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2012.08/31(FRI)

大内宿本陣跡




平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
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大内宿
 江戸時代には宿屋や問屋が軒をつらね、幾多の旅人たちがこの宿場で旅の疲れを癒した。明治以降、近代化から取り残されたおかげで、昔ながらの景観が今に残ることとなり、昭和56年には、国の重要伝統建造物群保存地区の選定をうけた

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以下、現地の案内板から

大内宿町並み展示館(大内宿本陣跡)
 大内宿の本陣は会津と奥州街道を結ぶ会津西街道の拠点のひとつとして江戸時代の初期に建てられ会津藩の初代藩主・保科正之、二代藩主・正経が江戸参勤のためこの街道を利用し、ここで昼食をとったという記録が残っている。この時の行列の総人数は約六百人で、宿場内はたいへんなにぎわいであったという。
ところで、大内宿は戊辰戦争の舞台となったことから、本陣に関する記録、図面等が散失しいまだ発見されていない。このため同じ街道の糸沢宿・川島宿の本陣を参考に設計し復元されたものである。
本陣には殿様専用の玄関(乗りこみ)・上段の間・風呂・雪隠があり、茅屋根のどっしりとした風格とともに当時の面影を色濃く再現している。
     下郷町
     下郷町教育委員会

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問屋本陣
 当時の輸送は宿場ごとに荷物を馬に付け替えて運んでいた。その中継問屋であって、馬と人足の手配は問屋本陣にとって重要な役割だった



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2012.08/30(THU)

戦死二十四人墓




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写真;↑大内ダム建設の際に移転された「戦死二十四人墓」 2015.07/28

平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
 慶応4年(1868)8月下旬から9月、若松表は緊急の危機に瀕し各地に転戦していた部隊を呼び戻し新政府軍の会津進攻を阻止せんとした。それによりここ大内峠から栃沢、関山の地では激戦が繰り広げられたのである
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以下、現地の案内碑から

慶応戊辰年(1868)九月一日より翌未明に亙り日光口守備隊長山川大蔵は、大内峠に據り官軍佐賀・宇都宮・大田原の各藩の兵を迎撃す
この戦斗で宇都宮藩大沢富三郎以下二十四名の戦死者の霊を供養せんと地元有志にて茲に墓碑を建立せり
     *
※ 大沢富三郎 正精
宇都宮藩/明治元年九月一日会津大内峠で戦死/四十二歳/宇都宮・慈光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 白河口の新政府軍は母成峠の会幕軍(大鳥圭介ら)を撃破して若松城下に突入したが兵力不足であった
・ 9月 1日未明
 日光口、大内村に宿営していた新政府軍は若松城下への突入を急いでいたが、会幕軍(日光口守備隊長山川大蔵)の銃撃を受ける。反撃してなお大内峠に向い激戦となり、宇都宮藩大沢富三郎以下四人が戦死。一旦大内村に退く
・ 9月 2日早朝
 新政府軍、再び進撃を開始したが会幕軍は徹底抗戦し氷玉峠で膠着。大総督府直属の軍監中村半次郎が直接指揮をとる
・ 9月 3日
 新政府軍、栃沢を攻略し関山に進出
・ 9月 4日
 新政府軍は会幕軍陣地に突入し、会幕軍は堪らず関山に火を放ち撤退。新政府軍はようやく関山から本郷へと進攻する

※ 大内から関山までの戦闘における会幕軍の戦死者は、青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助以下将兵約四十名に及んだ
※ 会幕軍日光口守備隊長山川大蔵は城下の形勢悪化により帰城、替って一連の戦闘を指揮したのは小山田伝四郎か

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 墓碑、向って左側面に「明治四十一年九月建立」とある
 右の小さな墓は会津藩士小出勝之助単独のものだという

・小出勝之助  戊辰役戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



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2012.08/29(WED)

塩原御用邸




平成24年(2012)
・ 8月29日
 大正天皇の旧御用邸「天皇の間記念公園」に行った
 塩原御用邸は大正天皇が皇太子であった頃から、また天皇になられてからも御利用になられ、貞明皇后をはじめ御幼少の昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、御結婚前の香淳皇后など、多くの皇族方が御利用になられた
 展示品から写真 2点をup

三島通庸(2012.07/27)

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常宮昌子内親王殿下
・明治21年(1888) 9月30日 -昭和15年(1940) 3月 8日
 日本の皇族で、竹田宮恒久王の妃。明治天皇の第六皇女

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     *
周宮房子内親王殿下
・明治23年(1890) 1月28日 -昭和49年(1974) 8月11日
 日本の皇族で、北白川宮成久王の妃である。明治天皇の第七皇女(※ 北白川宮成久王は輪王寺宮公現法親王、後の北白川宮能久親王の第三王子)

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--参考文献;Wikipedia「常宮昌子内親王殿下/周宮房子内親王殿下」--



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2012.08/26(SUN)

濃州青山藩凌霜隊




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隊長  朝比奈茂吉  17歳
副隊長 坂田林左衛門 52歳
〃   速水小三郎  47歳
    小出於莵次郎 44歳 九月朔日、関山戦争にて負傷 九月七日、雀林病院にて死亡
    氏井儀左衛門 41歳
    菅沼銑十郎  42歳 四月十六日、小山戦争にて負傷 七月十七日、若松病院にて死亡
    中岡弾之丞  25歳 八月廿五日、横川にて戦死
    尾島左太夫  37歳
    田中亀太郎  29歳
    桑原鑑次郎  23歳
    松尾才治   26歳
    山脇金太郎  17歳 八月晦日、大内戦争にて戦死
    小野三秋   46歳
    武井安三   44歳
    売間直次   33歳
    米沢小源治  34歳
    岡本文造   39歳
    矢野原与七  39歳
    中瀬鐘太郎  22歳
    鈴木三蔵   35歳
    池尾幾三郎  26歳
    山片俊三   35歳 四月十七日、大平山より宇都宮へ探索に出て帰らず不明
    山脇鍬橘   20歳
    齋藤巳喜之助 24歳
    牧野平蔵   30歳
    浅井晴次郎  22歳
    金子勇次郎  41歳
    小泉勇次郎  21歳
    土井重造   36歳
    石井音三郎  20歳 九月十九日、若松城にて番兵中に戦争死
    山田熊之助  24歳
    白岩源助   37歳 四月十六日、小山戦争後不明
    齋藤弥門   41歳
    中村國之助  25歳
    山田惣太郎  22歳
    野田弥助   28歳
    安村敬三郎  23歳
    岸本伊兵衛  41歳
    林定三郎   25歳 九月朔日、関山戦争にて戦死

凌霜隊付中間(小者)六人
    孫太郎
    源蔵
    藤平
    久七
    久次郎
    小三郎       八月晦日、大内にて戦死

外に(客員)
旗本  河(川)野綱翁
会津藩 服部半蔵(常五郎)

(泉漾太郎氏提供)
--参考文献;塩原町誌--

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏



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2012.08/25(SAT)

凌霜隊戦記




 平成24年(2012)
・ 8月25日
 今日も快晴、暑くなりそう
 さて、塩原を焼払った小山田隊、凌霜隊だが此の後横川、大内、関山で戦い九月に鶴ヶ城に入り籠城戦を迎えることとなる
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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※ 焼払いを免れた妙雲寺
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慶応 4年(1868)
・ 8月22、23日
 五、塩原附近焼拂

さて彼是する内、若松表諸国の戦争模様悪き趣注進があった。此地人数引揚げ塩原は残らず焼拂と一決して上塩原、中塩原、下塩原の名差等を思召して小山田氏並に黒河内左刀より都合により此地の人数引揚げに相成るに就ては残らず焼拂ひに致すから大切の道具は申すに及ばず一両日中に家財共取片付くる様申達する所があった黒河内は組頭であった。二十二日一番に数巻村(泉註、八月、今の須巻)(此所は湯瀧あり、あま湯よりは八町南でよきところである。余も参った)
あま湯村(此処は湯はないが、すかさはへの通行道で百姓家二軒許りあり)この二村を晝の二時頃焼拂ひ次に荒湯村を焼拂った。此処は古高原より上塩原への通行通路で温泉は沢山あり硫黄の臭気鼻をつく。湯本は温泉はくらくらと煮え立ち半道位手前からとても猛烈な臭ひヒツ、ヒゼンに大妙薬といふ事であった。此地へ一夜逗留すれば刀は錆び金銀杯もさび全く硫黄気の強いのには驚いた。土地人が当地で用ひる通用金も錆びてしまっている。
家数十四、五軒。第三番目には塩の湯を焼拂った。この温泉は塩分を若干含んでいる。友野番兵所あり。殊の外険阻な所である。八月下旬、友野氏は若松表へ引揚げ交代の爲め関宿脱藩二十一人結城脱藩十人程此処へ来て居た家数二軒あり四月位より九月頃迄には湯治客五六百人位止宿する大家、二十三日壱番に下塩原福渡を早朝焼払った。此処は家数拾五、六軒温泉入浴の客多く随って宿屋多く其内舛屋、和泉屋、磯屋、丸屋などは此村の大家で五十人、百人と湯治客のある由。和泉屋、丸屋は凌霜隊にて手伝ひ家を崩す事三日にて根太板より天井板まで取り除けたれば大悦びであった。此外の宿も銘々にて取崩し騒動実に目も当てられぬ。塩原中にても家数三、四百軒もあるが其騒ぎは何とも筆紙に尽しがたいものであった。唯想像にまかすのみ。此日は終日天暗く雨さへ交へ折柄黒煙天に沖しあはれ如何とも曰く事の出来ない惨憺たる状況である。
二番目は塩がまを焼払った。此処は名高い初代高尾(泉註二代なり)の出所で同人の塔が此村の左方畑の中にあった。ゑんぎも多く高尾出生の家もあったが今は零落して至極小さい小屋であった。家数十軒位、三番目は畑下。戸数拾四、五軒程で此処にも温泉が五ケ所程あった。四番目は門前を焼いた。塩がまより門前迄は福渡戸より古町への通行道である。
妙雲寺と申す寺がある。高尾の寶物が色々保存されて居る。家数約十軒程である。それから中塩原、上塩原と追々と焼払ひ此日上三依、熊之堂と申す処まで引揚げ止宿。塩原より此処までの途中は山坂多く其上尾頭峠とて登り下り一里半位は家は更になく古高原に似た所である。昼間は一時天気も良く左程でもなかったが夕方から雨天となって盛んに雨降り出し遂に此峠にて日はトップリ暮れてしまった。松明はなし闇夜にて一同は大難儀だった。山脇金太郎、中瀬鐘太郎と山田惣太郎の三人は少し早く峠へかかり下りの節は駈歩にてようよう日暮れに宿へ着いた。然し其の後の者等は大変気の毒であった。
右の塩原道と云ふ所は誠に山中にて大田原の道も狭い山坂である。敵は何の爲に此所を屯所とすべきや其意を知る由もない。斯の如き地を焼払ふのは餘りに臆病な仕打と思ふ。諸民の難渋実に曰はん方なき有様。小山田氏、黒河内氏等の失策と思はれる。それも御領分ならまだしも斯く難渋を知りながら他領にて諸氏が恨みを買ふ必要はないと思はれる。其上小山田氏は此三月より出張して格別の御情もある筈だのに之を焼払ふが如きは誠に無惨の仕打である。
凌霜隊は五月より八月迄逗留して色々と世話になりながら斯かる成行になりて一同は気の毒に思われてならなかった。(後略)
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註記(心苦雑記の記述)

右塩原郷と申す処は、誠に山中にて大田原之道も狭路山坂ニテ、敵此処を何の為に屯所とすべきや如何之地を焼払ふハ余り臆したる事也。且つ諸民の難渋いわんかたなし。小山田氏、黒河内の失策ならんと、御領分ならばまだしも、夫とても難渋す。まして他領にて諸民の恨み如何ばかりならん。
(中略)
凌霜隊ニモ五月ヨリ八月迄逗留して世話ニ成り、かよふの次第に成行、一統気之毒に思ふ。

--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/24(FRI)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月24日
 凌霜隊が塩原に入って2ケ月が過ぎた。此処では戦闘も無く、温泉には日に4、5度も入り、盆踊りを見たり各所を巡ったりとかの毎日であったようだ
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

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慶応 4年(1868)
・ 7月16日
 盆踊り

七月十六日此地の盆踊を見た。太鼓、笛にて囃も面白く古町福渡戸の女人やおとななど集まって踊り乱れるのである。古町より一里半程の中塩原といふ所に八幡社がある。此処の神木に杉の大木があった。大人八抱へもあって差渡し八尺餘、此杉は逆さ杉と云はれて昔八幡太郎義家が奥州征伐の時、此処にて兵糧をつかい其の箸を逆さに差したのが根付きして今になった・・と神職が物語った。大小二本あり。又此八幡神社の脇に一夜竹とて奇竹があった。土人は此の竹の子を見た者が一人もないと云ふ。一夜の内にて竹になるよし。其形真左に生えて其の内外には生える事はない。竹は、やしば竹で実に妙であった。此八幡社の右の方半里程先の川端に木の葉の形の付いた石が出る。
此石は柔かで土でも石でもない。此の社より十町手前に源三位穴と云う所がある。此の穴は岩屋で入口は八、九尺餘あり下りて見ると左方に又々這入る位の横穴がある。此穴は昔、頼政の弟敗軍の其時此穴へ入って隠れたとの事、此の穴へ入るには往復ローソク二本位入用と土地の人にきいた。此時連中八、九人燈火の用意がないので遂に入る事を止めた。福渡戸より二丁程の不動澤に小川がある。その端に奇石あって頗る堅く金槌を以て打こはして見ると貝の形があった。此辺は海が全然なく大変不審に思った。

--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/21(TUE)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月21日
 藤原から塩原に入った凌霜隊だが、ここでは戦闘も無くて専ら待機する毎日だったようだ。が、それでも入浴が日に4、5度。多い日は7、8度
 って..
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月19日~ 8月22日
 福渡戸逗留

五月十九日同郷の福渡戸と云う処へ行くよう、小山田氏より達しがあった。一同早暁出立、午前中に福渡戸へ。前列は和泉屋太兵衛方へ。後列は丸屋吉郎兵衛方。八月二十二日迄逗留。此辺一帯は山近く突出て左右共二丁とひらけた所はない、此地は戦争を外に只番兵のみ堅め人数は小山田隊八拾人。友野隊五拾人それきり友野隊は御旗本で歩兵隊差図役頭であった。やなた(梁田)戦争後此地に来て塩の内(湯)という処の番兵をしたのであった。古町よりは一里程で塩の内(湯)も温泉場で宿屋は二軒あった。凌霜隊三拾人小山田隊、凌霜隊は番兵□すかさは(須賀澤)、大あみ(網)、ふとうさは(不動澤)三ケ所へ七人づつ詰めた、須賀澤は古町より二里半、福渡戸より二里、途中は山坂計りで難所が多かった。大網は古町より五十三町福渡より廿六町途中は山坂多く狭路である。
福渡戸は古町より廿八町途中はやはり狭路。此口は宇都宮より大田原迄の番兵であった。大網は閏四月中、大田原へ第三歩兵草風隊押寄せし時焼討して勝った(閏四月十六日忍藩二十四人偵察、関谷へ来る)。此地まで引揚げた時関谷と云ふ所、大田原より五里で休んだ(閏四月十六日初戦の後、長州隊原田良人に率いられた一小隊関谷に追撃)。此時敵は真近に攻よせ味方敗北、此処を焼拂ひて大網まで引揚げた。敵は未だ追かけ追かけ大網に於ても激戦があった(閏四月二十三日会津草風隊沖長三郎関谷にて戦傷後、死亡。妙雲寺に葬る)。
其後塩原では戦なく、只白川越後の戦争の風説浮言多かったが果して如何であったかは詳しく判明しなかった。福渡戸の川端に温泉が五ケ所あった。此の湯の中、裸湯にはハラミ石とて湯の中に大きな石があった。子のない女が入湯の時、此石に抱きつけば必ず子が出来ると云ふ奇石である。其外此石は病にも霊験あらたかとの張札があった。逗留中一日に四、五度又は七、八度と入浴した。平時は湯治人澤山で殊に四月頃から九月頃迄は賑はしくとの事。当年はとかく雨年勝にて河水の満つる事五、六度。此川は箒川とて水源は尾頭より来て大田原へ流れる。別段大河でもないが夏はホタル澤山出てうなぎ、あゆ、やまべ、かじか等の魚がいて仲々よい河である。此処では劔術の稽古や又は手前稽古等毎日色々のことをして暮した。此地は平穏の所故又面白き事、不思議なことも澤山あった。

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--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/20(MON)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月20日
 昨日の続き
 古町、門前辺りの写真を撮ってからUPしようと思っていたのだが、暑いし何かとあって撮れず。以前に撮った写真を使用した
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月11日~ 5月19日
 古町・門前逗留

薪の價の高いのも山中での珍らしいことと一驚を喫した。追々降って「あらゆ(新湯)」へ着いたのは四時頃此処にて人馬継立して日暮に漸く塩原古町へ到着小山田氏の指揮で直ちに門前に着。(此間古町から二丁である)前列は山口屋、後列は福田屋に分宿。古町及び此辺には温泉が澤山ある、温い湯に浸って九日間は夢の間に経過。

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--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/19(SUN)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月19日
 快晴。今日も暑くなる
 午後、「ハンターMt.ゆりパーク」(那須塩原市)に行く。高原山塊のほゞ中央に鶏頂山・釈迦ガ岳があり、その東にある明神ガ岳の北斜面がスキー場であって、夏季はゆりパークとなる。約1キロ、10分間、フラワーリフトに乗って眼下の500万輪と云うユリを楽しんできた
 さて、藤原から塩原に至る道だが藤原にいた凌霜隊がたどった道である、とは云っても現在の車道とは異なるものであっただろうが..
 凌霜隊戦記の一部を次に引用するが、これは写しをとった泉漾太郎氏が単に原本のままを写したという事では無く、読み易く・解り易くする為に現代の言い回しに沿って訳したものである(と思う)

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※ 郡上藩( 48000石)と「凌霜隊」
 最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は二つに分かれて混乱した。凌霜隊は朝比奈茂吉を隊長とする脱藩藩士四十数名を以て組織されたとされる
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

慶応 4年(1868)
・ 5月11日
 四、今市より塩原へ

野州塩原口、此所は戸田大和守の領分で千石の地である。凌霜隊は会津、小山田伝四郎へ当分附属して草風隊と交代して彼地へ出向く様、今市口の会津軍事総督の山川大蔵殿よりお達しがあった五月十一日早天であった。凌霜隊は藤原口を出立したのである。
高徳、藤原、大原、高原、此辺は総て戸田大和守領分である。高原宿にて晝支度し此所で人馬を継立てて古高原の峠にかかった。六年以前迄は此峠を越して会津へ通行したものだ。此峠は高山で諸人が頗る難渋する故、藤原と高原との間の山に新道を作り高原峠と云っていたのである。此峠は古高原峠の半分よりも少し低い位の峠で、之を通る人は大変便利であった。古高原峠は塩原入口の「あらゆ(新湯)」と云う所より三里というけれども、五里も有るらしく此間に家一つない淋しい通りである。道は相当嶮岨で其上狭路馬駕籠の通行が漸くで実に大不便な難儀な場所であった。六年以前、新高原へ引移りし古家十軒ばかり立ち腐りの形あるばかり外に人家とては更になかった。従って此の厄介な峠にかかっては食物は申すまでもなく水も凡て用意をしなければならぬ、此宿外れに鶏頂山とて此処より又一里半登る高山がある、此の山には不思議な禁制があるのだ、当山へは鳥の形鶏の附きし物を以って断じて登れないと、此の宿は雨天には雲が家の中を縦横に通過すると云ふ物凄い許りの処、斬様な宿によくも住みよしと思う許り宿の前後は大いなる原が沢山に横たはっていて田畑の跡も見えた。此の辺よく富士山を見る事が出来るが、我等の通行の時は曇って見へなかった。今市も見えた。生憎此の日は朝から雲多くて一間先の見へぬことは度々あった。実に難儀の上の難儀であった。斯様な処は日本にも少いであろうと思った。晴天ならば此鶏頂山から品川沖を遥かに眺めることが出来るとの事だ。


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参考文献;塩原町誌/Wikipedia「郡上藩」
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今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/14(TUE)

六道辻「戊辰役戦士墓」 宇都宮市西原六道町




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平成24年(2012)
・ 8月14日
 宇都宮市西原六道町の六道辻に「戊辰役戦士墓」がある。宇都宮城の攻防をめぐる激戦の地であった此処、地元の方々により守られてきた戦士墓にお参りをして来た
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戦闘の概要

慶応 4年(1868)
・ 4月19日 旧幕府軍、宇都宮城を攻略
   20日 新政府軍第一次救援隊、壬生に到着
   22日 安塚の戦いで新政府軍、旧幕府軍を撃破
   23日 新政府軍、宇都宮城を奪還
   24日 旧幕府軍、今市に到着

宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)
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※ ↑写真(向かって左にある碑)
明治元年(戊辰ノ年)旧四月二十三日六道口デ官軍ト幕府軍トノ大激戦ガアリ附近ニハ多数ノ死体ガ散乱シテイタ官軍ノ戦死者ハ報恩寺ニ葬ラレテ立派ナ墓碑ガ建立サレタガ賊ノ名ヲモッテ呼バレタ幕府軍ノ戦死者ハ土地ノ人々ニヨツテ假埋葬サレタママ供養モサレズニイタガ明治七年宇都宮藩士戸田三男等各士族ト附近住民ニヨツテヨウヤク墓碑ガ建立サレタ然シヒソカニ香華ヲタムケル人ガアル程度デ墓地ハヒドク荒レハテテイタ大正ノ初期ニ至リ附近ノ篤志家相寄リ五十年記念祭ヲ行イ爾后毎年旧四月二十三日ニハ供養ノ法養ガ行ハレ今日マデ引ツガレテキタ戊辰百年ヲ迎エタ今年最モユカリ深イ会津若松並ニ長岡ノ両市カラ多数ノ参列ヲ得テ盛大ニ戊辰百年記念法養ガ執行サレタ尚コノ墓ニハ会津藩ノ戦死者伊与田留蔵(三十六才)以下十人ノ外多数ノ無名戦死者ガ葬ラレテイル
茲ニ其ノ概略ヲ記シ後世ニ伝エルモノデアル
昭和四十二年五月三十一日
 協賛 会津弔霊義会/長岡市
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※ ↑写真(向かって右にある碑)
 戊辰役戦士墓/明治百年祭 記念碑
明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の亡き霊を弔らい併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した仁侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に管理されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一振を三男に託し三男は帰国後これを戸田藩主に贈ったが現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている
昭和四十二年五月三十一日
 宇都宮市文化財保護審議委員会委員長/栃木県文化功労者 小林友雄 撰文

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官軍七首級之墓・報恩寺(2014.10/01)



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