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2013.12/21(SAT)

戦死塔(佐良土) 湯津上村(現大田原市)佐良土738附近
水戸諸生党、佐良土の戦い




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写真;「戦死塔」2013.12/21
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平成25年(2013)
・12月21日
 用事のついでに佐良土の戦死塔を見て来た
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自然石に
明治元年九月二十七日
戦死塔
と刻まれている

戦死供養塔、片府田 (2013.12/19)
 明治元年九月二十七日、水戸に向う諸生党勢らは片府田で大田原・彦根藩兵と交戦、戦死者6名を出して退くと、更に佐良土で黒羽藩兵と交戦して11名の死者を出したが、ここを突破し馬頭へと向かった(※黒羽藩兵はここを敵にとって水戸への通過地と知り徹底抗戦はしなかったと云い、午後4時頃に戦闘は止んだと云う)
 この戦死者(諸生党勢か?)を供養する塔である
※ もともとは主要道脇にあったものを道路拡幅工事のため現在地に移したのだそうだ

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写真;2013.12/21



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2013.12/19(THU)

戦死供養塔 大田原市片府田・宝寿院(旧墓域)
水戸諸生党(市川三左衛門)、片府田の戦い




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平成25年(2013)
・12月18日
 天気予報で、明日は大雪だと。午後、大田原市片府田(かたふた)に「戦死供養塔」を見に行く 
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写真;2013.12/18

 市川三左衛門に率いられた水戸諸生党勢は水戸を脱出して北越戦線(出雲崎、灰爪)で戦うが戦利なく会津に入る

明治元年(1868)
・ 9月22日
 若松城が陥落して逃げ場を失った市川ら諸生党勢は、追討軍を出して手薄になっている水戸城の奪還を決意し、これに長岡藩兵らも加わり会津を出た。途中、新政府軍と交戦しつつ田島へ出て、ここより会津中街道を三斗小屋に抜け片府田、大子、水戸へと向かった
 ※軍勢は 500とも1000とも云われる
・ 9月27日
 早朝、片府田で大田原・彦根藩兵と交戦。戦死者6名を出し、なお南方(佐良土)に退く。戦闘は2時間程度であった模様
 この「戦死供養塔」は戦死した水戸諸生党、長岡藩兵らを供養した墓である。当初は無縁仏として葬られたが、明治二十一年(1888)九月二十七日、村住人が二十一回忌にあたって建立したもので、台石には「村女人中」とあり、村の女性が建てたもののようである
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※ 諸生党(市川三左衛門)の事について
 水戸藩内の政争は、天狗争乱、那珂湊戦争、徳川慶喜の大政奉還、戊辰戦争と複雑に絡んでとても書き記せない。また別の機会にupしたい
 ちなみに、水戸諸生党勢の水戸城奪還はならず市川三左衛門は逃亡の果て、明治二年に江戸で捕えられ、水戸で"逆さ磔"の極刑に処された。享年53才

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写真;「宝寿院」2013.12/18



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