カテゴリ:喜多方市( 10 )

2016.11/04(SUN)

塚越冨五郎墓 喜多方市高郷町上郷下り
小栗上野介家臣




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戦死之墓
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写真;墓碑側面、2016.12/04

塚越冨五郎墓
「戊辰掃苔録」竹さんのサイトを見てお参りに行く。墓碑は経年劣化が進み、判読出来たのは表面の「戦死之墓」と側面の「上州館林藩士」と刻まれた文字のみで、他は読めず。慰霊碑(↓リンク)が喜多方市高郷町上郷字一竿にあって、2年を経て墓碑にめぐり逢えた。親しかった知人とのそれと同じ懐かしさがある

塚越冨五郎慰霊碑(一竿墓地)(2014.11/06)

※ 墓地附近の風景
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佐藤銀十郎墓(2014.04/19)



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2015.08/07(FRI)

長岡藩四人墓 喜多方市高郷町上郷勝負沢甲
大谷古墳公園




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写真;2015.08/06

慶応四年(1868)九月二日、陣ケ峯峠で戦死した長岡藩四人の墓である
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大谷古墳公園
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以下、現地の案内板から
   伝
大谷古墳公園
 大谷部落の歴史は古く、弥生時代後期には、かなり栄えていたことが周辺から出土された土器等から伺われる。貞和二年(一三四六)慶徳村より物江弥太郎信連が大谷小森山に館を築き、中興されたものであり、会津藩政時代は越後裏街道として廻米や物資運送の拠点として繁栄した
また、戊辰戦争の折、会津藩に応援した長岡藩士は陣ケ峯で西軍との激戦で戦死し、村人の温情により、この地に埋葬されている
近年、生活環境改善により、水が清涼化され、源氏蛍が群生し、墓周辺は幻想的な美しさに輝いている
 この度、永い歴史ある共同墓地の周辺を再整備、大谷古墳公園として造営し、先人のご苦労に感謝しながら祖先の霊を慰めると共に、恒久なる子孫の繁栄を祈念するものである
     平成十三年八月 大谷区
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さて、今日の昼食だが、山都
そば伝承館 で「盛り蕎麦」・八百円也
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2014.11/06(THU)

塚越冨五郎慰霊碑 喜多方市高郷町上郷字一竿
一竿墓地(ひとさおぼち)




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写真;2014.11/05
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表に
塚越冨五郎慰霊碑

裏に
 冨五郎は幕末の勘定奉行小栗上野介所領群馬県倉渕村権田の産、上野介が権田村に隠棲後西軍のため無実の罪で斬首に処せらるるや上野介夫人母堂らの護衛隊員として信州、越後、会津鶴ヶ城へ辿り着き、戊辰戦乱中朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に属し西軍と戦い、慶応四年九月一日この地に於て敵弾に斃る。齢二十三歳、戒名釼越冨清居士
 小板橋良平氏の研究と地元の協力により此の地に斃れしこと□□百二十年に判明し、石に勒し慰霊するものなり

左に
 平成元年十一月五日
群馬県群馬郡倉渕村
小栗上野介顕彰会
東善寺

右に
建立 遺族塚越幸枝
発起施工 蓮新次郎
東善寺二十世村上照賢書
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以下、現地の案内板から

小栗上野介家臣 塚越冨五郎終焉の地

 冨五郎は小栗家所領権田村(群馬県倉渕村権田)の農家の産、上野介が権田に隠棲後家臣として加えられた。主君上野介は幕府の要職を歴任、幕政の改革に偉大な業績を残し、権田村に隠棲したが西軍は無実の罪を以てこれを追捕し斬首に処した。冨五郎は上野介夫人道子らの権田村脱出にあたりその護衛隊員として信州、越後、会津鶴ヶ城へと千辛万苦の果て辿り着き、戊辰戦乱中朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に属して各地に転戦、慶応四年九月一日高郷村で斃る。齢二十三歳、法名釼越冨清居士、護衛隊諸士の義氣凛然、千載に伝うべきものあり。泉下の冨五郎の霊よ、以て瞑すべし
 昭和六十三年十月末日
     群馬県群馬郡倉渕村 小栗上野介顕彰会
               東   善   寺
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塚越冨五郎墓(2016.12/04)
佐藤銀十郎墓(2014.04/19)



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2014.11/06(THU)

日向代々之墓 喜多方市字馬場2459・満福寺
日向内記




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写真;2014.11/05
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ひなたないき
日向内記 文政 9年(1826) -明治18年(1885)
幕末の会津藩士。白虎隊士中二番隊の隊長として知られる

概要

会津若松城下に生まれる。日向家は家禄七百石の上級藩士で内記は藩の軍制改革前は家老附組頭、その後砲兵隊頭となった
・1868年 3月、朱雀士中二番隊頭となる
・    4月18日には白虎士中二番隊頭に任命された
白虎隊は予備部隊として設けられ、士中隊は主君の警護役である。新政府軍が会津国境を越えた8月22日には松平容保に従って滝沢本陣に入った。ここで、戸ノ口原方面(十六橋を会津若松城側に超えたところ)への援軍要請があったため、士中二番隊を率いて行軍し明朝の戦に備えて夜営を命じる。その後、日向は近くの友軍との打ち合わせのため、一人隊を離れるが、敵に遭遇し隊に戻れなくなる。赤井谷地の湿原で道に迷い、敵の銃弾が頬をかすめ肉が飛び散り、やっとの思いで鶴ヶ城にたどり着く。籠城戦では白虎隊の生存者で構成された、白虎士中合同隊の隊長となっている。維新後は会津の喜多方町(現・喜多方市)に住み雑業に従事した
--引用・要約;「日向内記」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.01/19(日)17:22--
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大鳥圭介が率いた旧幕府軍は、一旦は奪取した宇都宮城の攻防戦に敗れ今市に敗走するが、ここに日向内記参戦の記述があった。以下、復古記・淺田惟季北戦日誌から一部を引用する
慶応 4年(1868)
・ 4月24日
     *
二十四日、朝辰時、我軍大澤驛、小林邑徳次郎驛ヲ發シ、巳ノ半ニ至テ今市驛ニ達ス、會津藩日向内記、原平太夫等百三十人ノ兵ヲ率シ此地ヲ護衛シタリ、彦根藩士ノ首五級ヲ街外ニ梟シタリ、我兵暫時休憩喫飯、終テ午後出發、行軍二里日光嶽ノ半腹鉢石街(原註、俗日光街ト云、)ニ達ス・・・
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このお寺さんの住職の話しでは「日向内記は会津から喜多方に移り住み、ここで没した。当寺に日向代々の墓は有るが、そこに内記が埋葬されたかどうかの記録は見つかっていない」と

淺田惟季北戰日誌ニ云(2013.11/20)



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2014.11/05(WED)

村川源之助の墓 喜多方市字馬場2459・満福寺




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写真;2014.11/05



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以下、現地の墓碑から

村川源之助の墓
 長州藩士村川源之助は明治元年戊辰の役に越後口から小荒井に進入した西軍の一人で、九月十一日の小田付の激戦で戦死を遂げた。享年十八才
前ノ原墓地に埋葬されてあったが、この度墓地移転にあたり本寺境内に改葬し冥福を祈るものである
  昭和五十八年十二月
     会北史談会
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村川源之助義光 十津川郷士隊/御親兵/明治元年九月十一日岩代荒井村で戦死/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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満福寺
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2014.04/20(SUN)

中根米七墓 喜多方市熊倉町・杉の下墓地




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中根米七
 1820 -1878
 会津藩士
 鳥羽・伏見の戦い、会津戦争を経て越後高田藩で謹慎
明治 9年
・思案橋事件に連座、逃走して京都の実弟、又八のもとに潜伏
 耶麻郡熊倉村(福島県喜多方市熊倉町)杉ノ下墓地で自刃。墓は同所
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2014.04/20(SUN)

瓜生岩子刀自裁縫教授所跡 喜多方市岩月町・長福寺




長福寺(2014.04/19)
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以下、碑の裏面から

社会福祉の先覚者瓜生岩子刀自が明治十二年から二十年迄の九年間、この寺に裁縫教授所を開き、貧しい家の児らを養育し、また近隣農村子女の教育を行った。
後年この寺を訪れた孫祐次郎が詠める(歌)

 幼き日祖母と住居しこの寺に
 むかしのままに仏ゐませり


  碑文並歌詞版画家齋藤清先生書

     下岩崎瓜生岩子刀自顕彰会役員
     (以下省略)
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2014.04/20(SUN)

佐川官兵衛夫妻の墓 喜多方市岩月町・長福寺




長福寺(2014.04/19)
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以下、佐川官兵衛之墓裏面から

戊辰戦争では鬼官兵衛の勇名を馳せ、斗南藩廃藩後は最愛の妻勝の没したこの寺に閑居したが、明治十年西南の役が起こるや、請われて旧会津藩士を従え警視庁に奉職して九州阿蘇山麓に出撃、七時間に及ぶ激戦に被弾して壮烈なる戦死を遂げる。官兵衛は生前、度々妻、勝の眠るこの地で共に永眠したいと語っており、熊本県黒川村鉢の木墓地より土を移し、今ここに百三十二年の時を経て共に眠る。
     平成十二年三月 岩月町下岩崎
             飯島昭喜建立
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2014.04/19(SAT)

長福寺 喜多方市岩月町大都字前田252




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以下、現地の案内板から

長福寺の由来と逸話

 この寺は、天福元年(一二三三)飯島筑後守開基、密侶看信の開山した飯島山長福寺といいます。
慶長十七年(一六一二)若松徒之町一乗寺の僧良讃が再興して浄土宗となりました。
慶応四年(一八六八)廿四世良得上人が遷化された後無住となっております。本堂・庫裏合わせて四十二坪の大きさでしたが、老朽化が進んだため、昭和五十六年現在の堂宇に再建されました。本尊は阿弥陀如来です。

 この寺には次のような二つの逸話があります。

1 明治元年戊辰戦争終結の後、会津藩士は東京と高田に謹慎させられ、その家族の老幼婦女子は、城下の混乱を避けてこの地方に避難しました。その時この寺もその住まいとして使用されました。戊辰の戦いで勇名を馳せた佐川官兵衛の家族はこの寺に移り住んでおりました。官兵衛は明治十年の西南の役に従軍して、阿蘇山中で壮烈な戦死をとげましたが、本籍地は「大都村」となっております。この寺を本籍地にしたのかもしれません。
佐川官兵衛夫妻の墓(2014.04/20)

2 社会福祉の先駆者として著名な瓜生岩子が、小田付の幼学校跡が手狭になったため、明治十二年この寺を借り受け、貧困者を住まわせ仕事を世話し、また「裁縫教授所」を開設して近隣の農家の娘に、裁縫や礼儀作法を教え、僧侶の法話などを聞かせ教育しました。同二十年福島に出る迄の八年間、村の人々の協力を得て事業を進めました。岩子が会津だけでなく広くその事業の必要性を痛感し、県都での活躍を計画したのはこの寺であったわけです。
瓜生岩子刀自裁縫教授所跡(2014.04/20)

     下岩崎瓜生岩子刀自顕彰会
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2014.04/19(SAT)

佐藤銀十郎墓 喜多方市熊倉町熊倉字柳内
杉の下墓地




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以下、現地の案内板から

小栗上野介家臣 佐藤銀十郎の墓

 銀十郎は小栗家所領権田村(群馬県倉渕村権田)の農家の産。若くして小栗家江戸屋敷に召され、フランス式調練による陸軍歩兵となる
 主君上野介は幕府の要職を歴任。幕政の改革に偉大な業績を残し、権田村に隠棲したが、西軍は無実の罪を以てこれを追補し、斬首に処した
 銀十郎は上野介の夫人道子らの権田脱出にあたり、その護衛隊員として信州、越後、会津鶴ヶ城へと万難千苦の果てに辿り着き、戊辰戦乱中朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に属して各地に転戦。明治元年九月十一日ここ熊倉に斃る齢二十一歳。戒名劔佐救清居士、護衛隊諸士の義氣凛然、千載に伝うべきものあり。泉下銀十郎の霊よ、以て瞑すべし
     昭和六十三年十月末日
     群馬県群馬郡倉渕村 小栗上野介顕彰会
               東   善   寺
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誠志隊坂隊小栗上野介家来/明治元年九月十一日会津熊倉で戦死
--幕末維新全殉難者名鑑--
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写真;杉の下墓地、2014.04/19
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塚越冨五郎慰霊碑(2014.11/06)



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