カテゴリ:>上三依( 7 )

2017.05/07(SUN)


会津西街道から分岐・塩原への道 日光市上三依
上三依水生植物園附近




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会津西街道から分岐・塩原への道
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 沢沿いを上流へと進み、尾頭峠を経て塩原に達する(写真の沢手前に"文政六銘石造道祖神"がある)
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2017.05/06(SAT)

文政六銘石造道祖神 日光市上三依
上三依水生植物園附近




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文政六銘石造道祖神
   所有者 (大字上三依)
   寸 法
     総丈    六〇cm
     女子像   二三cm
     男根長さ  一六cm
     蓮台最大幅 三六cm
     光背最大幅 二七cm
 道祖神は、路傍・村境にあって、邪悪のカミの村への侵入をふせぎとめる「ふさぎ」が祖型である。その起りは、奈良時代に求められ、全国的な民俗信仰の一態様である
 この神体は、娘が男根を胸にいだいた姿をいやみなく陽刻したものであって、この姿態の道祖神は栃木県内では全く他に類例をみない。のみならず、群馬県や長野県などに散見できる男女抱擁像などに対比できる全国的にも珍しく貴重なものである
 文政年間の本町では、天明期以来の連続的な飢饉を経て、流通商品の輸送力低下の問題をかかえた問屋を中心とする旧来の運輸体系に、いっそう苦悩の色が深くなってくる。相対的に全国的な身分制のゆるぎ政情不安の中で、経済的に優位に立つ商人層と結んだ仲附が、尾頭道など能うる限りの方向に人馬輸送を行い、その活況が極に達した時期である
 こうした時代背景の中で、上三依村の活況や尾頭峠越え塩原郷との盛んな交流があったこと、さらには、六地蔵など他の石像の建立と併せて幅広い信仰の世界が存在したことを裏づける貴重な一資料といえる
 このように、「文政六年」と本体の造立年代が判然としていることが、本町史上の背景的なことがらと併せて、本体の資料的価値を高からしめているといえる
     昭和六十一年九月 日光市教育委員会
--現地の案内板から--
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※ 文政六年(1823)の出来事;ドイツ人シーボルトがオランダ商館員として来日



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2016.02/19(FRI)

上三依から塩原へ続く峠道 日光市上三依




尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚(2015.09/08)
上三依の野仏群(2012.05/24)
四、塩原駐留(凌霜隊戦記)(2014.12/29)
会津西街道【リンク・一覧】(2016.02/17)
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上三依から塩原へ続く峠道

 尾頭峠(1142メートル)は、会津西街道上三依から会津中街道矢板へ通じる尾頭道の峠である。上三依水生植物園内の熊野堂神社裏手から道祖神前を通り、沢に沿って上流に進むと、尾頭トンネル日光側入口前の駐車場下に出る。トンネル入口左側の旧道登り口から道なりに進むと約二時間で尾頭峠頂上の切通しへ着く。そこから下ると小滝、塩原、関谷を経由して会津中街道へ出る・・・
--引用・要約;『会津西街道の歴史を歩く』佐藤権司著/随想舎--
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2015.09/08(TUE)

尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚 会津西街道・上三依




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写真;2012.05/24
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以下、現地の案内板から

記念物(史跡)
尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚
   所有者 藤原町大字大面 阿久津直喜氏
 この一里塚は、街道をはさんで左右に二基完全に残存する得難い史跡である
 この街道は会津西街道の脇道で、尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。天和三年(一六八三)の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に塩原経由氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果した
 今日再び観光道路として開発の計画がすすめられている
 藤原町文化財史跡指定 昭和四十八年二月十六日
     日光市教育委員会
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慶応 4年(1868)八月二十三日
 郡上青山藩凌霜隊は会津藩隊らと共に塩原に駐留していたが、会津危急の報を受け塩原を焼払って引き揚げ、尾頭峠を越えて至ると翌二十四日、ここ上三依も焼払って横川、会津へと向かった

四、塩原駐留(凌霜隊戦記)(2014.12/29)

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写真;2012.05/24



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2014.05/03(SAT)

熊野堂親抱きの松(上三依)跡
会津西街道




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写真;熊野堂親抱きの松のあったのはこの辺りだったようだ
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以下、現地の案内板から

熊野堂親抱きの松(上三依)跡

 今を去る約五百年前、戦国時代の頃、戦いに出て行方不明となった夫を訪ねて旅をしていた女性がありました。長い旅の途中上三依の里、熊野堂でついに疲れ果てて、熊野宮にしばらく身を寄せ疲れをいやしておりましたが、悲しいことにそれもつかの間、ほどなく病死してしまいました。
 その女性には郷里に残した一人の娘があったのです。この娘は夫を訪ねて旅をする母同様に母をさがしもとめて旅をしていたのです。何と悲しい宿命の母娘でしょう。やっと上三依のこの里で、すでに母が亡くなっていたことを知り、悲しみのうちに里人が手厚く葬った墓所を訪ね、塚の上の里人が植えた松の木を母にすがり抱きつくようにして、さめざめと泣き悲しみました。
 深く胸をうたれた里人は墓所の傍らに小屋を建てて与えました。娘はその後悲嘆のうちにも、里人の温かな心尽しに守られながら供養の日々を送っておりましたが、あまりの悲しみにだんだん食も通らず、身を細らせてついに母のあとを追うように死んでしまいました。
 里人は娘の心を思いやり親松の傍らに子松を植えてやりました。
 やがてこの二本の松は年を経るごとにすくすくと伸びて、子松は親松の幹にすがるようにからみつき、いつとはなく里人は子が親に抱きついているのだと話すようになりました。そしてその深い情を思いやり、この頃から、この里には、ひとしお年寄りや親をいたわる気風が高まりました。
 後年、旅の途中この里を訪ねた法師某は「村風淳にして情こもれり」と、村風の良いわけを尋ね、この松の話しを聞き、歌を詠んでいます。
   心なき人に見せばや下野の
     三依の里の親抱きの松

    (注、人によっては三依の里を熊野の里とも伝える)
 また、会津候保科正之も参勤交代の途中横川本陣に泊り、この話を聞き、
   みどり子の親を忘れぬ誠ぞと
     しるしを見せる親抱きの松

と詠んでいます。

     昭和六十一年三月  藤原町
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2012.06/07(THU)

鶴が渕城址 会津西街道・上三依




平成24年(2012)
・ 5月24日
 上三依から野岩線と並んで川沿いを横川方面に向かう途中、何となく左折して橋を渡ると城址である旨の案内板があった。読むと上杉景勝とか徳川家康とか、意外なとこに意外な人が
 今回、戊辰戦争との関係なし

※ 写真は案内板に記載がある「川岸の角馬出」か?
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記念物(遺跡) 鶴が渕城址
 鶴が渕城址は、戦国時代の山城跡である。城は、男鹿川左岸の海抜896mの姥捨山上にある曲輪と物見台、男鹿川右岸から田代山に続く長塁と、男鹿川淵の角馬出の三つの部分から構成されている。またこの城の成り立ちは「新編会津風土記」によって、長沼氏による永禄年間(1558~70)の姥捨山上への築城部分と、慶長5年(1600)上杉景勝が徳川家康の来襲に備えて要塞化した長塁部分との二つの部分があることがわかる。
 山上の曲輪部分は上杉氏が補強したものと考えられる擂鉢状に深く掘られた寒風よけを中心に、南北およそ600mに及ぶ範囲に、物見台・土塁が見られる。
 川右岸の長塁は、角馬出端から西へ400mを越える長大なもので、途中から空堀・土塁を二重にし、横矢掛り(矢・鉄砲を射やすくするための塁線の屈曲)形にしている。
 川岸の角馬出は、内部平場が、東西約17m、南北約19mあり、周囲に比高差平均2mの土塁がめぐる。馬出の三方は空堀で、東側は男鹿川の断崖になっている。南東部には土塁が無いことから、外側に門が有り川から橋を渡り、この門から馬出内に入り、会津領内へ入ったものと考えられる。
 馬出内は関所として、番小屋等が建てられていたと想像され、戦国時代の臨戦時の関所・関門を考える上で貴重な遺跡であるといえる。
 現存する鶴が渕城址は、築城の長沼氏当時のものとは考えにくく、上杉景勝によって慶長5年(1600)に拡張整備されたものと考えられる。擂鉢方面輪作りなど上杉流が見られ、川をせき止めて街道に水をたたえ、石弓を設け、さらに藤原・高徳辺まで先兵を出し陽動作戦を展開したことが、上杉文書などに見られるからである。
 以上のようにこの城址は、戦国時代末期の馬出、長塁を伴った山城で、規模や働きの点で特筆されるものである。

藤文指定第12号 昭和48年 2月16日
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2012.05/24(THU)

上三依の野仏群 日光市上三依




 戊辰戦争が気になって関係する所を回って見ようと思った。まず初回は手近なところで「会津西街道」の野仏群。尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚付近にある。戊辰戦争との関係でいえば旧幕府軍・新政府軍とも、会津攻防の重要ルートの一つである
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以下、現地の案内板から

 ここにある尾頭峠を越えての旧塩原街道は会津西街道の脇道で、尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。天和三年(1683)の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に塩原経由氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果たした(日光市教育委員会)
阿久津河岸・船玉神社(2015.09/15)
・弁財天供養塔
 財宝利得をもたらす福の神として信じられてきた。
 豊じょうや技芸上達まで祈られ音楽の神、水の神としても信仰を集めた。
・湯殿山
 湯殿山は山形県中央部、月山の西にある山で出羽三山の一つ。修験道の霊山として知られる。この碑は湯殿山神社への参詣で記念で、この碑に祈り直接参詣と同効果をと考えたものだろう。
・男體山
 男體山は日光連山の一つで、湯殿山と同様直接参詣と同効果を考えたものだろう。
・子安観音
 慈母観音、子育て観音ともいう。子宝を恵み、安産から子育てまで功徳が及ぶ。
 会津切支丹関係のマリア観音の疑いもありと言う。
・馬頭観世音
 六観音の一つで畜生道の救済に当たるので頭上に馬をいただく。後に馬による交通の発達にともない、死馬の供養や交通安全の祈りに発展した。
・六面幢形六地蔵
 常に悪業を犯し、六道に輪廻転生するあさはかな人間を救うという。
 六道は、地獄(怒)・餓鬼(欲)・畜生(愚)・修羅(闘争)・人間・天上(喜悦)をさす。
・二十三夜供養塔
 毎月日を決めて月の出を待ち祈った。ほとんどが女人の信仰で、良縁・子宝・安産などが祈願された。乙女が、この夜ひそかに念じて鏡をのぞくと未来の夫の姿が見られたという。十九夜塔なども同じである。(日光市教育委員会)

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会津西街道と旧幕府軍
慶応 4年(1868)
・閏 4月 1日
 旧幕府軍(都督大鳥圭介)は軍を再編するため一旦日光を撤退し田島(現福島県南会津町田島)に向かう
・閏 4月 2日
 「六方越」を経て日向村で宿泊。大鳥が宿泊している名主宅に、会津藩士和田忠蔵と同磯上蔵之丞が訪ねてきて家老萱野権兵衛からの伝言を述べた。旧幕府軍の会津領退去要請であった。大鳥は要請を拒否
・閏 4月 3日
 大鳥、五十里宿で会津藩家老萱野権兵衛に面会し、宇都宮や日光での戦況を伝え承諾を得る。五十里宿と三依宿(現日光市三依)に分散して宿泊
・閏 4月 4日
 横川宿(現日光市横川)
・閏 4月 5日
 大鳥、山王峠を越え糸沢の峠の茶屋で会津藩主松平容保の命を受けた若年寄山川大蔵の歓迎を受ける。この後、山川は大鳥と行動をともにすることになる
・閏 4月 6日~16日
 大鳥軍、田島宿に宿営
 軍議を重ね、軍を四個大隊とすることとした

  全軍(旧幕府軍・会津軍連合軍)都督・大鳥圭介、副都督・山川大蔵

   第一大隊  450人 元大手前大隊・伝習隊  隊長 秋月登之助  
   第二大隊  350  小川町大隊・伝習隊   〃  大川正次郎、沼間慎次郎 
   第三大隊  300  元御料隊        〃  加藤平内
            第七連隊        〃  山瀬司馬、天野電四郎
   第四大隊  200  草 風 隊        〃  天野花陰、村上求馬
            純 義 隊        〃  渡辺綱之助
   会津藩の兵士40人を各隊に分けて配属

--参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎--



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