カテゴリ:>水戸市( 31 )

2017.06/05(MON)

増子幸八郎墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地




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彰考館総裁 滄洲増子幸八郎淑時
 彰考館総裁  元文五年(1740)~寛延元年(1748)
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彰考館跡(2014.03/09)



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2017.06/05(MON)

高橋又一郎墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地




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贈正五位彰考館総裁担室 高橋又一郎広備
 彰考館総裁  文化四年(1807)~文政三年(1820)

高橋坦室 たかはしたんしつ
・明和 8年(1771) -文政 6年 5月21日(1823)
水戸藩の儒学者/彰考館総裁/名は広備字は子大、通称は又一郎/坦室は号
・生涯
長久保赤水に学び、文に優れ、藤田幽谷とともに両才子と称せられた。天明六年(1786)から彰考館に勤め、『大日本史』の編纂に努めた。享和三年(1803)には論賛刪除の議を起こして立原翠軒らと対立した。同年、紀伝再訂頭取となり、文化四年(1807)に彰考館総裁となった。翌文化五年(1808)、御用調役となって政務に参与したが、人の欠点・不正を面折することから人望を失い、不遇のうちに病没した
--引用・要約;「高橋坦室」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.06/28(土)06;39--
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彰考館跡(2014.03/09)



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2017.05/23(TUE)

武田耕雲斎の墓 水戸市見川 2-103-1・妙雲寺




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武田耕雲斎 正生
六百石、若年寄/跡部新八正続の子、同正房の養子/文政以来徳川斉昭のため運動してしばしば解職、復帰/文久元年上京/元治元年六月大挙江戸行きに加わり、八月四日下向する松平頼徳に従う/市川三左衛門派の入城拒否で交戦/十一月一日全軍を率い西上に出発、十二月二十日越前で金沢藩に降伏、敦賀に拘禁され、慶応元年二月四日斬/六十二歳/墓は水戸・妙雲寺/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
 耕雲斎は水戸藩譜代の家に生まれ、執政(藩の老中)に挙げられた重臣であった。元治元年(一八六四)藤田小四郎らによる天狗党の挙兵に際し耕雲斎は最初止めたが、反対派と幕府軍のため窮地に陥ると深く同情し、約一千名を率いて京に上り、朝廷に嘆願しようとしたが事成らず
 元治二年(一八六五)敦賀において斬刑に遭い、その生涯を閉じた
--現地の案内標から--

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「魔群の通過」・武田耕雲斎(2014.03/17)



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2017.05/22(MON)

回天館(鰊倉) 水戸市松本町13-33・回天神社




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回天館(鰊倉)
写真;2017.05/17
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・回天館の由来
 この建物は徳川幕府時代の末、世に云う「天狗党ノ変」における越前敦賀の悲劇をつたえ、明治維新の「礎」として後の世に残すため、移築保存されたもので、当時、この建物は北前船の寄港地、敦賀港にあった十六棟のうちの一棟であり鰊倉、鯡倉ともいわれた倉庫である。
 嘉永年間(一八五〇~)イギリス・フランス・アメリカ等世界列強は、東南アジア諸国と清国を植民地化し、あるいは支配下におさめると、その魔手をわが国に延伸し開国通商を強請してきた。
 幕府はこれらの対応に狼狽し、安政ノ大獄によって尊王派・批判勢力を弾圧、桜田事件を誘発し世情は混乱、以後、反幕的思想を内包した尊皇攘夷の嵐が全国にひろがり、その一挙として筑波山義挙、いわゆる天狗党の変がおこった。元治元年甲子ノ年(一八六四)春の事である。
 この年の夏、友軍の榊原勢と共、常陸那珂湊一帯で幕府軍、水戸諸生党軍と激戦を展開するなか、榊原勢の降伏により天狗党勢は戦陣を脱出、十一月一日、尊皇攘夷の悲願を朝廷に訴えるため、武田耕雲斎を総帥とした千余の軍団は常陸大子を出陣した。
 京都にむけて西上の途路、上州下仁田、信州下諏訪で地元幕府軍の迎撃を一蹴し、美濃国から冬期は人も通わぬ山岳路を寒風雪を冒して踏破、敦賀近くの「新保ノ宿」に至った時、寒さと糧食を欠き、幕府軍の重囲に進軍まヽならず、遂に幕府軍先鋒隊加賀藩に降伏した。元治元年十二月の事である。
 天狗党降伏勢約八百名は敦賀の三ツの寺に分散収容されたが、加賀藩の処遇は手厚く、この年が明けた元治二年(慶応元年)の正月は、心やすらぐ日々であった。
 ところが程なくして、天狗党勢を追討する幕府軍総督田沼意尊が敦賀に来着すると、その扱いは激変した。まず敦賀港にあった十六棟の鰊倉を、にわか仕立ての牢獄とし、一棟あたり約五十名を幽閉し、言語に絶する扱いのあげく、元治二年(慶応元年)二月四日からこの二月中、五度にわたり三百五十二名をこの倉から引きずり出し斬首という、わが国未曾有と云われる斬刑に処したのである。
 当時、幕府側の開明派勝海舟や、尊攘派の巨魁西郷隆盛は「これによって幕府自身の命運がつきた」と評した通り、この虐殺から三年後、徳川十五代将軍慶喜公の幕府は倒れ、明治維新の夜明けを迎えたのである。
 この天狗党ノ変の悲劇から百年後の昭和三十三年、敦賀港の整備事業によって、鰊倉は解体処分される事になった。水戸の先人たちは天狗党ゆかりの建物として、その消亡を惜しみ、その一棟を水戸常磐神社境内に移築「回天館」と名付けた。館内には天狗党ゆかりの資料等を展示、来館者に深い感銘を与えてきたが、昭和時代の末、老朽して解体の情況に至った。
 これを知った水戸史学研鑽会吉田塾を主体とした市民有志と、回天神社により「回天館移築保存会」を組織、浄財を募り水戸市の補助を得て、先人の遺業を継承し、明治維新の礎として、姉妹都市水戸、敦賀両市盟約の原点であり、両市の友好親善の絆として平成元年秋、現在地へ移築完成をみたのである。
 現在、回天館は回天神社資料館として、天狗党関連資料ばかりでなく、当神社御祭神に係わる資料等を展示している。
ちなみに、その館名の由来は、幕末、水戸藩の儒学者藤田東湖の「回天詩史」書名から採り「衰えた勢いをもり返し、もとの正しさに引き戻す」意。回天神社名も同意である。
・回天館
写真;資料展示がなされた館内・2017.05/17
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「天狗党和田嶺合戦殉難烈士慰霊祭記念」(※ 写真中央)
水戸宗教法人・回天神社創建二十周年記念事業委員会会長石島弘建之
 献詠
 下諏訪の秋をはろらに草莽の かなしきみたま祭る旅かも
     橋本利重

間口三間半(約七米)奥行十二間(約二十四米)。館内の間柱のうち約三分ノ一と、天井部分の梁等は補強されて敦賀時代の材が使用され、中央部の柱とこれを支える土台石、脇入口の軒瓦も当時の材である。
・回天神社御祭神
 昭和八年、安政の大獄から戊辰戦争に至る、水戸藩及び宍戸藩士民一七八五名を主体とした尊王殉難者を刻名した忠魂塔が築造され、これを基に御祭神と定めて、昭和四十四年回天神社が創設された。
以後、神社創建二十周年を記念して、合祀にもれていた殉難者を三次に亘り合祀、現在一八六五柱を御祭神と定めている。
・祭事
  奉季例祭  五月第三日曜日
  秋季大祭  十月十四日(大政奉還日)
--以上、現地の案内板から--
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回天神社履歴/一号墓所/「殉難」碑(2017.05/22)



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2017.05/22(MON)

回天神社履歴/一号墓所/「殉難」碑 水戸市松本町13-33・回天神社




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回天神社履歴
 明治二年、元治元年甲子ノ変(1864、天狗党ノ変)において関東各藩に分拘され刑死、幽・獄死した殉難者の遺骸を収容し、常磐共有墓地の一角現在の回天神社境内に合葬した。これが現在に至る回天神社の創始である
 明治二十二年、それまで各家ごとに墓参がなされていたが、これを春秋彼岸の中ノ日を合同祭祀の日となして定着させ、その要として「殉難」碑を建立
 大正三年四月、「元治甲子殉難志士五十年祭を斎行。この五十年祭を期して一号墓所・二号墓所が建墓された(一号墓碑百六基、二号墓碑二百六十五基)。この墓所は関東各藩に分拘された榊原勢を主体とした霊墓であり、越前敦賀で殉難された武田西上勢は含まれていない
 昭和八年、安政の大獄から戊辰戦争、その他の事変で殉難された水戸藩・宍戸藩主体の士民千七百八十五名を銅版に刻名した忠魂塔が築造され、その副碑として忠魂塔碑を建立。篆額「流芳萬古」
 昭和二十九年、隣接する常磐共有墓地と共、一号、二号墓所は「水戸殉難志士ノ墓」として水戸市指定文化財となる
 昭和四十四年、明治維新から百年となり全国各地で記念事業が実施されるなか、三木之次の子孫三木啓次郎氏、松下電器会長松下幸之助氏等の提唱により合同慰霊の斎庭に御本殿・拝殿が新造されて回天神社が創建された。社号を伊勢神宮より賜わり、大政奉還である十月十四日に御鎮座大祭が斎行された(以降この日が秋期大祭日となる)
  ・社紋   十四弁菊花
  ・御祭神  銅版刻名殉難者
  ・奥社   忠魂塔
 昭和六十三年秋、天狗党武田西上勢八百余が幽閉された回天館(鰊倉)が、常磐神社にあって老朽し解体寸前、これを惜しんだ市民有志により現在地に復元移築された
 平成二年、神社創建二十周年を記念して合祀に漏れている殉難者の合祀を開始し、以後七十九柱を合祀、氏名不詳の殉難者について「鎮魂碑」を建立した
・・・
--引用・要約;神社発行のパンフレットから--
     *
一号墓所
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     *
 「殉難」碑は一号墓所正面に現存するが、その元は神社御本殿の後方、明治期の合同祭祀開始時に建碑されたものと推測する
--引用・要約;神社発行のパンフレットから--
「殉難」碑
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回天館(鰊倉)(2017.05/22)



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2017.05/22(MON)

安積澹泊の墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地




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水戸黄門漫遊記の「格さん」こと
安積澹泊の墓
明暦二年(1656)生~元文二年(1734)歿 享年八十二歳

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安積澹泊 あさかたんぱく
 大日本史の編纂に顕著な功績のあった安積覚は号を澹泊と称した。若い頃から学問を好み 父の願いで朱舜水の弟子となり儒学を学んだ。その後義公光圀から認められ彰考館の編修となり、やがて佐々介三郎などと並んで総裁に進んだ。博覧強記で史学に通じた澹泊は 義公の没後も後進を指導し八十二歳で没するまで五十五年の間修史に尽力した。
彼は大日本史の論賛や烈祖成績その他著書も多く、又新井白石や室鳩巣などとも史学を論じた。
     水戸市教育委員会
--現地の案内板から--
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常磐共有墓地



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2017.05/21(SUN)

川辺佐次衛門墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地
坂下門事件(文久二年一月十五日)




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写真;2017.05/17
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川辺佐次衛門 元善
水戸藩士/佐治元重の子/小普請組/文久元年老中安藤信正襲撃計画に加わったが、当日一月十五日期に遅れ、長州藩邸に桂小五郎を訪ねて自刃/三十一歳/東京荒川区・回向院と水戸常磐墓地に墓/贈従五位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常磐共有墓地



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2017.05/21(SUN)

杉山弥一郎墓・杉山秀太郎墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地
桜田門外事件(万延元年三月三日)/天狗党その二(慶応元年以降)




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写真;2017.05/17
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杉山弥一郎 当人
水戸藩士/鉄砲師孫十郎の子/安政六年勅書問題で運動/万延元年三月三日桜田門で傷、熊本藩邸に自訴/文久元年七月二十六日伝馬町獄で斬/三十八歳/東京荒川区・回向院と水戸・神崎寺に墓/贈正五位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
杉山秀太郎 当直
藩鉄砲師弥一郎の長男/元治元年榊原新左衛門に属し転戦/慶応元年二月十六日敦賀で斬/十九歳/敦賀松原に墓/贈従五位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常磐共有墓地



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2017.05/21(SUN)

田丸稲之衛門墓(碑) 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地
天狗党その二(慶応元年以降)




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写真;2017.05/17
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田丸稲之衛門 直允
山国共綿の子で田丸直諒の養子、山国喜八郎の弟/二百石、馬廻から町奉行/元治元年三月筑波勢の将に迎えられ転戦/十一月西上/十二月金沢藩に降伏、慶応元年二月四日斬/六十一歳/墓は水戸常磐墓地/贈従四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常磐共有墓地



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2017.05/21(SUN)

原市之進墓 水戸市松本町13-34・常磐共有墓地




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写真;2017.05/17
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原市之進 忠成
水戸藩士で一橋家臣/百五十石/十左衛門雅言の二男/従兄藤田東湖に学び、文久元年老中安藤信正襲撃を企むなど尊攘派/元治元年一橋慶喜に従って上京、一橋家用人、目付として活躍/慶応三年八月十四日千本旧二条、千本屋敷で鈴木豊太郎らに殺害された/三十八歳/水戸常磐墓地に墓/贈従四位
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常磐共有墓地



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