カテゴリ:西郷(にしごう)村( 9 )

2015.10/02(FRI)

那須権現一の鳥居跡 西郷村小田倉




三斗小屋宿(2012.09/05)

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以下、現地の案内板から

那須権現一の鳥居跡
 那須権現は那須岳の主峰茶臼岳に鎮座し、山岳信仰の対象として広く崇拝されていた。上新田では大正末期ころまで毎年欠かさず青竹の大竿に一千枚の幣を着けた大梵天を那須権現に奉納し、農作物の収穫と息災を祈るお山登りという慣例があった。「一の鳥居」は、このお山登りの入口で神聖な場所とされていた
 お山登りは山かけとも言い地域の若者の試練でもあり、これが済むと村人夫などに出ても一人前として扱われた。茶臼岳の霊場は、那須湯元温泉神社の湯元口から参拝する「高湯山」と三斗小屋宿の表口から参拝する「白湯山」の二つの名前で呼ばれ、ここには高湯山・白湯山のいずれの石碑も存在する
 平成二十三年三月十一日の東日本大震災により鳥居が倒壊したため、鳥居の柱部分を修繕し、額を別に置いた
     西郷村教育委員会
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2015.07/11(SAT)

戦死供養塔 西郷村熊倉字道場久保




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写真;2015.07/11
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戦死供養塔
会津藩八名若しくは東軍(氏名人数不詳)の二通りの説があるという
供養塔右側に、慶応四年六月十二日
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写真;2015.07/11



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2015.06/20(SAT)

二十二)西白河郡西郷村高助班宗寺に二基 西郷村高助1
大河原彌太郎墓、斉藤孫吉墓




--以下、「戊辰白河口戦争記(佐久間律堂著)」第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔から--
・・・
 二二)西白河郡西郷村高助班宗寺 二基(拠白河町安田良三氏調査)
その一
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 大圓道忍信士
右側
 明治元年辰六月十二日
左側
 丹羽左京大夫藩大河原彌太郎
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 その二
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 實参道忍信士
右側
 明治元辰年六月十二日
左側
 丹羽左京大夫藩斉藤孫吉

斎藤孫吉
二本松藩/二人扶持切米二両二分、足軽/青山伊右衛門組/明治元年六月十二日白河口追原で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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班宗寺
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写真;2015.06/20



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2014.07/10(THU)

西郷村 福島県中通り




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写真;〈羽太地区にあった小高い丘上の小さな社〉2014.07/08
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にしごうむら
西郷村
福島県中通り南部にある西白河郡の村である
 面積 ;192.3k㎡
 人口 ;19,749人( 7月 1日現在)

沿革

慶応 4年(1868) 7月28日 戊辰戦争により西郷の村々の民家約70%が焼失する
明治22年(1889) 4月   米・長坂・柏野・羽太・熊倉・鶴生・真船・小田倉が合併し西郷村となる
--西郷村Hp--



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2014.07/09(WED)

齋藤久太郎墓 西郷村大字羽太字狸屋敷・大龍寺




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写真;2014.07/08
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齋藤久太郎墓
会津藩/鉄之助伜/免許/新練土屋隊/明治元年六月十二日磐城白河古天神山で戦死/二十歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



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2014.07/08(TUE)

森要蔵 西郷村大字羽太字狸屋敷・大龍寺




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以下、現地の案内板から

戦死墓(森要蔵の墓)
 戊辰戦争白河口の戦いは、慶応四年(一八六八)閏四月中旬から七月末まで戦闘が繰り返されたが、中でも七月一日には、下羽太地区においては壮絶な「戸の内の戦い」が繰り広げられた。
 この地で戦った森要蔵(一八一〇~一八六八)は肥後熊本の出身で、北辰一刀流の千葉周作に剣を学び、「千葉四天王」の一人に数えられる剣豪。
 会津藩ゆかりの上総飯野藩主保科正益(まさあり)に招かれ剣術指南役になったが、戊辰戦争が始まると脱藩して会津藩兵を率い、日の丸の軍扇を翻して白河口の戦いに参戦した。戸の内の戦いで息子虎尾ほか門弟三名とともに壮絶な戦死を遂げ、この地に埋葬された。
 羽鳥街道に面する西郷の村々は戦火に巻きこまれ、全戸数の七割以上が焼失した。

     平成二四年度
     「桜プロジェクト」
     福島県県南地方振興局

戊辰役戦死墓(2014.07/08)
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森要蔵肖像『富津市史(史料集二)』所収


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第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
・・・
七月朔日、羽太方面では、西軍は東軍の背後に出で上羽太・下羽太・関屋の民家に火を放って東軍の根拠地を奪った
この日の戦に有名な飯野藩森要蔵父子の義戦談が伝えられている。上総飯野藩は会津藩と同系の藩で、要蔵は飯野藩保科弾正の臣会て撃剣を千葉周作に学び斯の道に達す。江戸に道場を開き門弟千余人に及んでいた。会藩の急を救わんと七十二の老齢を以て、その子虎尾十六歳と共に会津に入る。此の日飯藩三十六人、土州八番隊と下羽太に戦う。要蔵老齢身を挺して進み刀を揮って奮撃し流血淋漓敵三人を屠って倒る。虎尾奮戦したが狙撃せられて倒れた。武士の殉義称すべし。西軍の隊中に川久保南皚なるものがあった。曾て江戸に在りて屡々要蔵と剣を試む、戊辰の役土藩司令官として此の日の草に会す、その屍の要蔵父子であることを知った。また西軍の隊中に要蔵の門弟があったので、下羽太大龍寺に厚く葬った
--引用;佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)--

戊辰白河口戦争記(2013.04/03)



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2014.07/08(TUE)

戊辰役戦死墓 西郷村大字羽太字狸屋敷・大龍寺
白河口羽太村の戦いで戦死した、会津藩十五名と森要蔵ら飯野藩五名の合葬墓




平成26年(2014)
・07月08日
 西郷村羽太で戦死した父子の墓(合葬墓)を参詣。子は剣豪の父を普段から「御爺さん」と呼んでいたと云う。五十九歳の父は孫のような次男を、どんだけ可愛いい思いでいただろうかと..

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写真;2014.07/08
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以下、現地の案内板から

戊辰役戦死墓
慶応四年辰年七月一日
戊辰の役下羽太戸の内地内において合戦となり、保科旧臣北辰一刀流千葉周作高弟森要蔵外会津藩士多数戦死、ここに埋葬した供養塔であります。
  保科藩 森 要蔵 五十九歳
   子息 森 虎尾  十六歳
          大龍寺

※ 墓碑表下部に「会津十五人、保科五人」とあった
※ 墓碑の後には「平成二十五年十一月二十五日 記念植樹 富津市/西郷村 商工会」と書かれた木柱が立てられ、サクラ(かな?)が植えられていた
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もり ようぞう
森 要蔵
文化 7年(1810) -慶応 4年(1868) 7月 1日
江戸時代後期から幕末の武士、剣術家。諱は景鎮(かげちか)。号は一貫斎

生涯

熊本藩士・森喜右衛門の六男。江戸芝白金台の熊本藩江戸屋敷に生まれる。北辰一刀流開祖千葉周作の道場・玄武館に入門し、稲垣定之助、庄司弁吉、塚田孔平と共に「玄武館四天王」と謳われた。その後江戸麻布永坂に道場を開き、多くの門弟を抱え、名声を轟かせた。要蔵の稽古は厳しく、指導する姿は雷を纏った龍のようであったという
・天保10年(1839) 常陸土浦藩の剣術指南役となる
・天保12年(1841) 上総飯野藩に中小姓・剣術指南役として登用され、「保科に過ぎたるもの」とまで呼ばれた
・飯野藩に登用されたことで、戊辰戦争では藩主の縁戚である会津藩に味方することとなり、要蔵は藩主の命令で、次男の寅雄、高弟の勝俣乙吉郎と共に会津へと派遣された。要蔵・寅雄親子は下羽太で官軍と激突、奮戦したが、銃撃を浴び共に戦死した。享年59。寅雄は16歳であった
要蔵と寅雄は年が43歳離れており、寅雄は要蔵を「御爺さん」と呼んでいた。そのため、彼らと対峙した官軍は、要蔵親子を祖父と孫であると勘違いしていたという。官軍には、要蔵の弟子である川久保南皚が従軍しており、要蔵親子の遺骸を大龍寺に葬ったという
--引用・要約;「森要蔵」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.04/17(木)08:16--

※ 森要蔵と行動をを共にした飯野藩士は28名(38名とも)であったと云われる。彼らは良く戦い、会津籠城戦を経て開城後、猪苗代に幽閉されたのは数名であったと云う
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飯野藩
上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる

照姫稲荷(2013.04/26)

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大龍寺
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※ 大龍寺に祀られた飯野藩戦死者

・小林虎之助  明治元年七月一日磐城白河羽太村で戦死/西郷村・大竜寺に墓
・多胡宗三郎  明治元年七月一日磐城白河羽太村で戦死/西郷村・大竜寺に墓
・花沢金八郎  森要蔵の剣の弟子/明治元年七月一日磐城白河羽太村で戦死/西郷村・大竜寺に墓
・森要蔵    千葉周作門/江戸麻布永坂に道場、門弟千余人の剣客/明治元年会津藩兵を率い、七月一日磐城白河西北郊羽太村で次男寅雄とともに戦死/五十九歳/西郷村・大竜寺に墓
・森寅雄    虎尾とも/要蔵の次男/明治元年七月一日父とともに磐城白河羽太村で戦死/十六歳/西郷村・大竜寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

※ 羽太戸の内戦、会津藩戦死者

・北原軍太夫  五百石/朱雀士中三番上田隊小隊頭/明治元年七月一日磐城白河羽太先で戦死/三十三歳
・下川玄順   玄純とも/新練土屋隊世話方/領内成光寺修験/明治元年七月一日磐城白河戸ノ内で傷/九月十四日若松城内で死
・名倉又助   横山主税家来/明治元年七月一日磐城白河下羽太で戦死/二十六歳
・成瀬善次郎  鉄之助弟/朱雀士中三番上田隊/明治元年七月一日磐城白河羽太で戦死/二十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

以下、不明



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2014.01/30(THU)

故山川将軍乗馬之碑 福島県西白河郡西郷村大字米(米山下附近?)




「戦死供養塚」と同じところにある

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写真;2014.01/30
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以下、現地の案内板から

故山川将軍乗馬之碑

「故山川将軍乗馬之碑」の山川将軍とは、会津藩家老の山川浩である。山川は鳥羽・伏見の戦いからはじまる戊辰戦争を歴戦。会津籠城戦では藩の全軍を総括し、戦後処理も担当した。
 明治維新後は、白河金勝寺の桜山にあった白河城主松平定信の別荘跡に別邸をつくり、「千里」という愛馬で余暇を楽しんだ記録がある。このあたりは馬の産地だったため、近郊の米村で乗馬を調達したものと考えられる。

平成二十四年度/「桜プロジェクト」/福島県県南地方振興局
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山川大蔵(浩)(2013.04/01)



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2014.01/30(THU)

戦死供養塚 福島県西白河郡西郷村大字米(米山下附近?)
東軍の戦死者四十三名の供養塚




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平成26年(2014)
・01月30日
 山沿いの道を西郷に向かうが、今年は道路に雪も無くて暖か。西郷村米に着いて「戦死供養塚」を探すが見つから無い。諦めて白河に向かったその途中で偶然に見つけた。米中心部より随分東側のようだ ^^;)
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以下、現地の案内板から

戦死供養塚

 戊辰戦争が奥羽の関門・白河口におよんだ当時(一八六八年)、会津に通じる羽鳥街道の出入口に当たる米(よね)村には、会津軍の屯所がおかれここから出陣を繰り返した。約百日間の白河口の戦いの中で、最も激戦で甚大な死傷者を出した五月一日をはじめとする、この辺りでの戦闘の犠牲者を住民が埋葬し弔ったものと思われる。
「戦死供養塚」の台石に「四十三人」、左側面に「明治元戊辰年五月」と刻まれている。福島県の県南地方にはこの他にもこのような住民の手による供養塚が数多く残されている。

平成二十四年度/「桜プロジェクト」/福島県県南地方振興局
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写真;2014.01/30
第九章 五月朔日の大激戦(2013.01/21)



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