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2012.09/29(SAT)

鍋掛宿
なべかけしゅく




 旧奥州街道、那珂川を挟んで「越堀宿」と一対となっている宿である

「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)

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鍋掛宿「正観寺」
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 最盛期には戸数百余戸を数え、旅籠、茶屋、多くの商家などで賑わった
 江戸時代の正保三年(1646)以降は幕府直轄地(天領)として明治まで治められていた
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※ 天領
 天領という用語は、明治初期に旧幕府直轄領が天皇の御料(直轄領)になったときに天領と呼ばれたもので、さかのぼって幕府時代のものも天領と通称するようになったものである。江戸時代には支配所とか通称で御料、御料所などと呼ばれた
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2012.09/28(FRI)

「越掘宿」と戊辰戦争
こえぼりしゅく




平成24年(2012)
・ 9月28日
 戊辰戦争で重要な役割を果たした越掘宿(河岸)を用事のついでであったが見て来た
 次に「栃木の戊辰戦争/大嶽浩良」から引用しUPする
 ① 黒羽藩への破格の評価
 ② 黒羽領境界石
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 ① 黒羽藩への破格の評価
(前略)
 明治二年(1869)六月、戊辰戦争の論功行賞が行われ、黒羽藩の軍功が高く評価され、一万五〇〇〇石の賞典禄が与えられた。破格の評価で禄高では五位、藩の数で見れば一五位に位置した。これは黒羽藩が奥州に接した場所にあって早くから恭順したこと、洋式の近代的装備を調えていたこと、那珂川を通した補給輸送の大役を買ったことが理由とされる(大木茂「下野の戊辰戦争の展開」『栃木県立烏山高校研究紀要叢生』二一号)。この年は特に水量が豊かで、食糧・武器・弾薬を越掘河岸(黒磯市)に揚げて白河に運び、負傷兵を那珂川から海路横浜に運んでいた。
「栃木の戊辰戦争/大嶽浩良」から引用

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 ② 黒羽領境界石
以下、現地の案内板から

     市指定文化財
     黒羽領境界石(史跡)
     管理者 浄泉寺
 黒羽藩主大関増業(おおぜきますなり)は、自藩と他藩との境界を明らかにするため
文化十~十一年(1813 -14)何箇所かに境界石を建てた。
ちょうど増業が大阪城勤務の時で、碑は大阪で造られ船で運ばれた。
 ここ浄泉寺境内にある標柱には
「従此川中東黒羽領」
と刻まれてあり、背面には、「於摂州大阪作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある。
 高さ百五十一センチメートル、幅二十一センチメートルの花崗岩の四角柱である。
 もともとこの境界石は、那珂川の左岸越掘宿(黒羽領)側に建てられていた。川をはさんで向こう側は鍋掛宿(幕府領)で、両宿は奥州街道の宿駅であった。
 大正七~八年(1918 -19)頃、保存のために現在地へ移された。
     昭和四十七年十月二十五日 指定
     那須塩原市教育委員会

※ 浄泉寺(じょうせんじ)
  越掘宿(こえぼりしゅく)
  鍋掛宿(なべかけしゅく)

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写真;【黒羽領境界石】旧奥州街道・越堀宿、2014.05/08
--参考文献;「栃木の戊辰戦争/大嶽浩良」--



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2012.09/27(THU)

下野北部の藩

宇都宮藩、黒羽藩、大田原藩




平成24年(2012)
・ 9月27日
 宇都宮藩、城は落とされ城下は戦火にさらされ焦土と化し、大田原城も落城こそ無かったもののほぼ同様の目にあっている。黒羽藩は奥州と接した位置にあって早い時期から新政府に恭順の意を示していて、近代的装備も備えていた。宇都宮藩は軍備再構築に苦労しながら、大田原・黒羽は小藩でありながらも良く戦いに挑み、転戦につぐ転戦を重ねて、戦線は会津へと向かったのである
 以下、「下野の戊辰戦争/大嶽浩良」を参考にして時系列に概略を記した

関山戦争(2012.09/01)

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慶応 4年(1868)
閏 4月19日 会 津 軍> 白河城を占拠する
      新政府軍> 伊地知正治指揮の薩摩・長州・大垣・忍藩兵が宇都宮から白河に向け発進
      黒 羽 藩> 大田原に着いた新政府軍に敵情を報告し連携する
閏 4月25日 黒 羽 藩> 白河城奪還に参戦する
  5月 6日 黒 羽 藩> 板垣退助率いる軍に加わり棚倉・三春・本宮・二本松を転戦する
  5月末  宇都宮藩> 戦闘の態勢整う
  6月25日 宇都宮藩> 藩領船生村の警戒に当たっていた
           佐賀藩兵と連携し大原(藤原町)に陣を構えた会幕軍を攻めるも敗北する
  7月 1日 黒 羽 藩> 占領した棚倉領、近隣幕領の民政取締りに就く
  8月   黒 羽 藩> 三斗小屋宿への転戦命を受け館林藩と共に追撃
      宇都宮藩> 船生村に居て会幕軍の襲撃を受ける(船生村の三集落が焼かれた)
      宇都宮藩・大田原藩・黒 羽 藩>
           この後、宇都宮藩は薩摩藩参謀桐野利明の配下に入り会津街道を北上する
           大田原藩、黒羽藩兵や芸州・佐賀藩兵と共に会津街道を北進、会津若松へ日光口から進攻する役割を担った

  8月27日      横川宿の戦闘の後、山王峠を越えて陸奥国に入り田島村(田島町)を占領した
  8月30日      倉谷村で戦闘
  9月 1日      火玉峠(氷玉峠)で戦闘
  9月 2日 - 3日   関山村の戦闘
  9月 4日      本郷村に進軍(若松城とは僅かな距離となる)
  9月 5日      城から 2キロの飯寺で大川を挟んで対陣し城下への突入を図る
明治元年(1868)
  9月 8日 宇都宮藩> 越後の長岡藩兵と遭遇。家老山本帯刀以下14名を捕虜とした
  9月22日 会 津 藩> 藩主松平容保降伏
  9月23日 宇都宮藩> 帰藩命令を受ける(横川宿に布陣していた)
  9月27日 大田原藩・黒 羽 藩> 会津藩の降伏前に帰藩命令を受けていた
           若松城を脱出して帰還中の水戸藩諸生党を片府田・佐良土(湯津上村)で迎撃した

--参考文献;「下野の戊辰戦争/大嶽浩良」--



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2012.09/26(WED)

白河の関跡




平成24年(2012)
・ 9月20日
 白河で開催されている「新島八重の生涯と戊辰戦争展」を見に行く途中だったが、白河の関跡に立ち寄った。奥州への入口のここ、平日という事もあってか訪れる人も少なくて静かであった

松平定信(楽翁)像(2012.09/25)

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※ 写真↑、左の家並辺りは「旗宿」

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※ 写真、奥に進むと白河の関
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以下、現地の案内板から

古関蹟(こかんせき)の碑
 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政十二年(一八〇〇)八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。
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 国指定史跡
 白河の関跡
     指定年月日 昭和四十一年九月十二日
     指定面積  五七、八九七平方メートル
     所 有 者  白河神社・白河市他
     管理団体  白河市
 白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。
 関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政十二年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。
 関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(799)、承和二年(835)の太政官符には「白河剗」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の七・八世紀頃には存在していたものと考えられる。
 昭和三十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須恵器・灰釉陶器、鉄製品などの古代から中世にいたる遺物が出土している。出土した土師器の中には、「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられる。
 白河関の全体像についてはまだ未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
 また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。
     文部科学省
     白河市教育委員会
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※ 剗(さん・せん・せ・せき?)
 字義は、"削る"、"平らにする"などが一般的であるが、九世紀に「関所」の意味で用いた例(「白河菊多剗守六十人」等)がある



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2012.09/25(TUE)

白河藩主松平定信




平成24年(2012)
・ 9月25日
 白河集古苑に行った折、2000年10月に開催された企画展「定信の書道楽/~雅と剛~」のパンフレットを貰って来た。そこにあった定信公の像を紹介する

松平定信(まつだいらさだのぶ)
 江戸時代の大名、老中
 陸奥白河藩第三代藩主
 定綱系久松松平家第九代当主
 江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の孫に当たる
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以下、企画展パンフレットから
はじめに
 松平定信(楽翁・1785~1829)という人物は、白河藩主・幕府老中として政治・経済・文化などの多方面にわたる「寛政の改革」を行った政治家です。また、一方では、古文化財図録「集古十種」の編纂事業をはじめ、随筆、蘭学、歌道、雅楽、造園、茶道などあらゆる文化芸術に足跡を遺した文化人でもあります。
 この定信の持つ、(政治家)としての顔と(文化人)としての顔の二面性は、定信が数多く遺した詩文や和歌の墨跡にも見て取ることができます。そして、定信自身もそれを意識して、楽しみながら書を嗜んでいたのではないかと思われます。(後略)

※ 松平定信(楽翁)像 狩野養信筆 江戸時代 福島県立博物館蔵
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参考文献;2000年10月開催、企画展「定信の書道楽/~雅と剛~」パンフレット
     Wikipedia 「松平定信」
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2012.09/24(MON)

藩主逃亡 宇都宮藩




 宇都宮城が陥落すると宇都宮藩勢は姻戚関係のある館林へと退却したがこの時、藩主と退却主力は別行動をとった。藩主には数名の供を付けただけであり、藩主に預けられた錦旗(天皇旗)は供の胴にしっかりと巻き付けられていた

宇都宮城の攻防Ⅰ(2012.05/28)
宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)

慶応 4年(1868)
・ 4月19日
 午後、隠居身分の藤田弥七郎他数名が供をして忠恕一行は城を出た。一旦、宇都宮大明神社家中里宅に立ち退き、後西新里村庄屋孫右衛門方に着き、夜に東新里村高橋善右衛門方に移ったがここも危険となり8時頃岩原道石切場に移った(石窟で一夜を過ごしたという)
・ 4月20日
 藩主一行は全員農民の姿になり草刈り籠に入った藩主を背負い館林に向う
 日没時、家老県信緝(あがたのぶつぐ)率いる退却主力の500名、館林城下に入る
・ 4月21日
 夜、藩主一行は館林近くの渡良瀬川渡し場に着いた。迎えに派遣された藩士はやつれた姿に驚き
「真に一身慄然、申し上ぐべき言葉もこれなく驚き入り候」
と後に記した
「下野の戊辰戦争/大嶽浩良」

※ 藩主戸田忠恕 (ただゆき)
慶応四年(1868)一月、戊辰戦争の折は新政府軍につくも幕府軍により攻められ落城したが、宇都宮藩は宇都宮城を再び奪回。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず同年五月、22歳の若さで病死した
Wikipedia 「戸田忠恕」
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戦闘の概要

慶応 4年(1868)
・ 4月19日
 大鳥隊、合戦場(現栃木市)を発ち日光例弊使街道を北上して楡木宿(現鹿沼市)に向かう途中、宇都宮城で戦闘があったことを知る
 宇都宮城の攻防
 秋月・土方隊、宇都宮城攻撃を前に本陣を蓼沼村(現上三川町)満福寺においた。捕えた黒羽藩斥候兵3人を斬首。軍勢は二手に分かれ間道を進む
 宇都宮城攻略は南東部から始まる
 新政府軍・宇都宮藩は烏山藩の支援を得て南東部の砂田村、平岡村、簗瀬村に出撃し迎撃態勢をとるもあえなく撃破される
 秋月・土方隊、簗瀬村名主宅に火を放ち、さらに市街地四方に火を放ちつつ城内に突入。城内では白兵戦が始まった
 新政府軍・宇都宮藩兵、二の丸舘に火を放ち退却
 秋月・土方隊、宇都宮城を落とす。火焔に包まれた城下町は四八町の大半が焼失


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参考文献;「下野の戊辰戦争/大嶽浩良」
     「評伝/大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎
     Wikipedia 「戸田忠恕」
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2012.09/24(MON)

金売吉次兄弟の墓




平成24年(2012)
・ 9月20日
 白河集古苑で「新島八重の生涯と戊辰戦争展」が開催されていて、これを見に行ったのだが途中、白坂に金売吉次兄弟の墓があった
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以下、現地の案内板から

市指定重要文化財(史跡)
(伝)金売吉次兄弟の墓
     指定年月日   平成八年三月二十九日
     所在地     白河市白坂字皮篭二七・ニ八 -四
     所有者・管理者 白河市・財務省
     指定面積    一、一六四㎡
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混じっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安四年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われて殺害され、里人がそれを憐みこの地に葬り供養したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(1864)七月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。
     平成十六年四月 白河市教育委員会

※ 三兄弟の石塔は石囲いの内にあるが、写真では良く見えない ^^;)
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2012.09/23(SUN)

大垣藩士戦死之跡




平成24年(2012)
・ 9月20日
 伊王野の道の駅から「追分の明神」を越えて福島に入り、「白河の関跡」と「旗宿」を見て「白坂」に戻った。ここ白坂も戊辰戦争における戦闘の地であった

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戦闘の概要
慶応 4年(1868)
・閏 4月20日(1868年 6月10日)
 白河城は二本松藩兵が守備していたが会津藩兵(青龍隊・新撰組)が侵攻し占領。新撰組、土方歳三は負傷により戦列を離れていて山口二郎(斎藤一)が指揮した。白河城南方の守備を固めるため、白坂口と棚倉口の小山や丘に兵を配備し防御態勢をとる
・閏 4月25日
 新政府東山道軍、参謀・伊地知正治、部隊長・野津鎮雄、川村純義(薩摩藩兵を中心に大垣、長州、忍の各藩兵)は宇都宮から大田原まで進軍してたが白河へ前進、白坂口を奇襲したが会津藩兵の迎撃にあい、損害を出して芦野(現那須町)へ撤退

白河城の攻防(2012.06/02)
「戸田」と大垣藩(2012.08/04)

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大垣藩士の慰霊碑
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以下、現地の案内板から

 戊辰戦役/旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡
      白坂町白坂地内

 五月二十六日白坂□□□いにおいて大垣藩銃隊長酒井元之丞重寛は自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが持っていた軍旗が東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。
 この碑には妹のかつが詠んだ

 進み出て績を尽したこの神のいまは偲びてたつる石ふみ

の歌が刻まれている。墓所は白坂観音寺にあり大垣藩三名が合葬されている。

 昭和六十三戊辰年六月 白河観光協会
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2012.09/21(FRI)

乃木神社「陸士林」




平成24年(2012)
・ 9月19日
 乃木神社裏にある乃木別邸を見に行ったところ、林中に「陸士林」の案内板がある。馴染みが無かったものでこれを読む事も無かったのだが、写真を撮り文字にしてみたのでupする

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乃木神社例祭(2012.09/13)
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以下、案内板から

「陸士林」の由来
 この道を挟んだ一帯の「林」を、「陸士林」と言います。
「陸士林」の「陸士」とは、「陸軍士官学校」の略称です。「陸士林」とは、つまり陸士出身者によって献木された林のことです。
 「陸士」は、遠く明治元年(1868年)京都に「兵学校」として、創設されたのが始まりで、後に数次の変遷を経て、昭和二十年(1945年)に大東亜戦争が終了するまで約八十年間にわたり、日本陸軍の正規将校の養成機関でした。
 明治十年卒業の第一期士官生徒から少尉候補者・将校学生を含め、昭和二十年在校の第六十一期生に至る同校の同窓生は、六万四千有余名を数えます。
 陸士の教育は、忠君愛国の精神の修得を第一義として行なわれ、卒業生たちはわが国興隆の近代史に多大の足跡を残しております。
 乃木将軍のご遺徳を敬慕して止まないこの陸士出身の後輩が有志相図り、各期ごとに乃木神社に献木したこの「陸士林」の樹木一本一本には乃木大将の精神を奉じ、国家の安泰をひたすら祈念しつつ身命を賭した幾多の陸軍将校の霊魂が宿っています。
 以上のとおり、「陸士林」の由来について概説いたしましたが、この「陸士林」が幾久しく茂り続くかぎり、乃木大将の御神霊をお守り申し上げながら御神霊と共に、わが国の繁栄を見守っておられることを、皆様には忘れないで欲しいのです。

     平成十年十二月吉日 建立 献木期並びに有志一同

 献木した各期と植樹年月日は、次のとおりです。

 士官候補生期              士官候補生期 
 三六期   大正十二年 四月十六日   五十期   昭和十二年 四月二八日
 三七期   大正十三年 四月二八日   五一期   平成十一年 四月 吉日
 三八期   大正十四年 四月二八日   五二期   昭和五七年 四月 吉日
 三九期   大正十五年 四月二七日   五三期   昭和六十年十一月 吉日
 四十期   昭和 二年 四月二九日   五四期航空 昭和十四年 六月 四日
 四一期   昭和 三年 四月二八日   五四期   昭和五一年 十月 吉日
 四二期   昭和 四年 四月二七日   五五期航空 昭和十五年 五月 吉日
 四三期   昭和 五年 四月十四日   五六期   昭和四七年 七月 吉日
 四四期   昭和 六年 四月十四日   五七期   平成十一年 四月 吉日
 四五期   昭和六一年 十月 吉日   五八期   昭和四七年 十月 吉日
 四六期   昭和 八年 十月 十日   五九期   平成 五年 九月十三日
 四七期   昭和 九年 十月 十日   六十期   昭和四九年十一月 吉日
 四八期   昭和 十年 十月 十日   六一期   平成十一年 四月 吉日
 四九期   昭和十一年 四月二五日

 少尉候補者期              少尉候補者期
  五期   大正十四年 五月 四日    十期   昭和 五年 五月 七日
  六期   大正十五年 五月 三日   十一期   昭和 六年 四月二八日
  七期   昭和 二年 五月 四日   十二期   昭和 七年 四月十二日
  八期   昭和 三年 五月 三日   二二期   昭和五八年 九月 吉日
  九期   昭和 四年 五月 五日   二四期   昭和六十年 三月 吉日
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2012.09/20(THU)

新島八重 旧姓山本八重




平成24年(2012)
・ 9月20日
 白河集古苑にて開催中の「新島八重の生涯と戊辰戦争展」を見に行く
 伊王野の道の駅から「追分の明神」を越えて福島に入り、「白河の関跡」と「旗宿」を見て「白坂」に戻り、ここから旧奥州街道を白河へ向かった

「新島八重の生涯と戊辰戦争展」
特別企画展、白河/二本松同時開催
 期間  9月14日(金)~11月 4日(日) 午前 9時~午後 5時
    休館日、月曜日(月が祝祭日の場合は翌日が休館)
 会場 白河会場(白河集古苑)
    二本松会場(二本松市歴史資料館)

長州大垣藩六人之墓(2013.05/18)
会津藩戦死墓、会津藩銷魂碑・松並(2012.06/27)
松並、東軍の慰霊碑(2012.06/26)
白河城の攻防(2012.06/02)

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以下、パンフレットから引用 1

新島八重(旧姓、山本) 1845~1932
 会津藩砲術師範の山本家に生を受ける。会津での籠城戦では、男装しスペンサー銃を手に戦いに挑む。敗戦後、兄・覚馬を頼って京都へ移り、同志社創設者の新島襄と出会い結婚。後に、日清・日露では篤志看護婦として従軍した。激動の時代を生き抜いた彼女は、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」や「ハンサムウーマン」などと称される。
--------------------
以下、パンフレットから引用 2

  白河会場
  新島八重の生涯と戊辰白河口の戦い
  --ゆずれない心、それぞれの矜持(プライド)--
 八重は実に波乱に富んだ人生を歩みました。戊辰戦争時には故郷を守るために身をなげうち、京都に来てからは夫・襄と新島家を支えました。襄の永眠後、日清・日露戦争では若き看護婦たちを率いて傷病兵を助け、戦死者の遺族や女性の自立のためのサポートにも携わりました。こうした八重の生涯を見ると、会津藩士の娘として、新島家の人間として、世の進歩的女性としての矜持を感ぜずにはいられません。
 八重のように大切な「なにか」を守る戦いはここ白河でも繰り広げられました。戊辰戦争時の白河口の戦いです。新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が譲れない想いをもって戦いました。百日に及ぶ激戦がその証です。互いの矜持と信念の衝突です。
 展示品は言葉以上に語りかけています。ぜひとも八重と白河口で戦った人々の矜持に心を通わせてみて下さい。

--参考文献;「新島八重の生涯と戊辰戦争展」白河会場パンフレット--



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