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2014.05/06(TUE)

野口雨情生家 北茨城市




※ ずっと以前(2011.11/07)なのだが立ち寄り見学したところである
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以下、現地の案内板から

野口雨情生家

 野口雨情(本名英吉)は、明治十五年五月二十九日、父量平の長男としてこの家に生まれました。野口家はかって水戸藩の郷士であり、水戸光圀より観海亭と名づけられました。昭和四十二年三月二十四日茨城県史跡文化財として指定されております
 家族の方が生活されておりますから次のことに注意して参観して下さい

一、参観できる時間
   午前十時~午後三時
一、庭木、建物等に手をふれないで下さい。
一、家族の方に迷惑のかゝらないように参観して下さい。

     北茨城市教育委員会
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野口雨情
1882年(明治15年) 5月29日-1945年(昭和20年) 1月27日
本名・英吉、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた
1943年(昭和18年)
 軽い脳出血で倒れて後は療養に専念
1945年(昭和20年)
 疎開先の宇都宮市近郊で死去
     *
 代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。他に『波浮の港』『船頭小唄』など
--Wikipedia「野口雨情」2014.05/06--

※ 疎開先の旧居所在;宇都宮市鶴田町 1744-2
雨情旧居(2014.10/02)



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2013.10/02(WED)

輪王寺宮の東行 平潟港上陸




第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う(2013.01/25)
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写真;[平潟港]2013.09/27
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輪王寺宮の東行

慶応 4年(1868)

 上野輪王寺門主、輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)は東叡山に謹慎した前将軍徳川慶喜の依頼を受け、東征大総督有栖川宮熾仁親王に東征の中止を懇願した。が、容れられず
 江戸城の無血開城後、旧幕臣は徹底抗戦を画して「彰義隊」を結成、輪王寺宮の護衛と称して東叡山に立て籠もった。新政府軍の解散命令にも従わない

・ 5月15日
 新政府軍は武力を行使した。上野での戦闘はその日のうちにほゞ終結し、彰義隊は四散した。上野寛永寺本坊にいた輪王寺宮は、尾久村、浅草の東光院へと転々とした後、品川沖に停泊中の榎本艦隊の汽船「長鯨丸」に乗船した
・ 5月28日
 長鯨丸、平潟港に着岸。平潟から磐城平へ行き、三春、本宮、猪苗代、若松、米沢、白石を経て…
・ 7月 2日
 仙台に到着した。輪王寺宮の東行は奥羽越列藩同盟の盟主と仰がれ、同盟の各藩にとって大きな励みとなったのである
     *
[参考文献;戊辰戦争全史(下)・菊地明/伊東成郎編 p.17 小桧山六郎]
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きたしらかわのみやよしひさしんのう
北白川宮能久親王(輪王寺宮)
弘化4年(1847)2月16日-明治28年(1895)10月28日/幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人/伏見宮邦家親王の第9王子/最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる

幕末

嘉永元年(1848)
・ 8月
 青蓮院宮の附弟となる
嘉永 5年
 梶井門跡の附弟となる
安政 5年(1858)
・10月
 仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受ける
安政 6年(1859)
・11月
 輪王寺宮慈性入道親王の附弟となる。青蓮院宮尊融入道親王を戒師として得度し、公現(こうげん)の法諱を称する

慶応 3年(1867)
・ 5月
 江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。天台座主職は朝廷の指名職であり、妙法院門跡や梶井門跡他と交代により指名を受けており、能久親王が天台座主(比叡山延暦寺座主)にあったというのは誤りである

慶応 4年(1868)
 鳥羽・伏見の戦いの後、公現入道親王は幕府の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に前将軍徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された

明治時代

明治元年(1868)
・ 9月
 仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王は京都で蟄居を申し付けられた
明治 2年(1869)
・ 9月
 処分を解かれ…
明治 3年(1870)
・10月
 伏見宮家に復帰。明治天皇の命により還俗し、幼名の伏見満宮(ふしみみつのみや)と呼ばれた。このとき下向を命じられ、同時に2年前に駿府で談判した縁故のある熾仁親王の邸に、ドイツ留学に出発するまでのあいだ同居する事となった
・12月
 プロイセンに留学のため日本を離れる
明治 5年(1972)
・ 3月
 弟北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続し、諱を「能久」と賜る
明治 9年(1876)
・12月
 ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約、明治政府に対し結婚の許可を申し出るが、政府は難色を示し帰国を命じる。帰国の直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため問題となる。しかし結局…
明治10年(1877)
・ 7月
 帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、京都でまた謹慎することになる
 その後は陸軍で職務に励んだ
明治17年(1884)
 陸軍少将
明治25年(1892)
 中将に昇進。また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した
・ 4月
 創設された大日本農会の初代総裁となった

[引用;Wikipedia「北白川宮能久親王」2013.10/02]
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2013.09/29(SUN)

八幡神社 北茨城市平潟
新政府軍、平潟に上陸




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八幡神社

平潟町の洞門をぬけると山腹に八幡神社があり、巨木が鬱蒼と茂り、海面上より高さ約50Mの断崖絶壁をなす。境内の芭蕉翁句碑の一首は絶景を物語る。(北茨城観光リーフレット)
※ 写真;神社の裏手、絶壁にあり・2013.09/27
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※ 写真;八幡神社拝殿・2013.09/27
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2013.09/27(FRI)

新政府軍、平潟に上陸 北茨城市
慶応四年六月




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平成25年(2013)
・ 9月27日
 平潟港(北茨城市)を見に行く。途中、いわき・ら・ら・ミュウで昼食(おすゝめ握り、1300円)後、勿来を経て着く。晴れて風も無く気持ちの良い日だ
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慶応 4年(1868)
・6月
 関東をほゞ制圧した新政府軍は諸藩から派遣された兵力を東北討伐に向けることになる。奥羽追討総督には参謀正親町公董(おおぎまちきんただ)、参謀補助には木梨準一郎、補佐には下参謀渡辺清左衛門をあて、海路平潟に向かわせることにした      
・6月16日 薩摩藩兵(一二番隊・私領一番隊・私領二番隊)、大村藩兵(銃砲隊と砲一門)、佐土原藩兵(一番・二番の二銃隊と一番砲隊)が平潟に着くと、以降..
・  20日 柳川藩兵、備前岡山藩兵
・  29日 笠間藩兵(四小隊と砲一門)
・7月 3日 参謀河田景与に印旛藩(六小隊)、備前岡山藩、大和郡山藩
・   9日 薩摩藩三隊と三番砲隊
      印旛藩十四小隊、砲二隊と砲五門が小名浜に到着
 こうして平潟に上陸した新政府軍と東北諸藩の兵士とが真っ向から対峙し、いよいよ決戦の時がせまった
     *
--参考文献;戊辰戦争全史(下)・菊地明/伊東成郎編 p.17 小桧山六郎--
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以下、北原亞以子/講談社文庫「歳三からの伝言」から引用
p.268
慶応 4年(1868)
・6月
 六月二十四日、棚倉城を落とした新政府軍は、大挙して白河へ向っている。平潟に上陸し、勿来関を越えると、泉、湯長谷(ゆながや)、平などの小藩がつづいて、平潟には仙台藩兵が、平付近には箱根の戦さで敗れた上総の請西藩主林忠崇(はやしただたか)や、もと京都見廻組の人見勝太郎が守りについていた。が、新政府軍はやすやすと平潟に上陸し、六月二十八日に泉二万石の館を、二十九日に湯長谷一万五千石の館をぬいた。平藩は湯長谷から押寄せた新政府軍を二度までも撃退、意気はおおいに上がっていると聞くが、新政府の兵は、続々と平潟に上陸しているという。
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平潟港
絶景の名勝地で、東に薬師堂、西に八幡神社が相向い、湾内は波静かで、まるで鏡の様に奇岩や草木を映し出しています。またこのあたりはアワビ・ウニの産地で、新鮮な魚と共に観光客の舌鼓を打たせています。小名の岬は東北に曲線を画いていて海岸を抱いています。(北茨城観光リーフレット)

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