何者の所業にや本営の陣屋に火をかけたり、敵兵なれば敵已に後方に回りたりと言触し、追々逃去り踏留まるもの甚少し、実に此口敗れなば会の滅亡旦夕にあり、今一奮発と怒罵すれども、必死の者乏しく、敵は次第に迫りける故、胸壁に留まるもの余を合して僅に数人のみ、間もなく敵群り至り弾丸雨よりも甚しく、因て会人田中、小森其外と謀り此勢に及び今共に骸を駢べ死するとも其甲斐なし、暫く退きて猶防禦の一策を立つべし、但勝岩より上に出でたる兵隊へは未だ此事を通ずるに暇あらず、此兵帰路を失い困迫すべけれども今更之を報ずる手段もなければ、乍残念退くより外策なしと申合せ、夫より順路を経て山を下り木地小屋の方へ返りしに、敵近く逐い来り連に狙撃為せども一発も命中することなく、其場を逃げ延び(後略)
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十六橋 新政府軍
・ 8月22日
 母成峠を奪取した新政府軍、次早急に為すべきは十六橋の確保であった
 前日左翼を前進して戦闘に間に合わなかった川村与十郎の薩摩小銃四番隊は、前夜から敵退路に陣取り大鳥軍残兵と交戦していた
 一方、母成峠失陥を知った会津藩は十六橋を破壊し、敵の会津若松突入を防ぐべく佐川官兵衛を総督として十六橋方面に藩兵を出撃させた
 川村隊は夕刻から前進を再開、一気に十六橋に迫った。まさにその時、十六橋は会津藩兵が破壊するところであった。川村隊は銃撃により会津藩兵を撃退、間一髪で橋を確保し、会津若松への橋頭堡を築いた
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※ 写真、十六橋(じゅうろっきょう)は、福島県耶麻郡猪苗代町と会津若松市に跨る一級水系阿賀野川水系日橋川に架かる橋。猪苗代湖にほど近い場所にあり、旧若松街道を通す。名前の由来は、弘法大師が16の塚を作り橋を作ったといわれることからと云う
 二代目にあたる橋が戊辰戦争「十六橋の戦い」の舞台となったもので、今あるのは五代目か?
 この日、通行は不可であった


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参考文献;大山格ホームページ「母成峠の戦い」
     「南柯紀行」大鳥圭介
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2012.10/03(WED)

戦後処理 戦功賞典(明治 2年 6月?)




慶応 4年(1868)
・ 5月24日
 新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した
明治 2年(1869)
・ 6月?
 諸藩への戦功賞典及び処分を発表した。うち主なものを次に挙げる

「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28・黒羽藩への破格の評価)

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戦功賞典
永世禄 10万石   島津久光父子(薩摩)
          毛利敬親父子(長州)
     4万石   山内豊信父子(土佐)
     3万石   池田慶徳(鳥取)
          戸田氏共(大垣)
          大村順煕(大村)
          島津忠寛(佐土原)
          真田幸民(松代)
     2万石   佐竹義尭(久保田)
          藤堂高猷(津)
          井伊直憲(彦根)
          池田章政(岡山)
          鍋島直大(佐賀)
          毛利元敏(長府)
          松前兼弘(松前)
     1万 5千石 前田慶寧(金沢)
          戸沢正実(新庄)
          徳川慶勝父子(尾張)
          浅野長勲(広島)
          大関増勤(黒羽)
     1万石   松平慶永父子(福井)
          六郷政鑑(本荘)
          榊原政敬(高田)
          津軽承昭(弘前)
          戸田忠恕父子(宇都宮)
          黒田長知(福岡)
          有馬頼咸(久留米)
          秋元礼朝(館林)

処分された藩
          仙台藩   28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた
          会津藩   陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された
          盛岡藩   旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された
          米沢藩   14万石に減封(18万石)
          庄内藩   12万石に減封(17万石)
          山形藩   近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された
          二本松藩  5万石に減封(10万石)
          棚倉藩   6万石に減封(10万石)
          長岡藩   2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた 
          請西藩   改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる
          一関藩   2万7000石に減封(3万石)
          上山藩   2万7000石に減封(3万石)
          福島藩   三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
          亀田藩   1万8000石に減封(2万石)
          天童藩   1万8000石に減封(2万石)
          泉藩    1万8000石へ減封(2万石)
          湯長谷藩  1万4000石へ減封(1万5000石)
          下手渡藩  旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず

所領安堵となった藩
          八戸藩   藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる
          村松藩   家老1名が処刑された
          村上藩   家老1名が処刑された
          磐城平藩  新政府に7万両を献納し、所領安堵となった
          相馬中村藩 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった
          三春藩
          新発田藩
          三根山藩
          黒川藩

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※ 田安亀之助
 德川家達(とくがわいえさと)
 文久 3年(1863) 7月11日- 昭和15年(1940) 6月 5日
 徳川宗家16代当主
 もとは田安徳川家 7代当主
 幼名は亀之助

--参考文献;Wikipedia「戊辰戦争」--



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