カテゴリ:淺田惟季北戰日誌( 3 )

2014.10/05(SUN)

淺田惟季北戰日誌ニ云 仙臺石ノ巻ニ抵リ、十三日解纜




明治元年(1868)
・10月13日
 大鳥旧幕府軍は若松を脱出して仙台に至り、榎本艦隊と共に海路蝦夷地を目指した
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第14冊 コマ番号 213(引用)
復古外記 稿本 蝦夷戰記 第一   自明治元年十月十九日
                  至同      晦日
p.390
○淺田惟季(舊幕府士、)北戰日誌ニ云、八月廿三日、予若松街ヲ出テ、米澤ヲ志シ、行事凡九里、申ノ時過、檜原ノ里ニ抵ル、此地會、米ノ國境ニシテ、會津ノ關門有リ、然レ共、一人ノ守衞兵無シ、是ヨリ先、大鳥圭介等戰死ノ説有リ、予殊ニ痛心ス、然ルニ今夕檜原ニ抵テ、計ラス出會シ、兵隊尚百三十四人有リ、衆大ニ歓喜シ、互ニ無事ヲ祝シタリ、衆議シテ一ト先、仙臺ニ抵テ、再擧ヲ謀ラント云、此諭一決シ、二十四日檜原ヲ發シ、綱木ト云ヘル驛ニ抵ル、二十五日早晨、大鳥氏軍ヲ反シテ、又檜原ニ行ク、重創ノ兵九十六人ヲ予ニ托シ、涕泣シテ南北ニ別ル、廿六日、予九十六人ノ創者ヲ率ヒ、綱木ヲ發シ、九月三日、白石城ニ達、此時、我海軍松島灣ニ來ルト云ヘル報告有リ、衆大ニ喜フ、是ヨリ先、大鳥圭介等、米澤ノ國境ヲ退キテ、再度會津川ニ出師、薩、長、大垣、松代ノ數諸侯ト戰ヒ、遂ニ拒可ラサルヲ知リ、古屋作左衞門、其他幕兵六百人ヲ纏テ、萬代嶽ノ隘道ヲ踰ヘ、谿壑ノ中ニ起臥スルコト三夜、辛ク福島ニ出、九月十三日、白石城ニ達ス、眞ニ蘇生ノ人ニ逢タル如シ、十六日、白石ヲ發シ、十九日、仙臺城ニ建ス、此時、仙臺敵ニ降リ、頼ムニ由無シ、故ニ竊ニ蝦夷征ノ企有リ、衆議一決、九月廿一日、仙臺ヲ發シ、廿三日、松島街ニ抵ル、十月二日、予開陽鑑ニ乘ス、同月六日、大鳥圭介其他兵隊、盡ク十二艘(蓋七艘ノ誤、)ノ軍艦ニ乘シ、松島灣ニ艤シ、十一日、仙臺石ノ巻ニ抵リ、十三日解纜。

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復古外記 以下、覚え
       冊      コマ番号 p. 摘要
 東海道戰記 10 第三十四 244    433 淺田惟季北戰日誌/藤原
 東山道戰記 11 第十二  292    539 淺田惟季北戰日誌/宇都宮
 蝦夷戰記  14 第一   211    387 明01.10/19~
 〃     〃 〃    213    390 淺田惟季北戰日誌/会津脱出
 〃     〃 第二   226    417 明01.11/01~
 〃     〃 第三   242    448 明01.11/27~
 〃     〃 第四   256    477 明02.02/25~
 〃     〃 第五   275    515 明02.03/25~
 〃     〃 第六   297    558 明02.04/15~
 〃     〃 第七   316    597 明02.04/27~
 〃     〃 第八   336    637 明02.05/08~
 〃     〃 第九   352    668 明02.05/12~
 〃     〃 第十   365    695 明02.05/19~



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2013.11/26(TUE)

淺田惟季北戰日誌 藤原(大原村、小原沢)
慶応 4年(1868) 6月25、26日




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※ 写真;小原沢附近、鬼怒川公園駅(2012.10/16)
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慶応 4年(1868)
・ 5月
 会津侵攻路を確保するため進撃していた土佐藩だったが、白河口の攻防が膠着するとその増援に向う。これに代わった佐賀(肥前)藩が今市に着陣した
・ 6月25日
 佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍は連携し、会幕軍が守備する藤原口を攻撃する
 その一隊を小百(今市市)から、もう一隊は大渡(同)から鬼怒川を渡河し、宇都宮藩兵は鬼怒川左岸の船生(塩谷町)から会幕軍の第一線陣地(小佐越、藤原町)を攻撃した。ここを突き進むと大原(同)で陣を構えた会幕軍と交戦し、船生から山を越えて大原陣地の背後に回った別働隊の働きとアームストロング砲が威力を発揮して敗走させた
 会幕軍、藤原方面に退却した
・ 6月26日
 新政府軍、藤原に向け鬼怒川の左右両岸から進撃を開始した
 迎える会幕軍、左岸ではモウキ山(藤原町)の断崖上から攻撃し、右岸では上滝まで兵を引かせ、敵を引き付けると一斉に射撃した。新政府軍、会幕軍の猛攻に堪らず四散敗走する
 会幕軍は地形を利しての大勝であった

 以下、復古記から「淺田惟季北戰日誌」部分を引用(ママ)してupする
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第10冊 コマ番号 244~/525(引用)
復古外記 東海道戰記 第三十四

p.433
○淺田惟季(舊幕府士、)北戰日誌ニ云、五月九日、總軍藤原、大原ノ二邑ニ退キ、檄ヲ會城ニ遺テ之ヲ告令シテ、其兵三百人、一ト先凱旋令ム、止テ此ノ陣營ヲ守ル者ハ、幕兵五百人ニ過ス、吾軍持久ノ策ヲ爲スニ寄リ、大原邑外十丁ヲ距テ、小佐越橋ニ…
p.434
壘壁ヲ築キ、哨兵巡邏ヲ嚴ニシテ以テ敵ノ侵襲ニ備フ、六月二十五日、肥前宇都宮ノ兵、大原ノ壘ヲ攻撃ス、此日大鳥氏會津ヨリ歸陣ス、辰ノ時、敵軍進テ高徳大渡ニ屯シ、先ツ小佐越邑ニ來テ四斤ノ野戰礮ヲ備ヘ、絹川ヲ隔テ大原邑ノ牆壘ニ放發ス、此時第三大隊守衞タリ、加藤平内、山瀬主馬、直チニ兵ヲ排列シテ守戰ス、敵二道ヨリ猛烈ニ放發シテ、前面ノ壘ヲ攻ルコト急ナリ、戰フ事凡二時間、吾兵能ク守ル、既ニシテ敵兵左方ノ山上ニ攀登テ、眼下ニ吾壘ヲ放發ス、午ノ刻第三大隊終ニ大原ノ邑内ニ郤ク、敵兵進テ邑外ニ接迫シ、烙丸ヲ放ツテ終ニ民家ヲ燒ク、大鳥氏草風隊等八十人ヲシテ赴キ救ハシム、第三大隊援兵ノ來ルヲ見テ憤激、二軍合シ撃テ烈ク發火ス、敵兵又邑外ニ郤ク、須臾ニシテ大鳥圭介騎ヲ馳テ凱陣ヲ促テ曰ク、大原村地理惡シク、全捷ヲ得ルコト難シ、小原邑外ノ要地ニ退キ、欺テ敵ヲ隘道ニ導カハ、彼必ス勝ニ乘テ追ヒ迫ラン、然ル時ハ吾軍伏ヲ設ケ、彼カ背面ヲ絶ント爲ノ勢ヒヲ示サハ、敵兵必ス駭テ後口ヲ顧ル可シ、其緩ヲ窺テ二面猛烈ニ攻撃セハ、大捷ヲ得ン事必セリト、令下ルニ及ンテ二軍終ニ兵ヲ収テ、藤原村ニ引退ク、時已ニ未半ニ至ル、忽チ強雨注カ如ク、雷電山嶽ニ震フ、肥前ノ兵又小佐越ニ退キ、晩ニ至テ下瀧村ヲ放火ス、我兵是レヲ撃ント爲ニ、絹川滿水、渉ル可ラス、二十六日拂曉、肥前、宇都宮ノ兵、上瀧村ニ屯シ、川ヲ隔テ攻撃ス、吾軍此時藤原ノ營ニ在ル者、啻傳習第二大隊ト草風隊ノミ、兵總テ三百人ニ過キス、先ツ三番、四番ノ二小隊(原註、百十五人、)ヲシテ敵ニ當ラ令メ、草風隊四十人ヲ前面ノ溝胸壁ノ中ニ伏セテ、敵ノ襲來ルヲ待ツ、其二十人ヲシテ左方ノ山上ニ潜伏セシメ、予カ率タル一番小隊三十人ヲ分ツテ高徳間道ノ山下ヲ守ラシメ、其四十五人ヲシテ本營ヲ守衞シ、二番小隊ヲシテ三上ノ原ニ備ヘテ、船生ノ間道ヲ守ル、辰ノ時ニ至リ、敵兵頻リニ四斤ノ榴彈ヲ放チ、烈ク小銃ヲ連發ス、吾兵川岸ノ牆壘ニ據テ、眼下ニ瞰シ狙撃ス、敵殪ルヽ者無數、此時吾軍河ヲ渉テ彼カ面前ヲ襲ハヽ、一擧ニ勝ヲ得ン事必セリ、然レ共滿水漲リ溢テ果サス、荏苒ニ戰テ、既ニ未半ニ至ル、唯惜ム可キハ吾レニ一門ノ大砲無ク、愉快ニ敵兵ヲ殪ス事能ハス、漸ク一挺ノ臼礮有リ、是ヲ用ヒテ頻リニ榴彈ヲ放ツ、然レトモ此礮元來山上等之營ヲ燒ク時用ルノ器ニシテ、平地ニ不利トス、今我ハ高丘ニ在リ、彼ハ低キニ在リ、故ニ多ク功無シ、既ニシテ前面新タニ一聲ノ敵礮、雷電ノ如ク山壑ニ震シ、五六百人ノ兵小銃ヲ連發スルコト雨ノ如ク、一擧ニ我壘ヲ襲ヒ破…
p.435
ラント爲ス、草風隊ノ士之ヲ守ル者、僅カニ四十人、士官隊十人耳、憤戰スト雖トモ、敵衆更ニ屈セス、暫時ニ壘下ニ迫リ、鬨ヲ發シテ猛烈ニ連發シタリ、次テ一榴彈牆ヲ碎キテ破裂シ、草風隊ノ長村上氏之レニ中テ死ス、兵卒傷者四人、殆ト支ヘ難キニ至レリ、瀧川充太郎騎ヲ馳テ援ヲ乞フ、又左方山上ニ潜伏シタル傳習隊三十人、均シク連發シテ急ヲ救フ、是カ爲ニ少ク敵鋒ヲ挫ク事ヲ得タリ、彼直チニ山上ヲ目標トシテ、霰彈ヲ放ツ、是ニ於テ我軍殆ント苦戰ス、大鳥圭介、報ヲ聞テ、予ニ命テ救ハ令ム、直チニ四十五人ノ兵ヲ率ヒ、列ヲ整フルニ暇非ス、急歩ノ令ヲ下シ馳テ小原邑ニ至ル、戰ヒ將ニ酣ニシテ、敵鋒最モ鋭ク、前面ノ壘堡危キコト累卵ノ如シ、爰ニ於テ兵ヲ排列シ、急歩ノ喇叭ヲ鳴サ令メ、一喝鬨聲ヲ發テ壘内ニ馳セ行令メ、激烈ノ連發ヲ爲サ令ム、此勢ニ辟易シ、敵兵郤クコト二丁程、放發尚烈シ、此時予惟ヘラク、彼ハ衆、我ハ寡、荏苒ノ戰ヒ叶フ可ラス、一擧ニ勝敗ヲ決スルニ在リ、欺テ撃ツニ如スト、俄ニ一計ヲ施シ、傍ノ兵五人ニ命シ、彈藥ヲ運輸令ンカ爲ニ壘ヲ出シ、走テ小原邑ノ陣ニ行カ令メ、次テ嚴ニ放發ヲ禁シタリ、敵軍既ニ我カ敗走爲ト推量シ、急ニ列ヲ亂シテ壘下ニ迫ル事恰モ蟻ノ群ルカ如シ、予其接近スルノ的度ヲ量リ、直チニ小隊點放ヲ爲サ令ム、敵兵大ヒニ駭キ、辟易シテ退ク、殪レ死ル者十五六人、其尸ヲ脊負ヒ走ル、此機ヲ計テ吾兵一齊ニ鬨ヲ發シ、猛烈ニ放發シ、次テ壘ヲ出ル者二人(原註、予カ兵勘吉、金藏ト云、)予之ヲ見テ前進ノ令ヲ下シ、悉ク壘ヲ出サシム、瀧川氏次テ士官隊ヲ進メ、鼓躁シテ尾撃ス、敵終ニ大敗シテ走ル、爲ニ絹川ニ没シ、溺レ死ル者無數、直チニ二人有リ、谿中岩石ノ隙ヨリ走リ出、太刀ヲ揮テ予ニ迫ル、予カ傍ニ大樹アリ、則チ之ヲ遶テ其背ニ出、一人ヲ斬ル、其一人刀ヲ揚テ傍ノ一卒ニ傷ク、予直チニ彼カ右手ヲ斬リ、次テ面上ヲ撃ツ、彼終ニ死シタリ、此時瀧川氏又二人ヲ斬リ、兵ヲ分ツテ、盡ク岩石叢樹ノ隙ヲ探ラ令ルニ、敵ノ三卒河端ノ嵒ヲ傳フテ走ルアリ、予兵卒ニ命テ狙撃令ルニ、皆殪テ水底ニ沒シタリ、敵終ニ大敗シテ走ル、吾軍逃ルヲ追テ大原邑ニ抵ル、兵器輜重ヲ奪フコト無數、敵大ニ狼狽シテ遯去リ、大乘ノ渡ニ抵ル、小舟三艘ニ棹シ、雜沓シテ二舟終ニ沈沒シ、溺レ死ル者七十餘人ト云フ、此ニ於テ瀧村ノ兵瓦解シテ、多クノ兵器ヲ棄テ走ル、吾軍河水ヲ隔テ狙撃シ、殪ルヽ者又限リ無シ、忽チ一將官有リ、馬ニ鞭シテ走ル、吾カ兵狙撃スルニ、砲聲ニ應シテ馬ヨリ墜、敵卒二人、肩ニシ助テ走ル、我兵尚之ヲ撃テ其一人ヲ殪ス、又一人ハ漸ニ…
p.436
シテ藪ノ中ニ潜ミ隱レタリ、時既ニ黄昏ニ至リ、兵ヲ収テ藤原ノ營ニ退ク、則チ大鳥氏ニ謁シ、兵隊ヲシテ捧銃ヲ爲サ令メ、捷ヲ祝シ、酒肴ヲ與ヘテ戰勞ヲ慰ム、此日ノ戰爭、晨ニ起テ黄昏ニ至ル、斬首十級、大礮貮門、小銃三十一挺、帯劍十四腰、彈藥十八箇、籠長持四棹、俘囚二人、其他ノ雜器枚擧ス可ラス、而テ吾兵戰死スル者五人、創ヲ被ル者十五人ニ至ル、是レ我レハ壘ニ據テ戰フ故ニ、死傷少キコト此ノ如シ、翌二十七日拂曉、筏ヲ作リ、川ヲ渡リテ瀧村ニ抵ル、又多クノ分取アリ、尚一創者有テ水車ノ内ニ潜ミ隱ル、我兵忽チ斬首シ、叢林樹木ノ中ヲ探ル、米穀其他野陣ヲ張ルニ用ルノ器數種ヲ得タリ、盡ク奪ヒ歸ル、此日敵首十一級ヲ本營ノ門ニ梟ス。
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藤原の戦い(2012.10/16)
淺田惟季北戰日誌ニ云(2013.11/20)



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2013.11/20(WED)

淺田惟季北戰日誌ニ云 宇都宮城、二荒山
慶応 4年(1868) 4月23日




 淺田惟季北戰日誌である。宇都宮第二次攻防戦の様子が「復古記」にあり、大鳥軍参謀垣(柿)澤勇記が負傷した記載もある。以下、引用してupする

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※ 写真;二荒山神社(2013.11/19)
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第11冊 コマ番号 292~/484(引用)
復古外記 東山道戰記 第十三

p.539
○淺田惟季北戰日誌ニ云、四月二十日、我軍宇都宮城ニ抵ル、廿二日日光山退軍ノ命令有リ、先ツ創者ヲシテ徐ロニ先發令ム、廿四日(二十三日ノ誤、)我先鋒早起飯。辰ノ時整列將ニ發セント爲ス。忽チ執告有、敵既ニ街外ニ迫リテ城ヲ攻ント爲スト、語未タ終ラス、哨兵所砲撃起ル、大鳥氏曰、我等目標ト爲ス所ハ唯日光嶽ノミ、然レ共今敵兵新タニ襲來ル、戰ハサレハ臆スルニ似タリ、一ト度當テ後軍ヲ退ント、直チニ令ヲ下シテ兵ヲ排列ス、此時後門既ニ砲聲起リ、我哨兵退テ城中ニ入ル、我先鋒傳習第一大隊、桑名士官隊等直チニ之レニ當ル、表門ハ傳習第二大隊七聯隊之レヲ守ル、本營裏ノ竹林ハ會津農兵草風隊士官隊之レヲ守ル、五半時敵軍四面均ク榴彈ヲ發ツテ烈ク攻撃ス、薩、長、大垣ノ兵後門ヲ攻ル最急ナリ、我兵大ヒニ苦戰ス、表門ノ兵百人ヲ分ツテ救ハ令メ猛烈ニ發射シタリ、敵辟易シテ退ク、三方ノ砲聲恰モ雷ノ如シ、城中ノ樹木野戰丸ニ中ル者盡ク碎ケ散ス、敵兵街家ノ庫ニ據テ頻リニ放發ス、城中二十四斤礮二門有リ、直チニ榴霰彈ヲ放ツ、庫之カ爲ニ微塵ト成ル、又幸ニシテ一礮丸敵ノ彈藥ニ射當タリ、其音雷電ノ如ク傍ニ在ル物盡ク空中ニ飛散ル、我兵大ニ吶喊シ激烈ニ連發シタリ、敵終ニ退テ又本營ノ裏ヲ烈ク攻撃ス、午時ニ至テ尚強大ナリシニ、忽チ發砲ヲ止メテ卻クカ如シ、我兵尾撃シテ街外ニ抵ル、本營後ロノ塹中薩長ノ兵殪レ死ル者夥シ、我兵之ヲ斬首シテ城中ニ歸ル、飯ヲ喫シテ既ニ日光山ヘ發セント爲ス、午半ニ至テ敵兵又來テ攻撃ス、後門、本營後ノ二ケ所ニ迫ツテ嚴ク攻ル、爰ニ至テ吾兵一ツニ合シテ之レヲ防ク、新撰組、及傳習二小隊(原註、大川正次郎隊、小笠原信太郎隊、)ヲシテ城南(北)明神山ヲ奪ヒ、敵兵ノ横列ヲ襲ハ令ム、彼之レカ爲ニ卻ク事五六丁、大礮ヲ發チ遠ク圍ミテ烈ク明神山ヲ襲フ、未半ニ至ル迄我兵屈セス戰フト雖共、城中ノ活道既ニ斷ルヽヲ懼レ、終ニ山ヲ下テ歸ル、敵兵盡ク本營ノ後ニ集合シ、竹林ノ中ヲ標トシテ無數ノ霰彈ヲ發ス、吾兵死傷最多シ、長官本多幸七郎肩上ニ重創ヲ被リ、参謀垣澤勇記兩足ヲ打チ貫カル、薩人塹ヲ踰ヘ一擧ニ乘破ラント爲ス、我兵鎗ヲ以テ之ヲ追拂、既ニシテ申ノ半ニ至ル、大鳥圭介令ヲ下シテ曰ク、薄暮ニ退陣ス可シ、一竹林ヲ爭ヒ多兵ヲ傷ルハ無益也、宜ク収ヨト云、此レニ依テ猛烈ニ發射シ、…
p.540
徐々ト退キ、薄暮ニ城門ヲ出テ大澤道ニ退ク、時既ニ初更也、敵軍敢テ追ハス、我軍退ク事三里、大澤ノ二驛ニ止マリ、兵ノ死傷ヲ筭ルニ九拾人ニ至ル可シ、小山、諸川、安塚、宇都宮總括七戰、創者百七拾餘人、死者六七十人ニ至ル、此日ノ戰爭辰ノ時ニ起テ申ノ末ニ終ル、尚防禦セハ數日ヲ支ユ可シ、然レ共既ニ退軍ノ意有故ニ強テ死戰ヲ遂ルモ益無シ、依テ黄昏ニ至テ軍ヲ収メタリ、若シ外見今日ノ時機ヲ知ラサル者ヲシテ論セ令レハ宇都宮ハ上、下野州、奥羽ノ咽喉ニシテ專要ノ地ナレハ、之ヲ卻クハ拙策ト云ンカ、左ニ非ス、此時奥羽同盟未タ成ラス、會津兵又出師爲サス、加之彈藥闕乏糧亦盡ク、若因循スル時ハ敵兵治路ヲ斷テ我兵殲ト成可シ、故ニ此機ヲ知テ速ニ軍ヲ退ルハ眞ニ大鳥氏の神筭ト云ツ可シ、余此日十創ノ痛ミ少ク去テ徐歩爲ス事ヲ得ル故ニ、午時本營ノ後面苦戰ノ時兵ヲ率テ戰フ、忽チ痛ヲ發シテ歩行成ラス、駕ニ乘リ兵隊ト共ニ城中ヲ出、大澤ヲ距ル半里小林邑ト云ヘル宿ル。
二十四日、朝辰時、我軍大澤驛、小林邑徳次郎驛ヲ發シ、巳ノ半ニ至テ今市驛ニ達ス、會津藩日向内記、原平太夫等百三十人ノ兵ヲ率シ此地ヲ護衛シタリ、彦根藩士ノ首五級ヲ街外ニ梟シタリ、我兵暫時休憩喫飯、終テ午後出發、行軍二里日光嶽ノ半腹鉢石街(原註、俗日光街ト云、)ニ達ス、夫此土ノ地形タルヤ、西北ハ高嶽巍峩上、下野州、陸奥ニ連リ、東ニ高原、毘沙門ノ二嶺有リ、絹川、大谷川ノ二大河有リ、水色藍ノ如ク深サ數十仭、急流矢ノ如シ、船生、大渡二驛ノ下ニ至リ合テ一ツト爲リ、直チニ阿久津川ニ至リ常陸國那賀郡ニ出、水戸ニ流テ海ニ出ル、其源則チ中禪寺ノ湖ヨリ出ル者也、南方ハ今市、大澤、徳次郎、宇都宮ノ鄕有リ、此ノ一路通スル耳、其他上、信、陸奥、北越ノ隘道有リト雖共、絶壁削カ如ク谿壑深キコト數百丈、纔カニ一人ノ往來スルニ難シ、寡兵ヲ使テ衆ヲ拒クニ最上ノ地形タリ、此休憇、廿五日辰半、我兵隊盡ク神廟ニ参詣ス、其壯麗目ヲ驚ス、二十六日、東都ヨリ脱兵鎮撫トシテ松平太郎騎兵八騎随従シ、醫官小林文周、青木文岱來ル、依テ創者ヲシテ悉ク治療令ム、吾軍既ニ多クノ創者有ト雖モ會テ醫官ニ窮ス、幸ニ脱走中望月元有ナル者有リ、然ト雖モ貮百人ニ至ント爲ル創人豈一醫ノ能ク治療爲ス可キニ非ス、故ニ腐敗シテ聊ノ瘡ト云ヘ共盡ク腐爛ス、爰ニ於テ普ク治療ヲ施スニ至レリ。

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※ 写真;二荒山神社から宇都宮城址に向かう途中(2013.11/19)
     *
淺田惟季 (あさだこれすえ)
生没年不詳(※戊辰時、二十代半か?)
幕府陸軍兵隊指図役頭取として、小川町の伝習第二大隊屯営に起居。慶応四年四月十一日、屯営を脱走、旧幕府脱走軍に加わり出軍する。二十二日安塚の戦闘で右手と股に銃弾を受けたため、後陣に退き大鳥圭介の俗務を補助した。復帰後は会津で転戦。大鳥から負傷者の白石護送を任され、さらに仙台を経て箱館に渡航。「説夢録」には伝習歩兵隊頭取改役として淺田鱗之助の名があり、惟季と見られる。自記「北戰日誌節略」を残す
--幕末維新人物事典から引用--

宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)
大鳥軍参謀柿澤勇記墓(2013.10/17)



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