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2012.07/30(MON)

戊辰戦争若松城下詳細図




 平成24年(2012)
・ 7月24日
 田島の奥会津博物館を見学していたところ、戊辰戦争若松城下詳細図(だったと思う。後日又確認に行かねば)があった。帰り間際で慌てていて良く見てこなかったのが残念!
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※ 写真、上が東(左が北)

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城下の屋敷割
(北出丸先)
 八百石    生駒五兵衛
 二千二百石  内藤介右衛門
 千七百石   西郷頼母
 千五百石   萱野権兵衛
 千八百石   田中土佐
 八百石    上田八郎右衛門
 五百五十石  坂本右兵衛
 四百石    三宅仲五郎
 千七百石   諏訪伊助
 四百石    遠山伊右衛門
 千石     杉田兵庫
 四百石    永井左京
 千三百五十石 一ノ瀬要人
 五百五十石  田中蔵人     朱雀士中二番隊長
 千石     丹羽右近
 千石     沼沢小八郎
 九百五十石  一ノ瀬加寿馬
 千石     山川大蔵
 三百石    佐川官兵衛    朱雀士中四番隊長
 千二百石   小原義濃
 八百石    日向弥志摩
 八百石    山崎主計
 千四百石   三宅半吾
 五百石    伴百悦
 三百石    有賀左司馬    青龍足軽四番隊長
 百五十石   土屋一庵

(西出丸先)
        日新館
        山本覚馬
 二千石    梶原平馬
 千石     横山主税
 七百石    木本新吾
 三百石    鈴木作右衛門

(三ノ丸先)
 二千二百石  簗瀬三左衛門
 千石     神保内義之助   

※ ほんの一部のみ抜き出した
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2012.07/29(SUN)

幕府歩兵隊(伝習隊)




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伝習隊
 幕府が陸軍の精鋭部隊として編成した、フランス軍事顧問団の直接指導を受ける西洋式軍隊のことで、戊辰戦争では約1100名が旧幕府軍の主力として戦った。残りは長州藩傘下の帰正隊として新政府軍に参加して旧幕府軍と戦った
 兵士には、博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消など江戸の無頼の徒も徴募して編成し、シャノワーヌやブリュネなどのフランス軍顧問により直接フランス式の調練を受けた部隊である。指揮官には大鳥圭介らがあたり、隊は当時最新鋭の装備を誇った。号令は全てフランス語で行われていた
沿革
嘉永 6年(1853)
・ペリー艦隊来航
安政 3年(1856)
・幕府、講武所開設
 旗本、御家人の武術講習所であり古来武術(剣術・槍術等)の武芸と西洋流の砲術があったが、とても近代戦には応えられそうも無かった
安政 5年(1858)
・幕府、深川の越中島に銃隊調練場開設
文久 2年(1862)
・幕府は歩兵隊を創設
 人員は最初、旗本が差し出す「兵賦」をして銃隊を編成し屯所(兵営)に入れるというものであったが人が集まらない。後に幕府は江戸で直接傭兵を募集した
 ※ 「兵賦」の供給源は知行地の近郊農民だった
文久 3年(1863)
・「兵賦」による歩兵隊の編成はどうにか進み
 大手前・西丸下・三番町※・小川町
 と全部で4ヶ所の歩兵屯所が出来た。定員は6381名とされたが..
 ※ 三番町屯所跡地には明治の招魂社、今日の靖国神社が建てられた
元治元年(1864)
・ 7月
 「兵賦」によって編成された幕府歩兵隊、天狗党の乱に参戦する
慶応 2年(1866)
・ 5月
 「第二次長州征伐」が始まって将軍家茂自身の大阪進発の際、軍勢中に歩兵4個大隊半があり、うち2個大隊が現地の前線に出る
・12月
 ナポレオン三世により2個連隊分2000挺のシャスポー銃が幕府に贈与され、幕府伝習隊が装備した
シャスポー銃(2012.07/07)
慶応 3年(1867)
・ 1月13日
 幕府の要請に応じてシャノアン(シャノワーヌ)以下15人のフランス人教官が来日し、大鳥圭介らが調練の主導を取る。部隊の編成、教練の方法そして武器、いずれにおいても当時の最新だった
 当初4大隊であったが、小川町の1大隊を幕府第六連隊に編入したので、3大隊となった
・ 9月26日
 金納令と半知令
 直参旗本らに課した「兵賦差出し」は廃止し、幕府が直接歩兵を雇用することとなる。現有人員5000人を一旦解雇、再雇用は700人ほどであった
慶応 4年(1868)
・ 1月 3日
 鳥羽街道の中ほどで、入京のため北上する幕府軍と薩摩藩隊が戦闘(鳥羽伏見の戦)。この時、先頭にいたのが幕府歩兵隊であったが、薩摩藩隊の一斉射撃・砲撃に幕府軍は敗走する
・ 1月 6日
 将軍徳川慶喜、大阪城を脱出し江戸に向う
・ 4月11日
 江戸城無血開城
 歩兵隊は正規の部隊としては消滅するが、主力は江戸を脱走し新政府軍に抵抗。東日本を転戦して勇名を馳せることとなる
 幕府歩兵隊の多くは新政府に帰順したが、帰順しなかった幕府歩兵隊や新選組など1000から2000人が江戸を脱走、これを期に伝習第一、第二大隊の約1100人は大鳥圭介(この時旧幕府軍陸軍歩兵奉行、36歳)と行動を共にすべく脱走した
・ 5月 4日
 脱走した幕府歩兵隊などの約2000人は、下総市川の国府台に集結し、大鳥圭介を総督(隊長)、土方歳三を参謀として部隊を編成した。その後、北関東に向かい、途中の小山で新政府軍を撃破。さらに宇都宮へと進軍、宇都宮城を落とした
 別行動を取った草風隊、回天隊などの旗本子弟の部隊約700人も合流(後の伝習士官隊)し、北関東から北陸・会津で戦い、最後は北海道の五稜郭へと転戦する(歩兵隊指揮は大川正次郎)
 また、古屋佐久左衛門が率いた「衝鉾隊」も脱走した幕府歩兵隊で編成され、北陸戦線から会津、五稜郭へと転戦する
明治 2年(1869)
・ 5月18日
 榎本武揚を筆頭とする五稜郭の旧幕府軍の降伏に従い、幕府歩兵隊も降伏して解散した。こうして戊辰戦争は終わった
 一方、帰正隊として新政府に編入された残余の幕府歩兵隊は房総半島の鎮撫活動に活躍し、明治2年(1869)には箱館に向けて出陣、脱走幕府軍を攻撃しその後解散した
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--引用・要約;「幕府歩兵隊」野口武彦、Wikipedia「伝習隊」--



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2012.07/27(FRI)

那須野が原博物館




平成24年
・ 7月27日
 今日も暑い。通りすがりに写真を撮ってきた。この博物館、以前は旧三島農場事務所であった建物を郷土資料館?としていたが、それを拡充して後継するものである
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 那須野が原博物館は、「那須野が原開拓と自然・文化のいとなみ」のテーマのもとに、平成16年4月に開館しました。
 博物館は那須野が原をフィールドとし、歴史・民俗・考古・美術・自然・文学の各分野を対象とする総合的な博物館として活動を展開しています。地域の教育・文化の拠点として、また発信基地として、情報の収集や提供を通じて、世代を越えた交流の場となるような博物館を目指します。
 さらに、生涯学習社会に対応し、地域住民や学校教育の学習活動を援助し得る博物館とするとともに、特別展などの開催や、教室・講座事業にも力を入れ、さらに子ども達に対して体験学習活動を重視した活動を行っています。

所在地  〒329-2752 栃木県那須塩原市三島 5- 1
電 話  0287-36-0949

開館時間 午前 9時から午後 5時まで(展示室への入場は午後 4時30分まで)
休 館 日 月曜日(祝祭日の場合は開館)・年始年末(12月28日から翌年 1月 4日まで)

料 金  個 人  一般 300円、高校生・大学生 150円、小学生・中学生 100円
     団 体  一般 250円、高校生・大学生 200円、小学生・中学生 50円
 ※ 団体は20人以上

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 三島通庸(みしまみちつね)
天保 6年(1835) 6月26日-明治21年(1888)10月23日
 日本の武士・薩摩藩士、内務官僚
 県令時代は、強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」とか「鬼県令」と呼ばれた

経歴
 伊地知正治から兵学を学ぶ
 維新政府では、酒田県や山形県、福島県、栃木県の県令、内務省土木局長(県令と兼任)、警視総監等を歴任した

明治15年(1882)
 福島県に県令として着任

明治17年(1884)
 栃木県令
 三島は塩原街道を開発整備し、同時に塩原に別荘を構えた。1902年、皇太子時代の大正天皇は初めて塩原を訪れ、三島別荘等に遊んで温泉や風光に感銘を受けられた
 これを契機に1904年、三島子爵家は別荘を献上して「塩原御用邸」となる。主に避暑のため愛用された

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那須野ヶ原の開墾
 地方の開墾に熱意を示し、栃木県那須野ヶ原の肇耕社(後の三島農場)を開設した
 現在の那須塩原市三島に別荘を構えた。当時の区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初の入植者の子孫が多い。近年設置された那須野が原博物館の敷地には、開墾に必須であった那須疏水も再現されている

家族
 三島通庸の二女峰子は大久保利通の次男牧野伸顕に嫁ぎ、その長女雪子は吉田茂に嫁いだ。吉田茂の三女和子は麻生太賀吉に嫁ぎ、その長男が麻生太郎である。従って麻生太郎は三島通庸の玄孫にあたる
※ 子・孫・曽孫・玄孫・来孫


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参考文献;HP「那須野が原博物館」
     Wikipedia「三島通庸」
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写真展(2017.04/03)



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2012.07/26(THU)

関谷宿常夜灯




平成24年(2012)
・ 7月26日
 前に「関谷宿御公儀御巡見」を記した(2012.07/16)が、そこの関谷宿概略図にある常夜灯の写真を撮ってきた
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以下、現地の案内板から

 この常夜灯は嘉永五年(一八五二)に建てられたもので、当時は愛宕神社の参道に一対あったと思われるが、正確な位置や方向は不明である。
 常夜灯には西側に「秋葉山大権現、愛宕山」、北側に「金毘羅大権現、熊野三社」、東側に「白雲山大権現、稲荷大明神」、南側に「鷹八幡宮、午頭天王」という文字が読み取れ、台座には関係者の名前が刻まれている。
 関谷宿の当時の雰囲気を伝える貴重な史跡である。

平成九年三月三十一日 塩原町文化財指定
那須塩原市教育委員会



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2012.07/24(TUE)

山王茶屋と糸沢宿 会津西街道




平成24年
・ 7月24日
 横川宿から山王峠を経て糸沢の峠下にあった山王茶屋跡を探す
 山王茶屋は「奥会津博物館」に移築され、古民家レストランになって保存されている。博物館で場所を聞いたところ、横川方面に向かって行くと道の駅があり、その先500メートルほどの左手だそうだ
 民家があった。そこの直ぐ先には山の神だか氏神さまの小さな鳥居もあるしキッと此処だ!

 糸沢宿では糸沢本陣と龍福寺を

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以下、「南柯紀行・大鳥圭介」から引用

慶応 4年(1868)
・閏 4月 4日、 5日

 四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原幷鈴木藩(蕃)之助等と同宿す。
 五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
 山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為めに贈(送)られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。
本日、糸沢、中食、夕食、田島に着き本陣に宿す。
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以下、現地の案内板から

町指定重要文化財

名  称 「山王茶屋」(旧渡部家住宅)
旧所在地 南会津郡南会津町(旧田島町)糸沢字山王
創建年代 元和三年(一六一七)
移築復元 平成十八年二月

 山王茶屋はもと、南山通り(下野街道)の山王峠入口に建っており、主に旅人の休泊所として利用された。
 明治十七年に編纂された「南山新道之記」には雪中行路の便をはかるため、元和三年に建てられたと記されているので、およそ四〇〇年前の創建と考えられる。
 戊辰戦争時の慶応四年(一八六八)、西軍に焼討ちされ焼失するも、翌明治二年には、焼ける前と同規模に再建されたと伝えられている。
 構造的な特徴は、一般旅客の出入口とは別に、武士階級専用の玄関「乗り込み玄関(のっこみとも)など近世宿駅の本陣形式を備えている点である。
 江戸時代、宿駅にはこの形式の本陣が設置された。しかし、明治五年に宿駅制度が廃止され、戦後の住環境の変化の中で、そのほとんどが姿を消していった。

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・文化庁、登録有形文化財「糸沢本陣」
以下、パンフレット「下野街道」から

 会津若松市の大町札の辻から栃木県の今市宿まで約三十二里(約130km)を結んだ下野街道の会津側に7つある宿場のひとつの糸沢宿。本来宿場に入っていく道は、宿場特有の枡形を形づくり、鍵の手に曲がっているのだが、現在は整備され昔の面影はほとんど残っていない。それでも会津藩主が滞在したといわれる旧本陣があり、集落で暮らす人々の心の拠り所となっている。

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・「熊野山龍福寺」真言宗豊山派
以下、パンフレット「下野街道」から

 平安時代の創建と伝えられ、戊辰戦争で官軍が会津に攻め入った時に宿泊した寺として知られる。官軍の兵士(芸州)が書いたという板戸の落書きや襖絵が今も残っている。

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介
     現地、案内板・パンフレット「下野街道」
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2012.07/23(MON)

会津西街道横川宿




平成24年
・ 7月23日
 会津西街道横川宿を見に行ってきた
 かって、旧幕府軍を率いた大鳥圭介は日光を一旦退き、軍の再編のため田島に向うのだが、その時に宿した横川である。今、国道121号がこの宿を外れて通っていて往時の面影が残っているのが何だか寂しい

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以下、「南柯紀行・大鳥圭介」の記述を引用

慶応 4年(1868)
・閏 4月 4日、 5日

 四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原幷鈴木藩(蕃)之助等と同宿す。
 五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
 山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為めに贈(送)られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。
本日、糸沢、中食、夕食、田島に着き本陣に宿す。
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会津藩横川関所跡と横川如意輪観音堂
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以下、現地「観音堂」の案内板から

有形文化財(建造物)
横川如意輪観音堂
    所有者(横川自治会)
    平面積 七・五六㎡
 この観音堂は、三間四方向拝一間付き入母屋造りで、江戸時代後期の建造と考えられる。柱・頭貫・木鼻・台輪・闘供・丸桁・茅負・垂木・虹梁・板壁・長押蟇股などが改変されずに良く残っている。
 塗料は、漆塗りまたはちゃん塗り(油と顔料)、あるいは渋塗り(柿渋と顔料)であったと考えられる。
 屋根は茅葺きの方形造りで宝珠がついていたものと思われる。
 切目縁の縁板、建具、木階は、昭和期末国道一二一号線の拡幅に伴う若干の移転の際、取り替えられている。内部は、竿縁天井で畳敷き、来向壁には金箔がはられ厨子が安置されている。
 この観音堂は、天明八(一七八八)年の「御廻国様御通行ニ付御案内帳」(宇都宮市旭町赤羽守治家文書)に、「観音不動堂」として記録されている社と同じものといわれている。
     藤文指定第三一号 平成元年六月三〇日

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.07/21(SAT)

会津西街道五十里宿




平成24年
・ 7月20日
 藤原の慈眼寺を見た帰り、五十里ダム管理支所に立ち寄って「わくわくダムダム資料室」を見てきた。五十里湖と五十里村の変遷を示した説明の掲示はあったが、ここはダムの資料室なので戊辰戦争に関係するものの展示や掲示が無かったのは当然か?
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--以下、現地展示説明資料から--
天和 3年(1683)
・ 9月 1日未明
 日光・南会津地方を大地震が襲った。マグニチュード7.3と推定されている。「御普請出来候石垣を残らず壊し、双輪塔も押し倒す」という激震であった。震央附近の葛老山が崩壊し、崩壊地点の上流で合流する男鹿川と湯西川がせき止められた。約150日間で周辺の西川村と五十里村が水没し、谷間に五十里湖という大湖水が形成されたのである。湖は決壊すれば下流域に大災害を引き起こす危険性が強く、当時この地域を支配していた会津藩にとって湖水の水抜きは必至の課題であった。掘削工事が行われたが大岩盤にさえぎられ失敗した。この絵図は五十里村の名主を代々勤めた赤羽家に伝来したもので、元禄元年(1688)頃の幕府代官や会津藩・宇都宮藩の役人立ち合いによる現地視察の際に描かれたものと推定される。その後、大地震から40年後の
享保 8年(1723)
・ 8月10日
 連日の暴風雨により湖水は一瞬にして決壊、鬼怒川の下流域は大洪水となった。この五十里洪水は下野国史上最大の自然災害といわれ、広範囲にわたって計り知れない災害をもたらした。

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・ 日光を一旦退いた旧幕府軍は六方越えを経て日向村(現栗山)から田島を目指すが、途中ここ五十里に宿した
--以下、「南柯紀行・大鳥圭介」の記述を引用--
慶応 4年(1868)
・閏 4月 3日
 三日早立和田某と一同日向村を出て危坂を越え河沼にて昼食す、此時三日目にて始(初)めて米飯を食したり、夫より河流を渡りて五十里駅に出たり、此駅は人家六七十軒もあり田島より日光への本往還なれば先ず格別の差支もなし、本陣に至りて萱野権兵衛に面会し日光表の形勢を委に談じ、何卒全軍を一度田島まで引揚げ其上にて再び出張したき旨を掛合い漸くに承知す、然らば兵隊の順次を定め宿割をなし三依越すものもあり、又当駅に止宿もあり余は此駅に泊して怪我人運送の人足兵粮支度の事を其掛の者へ命じたり。
 今晩は日向記の旅館に至り米田其他の士官と臥したり。
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--以下、「南柯紀行」から大鳥の行動と概略--
・閏 4月 4日 五十里を出て横川に至る
     5日 横川を出て三王峠、糸沢で山川大蔵に会い共に田島へ
     6日 -16日 田島にて軍再編
    17日 第三大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、横川泊
    20日 藤原着
    21日 高徳の貫義隊斥候、土州の斥候隊と小戦闘
    22日 小佐越村
    23日 小佐越村を出て大桑村へ。栗原村の先で戦闘
    24日 藤原にいる第二大隊も小佐越へ呼び寄せる
    25日 無事
    26日 今市で戦闘
    27日 -30日 無事
   5月 1日 高百村に出る
     2日 - 5日 瀬尾村前まで行って地形など見定む
     6日 夜、大桑村を出て今市で戦闘
     7日 無事
     8日 総軍を一旦大原、藤原へ引揚げ
    10日頃 敵人大桑、小佐越、小原を悉く焼払う
     8日 -15日 別段異事なし
    15日頃 若松に行く(山川大蔵と、滞留五六日)
    20日 藤原に戻る
   5月末 - 6月20日頃 格別の戦争なし
     *
・  6月24日
 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ帰らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、
(後略)
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--参考文献;現地展示説明資料/「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.07/20(FRI)

藤原山慈眼寺 会津西街道藤原宿




平成24年(2012)
・ 7月20日
 藤原から鶏頂山が形良く見える所があって、その写真を撮りに行ったものの生憎の天気で見る事は出来なく、近くのお寺さんを覘いてみた
 このお寺さん、ボケ除け祈願もして貰える ^^;)
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慈眼寺本堂
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--以下、参道入口の案内板(一部)から--

日光市指定文化財

   木造十一面観世音菩薩立像
 種別・・有形文化財  総高・・一四一センチメートル  巾 ・・六〇センチメートル
 員数・・一体     像高・・一二一センチメートル  製作年代・・江戸時代初期

 この十一面観音は、金泥塗りの木造である。胸部と前衣の一部に欠損がみられるほか、前頭部の十面体にも若干の欠損がみられるが、全体として保存状態は良好である。
欠落欠損は、慶応四(一八六八)年の戊辰戦役の際に、藤原で行われた激戦によって受けた損傷であると思われる。
藤原を舞台にした戦いでは、会津軍が終始優勢にあった。しかし、白河方面では、会津軍は逆に苦戦を続けていた。この劣勢を挽回するために、藤原の軍が応援に向かうことになり、橋をこわし、人家を焼き払って引き上げた。この時会津軍の中野善六なる人物が、戦火の中からこの十一面観音を救い出したとの由来を、その子孫が昭和十五年頃当寺を訪ねて来て話したという。
観世音菩薩は、仏教における諸菩薩の中でも最も慈悲を表す仏である。最も現世利益のあらたかなものとして広く信仰されている。観世音菩薩は、根本総体として、千手・如意輪など多くの種類をとるが、十一面観音もそのひとつの形である。
     昭和四十五年五月十二日指定
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2012.07/19(THU)

大 山 門




平成24年(2012)
・ 7月19日
 通りすがりに写真を撮って来た
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 明治の元老であり後の陸軍大将、大山巌の次男大山柏(華族、陸軍軍人、考古学者、戊辰戦争研究家)が、ある旧家から譲り受け解体所有していたものであったが
昭和46年(1971)
・ 3月
 栃木県立那須拓陽高校の正門として配された
 四脚門(よつあしもん、しきゃくもん)と呼ばれるもので、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右に計4本が立ち、正門に配されることの多い格式の高い門とされる

 今日、学生の出入りする姿を見掛けたが、何かしら頼もしく見えたのは錯覚か

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--参考文献;Wikipedia「大山柏」--



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2012.07/16(MON) 

関谷宿御公儀御巡見




平成24年(2012)
・ 7月16日
 「塩原町誌」を見ていたところ、縁有る場所と縁有る人の所有する文書の記載があった。ごく地味なものであるが当時の人や暮しの様子が偲ばれるし、此処の街並みや地理も承知していてイメージし易い。記述内容をほぼそのまま引用して一部をUPする
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御公儀御巡見日記帳
天保 9年(1838)
 組 頭;重五郎・金三郎
 御公儀様御巡見日記帳
 御本陣;又右衛門・重五郎・重助

 文書所蔵者;関谷、室井義夫氏

・解明
 此の公儀御巡見日記帳は室井義夫家に伝わる、御巡見使関谷村止宿の詳細を記録したもので、其の実情を知る上に極めて貴重な記録である。又、大田原藩の諸役の差図状況が逐一記されて、其の接見に対する配慮が偲ばれるのである
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イ)関谷宿割の形成

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ロ)御巡見使のあらまし

 江戸幕府が全国各地の視察に派遣した役人。将軍の代替ごとに、大名領に派遣した諸国巡見使(編成;使番・小姓組・書院番)と天領に派遣した国々御領所巡見使とがあった。当初は第三代将軍家光代寛永十年(1633)にはじまる
※ 註記
 ・使 番 若年寄の支配に属し、戦陣では使命を伝える職となり、平時には諸国に出張し国役人の能否を考察した。また、将軍代替りの時は諸国を巡回し、大名の治績を視察した
 ・小姓組 幕府の軍事組織
 ・書院番 幕府の将軍直属の親衛隊(幕府の軍事組織)で営中の警備、将軍の扈従(こしょう・身辺に仕えて、諸々の雑用を果たす)、儀式の事を司どる

・御巡見使の関谷宿泊りについて
 道順 概ね、川崎--石上--関谷--(原道)--大田原宿へ

 一)貞享年中(1684-1688年頃) (第五代将軍綱吉代)
  ※ 或いは歴史年表にある天和元年(1681)が正しいか
 御巡見様
 佐久山より上石上御通行被極候
  御 使 番 駒井右京様

 二)宝永七寅年(1710) (第六代将軍家宣代)
  御 使 番 主角主馬様
  御小姓組 永田弥左衛門様
  御書院番 本田清兵衛様

 三)延享三寅年(1746) (第九代将軍家重代)
  御 使 番 松平新八郎様
  御小姓組 天野伝五郎様
  御書院番 諏訪右近様
  ※ 此の時のことについて詳記はないが巡見があったことには相違ない(通行か)

 四)宝暦十辰年(1760)十一月十六日 (第十代将軍家治代)
  御巡見様、関谷村に御宿泊
  御 使 番 板橋与五左衛門様 本陣 重郎平
   同勢 三十五人     亭主脇 源右衛門
  御小姓組 三上与九郎様   本陣 又右衛門
   同勢 二十八人     亭主脇 彦兵衛
  御書院番 長谷川藤右衛門様 本陣 重五郎
   同勢 三十人      亭主脇 定右衛門
  ※ 此の時には、関谷の宿内整備されて、宿泊に十分なる設備が整えられていた。又、宿の東側の杉の並木の胴伐高さ一丈三尺にした
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ハ)御巡見の概要

 五)天明八申年(1788)六月十六日 (第十一代将軍家斉代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 倉橋長右衛門様  本陣 又右衛門
  御小姓組 内藤平八郎様   本陣 重郎平
  御書院番 三田権之輔様   本陣 重五郎

 六)天保九戌年(1838)閏四月七日 (第十二代将軍家慶代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 安藤治右衛門様  本陣 又右衛門
   同勢 四十人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
  御小姓組 馬場大助様    本陣 重五郎
   同勢 四十二人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
  御書院番 内藤源助様    本陣 重助
   同勢 二十七人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
※1 御巡見様関谷止宿の翌日(17日)、原道を大田原宿へ相成
 2 室井家に残る公儀御巡見日記には此の時の記録が詳細に書かれている
 3 天保九年の御巡見は、相続いた天保の飢饉によって受けた痛手は大きく、故に大倹約を徹底せしめ、このことによって視察一行の接待も、それに伴って行われた
 4 此の時の道普請 石上、大貫、関谷(道筋幅九尺、両側弐間宛切開、原道筋も同様、手入)。これが基本であったと思われる

 七)外に御案内役として、此の時大田原藩主第二十五代愛清公、関谷寺(かんこくじ)に止宿す(村掛り十八人奉仕)
 六月十七日、右御巡見様一行御送りの為(人足四二九人、馬五二足、才料九四人)、藩領、村々より出役
※1此の時に、関谷宿東側の杉並木、胴伐り高さ二十尺とした。又東側の堀を埋めた
 2関谷寺について 詳細は不明なるも、大田原藩の黒印状受領の寺。関谷宿はづれ、上町の突き当りにあった模様
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・関谷村、宿の形成について

 江戸幕府の御巡見使の記録として残されてある、貞享年間(1685年頃) 次々の御巡見使、天保九戌年、閏四月(1838)十二代将軍家慶代まで、凡そ百五十余年の間に、前後六回に渉る御巡見が行われたのである
(室井家日記)
 内三回は本陣止宿と書かれてある。最も精細な記録は天保九戌年閏四月七日(1838)のものである。宿の整備については、幕府の定めた、五街道(東海道・中山・甲州・日光・奥州)の宿駅の整備は江戸初期に作られ、奥州道中(正保1648年頃)、原街道・会津西街道は(明暦二年1656)に完備された
 これに準じて、脇街道や、地方村々を繋ぐ要路が整備されたものと考えられる
※ 関谷の宿の形成の初めは、天正十八年(1590)(秀吉時代大田原晴清が関谷兼光の子を室井又右衛門と称させる)と考えることが至当と考える

 宿の要件としては、①問屋場、本陣の整備、②人馬継立、③休泊施設、④交易機能、等の整備が基本であり、大小の別はあれ、これらの形が整えられて宿場を形成したのである
 関谷の宿割りは、最上端(現在の上宿あたり)に関谷寺(かんこくじ・大田原藩の黒印状寺)があり、宿通り、幅九間、屋敷割両側に、一軒分九間三尺幅、本陣、問屋、名主はその倍の屋敷幅を持つ構として整備された。両側にそれぞれ、二十屋敷に近い家並を見たのである
 休泊施設家号(本陣、問屋、岸屋、梅屋、大坂屋、会津屋など)
 原型は、古宿より移転され、愛宕神社の常夜灯も宿内を照らした。又、上の内鷹八幡宮は、大田原公の祈願の場所でもあったのである
 又、関谷村は大田原藩領であり、塩原は宇都宮藩領であった。従って関谷はその接触地として、既に安貞二年(1228)には関谷より塩原へ馬道開くとあり、塩原にとっては、往来の出入口、物資の移入口等緊急の関係にあったのである
 此の事から、藩に於ても、其の整備に大いなる傾注をしたものと思う
 要するに、大田原藩に於ては治下領内代表の宿村として、御巡見の宿泊の所に定めた事と思う
(君島久雄記)

--参考文献;塩原町誌--



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