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2012.05/30(WED)

宇都宮城の攻防Ⅱ 武井の戦い、小山第一次・第二次の戦い、宇都宮城の攻防




平成24年(2012)
・ 5月12日
 栃木県立博物館、第102回企画展「戊辰戦争・慶応4年下野の戦場」を見て来た。土方歳三人気にあやかってか、これをポスター・冊子の表紙に使用している
 展示では錦旗(複製)やら、四斤山砲(複製)、各種の銃、山川大蔵の写真などなど。古文書、古地図などの展示も多くあったが、いかんとも解読出来なくて残念
 冊子に、大鳥圭介が箱館での戊辰戦争を思い起こして著した詩書があった

     志士三千一死期 孤城嬰守事堪悲
     低回四十年前跡 苔冷崖頭碧血碑


宇都宮城の攻防Ⅰ(2012.05/28)

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写真;左 山川大蔵、右 土方歳三
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慶応 4年(1868)
・ 4月11日
 江戸無血開城
・ 4月12日
 大鳥圭介率いる旧幕府軍、日光をめざし江戸を出発。伝習隊を中核とする軍団は三軍に分かれて行動することになる
  ①先鋒(前軍) 伝習隊第一大隊・隊長秋月登之助        700人
         桑名藩隊   ・隊長辰巳鑑三郎        200
         回天右半隊  ・隊長相馬左金吾        100
         新撰組    ・隊長土方歳三         30
         伝習砲兵   ・隊長秋月兼務、四斤山砲二門  100 四斤山砲
  ②中軍    伝習隊第二大隊・隊長本多幸七郎        600
  ③後軍    歩兵第七連隊 ・隊長山瀬司馬         350
         会津藩別伝習隊・隊長工藤衛守         80
         土工兵    ・隊長小菅辰之助        200

 全軍、宇都宮をめざし江戸川沿いを北上。先鋒は松戸を経て小金宿(現松戸市小金)で宿泊。中軍は松戸宿で宿泊。後軍は大林院を出るが国府台に留まり野営。先鋒隊は小金宿で大鳥隊と別れ鬼怒川べりを北上、下妻・下館を経て下野の芳賀郡に入る
 大鳥隊(中、後軍)は先鋒の進んだ水海道方面を避け、関宿を経て宇都宮に入ることとした

・ 4月14日
 大鳥隊、利根川右岸の村落船形村(現野田市船形)に宿泊。後軍より伝令、旧幕臣滝川充太郎が松戸まで来て「御料隊(隊長・旧幕臣加藤平内)に弾薬と金子(軍資金)を託した」弾薬や金子は大鳥のもとにも届く。とのこと
・ 4月15日
 大鳥隊、筵打(野田市)で利根川を渡り結城街道を北上。諸川宿(現古河市諸川)にて吉報あり、撒兵頭天野花陰率いる草風隊100人、旗本寄合松平兵庫頭の貫義隊100人、郡上藩士朝比奈茂吉の凌霜隊 45人、旧幕臣加藤平内の撒兵隊(御料隊200人)がこの地に続々と結集している。いづれも精鋭部隊

武井の戦い
・ 4月16日
 大鳥圭介初陣。武井村(現結城市武井)方面に伝習隊二小隊を北上させ、さらに二小隊を応援に出した。諸川には予備隊として伝習隊二小隊、七連隊、草風隊を残す。間もなく大砲の音が聞こえ戦端が開けたと知る。暫くして斥候が戻り、味方攻勢にあるを聞き、大鳥自ら僅かの兵を連れて出ると、敵は敗走して結城方面に引揚げた。長追いせず
    分捕は一番小隊が、四斤大砲 一門 外は格別の品なし
    味方死傷嚮導役一人、兵士三人
    敵死人、八九人、傷者不詳
 この日小山でも予期せぬ戦闘があった。草風隊、貫義隊と宇都宮や結城から南下した新政府軍との戦闘で、ここでも旧幕府軍勝利
・ 4月17日
 大鳥隊&土方隊とは別行動で北上して来た草風隊・貫義隊・凌霜隊の各隊、古河に向けて進軍中の平川支隊と小山宿南の日光街道で遭遇し戦闘。遭遇戦の緒戦は旧幕府軍が勝利

小山第1次の戦い
 大鳥隊、諸川宿を発って日光街道の宿場小山宿に向う。小山の手前一里の小川に差し掛かったときに、斥候から「敵軍、来襲の恐れあり」の報に戦闘態勢を整え、第一陣の御料隊が街中に突撃。迎撃態勢にあった新政府軍は宇都宮から南下した香川隊を中核として宇都宮藩のほか、岩村田藩(現長野県佐久市)・彦根藩・壬生藩それに平川支隊も参戦し大砲やゲーベル銃で応戦。両軍とも負傷者が続出し、御料隊は後退するも援軍の側面攻撃など奇襲作戦が成功し、新政府軍は宇都宮方面に退却
 一方、結城街道を進んでいた伝習隊士大川正次郎と同山角麒三郎の部隊は小山宿背後で後退する新政府軍を見つけ、大川は自軍の兵を雑木林に潜伏させて一斉射撃。新政府軍は大砲や銃を捨て、宿場北端の喜沢で民家に火をかけて逃走

小山第2次の戦い
 都督大鳥圭介は馬に乗り全軍を率いて小山宿の本陣小川家に到着。夕刻、「武井の戦い」で敗れた祖式金八郎率いる舘林藩・笠間藩・結城藩(勤王派)の将兵3、400人が結城街道から急逆襲。伝習隊はシャスポー銃で一斉射撃、歩兵第七連隊も砲銃で反撃し祖式隊は結城方面に敗走。だが、大鳥隊はこの戦いで装備品や弾薬など戦略物資を多数失う
 飯塚宿に向かう
シャスポー銃(2012.07/07)
・ 4月18日
 大鳥隊、壬生城下を迂回して栃木宿に入る
 このころ、野州南東部の芳賀郡に進攻してきた旧幕府軍・先鋒隊(秋月・土方隊700人余り)は真岡を経て鬼怒川を渡った
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・ 4月19日
 大鳥隊、合戦場(現栃木市)を発ち日光例弊使街道を北上して楡木宿(現鹿沼市)に向かう途中、宇都宮城で戦闘があったことを知る

宇都宮城の攻防
 秋月・土方隊、宇都宮城攻撃を前に本陣を蓼沼村(現上三川町)満福寺においた。捕えた黒羽藩斥候兵3人を斬首。軍勢は二手に分かれ間道を進む
 宇都宮城攻略は南東部から始まる
 新政府軍・宇都宮藩は烏山藩の支援を得て南東部の砂田村、平岡村、簗瀬村に出撃し迎撃態勢をとるもあえなく撃破される
 秋月・土方隊、簗瀬村名主宅に火を放ち、さらに市街地四方に火を放ちつつ城内に突入。城内では白兵戦が始まった
 新政府軍・宇都宮藩兵、二の丸舘に火を放ち退却
 秋月・土方隊、宇都宮城を落とす。火焔に包まれた城下町は四八町の大半が焼失

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写真;【復元清明台櫓】宇都宮城跡公園・2012.04/19

・ 4月20日
 大鳥隊、第七連隊を先頭に鹿沼を出発。宇都宮城入城
--参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎--



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2012.05/28(MON)

宇都宮城の攻防Ⅰ 無血開城、江戸脱出




平成19年(2007)
・ 3月25日
 宇都宮城本丸一部の外観復元工事が完了し開園式典が執り行われた。復元らしくない個所も見られるが明るく綺麗で、特に木造で復元された清明台櫓(二層二階)、富士見櫓(二層二階)が見ごたえあって好ましい。式典には歴代城主の宇都宮氏、本多氏、戸田氏の子孫の方々が出席した
「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」を参照して宇都宮城攻防の概略をUPする

宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)

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慶応 4年(1868)
・ 4月11日
 江戸城無血開城。大鳥このとき旧幕府軍陸軍歩兵奉行、36歳
 大鳥率いる旧幕府軍、日光をめざして江戸を出発

 徹底抗戦に移る一カ月ほど前、江戸脱出を覚悟した大鳥は郷里の実弟鉄二郎に書状を送った。討幕に激昂し「一命を以て幕府へ忠節を尽す覚悟」3 /4付
 かねて大鳥の命令を受けた部下の士卒ら、浅草報恩寺(本所法恩寺)に結集した
・ 4月12日
 歩兵第二大隊(小川町大隊)と合流
 下総国府台の高台(鴻之台、現市川市国府台)に集結するとの命令を発した。兵卒は脚絆・わらじの身ごしらえをし、軍服を着て銃を担い兵糧を確保して隊列を整えた。伝習隊隊員はそろいの韮山笠をかぶり、軍服を着てフランス製の背嚢(ランセル→ランドセルと呼ばれた)を背負っていた。一目で精鋭部隊と分かった。徳川家康紋(三葉葵)、日の丸、「東照大権現」と染め抜かれた幟を押し立てた約500人の軍勢は馬に乗った総指揮官大鳥圭介の指令を受けて整然と進んだ
 市川に在る大林院という古寺を陣屋とし、ここで大手前大隊(伝習隊第一大隊)、他旧幕兵、会津藩兵、桑名藩兵らと合流
 幕臣からは土方歳三、本田幸四郎、山瀬司馬、天野電四郎、吉沢勇四郎、小菅辰之助ら。会津藩からは柿澤勇記、秋月登之助、工藤衛守ら。桑名藩からは辰巳鑑三郎(立見尚文)、松浦秀八、馬場三九郎らが参加した。各隊の幹部連中による軍議の結果

 都督 ・大鳥圭介
 司令官・秋月登之助
 参謀 ・土方歳三
  旧幕府軍伝習隊大手前大隊  700人
  同   歩兵第七連隊    350
  桑名藩隊          200
  土工兵(黒鍬組)      200
  旧幕府軍伝習隊小川町大隊  600
  ほか
  大砲            2門

 伝習隊を中核とする軍団は三軍に分かれて行動することになる

  ①先鋒(前軍) 伝習隊第一大隊・隊長秋月登之助        700人
         桑名藩隊   ・隊長辰巳鑑三郎        200
         回天右半隊  ・隊長相馬左金吾        100
         新撰組    ・隊長土方歳三         30
         伝習砲兵   ・隊長秋月兼務、四斤山砲二門  100 四斤山砲
  ②中軍    伝習隊第二大隊・隊長本多幸七郎        600
  ③後軍    歩兵第七連隊 ・隊長山瀬司馬         350
         会津藩別伝習隊・隊長工藤衛守         80
         土工兵    ・隊長小菅辰之助        200

 全軍、宇都宮をめざし江戸川沿いを北上。先鋒は松戸を経て小金宿(現松戸市小金)で宿泊。中軍は松戸宿で宿泊、後軍は大林院を出るが国府台に留まり野営。先鋒隊は小金宿で大鳥隊と別れ鬼怒川べりを北上して、下妻・下館を経て下野の芳賀郡に入る
 大鳥隊(中、後軍)は先鋒の進んだ水海道方面を避け、関宿を経て宇都宮に入ることとした

--参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎--



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2012.05/25(FRI)

横川の一里塚 会津西街道




 今日は雨。昨日見てきた一里塚をUPする。次行ったときには「よばわり岩」を探して見よう
↓現地の案内板 ※横川(現日光市横川)
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記念物(史跡)

会津西街道横川一里塚
 直径 五間(約 9m)、高さ一丈(約 3.3m)
 碑高 七尺六寸(約 2.5m)、
 この一里塚は上三依一里塚と共に、会津西街道に残る貴重な史跡である。
 明暦元年(1655)幕府は宿駅人馬の制を定め、五街道や脇街道の整備をすすめた。
 この一里塚も同じころ築造されたと考えられる。
 ほぼ一里(約4km)ごとに旅行や輸送の道のりを示すめやすとして作られた道標である。目的地への里程を知り、運賃の支払いなどに利用された。
 近くに大声を出すとこだまする「よばわり岩」があり、人々はこの一里塚を「よばわり岩の一里塚」とも呼んで親しんできた。
  昭和59年 3月30日
  栃木県
  藤原町教育委員会
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写真;【南山通り横川一里塚】街道の両側にあったが東側は除去された。会津西街道に残る唯一の一里塚
2012,05/24
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よばわり岩(横川の一理塚)(2015.12/06)



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2012.05/24(THU)

上三依の野仏群 日光市上三依




 戊辰戦争が気になって関係する所を回って見ようと思った。まず初回は手近なところで「会津西街道」の野仏群。尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚付近にある。戊辰戦争との関係でいえば旧幕府軍・新政府軍とも、会津攻防の重要ルートの一つである
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以下、現地の案内板から

 ここにある尾頭峠を越えての旧塩原街道は会津西街道の脇道で、尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。天和三年(1683)の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に塩原経由氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果たした(日光市教育委員会)
阿久津河岸・船玉神社(2015.09/15)
・弁財天供養塔
 財宝利得をもたらす福の神として信じられてきた。
 豊じょうや技芸上達まで祈られ音楽の神、水の神としても信仰を集めた。
・湯殿山
 湯殿山は山形県中央部、月山の西にある山で出羽三山の一つ。修験道の霊山として知られる。この碑は湯殿山神社への参詣で記念で、この碑に祈り直接参詣と同効果をと考えたものだろう。
・男體山
 男體山は日光連山の一つで、湯殿山と同様直接参詣と同効果を考えたものだろう。
・子安観音
 慈母観音、子育て観音ともいう。子宝を恵み、安産から子育てまで功徳が及ぶ。
 会津切支丹関係のマリア観音の疑いもありと言う。
・馬頭観世音
 六観音の一つで畜生道の救済に当たるので頭上に馬をいただく。後に馬による交通の発達にともない、死馬の供養や交通安全の祈りに発展した。
・六面幢形六地蔵
 常に悪業を犯し、六道に輪廻転生するあさはかな人間を救うという。
 六道は、地獄(怒)・餓鬼(欲)・畜生(愚)・修羅(闘争)・人間・天上(喜悦)をさす。
・二十三夜供養塔
 毎月日を決めて月の出を待ち祈った。ほとんどが女人の信仰で、良縁・子宝・安産などが祈願された。乙女が、この夜ひそかに念じて鏡をのぞくと未来の夫の姿が見られたという。十九夜塔なども同じである。(日光市教育委員会)

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会津西街道と旧幕府軍
慶応 4年(1868)
・閏 4月 1日
 旧幕府軍(都督大鳥圭介)は軍を再編するため一旦日光を撤退し田島(現福島県南会津町田島)に向かう
・閏 4月 2日
 「六方越」を経て日向村で宿泊。大鳥が宿泊している名主宅に、会津藩士和田忠蔵と同磯上蔵之丞が訪ねてきて家老萱野権兵衛からの伝言を述べた。旧幕府軍の会津領退去要請であった。大鳥は要請を拒否
・閏 4月 3日
 大鳥、五十里宿で会津藩家老萱野権兵衛に面会し、宇都宮や日光での戦況を伝え承諾を得る。五十里宿と三依宿(現日光市三依)に分散して宿泊
・閏 4月 4日
 横川宿(現日光市横川)
・閏 4月 5日
 大鳥、山王峠を越え糸沢の峠の茶屋で会津藩主松平容保の命を受けた若年寄山川大蔵の歓迎を受ける。この後、山川は大鳥と行動をともにすることになる
・閏 4月 6日~16日
 大鳥軍、田島宿に宿営
 軍議を重ね、軍を四個大隊とすることとした

  全軍(旧幕府軍・会津軍連合軍)都督・大鳥圭介、副都督・山川大蔵

   第一大隊  450人 元大手前大隊・伝習隊  隊長 秋月登之助  
   第二大隊  350  小川町大隊・伝習隊   〃  大川正次郎、沼間慎次郎 
   第三大隊  300  元御料隊        〃  加藤平内
            第七連隊        〃  山瀬司馬、天野電四郎
   第四大隊  200  草 風 隊        〃  天野花陰、村上求馬
            純 義 隊        〃  渡辺綱之助
   会津藩の兵士40人を各隊に分けて配属

--参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎--



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