カテゴリ:中野竹子( 3 )

2013.09/13(FRI)

中野竹子殉節之地 会津若松市神指町




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写真;2013.09/11
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--以下、現地の案内板から--
史跡 中野竹子奮戦の地
   会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原甲一〇一六/一〇一七/一〇一八

 明治戊辰(一八六八)の役で、西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が通っていた
 八月二十三日には、中野竹子・優子の姉妹を中心とした婦女子隊は坂下まで出陣したが、八月二十五日には、婦人の従軍が許されたので、黒髪を断ち、薙刀をかかえ、衝鋒隊に加わり、城下にせまる長州・大垣藩の兵士とここで遭遇し、激しい戦いが展開された
  竹子は辞世の

 武士の猛き心にくらぶれば
  数には入らぬ我が身ながらも

と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけ奮戦したが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげた。時に二十二歳であった
 墓は会津坂下町の法界寺にある
     昭和五十七年十一月/会津若松市教育委員会
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中野竹子の墓(2013.08/15)



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2013.08/15(THU)

中野竹子の墓 会津坂下町、法界寺




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--以下、現地の案内板から--
娘子軍隊長/中野竹子の墓
辞世
   もののふ
 武士の猛き心に比ぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも
 風雲急をつげる戊辰の役に竹子は娘子軍を編成し、自ら隊長となり、鶴ヶ城救援に赴いた。薙刀に長じた竹子は勇戦奮斗中不幸にも銃弾にたおれ、介錯を命ぜられた妹優子は泣く泣く首をはね娘子軍編成の地である法界寺に葬った。竹子は書をよくし数点の遺品と薙刀は寺宝となっている
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墓石の字句消滅をおそれこれを後世に残す為に建立する

小竹女史之墓
 明治二年越後の府吏横井、沢田氏建立
 明治紀元戊辰仲秋廿四日忠婦若松城西柳橋に於いて戦死す
   二階堂三碩誌す
昭和四十八年三月二十四日
 當山二十八世 哲全泰雄代
 寄贈 猪俣謙一/木村昭雄
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中野竹子辞世の句碑
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2013.08/13(TUE)

会津戦争記聞 会津坂下町「法界寺」




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平成25年(2013)
・ 8月11日
 会津坂下に行く。メインの通りから少し奥まった場所に「法界寺」があり、中野竹子の墓がある。寺入口に「会津戦争記聞」の案内板があった
 刀をくわえた中野竹子の勇ましい姿に興味があってupする
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--以下、現地の案内板から--
「会津戦争記聞」
 明治10年(1877)に製作された戊辰戦争(会津戦争)の様子を描いた三枚組の錦絵。馬上の人物は藩主松平容保で、手綱を取るのが家老梶原平馬、藩主を守るように家老の内藤助右衛門と左に原田対馬、若年寄(防衛総督)の山川大蔵「のちに浩と改名」の重職が並び、真ん中に薙刀を持った玉木勇女、刀を口にくわえた赤岡竹女が描かれている。二人の女性はともに裸足で、男性に混じって戦う勇ましい姿が描かれている。中野竹子は薙刀の名手であるが、薙刀を持っていない赤岡竹女が竹子と思われる。左手遠方より板垣退助、西郷隆盛ら西軍が押し寄せてきており、実際にはない場面であるものの、当時の緊迫した臨場感が伝わってくる。
   【資料提供;福島県立博物館】
   会津坂下町(商工観光班)
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※↑ 錦絵右辺り
 馬上は藩主松平容保公、前左内藤助右衛門(介右衛門)、右梶原平馬

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※↑ 錦絵中央辺り
 左から山川大蔵、原田対馬、赤岡竹女(中野竹子)、玉木勇女

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※↑ 錦絵左辺り
 左手遠方から西軍、迎え撃つ構えの山川大蔵ら
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中野竹子(なかのたけこ)
嘉永 3年(1850)または弘化 4年(1847)?-明治元年(1868) 8月25日

生涯

 会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える
 新政府軍が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死。首級を敵に与えることを潔しとしない母の介錯により果てた。首級は農兵の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年18(21、22の異説がある)

辞世の句

 武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも

--Wikipedia「中野竹子」2013.08/13--



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