カテゴリ:>束松峠( 5 )

2013.11/04(MON)

束松峠の一里塚 越後街道/会津坂下町




--------------------

c0185705_1512932.jpg

 現在、上、脇には送電線、鉄塔があって越後街道往時の雰囲気を損ねてはいるのだが..

c0185705_15123313.jpg

※ 写真;2013.11/01
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.11/02(SAT)

束松峠 4 会津坂下町
秋月悌次郎詩碑/峠の茶屋跡




c0185705_11124026.jpg

--------------------
以下、現地の案内板から

故ありて北越に潜行し帰途得る所

  〈詩碑〉    〈案内板〉
  行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
  國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
  治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
  微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
  聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明
  我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
  恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
  幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
  思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
  憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
  風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
  何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん

     秋月韋軒胤永

 秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。
よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。

     平成二十五年十月吉日
     「北越潜行の詩」詩碑建設実行委員会
       束松峠を護る会
       秋月悌次郎顕彰会
       (公財)会津弔霊義会
       会津史談会
       (社)会津坂下町観光物産協会
       会津会ばんげ倶楽部
--------------------
c0185705_11131455.jpg

写真;2013.11/01

秋月悌次郎詩碑・若松城三の丸(2013.04/27)
束松峠 1(2013.11/01)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.11/02(SAT)

束松峠 3 会津坂下町




山王神社の鳥居

c0185705_220063.jpg

写真;峠の六地蔵前にある「山王神社」の鳥居。社殿はないが石の祠があって、お使いは馬の護り神の猿だという (2013.11/01)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.11/02(SAT)

束松峠 2 会津坂下町
たばねまつとうげ・旧越後街道




c0185705_8495094.jpg

--------------------
以下、現地の案内板から

峠の六地蔵
 明治の初めころまでここに茶屋があり「地蔵の茶屋」といいました。大きな地蔵の後ろには六地蔵が控え、聖徳太子の石碑・庚申塔などがあります。前には大きな船があって、かっては馬の水飲み場でした。
 街道は人馬だけの道ではなく神々も往来しました。悪い神が村に入らないように村境を守ってくださるのが地蔵さまでした。聖徳太子は職人の神様、庚申塔の申(猿)は馬の護り神というところから、祀られたものと考えられます。
 道向かいの鳥居は、山王神社の鳥居です。社殿はありませんが石の祠があります。山王神社のお使いは猿です。ここにも馬の護り神として猿があります。当時の人々が馬を大切にした心情が切々と伝わってきます。
     高寺地区地域づくり協議会
--------------------
c0185705_8502984.jpg

写真;2013.11/01



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.11/01(FRI)

束松峠 1 会津坂下町
たばねまつとうげ・紅葉の旧越後街道




--------------------
平成25年(2013)
・11月 1日
 Mさんに
 「そのうち束松峠に行くが一緒にどうか」と声を掛けときながら、急に何やら都合が付いて一人で行く事になった。天屋から歩き始めてほぼ40分で頂上(峠の茶屋跡)に着く。道筋は紅葉が盛りで秋の旧越後街道を満喫した。機会があれば再々行きたいと思う
 また、去る10月27日に秋月悌次郎「北越潜行の詩」碑の除幕式が行われたとの事。以下にその記事を引用してupする

c0185705_22203312.jpg

以下、旧越後街道取り付きにある案内板から

福島県指定天然記念物
てんや   たばねまつ
天屋の束松
         昭和四十二年十二月八日指定
     所在地 河沼郡会津坂下町大字束松字八百刈、大字本名字水上・字中田山
     所有者 本名区ほか

 会津坂下町大字束松字天屋に、束松と呼ばれる特殊な樹形のアカマツが生育することが昔から知られ、束松という地名もこれに由来している。
 現在は天屋の西、旧越後街道に沿う標高三〇〇メートル前後の丘陵地帯に十数本あり、特に目立つものは四本である。これらの松は樹幹の下部から中部にかけて、五〇度から八〇度の角度で急斜上する多数の枝を出し、傘状の樹冠を形成している。枝の急斜上するさまが、あたかも束ねたような姿を示すので、束松の名がついたのであろう。
 現存する最大のものは、目通り幹囲り三・四八メートル、樹高約二八メートルで、地上三から八メートルのところで五本の大枝を急斜上させている。外に目通り幹囲りが二メートルを越えるものが三本あり、このうち一本は地上一・五メートルのところで三本の大枝に分岐するので、三本松の名もある。
 このような樹形はおそらく遺伝的なもので、成長するにしたがって独特の樹形を示すようになったものと思われる。
     福島県教育委員会

写真;ひこ束松、2013.11/01
--------------------

坂下で詩碑除幕/秋月悌次郎「北越潜行の詩」

 幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後に詠み、会津三絶の一つといわれる「北越潜行の詩」の詩碑が福島県会津坂下町の束松峠に建立され10月27日、除幕式が行われた
 悌次郎は戊辰戦争の敗戦後、会津藩の善処と藩の若者の教育を懇願するため、旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行った。その帰り道に束松峠の頂上から故郷を眺め、藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされる 
 束松峠を生かした地域振興を図る地元のグループや秋月悌次郎顕彰会、歴史愛好者らは、悌次郎の功績を伝えようと詩碑建立を進めてきた。除幕式は悌次郎の子孫に当たる仙台市の秋月孝真さん、悌次郎の伝記「落花は枝に還らずとも」を執筆した直木賞作家の中村彰彦さんらを迎え、行った
 実行委員会の目黒督朗委員長、秋月さんがあいさつした後、来賓とともに除幕した。出席者は会津盆地を望む峠の頂上に立つ詩碑を前に七言絶句の「北越潜行の詩」を吟じ、会津を愛した悌次郎に思いをはせた
 除幕式後、会津坂下町中央公民館で中村さんの記念講演会が開かれ、悌次郎の生きざまを振り返った
福島民報 10月28日(月)11時37分配信

落花は枝に還らずとも(上)(2013.05/02)
--------------------
c0185705_22494099.jpg

写真;紅葉の旧越後街道、2013.11/01



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]