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2014.07/03(THU)

戦士墓(大田原藩) 那須塩原市宇津野若林




板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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写真;2014.07/02
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墓碑表に

  明治元年五月二日
大田原戰士 長岡傳四朗/長岡彦右エ門 墓

とある

・長岡傳四郎義信
大田原藩/秀久とも/銃隊卒/彦右衛門の子/明治元年五月二日大田原で戦死/五十二歳/塩原町宇都野若林に墓/靖国
・長岡彦右衛門武敏
大田原藩/長久とも/銃隊卒/明治元年五月二日大田原城下で戦死/七十三歳(四十九歳とも)/塩原町宇都野若林に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2013.11/12(TUE)

年代日記帳 3/3 吉沢左衛門(宇都野村々役、組頭格)の記録
幕末から維新まで




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明治二年

四月 宿屋地 大川除(堤防)不残枠敷く。弐間に延三十間 助け(金沢、上大貫、下大貫、上石上村)
 御上役 人見幸蔵様(藩より土木監督)
 御手先 薄葉重左ヱ門様(現場監督)
四月二十八日
 村々御呼出しにて、金札引替。仰せ付けられ候
 一人に付成る者拾両づつ(藩札の引替)
 上大貫村 江戸屋にて引替
八月二十二日
 銭相場天下一般に 拾貫文に相成候(銭替手形)
 二十二日夜、私共「江戸屋」へ参り候
八月 大違作付御検方願
 ※(明治二年は凶作であった)
九月十七日 御検分金沢村済。高阿久津村昼飯にて、萩野田へ御越しなされ候
 枡を立てて巨細、合毛相改め(実収穫の検分)
 翌、十八日 深井戸前初め、西の内別当田まで惣済にて、十九日御立相成候
十月十二日 川筋一統(箒川筋村々、下石上村迄)枡目掻切願上候(凶作のため、口米等を減らすよう願上)。町、宿にて参会の上、奉願上候所、御一新に付、掻切 四斗六升に仰せつけられ候
 違作引方 居 百弐拾弐 余御引也
(※ 此の掻切願が十一月二十四日夜の上石上村他川筋一同の農民騒動につながる問題となった)
十一月 民部札出来
 十七日 御役所へ一統お呼出し。太政官お達しの通り、当役所にてお達し有之候も、来春早春に領内一統へ御検地仰せ出てられ候
 同日(太郎左衛門)川筋八ケ村(箒川筋)御取締仰付られ
 遅沢村仁衛門様、山田収様、御両人
 仁衛門様は沢村善四郎様へ差居り、山田様は上大貫江戸屋へ出張罷在候
十一月二十四日夜
 上石(上)村二宮勝衛(主計)、藤田新之助、此者二人にて、川筋八ケ村、厄落し企て、村に八方へ手配り候。川筋一統不残引連れ、男たる者不残罷出る様、「一郎右衛門」もし枡目一件四斗五升願(先きに四斗六升に仰付けられた)、差上げ通りとして、兵糧申付けられ、三百人分
然しながら早急にて間に合い兼、「白米二斗五升炊き、きな粉むすび」にて、川崎まで追い掛け候へ共間に合わず、遂に継がず
夜、持ち帰し、道に人足の者、又は乞食、且は手渡しにて、罷り越し候者へ、配分致し罷り帰り申た
此のことにつき
大田原藩民政監権田篤様、御同役江連幸三郎様、民政小監お役人人見幸蔵様、久島惣一郎様
右三方共々、日光県御支配所中里まで参り、庄屋に引取られ差居り候右一同を、手当御願立にて罷り越し、不残引戻し申候
二十八日 帰宅仕り、それより当お役所に於て、毎日お調べ有之申継相成候
十二月十一日 夜、又、候、両石上村、両大貫(村)は日光県へ罷り出。宇都野、金沢、関谷、高阿久津此の四ケ村、後に残る
同 十二日 夜、渡辺幸三様、残り四ケ村御廻村、村々へ褒美。村方へ靑指しのし五十下され候
 其時又、追掛け候お仰せお役の義は、阿久津右ヱ門様、権田篤様、相山羊三様、罷り越し、日光県お役お城下迄、お出の事にて、四ケ村一統帰村、それより毎日御吟味
村々不残、相詰め、弥々以て
同二十七日 日光お役所へ御出張により、御利解「永替石御渡」廉々の儀は、検地村々取立相成候迄、「枡目四斗六升」のお達し、四斗五升に減じざる様被仰付、其外の義は聊かの事故、仰付け相成らず申候


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※ 写真;箒川と川筋の金沢(村)付近(2013.11/12)

明治三年

正月 右は川筋村に大荒れしたる故、一統、松、しめ飾り、村々お年玉祝儀も無之、悔心にて差罷り申候
同月 右の始末に付、金上納は相済候へ共、穀上納は一切不仕、春にのびのびに相成居候処
正月二十七日 御藏方の事、出納高橋登一郎お出にて、米見一人。枡取一人。〆三人御出に御座候
 御取立罷りきめ、残米上納仕り、御立ちに相成候
     *
別記
 先に会津大内村にて戦死せる、十五郎討死の跡を尋ねて
明治二年六月二十一日 七郎左衛門、彦四郎、おさだ、三人にて、会津大内と申す所まで、十五郎討死の跡を尋ねに参り、二十一日夜横川泊。二十二日夜大内泊。二十三日横川泊。二十四日帰郷申し候
咄(話)にての向うのこと不残僞にて、影形も無之空しき話なり
(※註 世の人情には変わりはない。若しやと思って尋ねても手掛りとてもなく全く空しい…)

--参考文献;塩原町誌--



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2013.11/11(MON)

年代日記帳 2/3 吉沢左衛門(宇都野村々役、組頭格)の記録
幕末から維新まで




慶応四年
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〈会津の別動隊〉
※ 閏四月七日
彼是する内、会津兵五百人程、野際通りにて三斗小屋へ出張り追々繰出し候間、大田原官軍へ注進あり(田島にて編成した大鳥圭介の部下第一大隊)
同 二十一日 塩野崎戦争。賊の首三つ取り、大田原川原へさらし
同 二十二日 油井、板室大戦争。手負い戦死多数あり
同 二十三日 関谷村に賊兵屯ろ致し候処、官軍勢大田原より大軍繰出し、朝四ツ時〈九時頃〉戦争。火事〈官軍は長州原田良八指揮の一小隊〉。先方に手負い分らず。戦死五人あり。官軍一人も怪我なし
(※ 此の時の賊軍は塩原の小山田隊の沖長三郎、負傷後死亡。妙雲寺に墓あり)
〈白河城の攻勢〉
同 二十四日 官軍大田原より同夜惣立にて、白河を指して繰出す
同 二十五日 白河戦争。第一次白河攻撃。手負い戦死数知れず(次の棚倉攻略までは六月二十五日である)。それより追って「棚倉」を落し、続いて「二本松落城」(七月二十九日である)
又、其の中官軍海上より、磐城東浜「平潟港」より上陸(六月十六日のこと)
又、越後口の八方より相攻め、官軍二本松を落し、それより母成峠を攻略す(八月二十一日)
……〈※ 次に八月二十四日 若松に至るまで別記〉
賊軍(会津兵)石林、大田原に侵入
五月二日 夕八つ時(后三時頃)三斗小屋口打揃い、凡そ千人余、石林口より繰込み、荒町上梨畑にて戦争となる
大田原小身(城兵少なし。故は白河攻めに参加して留守隊のみ)にて小人数、野村様先陣を引き、人数追々繰出し、相戦い候へ共、遂に不叶、打負け御本陣へ引籠る
賊軍、御作事場前まで繰込相成候
御本城にて権現筒の配備(常に大砲十三挺と小銃、銃手五十人があり、留守隊が不意に敵の攻撃を受けこれを使った)

※ 権現筒(省略)

落城無之、天晴の次第に候。味方にて討死の者は 御藩中
 早川勇太郎様、久島惣一様、其の外二、三人も有之
 足軽(宇都野村)
 戦死 長岡伝四郎、長岡彦七、磯半兵衛
    右三人
 此の者へ、永々、三人扶持づつ下され候
 御免状御沙汰也
 町方九分焼け、御城御門内、六分方兵火なり。右右、奥州追討に付人馬継立、男たる者不残、馬も婦人にて挽き、毎日の様に御代官様、人馬繰揚げに在方廻村、百姓致し候者一人も無之、継立申し、不残罷出候
※(註) 戦時物資の継送りの爲、全村出動し農事も不可能であった

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※ 写真;大田原城から街並みを見る(2013.02/13)
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六月七日より二十日まで
奥州白河定詰人足、村方より五人宛交代にて詰通し
六月二十五日 組頭御役、御仰せ付けられ候
七月五日 大洪水
八月二十一日夜 関谷大火(兵火により焼失)
  二十二日  塩原宿火事(兵火により焼失)
        高原口 兵火 三斗小屋 同断
八月二十四日より塩原詰、夫、人足代り合い 二十九日まで
上方衆御藩 六十人程私宅(宇都野)、御伏にて(待機中)、追々御繰込
宇都宮藩御通りにて何れも塩原口詰
※(註) 塩原駐留の会津藩が去った後に官軍勢入り込んだこと
八月晦日
 村方塩原詰、八人位立候処、塩原休息無之、直通りにて。会津お城下指して御繰込みならせられ候
九月五日
 大田原御人数 士卒相勤めの内
 戦死 十五郎(三十一才) 宇都野
    作 藏(二十三才) 〃
  若松大戦争にて両人共討死なり
※ 右に付き、其の暮(十二月)、米一俵に金弐両づつ、両人への御沙汰頂戴仕候
九月十四日 若松城、八方より惣懸りにて、それより追々大砲にて相攻め候処
 会津肥後守様(松平容保)同二十二日降参相成り候。御門前へ荒筵敷き、不残無腰(佩刀等をせざる姿)にて、上下着用 平伏罷免申候
※(註) 鶴ヶ城総攻撃から降伏開城までのこと
九月二十五日
 会津攻めに参加せる御官軍、八方より集り候者。大田原を通り、東京へ皆相掛り申候
 昼夜共に隙無く俵よりまけるが如く通行に候
 大田原宿定詰人馬詰め初め、在方、お代官様の人馬繰上げの爲、少しも百姓相勵み候事不叶候
     *
(別記)
大田原藩の士卒に徴用され、田島、大内の戦争に参加し、主として輸送の任に当っていた者、賊軍に物資を略奪され、爲に逃げ帰った者のこと左記
九月九日 田島戦争に付、居村の者(徴用された村々の士卒)、大田原お人数不残、山通りにて逃去り(※註 日留ケ嶽の山岳越えで逃げ帰ったと云う)
孫兵衛、伜(息子)勇之助、七日間山に隠れ候。両足共数本の指、雪焼け(凍傷)にて不残相落ち、嘆かはしき次第なり(※註 旧暦の九月は、新暦にて十月となる。十月半ばを過ぎれば、高山には雪も降り、斯様になったのであろう)
其の外の人足、数々罷出候得共、不残帰宅相成候
     *
十月 嶽山を通る者(御嶽を通り八方に出る道)少々。二夜にて八十人程。神社に参詣をしての事と思う。右同所への継立昼夜此の様なり
尤も下旬頃より遠引き、二十五日までに、白河定詰人足、不残帰宅申候
賃銀の儀(白河定詰人足等の)賃銀の儀は、一人、一日二朱なり。田島詰人足 同断
戦死 先き会津大内村にて戦死せる。十五郎、作蔵、両人へ 菩提金 拾両づつ御下渡有候
負傷 又、負傷せる 孫兵衛伜、承之助、是へ薬用金二両也
十二月 金銀廻りよし(景気上昇)
御上納取立宜しき事也、役場、拙宅取立勘定場也
大晦日迄、不残御上納取立申候

--参考文献;塩原町誌--



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2013.11/10(SUN)

年代日記帳 1/3 吉沢左衛門(宇都野村々役、組頭格)の記録
幕末から維新まで




 宇都野村(現那須塩原市宇都野)村役・吉沢左衛門が幕末から維新までを綴った「年代日記帳」が塩原町誌に収められている。過去に無い(だろう)急激な変化が社会や生活にあったこの時期、それを地方の村に居て見聞きした出来事の記録である
 これを引用し、デジ化してupする(長文なので何回かに分けてする)


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     宇都野村  吉澤 左衛門
慶応四、辰年
年代日記帳
〈※註 吉沢左衛門(又は太郎左衛門)組頭格、苗字差免、上下着用御免、長屋門御免。村役仰せ付けられ、藩の御用に役付。克明な文筆家であり、此の年代日記帳により、幕末から維新期の情勢が精彩ある記録となっている〉

慶応四年

  覚

卯年(慶応三年)暮より、安沢御前原に大勢集り、所々打ちこわしの件話有之。頭取[首謀者、成田村(某)、岡村(某)]
〈※註 世直し騒動…地方の豪家を襲い、金品を奪取した事件。「安沢萬屋」を襲ったこと〉
安沢萬屋へ罷り越し、金銭多分に借り、彼是致す中に、追々散らされ、参集の的にて、何所へか頭身を隠し
右所の通り末二月、また候もよう致し、又萬屋より金銭無心致し、何方へともなく引退と申し候間、此の打ち毀し、宇都宮領割元領主、大宮油屋、玉生七郎左衛門 …… 他数カ所に、名主多分打ちこわされ候
大勢は皆散り\/に打ち別れ候
     *
(一)正月三日(慶応四年) 京都大戦争
   〈※ 鳥羽伏見の戦〉
 幕府軍一万五千人と薩長連合五千人の戦で、薩長の大勝となった。戊辰戦争の前哨戦であった
上方は薩州、長州、関東(幕府)は会津勢、双方討死数知れず、会津軍の負け戦なり 
それより会津方ならびに(伊勢)桑名(藩主は松平容保の弟、定敬)其の他奥州勢残らず引き上げの爲大田原宿を下る
定詰人夫、十五人宛毎日町々宿所詰。人馬共相当り候(村々に割当てがあった)
正月より二月下旬まで(続いた)

三月八日御代官小係与惣兵衛樣、帳場お詰ありて、会津若士一人通り掛り乱暴いたし、無余儀大刀合い、御代官様六十余才の老年の事故、帳場内にて切り殺され、「十手」持ちて手負(若士)仲町米屋まで罷り出候処引戻し、伜惣市郎様、並に甥渡辺彦之助様、此の両人にて親叔父の敵討ち。問屋場遠畑にてなぶり殺し、(手槍を以て突き差し候。)間もなく通りし武士荷下し済、帳場戸を締め、継立無用の沙汰仕り候
町方ひっそり致し、三月中旬より四月中旬までの頃、難なく穏やの様子

然る所、四月十五日塩原古町へ会津方繰越し相成り、道筋、八方口(塩の湯)、関谷町大網まで御番所相立、厳重のお堅めに……
猶又会津勢高原通り(会津西街道)にて多く宇都宮へ繰越し候
猶又、三月下旬会津共(軍勢)五、六人古町庄屋様、取居り、前々手配り、絵図面需め、四月上旬に其者は御引取に相成候
 且又、四月十九日、宇都宮大戦争。町方九分焼け、明神様(二荒山神社)焼失、会津勢に御城乗取られ、三日程取り居り候
〈※ 宇都宮の攻防戦のはじまり、賊軍に乗取られんこと。四月二十四日に奪還した〉
二十一日、薩州官軍乗り込み、会津軍不残打ち拂われ、お城取り戻し候(宇都宮城を奪還したこと)
     *
(注)官軍大田原へ
閏四月十四日 大垣を先陣にて大田原宿へ、薩州、長州、〆三頭繰込み成らせられ候(偵察のため宇都宮より来る)
十五日 官軍四十人程、上大貫村を通り、大網通りして、塩原へ屯ろいたし居る会津方へ申入候内、同所にて入湯いたし……然る所、
十六日 官軍勢大田原宿より繰出にて、関谷九ツ時(正午頃)大網戦争になり、官軍は直様、大田原へ戻り、怪我は先方(賊軍)にて二十三人出来、直ちに会津方へお戻りに相成候(塩原賊軍との初戦であった)
同十六日夜、賊方、関谷村岸屋に参り、火を掛け焼失になり候。其の時二、三軒焼失。其の後、賊方廻りに出向き候へ共、火は掛けず候。然しながら、関谷村中、家伐り取り、片付け、今に焼けると掛り合り候
(会津の別動隊)
彼是する内、会津兵五百人程、野際通りにて三斗小屋へ出張り……

--参考文献;塩原町誌--



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