カテゴリ:会津坂下町( 5 )

2016.12/05(MON)

立木観音堂 福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原2944




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写真;2016.12/04

日本遺産 会津の三十三観音めぐり
     --巡礼を通して観た往時の会津の文化--
会津三十三観音第31番札所
立木観音堂
tachiki
 観音堂及び千手観音菩薩の其々が国重要文化財の指定を受けている。観音堂は寺伝によると建久年間
(1190年~1199)に建立されたといわれ、架構や細部手法などすべて和様で構成されている
 千手観音菩薩は塔寺の立木観音といわれるケヤキ材の一木造の千手観音像で、像高7.42メートル、総高は8.5 メートル余りの大像である
 なお、この千手観音には眷属として二十八部衆と風神・雷神合わせて30躯が完全な形でそろっている
・御詠歌
遥るばると 参りて拝む恵隆寺 いつも絶えせぬ松風の音
--極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー--
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隣接して、国重要文化財 「旧五十嵐家住宅」 がある
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2015.11/07(SAT)

町野家・南摩家家族殉難(自刃)の地 会津坂下町勝大、沢口1336・勝方寺裏山




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碑裏面
  会津戊辰戦争
      殉難の碑
     町野主水孫 井村百合子建之
     会津史談会協賛
     平成五年九月七日
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・町野ヤヨ  三百五十石主水の妻/明治元年八月二十五日会津勝方で自害/二十四歳
・町野ナオ  主水の娘/明治元年八月二十五日会津勝方で死/七歳
・町野源太郎 主水の伜/明治元年八月二十五日会津勝方で母らと死/三歳
・町野キト  主水の母/明治元年八月二十五日会津勝方で子女と自害/四十七歳
・町野フサ  主水の姉/明治元年八月二十五日会津勝方で自害/三十一歳
・南摩勝子  弥三右衛門の母/明治元年九月会津勝方村で二子自害/四十二歳
・南摩 寿  弥三右衛門弟/明治元年九月会津勝方村で母、弟と死/八歳
・南摩 辛  弥三右衛門弟/明治元年九月会津勝方村で母、兄と死/四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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町野主水 天保10年(1839)11月25日 -大正12年(1923) 6月 9日
幕末の会津藩士
慶応 4年(1868)
・八月十一日 佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に官軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将・萱野長修の命により軍事奉行・樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主・松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える
・九月七日 母きと、妻やよ、姉ふさ、長女なを(七才)、長男源太郎(三才)の五人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母・南摩勝子はその二人の男子(九才、四才)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。七才になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである
--引用・要約;「町野主水」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.01/17(土)12:06--
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写真;勝方寺・2015.11/06

その名は町野主水(2016.07/19)
町野家家族墓・融通寺(2016.07/07)
町野主水墓・融通寺(2016.07/07)
町野久吉首塚・融通寺(2016.07/07)



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2013.08/22(THU)

天屋・本名 会津坂下
てんや・ほんな




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以下、現地の案内板から(写真も)
          あい  しゅくてんや  ほんな
旧越後街道間の宿天屋・本名
 天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
 明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。
     束松峠を護る会
     会津坂下町教育委員会
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2013.08/18(SUN)

束松事件現場 たばねまつ/会津坂下町
伴百悦




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写真;現場付近 2013.08/11
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以下、現地の案内板から

束松事件現場

 束松事件は、元越前藩士久保村文四郎が会津藩士高津仲三郎・伴百悦(ばんどういつ)らによって殺害された事件である。久保村は戊辰の役で敗戦した若松県の役人となり、会津藩を誹謗中傷して恨みを買っていた。任終わり帰郷の途中、この場所で誅され伴は自害し、高津は明治政府を震撼させた思案橋事件に連座したといわれる。
 高津も伴も会津藩きっての剣客であり高潔の士であった。
     (高寺ふるさとを興す会)
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伴百悦

明治 2年(1869)
・ 7月12日
 会津藩士高津仲三郎・伴百悦ら、久保村文四郎を斬殺
明治 3年(1870)
・ 6月22日
 そのまま新津に逃れていた伴は、新津郊外大安寺村慶雲庵で村松藩兵に包囲され自害。享年42

経歴

会津藩上級藩士伴佐太郎宗忠(500石)の長男として郭内本四ノ丁三日町口郭門西で生まれる。伴家は代々藩の鷹番頭であった

戊辰戦争では萱野右兵衛隊組頭として越後口で奮戦、のち朱雀隊寄合二番隊中隊頭を務める。長岡城陥落後会津に戻り、篭城戦で活躍
  東軍死者  4680人
  会津の死者 2557人(女 194人)

埋葬作業

明治元年(1868)9月22日の開城後、10月1日に民政局が設置されるが2000余の会津藩士の遺体は賊軍という汚名のもと埋葬することも許されず、腐乱するがままになったと巷間言われているが、同月4日には郭外に放置されている遺体を城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた「遺体埋葬令」が出された(会津若松史6巻)ものの、降雪と12月までに頻発した一揆のため作業が中断されたとするのが実情で、この間「『彼我』の戦死者一切に対して決して何等の処置をも為すべからず、もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との会津若松での明治新政府通達が出され、会津側だけでなく、新政府側兵士の遺体も野ざらしにされたという。当時若松取締の町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。こうして阿弥陀寺1281、長命寺 145など16ヶ所に総数1634の遺体が、 2ヶ月にわたり埋葬されたという

束松事件

満足して滝沢村に帰ってきた伴らであったが、待っていたのは民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。当時全国的に横行していたニセ金ニセ札つくりは会津でも例外ではなく、容疑者を捕らえると久保村はろくに調べもせず斬首する圧政者として若松城下では誰知らぬ者はなかった。その久保村は、明治2年民生局の廃止で職を免ぜられ、7月に故郷越前に帰藩することになる。久保村出発の日を探り出した伴は高津仲三郎(思案橋事件で刑死)ら同志とともに束松峠(会津坂下町)で待ち伏せして斬殺、越後方面に逃亡、大安寺村(現・新潟県新津市)の坂口津右衛門のもとに身を寄せた
翌 3年 6月22日
伴の潜伏する大安寺村の慶雲庵に村松藩の捕吏が殺到、伴は捕吏の一人を板戸越しに刺した後相手方の怯んだ隙に自刃して果てたという
--引用、Wikipedia「伴百悦」2013.08/12--
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2013.08/17(SAT)

慰霊/戊辰役殉難碑 会津坂下町、法界寺




 中野竹子のゆかりの地、坂下町「法界寺」境内にある。碑は近年に建立されたもののように見える
 福島県知事 松平勇雄書とある

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松平勇雄(まつだいらいさお)
明治40年(1907) 6月14日-平成18年(2006) 4月 1日
日本の政治家。参議院議員、福島県知事を務めた

明治40年(1907)
・ 6月14日
 伊佐須美神社宮司松平健雄(松平容保の次男)の次男として会津高田町に生まれた
※ 松平容保公の孫にあたる
昭和26年(1951)
 参議院議員選挙に初当選。以後参議院議員を4期23年間務めた
昭和51年(1976)
・ 9月19日
 福島県知事選挙に当選。任期中、福島県立図書館や福島県立美術館、福島県立博物館などの文化施設を設置し、「文化の知事」と呼ばれた。昭和63年(1988)9月18日まで3期12年間務めた

※ 初代参議院議長などを務めた松平恒雄は叔父
Wikipedia「松平勇雄」2013.08/17
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