カテゴリ:昭和村( 6 )

2015.08/07(FRI)

佐藤音之助之墓 昭和村大字大芦字赤田




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写真;2015.08/06

佐藤音之助
 大芦村赤田の佐藤音之助は、会津藩朱雀寄合三番隊隊の道案内兼斥候となり矢ノ原に出陣した。大芦村と下中津川の境あたりで官軍と遭遇して戦闘となり、撃たれて死した
     *
※ 明治元年九月二十四日、会津藩朱雀士中三番隊ら、早朝に大芦村を攻撃して敵を敗走させるが、高崎・加賀兵の来援を得た敵に反撃されて浅布村へ退却する
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この墓地に、「国定忠治が頼った親分」大芦ノ佐蔵の墓と供養碑があった

以下、碑文

供養碑
大芦ノ佐蔵大舎人九代五十嵐佐蔵
 生誕地 福島県大沼郡昭和村大芦赤田
 没 年 嘉永四年九月十九日没 行年五十三才
     (寛政十年生 一七九八~一八五一)
 戒 名 大圓明智清信士
     妻エワ 享年不明
 菩提寺 昭和村下中津川 曹洞宗正法寺
     記
嘉永二年十一月、国定忠治は駒札を境川ノ安五郎に渡し、国定一家の跡目を安五郎に譲った。そしてお町とお徳を連れて八州役人のいない処、行く先は奥州会津大芦村。そこに隠棲の計画を立てた。そこには忠治と兄弟分の盃を交わした大芦の佐蔵が居る。大芦村では佐蔵が家を開けて待っててくれる。佐蔵はひんぱんに関東へ足を踏み入れた事から、忠治も上州を抜け出て会津西街道へ足を踏み入れれば大船に乗った気持ちになっただろう。忠治と佐蔵の出合は日光ノ円蔵の仲立だった。佐蔵は金曲ノ与一、伊南ノ佐蔵等、会津及びお蔵入の兄弟分の中の兄貴格で、会津一帯では博徒仲間の上位に座って居た事は確かで有る。佐蔵は大舎人九代の子孫であり、法名を大圓明智清信士と墓碑に記されている

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写真;2015.08/06



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2015.08/06(THU)

官軍戦死九人之墓 昭和村大字大芦愛宕山附近




野村新平の墓(2013.06/09)

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写真;2015.08/06
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官軍戦死九人之墓
金沢藩(加賀・百二万三千石・前田氏・外様)
・石黒政之丞 祐之 半田全吉隊附属/斥候役/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/三十六歳/靖国
・小杉半蔵 久   今枝民部家来/戦士/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/四十九歳/現地に墓/靖国
・小原安之丞 道正 伍長/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/三十五歳(三十七歳とも)/現地に葬/靖国
・小島惣左衛門 義信 春日於菟男隊/伍長/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/五十八歳/現地に墓/靖国
・村田弥左衛門 秀也 春日於菟男隊/伍長/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/五十二歳/現地に墓/靖国
・杉江久五郎 一貫 半井善吉隊附属斥候役/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/三十一歳(二十七歳とも)/同村に墓/靖国
高崎藩(上野・八万二千石・大河内氏・譜代)
・岡登嘉藤治 勝益 半隊司令官/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/五十一歳/靖国
・関口長三郎 則秀 卒/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/五十一歳/靖国
・松本喜十郎    卒/明治元年九月二十四日会津大芦村で戦死/五十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
戊辰九月廿四日
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写真;2015.08/06



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2015.08/06(THU)

大山衹神社(大芦下社) 大沼郡昭和村大芦中組




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写真;2015.08/06
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おおやまづみじんじゃ
大山衹神社(大芦下社)
会津戊辰戦争の際、会津軍はここを弾薬庫として使っていた為、西軍の攻撃によって全焼したと云う

野村新平の墓(2013.06/09)
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以下、現地の案内板から

昭和村有形文化財 石段・石鳥居・石燈篭
 大山衹神社の石段は、63段中61段目を除いてすべて一枚石で作られている。石鳥居は神明鳥居型で延亨4年(1747)7月の造立
 石燈篭2基は同型であるが、向って左は天保4年(1833)5月に寄進され、向って右は明治27年(1894)5月にそれぞれ氏子によって造立された
 約60年の時を経て一対となった御神燈である
     平成9年12月1日指定 昭和村教育委員会
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写真;2015.08/06



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2013.06/11(TUE)

會津藩戦死二人之墓 福島県大沼郡昭和村大芦




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平成25年(2013)
・ 6月 9日
 昭和村、「奥会津昭和の森キャンプ場」入口(R401号沿い)
 墓碑前の道を右に行くと佐倉(さぐら)に至る


會津藩戦死二人之墓
 明治元年九月二十四日 
 矢之原戦死 野村新平
 屋敷原戦死 角田五三郎

野村新平の墓(2013.06/09)

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※ 墓碑右面(カーブミラーのある方が墓碑正面)
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写真;南会津、会津藩戦死二人之墓・昭和村大芦 2013.06/09

野村新平  二百石/朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭/明治元年九月二十四日会津大芦村で死/二十五歳
角田五三郎 助次郎伜/朱雀士中三番小野田隊/明治元年九月二十四日会津大芦で戦死/二十三歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2013.06/09(SUN)

「信州高遠石工作品」石鳥居
福島県昭和村大芦か?




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平成25年(2013)
・ 6月 9日

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以下、現地の案内板から

         しんしゅうたかとお         いしとりい
昭和村有形文化財「信州高遠石工作品」石鳥居

 元禄から明治初頭にかけて全国的に出稼ぎ石工として移動していた高遠藩石工の作品である。五十嵐徳右衛門の寄進により、明和8年(1771)7月に造立された。
 信州高遠藩笠原村 赤羽彦五良の施工。

  平成 9年12月 1日指定 昭和村教育委員会

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2013.06/09(SUN)

野村新平の墓 福島県昭和村矢ノ原湿原




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平成25年(2013)
・ 6月 9日
 田島から昭和村に行く(R400)

 明治元年(1868)
・ 9月22日
 会津藩は降伏したが南会津では未だ戦闘が続いていた
会津藩降伏後の戦い(2012.12/13)

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※ 写真;矢ノ原湿原(2013.06/09)

以下、現地の案内板から

戊辰の役古戦場
野村新平の墓

 明治元年(一八六八)旧八月二十三日、会津戊辰戦争で官軍が会津になだれ込んだ日である。
 そして九月十日頃から、御親藩を始め加賀藩を主に各藩から約六百人の官軍が繰り込んで野尻郷各村(現昭和村) へ宿陣し警備についた。
 九月二十四日朝八時頃、田島方面から進撃してきた会津軍の奇襲をうけ、官軍は敗走しこの道を下中津川方面へ退却した。
 これを追って会津軍朱雀三番寄合組隊、鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃して来た時、軍を立て直した官軍が逆襲し合戦となり会津軍は少数不利となり、大芦へ退却する。この時の戦で会津軍、野村新平ここで戦死する。星霜流れ一三〇年を経た。
  会津藩士 野村新平
    朱雀三番寄合組隊鈴木隊半隊頭
    町奉行、二百石、二十五歳
    明治元年旧九月二十四日大芦村矢ノ原にて戦死
    平成十二年 五月

野村新平  二百石/朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭/明治元年九月二十四日会津大芦村で死/二十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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また、「奥会津昭和の森キャンプ場」入口(R401号沿い)に墓碑がある
 正面に     會津藩戦死二人之墓
 向かって右面に 明治元年九月二十四日
 〃   左〃  矢之原戦死 野村新平
         屋敷原戦死 角田五三郎

 会津軍は西軍の銃火に圧倒されて大芦村に退却したが、なお矢ノ原方面の山中から西軍の射撃をうけ、夕方には東方の浅布村をめざし退却した。そして大芦村の出口、屋敷原に留まって殿軍をつとめていた朱雀三番士中隊々士角田五三郎(つのだごさぶろう、23歳)は重傷を負い、同僚に介錯され死亡した
(参考文献;「戊辰戦争全史(下)」菊地明/伊東成郎編)
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會津藩戦死二人之墓(2013.06/11)



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