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2014.06/28(SAT)

戊辰之役「棚倉戦要図」
戊辰戦争と棚倉藩(近藤敏明著)




弔魂之碑 2012.11/16

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 戊辰役棚倉藩戦死者弔魂碑
・蓮家寺境内
  藩士阿部内膳以下四十七名
  郷夫/殉難者十名
  明治庚辰五月 阿部正功
・内儀茂助之墓
  表郷村下羽原
  鹿島神社隣り緑川氏敷地内

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三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2012.12/08(SAT)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦
五、白河口の戦い②
 4.五月一日以後の白河城攻防戦
六、棚倉城の戦い
 1.西軍棚倉城に迫る
 2.棚倉城落城
 4.浅川城(青葉城)の戦い
七、落城後の棚倉
 1.政府軍占領下の棚倉
 2.黒羽藩管理下の棚倉

 八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰

 1.戊辰戦争の終結

慶応 4年(1868)
  5月 1日 白河城落ちる
  5月15日 彰義隊破れる
  6月24日 棚倉城落ちる
  6月28日 磐城泉城落ちる
  6月29日 磐城湯長谷城落ちる
  7月13日 平城落ちる
  7月26日 三春藩降伏
  7月29日 二本松城落ちる
  8月 4日 中村城落ちる
明治元年(1868)
  9月 8日 (明治と改元)
  9月10日 二本松藩主降伏
  9月15日 仙台藩主降伏
  9月18日 棚倉藩主降伏
  9月22日 会津藩主降伏
  9月23日 庄内藩主降伏
  9月24日 泉・湯長谷・平藩降伏
明治 2年(1869)
  5月18日 榎本武揚降伏、戊辰戦争終結

 2.阿部氏の復帰と領民の反発

明治元年
・ 9月18日
 阿部正静、白河口総督に謝罪□願書を提出し降伏した
 謝罪文(一部)

「素心勤王之外毛頭ニ念無御座候処、全遠境之僻土に罷在、春来天下之事情も隔絶仕、恐多も厚き叡慮之程も具に不奉伺、一時之行違より終に今日之仕儀に立至候段、誠以奉恐入、悔先非謝罪仕候。」

 各藩主の謝罪を受けた政府は仙台・南部・二本松・棚倉等の前藩主の罪を許した
 棚倉藩阿部正静は義理の叔父にあたる基之助(正功)に家督を譲り、基之助は棚倉藩主に復帰することとなった
 ところが、長い間幕藩体制の重圧に苦しんだ領民は、戊辰戦争終結に至って新政府施政に微かな曙光を見出したのも束の間、阿部氏復帰に不満を持ちこれを阻止しようとした
明治 2年
・ 2月 8日
 南北両郷の農民、中山本村大地平に集合し「天朝御領化」の歎願について相談した
・ 2月 9日
 西河内村、堀越村の農民が山林に集合
・ 2月10日
 四、五百人の農民が集合し、11日にかけて八溝山を越えて黒羽領に入り兵糧の下げ渡しを歎願した
・ 2月15日
 農民惣代富岡村の源右衛門、福岡村の善右衛門、中山本村の新三郎、北山本村の八之右衛門の四名が歎願書をもって東京に向った

 明治己巳年二月
  歎願書
  乍恐以書付奉歎願口上之覚
 大関美作守様御取締所之内磐城国白川郡棚倉附郷村中より奉歎願惣代之もの共奉申上候..
(以下省略)

※ 歎願は黒羽藩主大関増勤にあて、黒羽藩の支配を請うものであったが..

・ 2月15日
 黒羽藩大関美作守から阿部基之助へ棚倉藩引渡しの沙汰書が届いた
・ 2月16日
 領内農民は取締役所前に集合し阿部氏への領分引渡し延期を要求した
・ 2月17日
 領民の抵抗空しく領地引渡しが完了した

 四ツ半時御引渡無滞相済候
   渡し方 家 老    益子右近
       郡奉行    那須真小一
       徒目付兼作事 松本調平
   受取方 家 老    平田治部右衛門
       参 政    鈴木源右衛門
       応 接    長谷川林右衛門
       郡奉行    江森鎮八郎
       地方支配   岡本与右衛門

 これにより黒羽藩の棚倉取締はすべて終了し、再び阿部氏支配に戻ったのである

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2012.12/06(THU)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




平成24年(2012)
・12月06日
 「戊辰戦争と棚倉藩」近藤敏明(1989.02/24) 59p
 古書てんとうふ(郡山市池ノ台)から本を購入した。著者の近藤敏明氏は地元棚倉町在住
 以下、引き続き部分的に引用しながら要約してupする
※ 残りあと1回なり ^^;)
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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦
五、白河口の戦い②
 4.五月一日以後の白河城攻防戦

 六、棚倉城の戦い

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 1.西軍棚倉城に迫る

・ 5月29日
 東山道先鋒総督参謀板垣退助は宇都宮より土佐軍を率いて白河に入る。大工町の常端寺を陣営とした
・ 6月23日
 六月十四日阿波藩を率いて江戸を発った大総督参謀鷲尾隆聚(たかつむ)、白河に入り常宣寺を本営とした
・官遣密使(東白川郡史)
「官参謀伊地知正治、阿部家元主家と縁あり、撃つに忍びずとなし、川村純義と謀り、僧賢邦をして窃に、降を棚倉に勤めしむ、賢邦、蜜旨を齎らし下るの途、会々棚倉藩士石山斎兵衛に逢ふ、斎兵衛、賢邦の往くを遮る、賢邦、還りて命を複す、伊地知等怒り、棚倉攻撃の議を決す。」
・6月24日
 鷲尾大総督参謀白河着によって棚倉城攻撃の軍議が決し、参謀補助(副参謀)板垣退助の指揮する薩・長・土・忍・大垣五藩の兵八百余人が大砲六門をもって棚倉に向かう
 関山前から二手に分かれ
 一隊は薩兵百五十人、土兵百余人旗宿を通る
 他の一隊はその余の兵で本街道(棚倉街道)郷土を通る。郷土には東軍砲台を設けるも破られ、関山上からも砲撃したが効果はなかったと云う
 黒羽兵八十は白坂村から中野村に出て、白河からの旗宿通りの兵と合流、中野の東軍を破り、番沢で戦い、金山村に出て本道隊と合流した
 金山村には仙台・相馬・二本松・棚倉の兵四百余が守備していたが、番沢の砲声に驚き退却した

 2.棚倉城落城

・西軍は金山を出て二手に分かれ、薩・長・大垣・黒羽の兵は間道を通り小菅生から小丸山に出て棚倉を砲撃
 戊辰戦争記阿部正功家記によると
 「西軍金山口を破りて、熊坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻りなり」
 とある。小菅生を通ったのか熊坂であったのかは不明
・一隊は本堂を進み逆川に至る(長・土・忍の兵)
 逆川の東軍は防戦するが、先に相馬の援兵は逆川から浅川へ、会津兵は須賀川へ引き揚げてしまっていた。棚倉藩兵孤軍支えきれず城下に退く
 釜子にいた兵も棚倉の砲声を聞き西軍を横撃しようと進軍したが、社川が増水していて来援は叶わなかった
・四方に出兵し、相馬・会津の兵は引き揚げ、来援は来たらず、城を守るのは棚倉藩兵三百士。死力を尽くしても城を支えることは不能とみて、自ら城と城下に火を放った
 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
 棚倉藩戦死者
本多九左衛門、奥原一、三沢錦八郎、内儀茂助、上田源八、村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、郷夫・惣内、郷夫・新吉、郷夫・竹次郎
 東白川郡史によると
「六月二十四日、棚倉城落城。
夜半の大雨、暁に至りて竭み、炎晴、銕を燬く時、六刻、砲声、殷々,城下を圧し,金山の関門破ると伝ふ、老若先づ走り、男女、家を舎て北ぐ、全街人無き、狗子、影を滅す、官、赤館に迫る、大砲隊長、吉田七郎左衛門、其子、国之進を始め、部下を従い防戦死力を尽す、突如、小丸山上、銃声、急霰の如く起る、支え難きを覚り、砲を壕に投じて走る、先是藩兵、火を城に放つ、焰、天に渦き、英俊苦心の名城、一瞬にして消ゆ、次いで、炬を街に挟む、官、来りて水を濺くも、古町以南、全く玄野と化す」
 西軍の記によると
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧らが如く..
 この日東軍の首級十五、長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人とある

 4.浅川城(青葉城)の戦い

・ 7月16日
 すでに棚倉城は落城していたが、会津・仙台・二本松・棚倉の残兵は棚倉城を奪回しようと計り、棚倉の外郭陣地浅川城に集結
 西軍の記録によると
「敵は七月十六日払暁、雨をついて浅川の東北で、社川の対岸にある城山上に大砲五門を引き上げ、ここから浅川の西軍陣地を眼下に見て砲撃し、歩兵も山を降って前進攻撃してくる。西軍は砲二門で応戦したが、東軍の勢力は衰えをみせず、必死の防戦をし、援軍の来るのを待った」

「臨時救援隊の応援で急峻な城山の敵をその側面攻撃が成功し、敵の陣地に突込み敵は全くの不意打ちをくって山下に逃げ滝輪方面に逃走した」

 七、落城後の棚倉

 1.政府軍占領下の棚倉

 棚倉城が落ちると総指揮をとっていた前藩主(白河)阿部正外は敗残の兵を集め、所領地伊達郡保原に退き、援兵要請のため会津に行っていた正静も保原に入った
 落城後城下を占領した政府軍は住民の帰住を呼びかけた

 阿部美作儀
 朝敵たるにより追討被
 仰付候、然に農工商三民之儀ハいささか御かまぬ不被為在候間、早々帰住安堵いたし、成丈生業相いとなみ可申候事
   辰 六月     棚倉在陣
              下参謀
              軍監

・占領下の棚倉では掠奪、無法が横行した
「家々の諸道工衣類に至る迄不残官軍の中ニハ、人足等を至り分取りいたし候事ハ、咄し筆舌につくしがたき其内ニも商人ごふく太物によらず堅口五穀ニ至る迄分取はげしく事かぎりなし。」
 これは木谷正男文書の日記覚控にある文章と云う
・見かねた大総督府は板倉参謀補助らに宛てた示達に
「去ル二十四日、棚倉落城の節、各藩之内敦レノ藩ニ候哉、市中或ハ農家ニ立入、金銀其外衣服等奪取候徒も有之趣相聞、如何之事ニ候、兼テ被仰出御箇条モ有之候故、向後屹度取締可申旨、仰出候事」
とある
 棚倉藩兵の放った火によって焼け落ちた家の復旧もままならず、政府軍の労役に従い、小屋掛け住い、焼け残った家は政府軍宿舎に提供しなければならなかった

 2.黒羽藩管理下の棚倉

 慶応 4年(1868)
・ 7月24日
 棚倉城下を占領していた政府軍は、板垣退助に率いられて棚倉を発し、三春・二本松攻略に向かって、棚倉は黒羽藩の管理となる
・黒羽藩は棚倉に取締役所を置き、新政府からの示達等を村・町役人などに知らせる一方、願書・届書を処理するなどの業務を行った。黒羽藩支配の基調は、戦災のために荒廃した城下や村々が一揆など起さぬよう、かつ復興することにあった
 旧棚倉藩の封建制とは対照的な施政は領民に朝廷の恩恵を印象付けたのである

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2012.12/03(MON)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦

 五、白河口の戦い②

 東白川郡史
 「五月朔日、昧爽(まいそう)、官、兵を三道に別ち、撃つ、乃ち薩二、四番隊、南湖より、棚倉街道に進み、同五番隊及大垣、長州の一隊、黒羽を経て、原方に出て、爾余の兵、本街道を扼す、一軍烽火を揚げ、各軍望み見て砲火発す、奥、死守、二時間、遂に潰ゆ、官、三番隊、迂回、長山の奥を追ひ、四番隊に合し、砲台を横撃す、奥散る、官、更に一隊を二分し、本沼街道、山に背道を絶ち、各軍一呼して攻む、城落つ。」

 4.五月一日以後の白河城攻防戦

 五月一日の戦いで白河城を失った東軍は城の再奪還をはかった
・ 5月 4日
 須賀川で奥羽列藩の会議を開き各藩の部署を定めた
 上小屋方面には会津の総督西郷頼母の諸隊が陣し、上田八郎右衛門らは大平方面を固め、羽太村に本管をおいた
 本道には仙台、二本松、会津の兵が矢吹に陣し、会津、相馬、棚倉兵は金山方面の守備についた
 西軍も白河に在って防備の策を為し、四方に番兵を出し持ち場を定めた。本道・黒川口は薩摩の兵を、旗宿口・石川口は長州・忍の兵を、湯本口・大谷地口・根田口・白坂口は大垣の兵を配した
・ 5月21日 七曲の戦い
 このころの戦いで仙台の「烏組」が細田十太夫指揮のもと六十七人悉く抜刀し西軍を潰走させたと伝わる。烏組は奥羽街道沿いの博徒、無法者を募って組織したゲリラ隊である
・ 5月25日 東軍白河に迫る
 大田川、小田川、本沼などで小戦闘。小田川に集まる東軍の兵百余人を薩・長・大垣の兵が破り大田川を焼いた。長兵四番隊は鹿島口より本沼に向って東軍を破り民家に火を放った
 東軍死者十五、西軍死者一、傷一、大和田でも小戦があった
・ 5月26日 東軍また白河城に迫る
 棚倉口・矢吹口・長坂・大谷地の東軍、柏野・折口の会兵進みて戦闘。また金勝寺・富士見山などで戦闘。東軍死者三十余、西軍死者一、傷三
 白坂天王山で黒羽・大垣兵と戦闘。東軍棚倉・中村兵死者十一、西軍死者一、傷六
 棚倉藩の太田友治、林忠作、奥貫定次郎、鈴木朝太郎戦死
・ 5月27日 金勝寺の小戦
 金勝寺の東軍、大谷地に退く。双石焼かれる
・ 5月28日 合戦坂の小戦
 金山の東軍、合戦坂に進撃して小戦闘。釜子の東軍も搦目山に迫るが戦わずして退く
 東軍死者二
・ 5月29日 東軍白河城総攻撃
 仙台藩は白河関門・羅漢山・富士見山に、会藩は金勝寺から向かい、また雷神山・折口に、会藩の一隊は棚倉口にあって西軍の隙をうかがう
 西軍は本道・黒川口・旗宿口・石川口・湯本口・大根田口・白河口に薩・長・忍・大垣の兵を出して守る
 棚倉藩は棚倉口の戦いに応援したが不利。会津戦死十余、仙台戦死八、西軍戦死六
・ 6月 1日 七曲の戦い
 会津・仙台の兵合して西軍二百ばかりと戦闘。西軍敗れて根田に退く
・ 6月 8日 仙台の細谷十太夫和田山に陣し、西軍富士見山から砲撃した
・ 6月 9日 西軍数十人銃を発しつ富士見山から進む。細谷組応戦し勝敗決せず
・ 6月12日 五月一日に次ぐ大戦
 東軍はこの戦いをもって白河城を奪還すべく
>棚倉口からは会津の純義隊・棚倉兵・相馬兵が
>根田の和田山からは仙台兵が。愛宕山方面からは会津兵が
>大谷地口からは会津・仙台・福島兵が
>下羽太から白坂口へ会津・仙台兵が出兵

・棚倉口は薩・長・忍の兵に破られ
・根田・大谷地も薩・土の軍に破れ退く
・本道愛宕山方面も苦戦
・下羽太の戦況は有利に展開したが西軍に来援あって退いた

 結局敗戦となって白河城奪還は不成功に終ったのであった

 棚倉藩戦死者
権田東左衛門、桜井左狩、曽我庄助、村田真八郎、山岡次三郎、野口伝左衛門、平賀金右衛門、宮田八十吉、川勝弥一郎、日向友三郎、中島仲助、根岸栄次郎、郷夫・亥之吉、郷夫・善兵衛、郷夫・善蔵
 六月二十四日には西軍棚倉城を落とし、その後も白河方面の戦いは続いた
 白河戦は七月二十八日の羽太・虫笠・真名子の戦いを最後に砲声が絶えたと云う

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2012.12/02(SUN)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟

 五、白河口の戦い①

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 1.会津兵白河城を奪う

・閏 4月20日(閏 4月19日か)
 閏4月18日に世良修蔵が白河を発って仙台に向かった機会をねらって湯本口、羽鳥口に駐屯していた会津兵は白河城の搦手・追手門より攻め入った
 白河城を守備していた奥羽軍は既に奥羽列藩同盟が成立し、会津を攻める意志をもってないため戦うことなく逃亡した。城はその日のうちに会津兵の手に落ちたのである。21日には下野・陸奥両国の境に「従是北白川領」の道標を取り払い「従是北会津領」の標が立てられたと云う

 2.皮篭原の戦い

 西軍(ここから官軍を西軍、奥羽軍を東軍と呼ぶこととする)が境の明神を越えて奥羽に攻め入ると、会津攻撃の奥羽関門口である白河城を攻撃の第一目標としたのであった
慶応 4年(1868)
・閏 4月24日
 21日に大田原を発った西軍は芦野に宿す。東軍は白坂口、棚倉口、原方街道に兵を出し西軍に備えた
・閏 4月25日
 棚倉藩は総指揮阿部内膳のもと四百の藩兵が白河城に向け進発した
 東白川郡史によると
 同月二十五日、棚倉城、号砲を放って兵を集め、白河に進発す。「棚倉進発」城内十柵砲を放ち、令を四方に伝う。士卒、疾駆して集り、陣容、忽に整はる。
 総指揮阿部内膳、隊長高木与三兵衛、軍目印藤庄右衛門、副軍目海野甚蔵
(以下省略)

 同月二十五日、払暁から正午にかけて薩・長・大垣・忍藩の西軍白坂口を攻める。東軍白坂口の山口次郎(新撰組)、遠山伊右衛門、米村の会津藩日向茂太郎、九番町の樋口久吾、棚倉口の小池周吾、原方より鈴木作右衛門ら進撃する
 西軍は皮篭原に散開し猛烈に東軍を衝いたが、東軍は三方より包囲したため参謀伊地知正治は戦況の不利をみて芦野に退却した
 東軍は余勢をかって境の明神まで西軍を追い、戦いは正午ごろ終った。この日の戦いで、与惣小屋付近から稲荷山方面を目がけて攻め込んできた薩・長・大垣兵十三人を捕え斬首した。首級を追手門にさらしたと云う

 3.白河口の大激戦

・ 5月 1日
 皮篭原の戦いで芦野に退却して隊勢を増員し、白河攻略の策を練っていた西軍は再び進発する
東軍
 仙台藩、棚倉藩(平田弾右衛門指揮)来援。会津、仙台、棚倉藩は桜町方面を守り、白河口方面には井口源吾、杉田兵庫、新撰組の山口次郎らが向った。原方方面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加わる。東軍総兵二千、砲八門をもって対す
西軍
 宇都宮に在った薩・長・大垣藩兵、江戸に在った因州、備前、大村、柳川、佐戸原の兵が来援。西軍総兵七百、砲七(八)門をもって白河城を攻める
・午前四時、西軍三道より白河口に迫る
>原方街道
 道案内は上黒川村の問屋内山忠之右衛門(のち会津藩士に捕えられ、会津に連行され斬首されたと云う)
 薩・長・大垣藩兵、砲三門をもって白河城に向け進撃
>本道(奥羽街道)
 薩・長・大垣・忍の藩兵、砲四門をもって小丸山、稲荷山に向け進撃
>白坂村より棚倉街道に合流する間道
 道案内は白坂村庄屋大平八郎(明治二年、会津藩士田辺軍次に討たれる)。白坂村より五器洗・十文字を経て棚倉口・桜町方面に出る
 薩摩二番隊、四番隊砲一門。四番隊長は後の海軍大将川村純義(与十郎)
※ 別資料を見たが砲の数に違いがある?
・午前六時、本道隊先ず砲火を開く
 西軍の策は、中央の本道隊が先ず戦端を開き、東軍の注意が中央にとられて狼狽する隙に、左右の部隊が敵の背後にまわり烽火を合図に総攻撃をかけるという陽動作戦であった
・両翼隊、東軍を包囲し、棚倉口に進んだ隊が搦目山で烽火をあげた
・これを合図に三方より東軍を攻撃
・棚倉口(合戦場あたりか)桜町の陣先ず崩れた
 棚倉藩十六ささげ隊、奮戦するも及ばず隊長阿部内膳重傷を負って金勝寺方面に非難するが力尽きて戦死する
隊員、次のとおり
阿部内膳、有田大助、大輪準之助、北部史、志村四郎、川上直記、梅村弥五郎、須子鋭太郎、宮崎伊助、鶴見滝蔵、富田熊太郎、湯川賢九郎、阿部鏡蔵、村社勘蔵、野寺均、山岡金次郎
東白川郡史によると
「古装十六士、別手隊長有田内記等十六名。頑として洋化を斥け、特に乞ふて一家伝来の鎧甲冑を着け金光燦然として蘭兵の間を縫ふ最も衆目を惹きしと伝ふ。」
 阿部内膳の外、棚倉藩では牧田三之助、小池理八(重傷割腹自刃)戦死
・桜町口に続き稲荷山、天神山の陣潰走、本道裏長坂山も包囲され東軍は敗走した
>仙台藩参謀坂本大炊、天神山で戦死
>仙台藩士姉歯武之進(福島で世良修蔵暗殺に加わる)桜町で戦死
>会津藩副総督横山主税、稲荷山で戦死
>会津藩総督、家老西郷頼母、士卒と共に勢至堂に退却
>仙台兵、二本松に退却
・この日の戦いが終ったのは午後二時、激しい戦いが展開されたのは九番町から稲荷山、白井掛、薬師山、竜興寺裏、蛇石、藤沢など白河市街の南丘陵であった。東軍の死者六百八十三人、西軍は死傷者七十人だったと云う。五月一日白河口の戦いは東軍の一方的な敗戦に終り、東軍は白河城を失ったのである
 棚倉藩戦死者
阿部内膳、秋元左内、発知為一郎、小池理八、平井勲、印東準一郎、森野与作、木村徳太郎、松原庄蔵、牧田三之助、松沢粂太郎、小川猪之助、管沼謙三、原保之助、岡崎大吉、川崎助次郎、植村平蔵、間野保之助、郷夫・文之助、郷夫・伊三郎、郷夫・惣右衛門
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--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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2012.12/01(SAT)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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棚倉城跡(2012.11/04)
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写真;蓮家寺、2012.11/04
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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
 四、官軍東征と列藩同盟

 1.官軍東征の途につく

慶応 4年(1868)
・ 2月 9日
 新政府、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征大総督に任じ、東海・東山・北陸の三道に分かれ、京都を発ち江戸城を目指す。東山道を進んだ先鋒隊は参謀板垣退助、伊地知正治でこの部隊が白河城、棚倉城を攻める主体となった
・ 2月15日
 大総督有栖川宮、参謀西郷隆盛らを従え、錦旗を先頭に京都を進発
・ 2月26日
 九條通孝、奥羽鎮撫総督となり
・ 3月 2日
 薩摩、長州、筑前、仙台の守衛兵を従えて京都を発した(海路奥羽に向い松島に上陸)
・ 3月 5日
 駿河城に入る
・ 3月12日
 東海先鋒、品川着
・ 3月14日
 東山先鋒隊、江戸に入る
・ 3月15日
 官軍、江戸城総攻撃を決定する
※ 官軍総兵五万
 徳川慶喜、江戸城総攻撃の報を聞き、上野寛永寺に入って謹慎、恭順の意を表し、勝安房を薩摩邸に遣わして西郷隆盛と会見させ、慶喜の意を伝え江戸城総攻撃の停止を懇請すると西郷はこの旨を総督に伝えることを約した。江戸城は無血開城となる
・ 4月 4日
 北陸先鋒、江戸に入る
・閏 4月 5日
 九條通孝奥羽鎮撫総督、奥羽諸藩に会津征討の令を出した。仙台藩は土湯、中山、石筵に、棚倉藩は須賀川に兵を出した

 2.奥羽列藩同盟

 官軍首脳の会津討伐強行策に対し、会津藩には恭順の意志があるとして仙台・米沢の二藩は征討の中止を要請したが容れられなかった。奥羽の兵をもって奥羽を討つのは不可とみて長州藩及び宇都宮にいる東山道先鋒隊に来援を命じた
慶応 4年(1868)
・閏 4月11日
 仙台・米沢の二藩、白石に奥羽各藩の重臣を招集し列藩同盟を結ぶ。加盟は盛岡(南部)、亀田、矢島、一ノ関、山形、上ノ山、福島、二本松、相馬、三春、守山、棚倉の各藩
※ 棚倉からは家老平田弾右衛門が出席したが逡巡な態度であると仙台藩から非難されたと云われ、藩に戻ってからの報告では賛否交々、正静は苦渋の末に加盟を容認したものであろう
・閏 4月12日
 仙台・米沢両藩は会津藩の嘆願書に両藩並びに白石会議の重臣らの嘆願書を添え、岩沼(宮城県岩沼市)にいる総督九條通孝に提出し事情を説明した。その感触は良かったものの、返事は「朝敵たるをもって討伐する」旨の令達であった。同盟各藩はこれは薩長の陰謀であり、鎮撫総督参謀世良修蔵の独断専決にほかならぬと憤慨。第二回目の列藩会議を開くこととなる

 3.世良修蔵暗殺

・閏 4月20日
 閏四月上旬、鎮撫総督参謀世良修蔵は白河城に入り、守備していた仙台、二本松、棚倉、三春、湯長谷、泉、平の奥羽諸藩を指揮していた
 十八日世良は総督府における軍議のため白河を発って仙台に向い、十九日福島の娼楼金沢屋に宿をとり、この機に仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎・遠藤條之助ら十余名が襲撃した。二階から飛び降りた際に重傷を負って捕縛された世良は、二十日阿武隈川河原で斬首された。世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる

 4.奥羽越列藩同盟

・ 5月 3日
 先の白石会議において会津救済の嘆願書を提出したが容れられず、第二回の白石会議が招集された。前の同盟に秋田、弘前、新庄、八戸、平、福山、湯長谷、下手渡、天童を加えて二十五藩が加盟し列藩重臣が調印して建白書を送った
 棚倉藩からは梅村角兵衛(奥御用人)が出席した。次いで越後の新発田、松上、村松、長岡、三根山、黒川の六藩も加わり奥羽越三十一藩同盟が成立した

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
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2012.11/30(FRI)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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棚倉城跡(2012.11/04)

平成24年(2012)
・11月29日
 「戊辰戦争と棚倉藩」近藤敏明(1989.02/24) 59p
 古書てんとうふ(郡山市池ノ台)から本を購入した。著者の近藤敏明氏は地元棚倉町在住
 以下、部分的に引用しながら要約し、何回かに分けてupしようと思う
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目次
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 三、幕末の白河・棚倉

 1.白河城

慶応 3年(1867)
・正月28日
 白河城主阿部正静(まさきよ、阿部氏八代目)、棚倉移封となる

慶応 2年(1866)
・ 6月
※ 棚倉城主松平康英の白河移封が中止になり、翌年、正静の棚倉移封後は明城となった。慶応4年には正静が再び白河移封となるところだったがこれも中止となった。よって白河領城付六万石は幕府の直轄となり、民政は小名浜代官森孫三郎支配、城郭は二本松藩主丹羽長国の管理となる
慶応 4年(1868)
・ 2月16日
 朝廷は白河城を奥羽、とくに会津攻略の基地として仙台藩に交付、伊達陸奥守の家来伊達筑前守らが官軍の先鋒として白河城に入る

 2.棚倉城

元治元年(1864)
・天狗党の乱に出兵
慶応 2年(1866)
・10月27日
 松平康英(やすてる)、川越城移封
※ 天狗党の乱鎮圧に功あって二万石を加増され川越城に移封。康英は寺社奉行、外国奉行などを勤めヨーロッパ使節団副団長として渡欧、さらに棚倉藩主としては幕府の老中職をつとめるなど功績を残した。川越城主となってからは、大政奉還後の時世を洞察し、戊辰戦争では官軍(新政府軍)についた

慶応 3年(1867)
・正月28日
 阿部正静白河より棚倉城に移封
※ 阿部氏は正権より正静まで八代43年間に渡り白河城主であったが、正静の棚倉移封によって白河城は明城となった。経緯については先にも記したが、松平康英が慶応2年6月、白河移封を命ぜられるも中止となり川越への移封となった
慶応 4年(1868)
・ 2月 1日
 ところが、再び阿部正静に白河への所替えの沙汰があり、棚倉へは正静の父正外(まさと)が入ることになったのであるがこれらも取り止めになった
※ これは、徳川慶喜は大政を奉還し王政復古の大号令が発せられ慶喜の辞官、納地が決定された後のことで、朝敵として幕府追討の密勅が下されており、この所替えは天朝に背くことになるため内密に取り止めになった、また薩長の謀略によって白河を明城にしたとも云われている
・閏 4月 5日
 大政奉還後、奥羽鎮撫総督九條通孝は奥羽各藩に対し、会津征伐の命が出され棚倉藩も三百人の兵を出す
 棚倉藩出兵について東白川郡史に次のように記されている

閏四月五日、総督九條、各藩に令を下して兵を動かす。
「棚兵出動」五日会津征討の命下り、翌六日改めて庄内征討の旨伝はる、家老富賀須庄兵衛を将とし、中老平岩頼母を副とし、士卒約三百、途を須賀川に取り堂々進発す。会々、参謀世良、白河に在り兵を会津に転ぜんことを命ず。乃ち将士須賀川に停まる。

※ 世良 西軍の奥羽鎮撫総督参謀、長州藩士、世良周蔵、後に暗殺される
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 官軍征討と棚倉藩
慶応 4年(1868)
・ 1月15日
 新政府、奥羽十九藩に東征支援の令を出し会津追討の協力を呼びかけた
※ 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った官軍は、徳川慶喜、会津、庄内を征討すべく薩摩、長州、土佐三藩を主力とし東征の途についたのである
 一方の会津藩では抗戦準備を進めるとともに各藩へ応援を要請、棚倉藩にも使者が派遣された
 棚倉藩では非常の際の町方動員、町兵規制を示達して戦いに備えた
※ 藩は朝敵(賊軍)の汚名を着て官軍と戦うか、官軍に与して会津を討つか難しい選択を迫られ、諸藩の動向をうかがいつつ態度を決することとなる

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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