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2013.01/09(WED)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




佐久間律堂著 訳注 井上幸雄/金子誠三
戊辰白河口戦争記 復刻
 戊辰白河口戦争記復刻刊行会


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写真;2013.04/11
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自序
戊辰の役は、明治維新の新建設に伴って起こった極めて複雑した免れ難い戦乱であったが、武家時代最終の戦だけに、東西両軍何れも武士道精神を発揮して戦った
白河口の戦は頗る激戦であり、且つ長期に亘った戦争であったので、白河地方にはその戦跡も多く、史話や記録も亦多く遺されてゐる。余、大正九年白河に居を移し爾来二十有余年此等戦跡を遍く訪ね、古老に実話を質し、或いは旧家に記録を求めた。適々今秋戊辰戦争を距てる七十四年に方り、此等地方特殊なる郷土史料を一般史に織り込み「戊辰白河口戦争記」と題して上梓に附することとした
本書収むる所、雑録と見るべきものあり、また爐邊物語に類する所も少なくない。これ当時の実況を語るに足るものは片言隻句と雖も之を収録せるに因る。本書戦争史と言わずして戦争記と称したるもこれがためである。ただ著者の浅学寡聞、よく史実を尽くさず、推敲意に満たざる所多し、後日訂正修補の機あらん。されどこの小著世に裨益するあらば幸である。偏に江湖の批正を仰ぐ
口絵の五月一日戦図は、大山元帥伝の付図なるを、特に大山家の御許を得て本書に転載したるもの、戦図の縮写、白河城大手門の複写及び砲弾等の実写は何れも熊田猛夫氏の労を煩わしたるもの、題筌(だいうけ)は大谷五平士の揮毫(きごう)を岩越次郎氏の雕刻されたものである。こゝに附記してその好意を深謝す
  昭和十六年九月
  著者識す
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目次
第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る            3
第二章 西軍江戸城に進撃             7
第三章 奥羽鎮定の方針              10
第四章 奥羽列藩の白石会議            15
第五章 世良参謀福島に殺さる           19
第六章 会兵白河城を奪取             25
第七章 戦争当時の白河城             31
第八章 白河口の戦争               33
第九章 五月朔日の大激戦             38
第十章 西軍白河に滞在              59
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う         64
第十二章 東西相峙す二旬 1/2           67
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る            93
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで      101
第十五章 板垣参謀三春に向う          104
第十六章 若松城遂に陥る            114
第十七章 奥羽諸藩降る             119
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊        124
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔     127
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2         176
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2

第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る

慶応 3年(1867)
・10月
(戊辰戦争は鳥羽伏見の戦争から始まる)
将軍徳川慶喜は、慶応三年十月時勢を察し、「当今外国の交際日に盛なるにより、愈々(いよいよ)朝権一途に出不申候ては、綱紀難立」との大英断を以て大政を奉還した
朝廷これを許し、慶応三年十二月九日には小御所の会議が開かれた。これが新政府としての最初の会議である。この会議に土佐の前藩主山内容堂は徳川慶喜を召して会議に列せしむべしと主張したが、大原重徳・岩倉具視等はこれに反対し、且つ慶喜の誠意を疑い、且つ官位を辞せしめ、土地人民の返還を求めたのである。幕府側はこの会議の結果慶喜の退官となり、納地のことゝなった事を以て薩藩及び其一派の公卿等の陰謀であるとして憤慨する所あり、君側の姦を清むべしとした。賢明なる慶喜は幕臣の不平が輦轂(れんこく)の下に発してはと恐懼(きょうく)して、京都二条城から大阪に退いた。一方江戸では三田の薩藩邸に潜む浪士等の市中奪掠があり、西丸の炎上等の事があって、こゝに幕府側と薩藩とは反目した。三田の薩邸を焼いたのは十二月二十四日であった。この報が大阪に達すると、幕府側の諸隊は令を待たずに戎装(じゅうそう)した。即ち頃日の朝廷の措置は決して朝廷の真意でなく、薩藩等の奸謀となし、君側を清めねばならぬと、上洛掃攘の議が一決され、慶喜もこの説に傾いた、..
慶応 4年(1868)
・正月 3日
..慶応四年正月三日、慶喜入朝の事となり、幕臣は討薩の表を携えて上京した(薩藩は武力によって徳川三百年の勢力を破壊するでなくては王政復古の大業は為し得ざるものとして、故意に徳川主従を憤らしめたのである。そこで徳川主従は討薩の表を携えて入京となる。これが鳥羽伏見の戦の原因であり、戊辰戦争の原因である)

討薩の表に云
 臣慶喜謹而去月九日以来御事体奉恐察候得者、一々朝廷の御真意には無之、全く松平修理大夫奸臣共の陰謀より出候は天下所共知。殊に江戸・長崎・野相州所々乱暴劫盗に及候も、同家々来の唱導により東西響応皇国を乱し候所業天人共に所憎に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰下度、万一御採用不相成候はゞ不得止誅戮(ちゅうりく)を加え可申候。此段謹而奏聞(そうぶん)奉候
 正月 慶喜

斯く討薩の表を上り、幕軍は正月三日会津、桑名二藩の兵を前駆として、譜代諸藩の兵三万を以て鳥羽・伏見の両道から進んだのである
幕臣の上洛は薩長の待構えてゐた所であったので、薩兵から砲撃は開始された。固より薩長は聯合されてゐる
翌四日、朝廷は仁和寺宮彰仁親王を征討大将軍となし錦旗節刀(きんきせちとう)を賜ふて出征せしめたから、幕軍は朝敵となった。連戦四日幕軍は敗れて大阪に遁(のが)れ帰った。慶喜は錦旗と聞こえて、大阪城を尾張・越前に託し、会津・桑名等の藩主と共に六日夜軍艦で江戸に帰った

 白河町天神町藤田某の記録に会津兵の白河通過の状を述べて(藤田某は、白河天神町大庄屋藤田孫十郎の弟である。孫十郎は現在の藤田新次郎氏の祖である)鳥羽伏見の戦に徳川の脱兵及会津兵の手負者及途中死亡者は、駕籠により継ぎ来り、又は引戸駕籠に乗りたるも、渋紙に包みたる死人もあった。云々

慶喜が江戸に帰ると、当時フランスは東洋に野心満々たるの時であったから、公使ロッシュを江戸城に登城せしめ、慶喜に面会の上頻(しきり)に薩長と戦はしめんとした。軍艦も兵器もすべてフランスに於て用立をするからと誘った。この時慶喜は断然これを却け「わが国はたとひ公卿大名から申出たことであっても、朝命となっては違背のできぬ国柄である。」と諭したといふ
此の時慶喜が凡庸の主であったら、我が国体を傷つけたことであったろう。当時英仏の関係から推して見ると、フランスが幕府に加勢したとすれば、必ず英は薩長に結んだに相違ない。慶喜の賢明によって我が国は外国の于渉を受けることなく、外国勢力が扶植することなくて済んだ
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


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2015.06/19(FRI)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔 3/3

(九)海老名衛門君碑銘
海老名衛門の碑は白河町龍興寺の門前にある。其の側に戦死者墓の碑石一基がある。是は海老名等一隊の戦死者の墓石であると伝ふ。碑文に云
 海老名衛門君碑銘
明治戊辰之役海老名衛門君殉難。後十七年、其子季昌君建碑其地、使余銘之。余嘗辱君之知、略知其半生、乃叙之。曰、君諱季久、称郡衛門。其致仕後之称也。世仕会津藩。孝諱季長、称郡衛右門。妣大石氏。君幼頴悟、善文武之業。年二十八為目付。経学校奉行添役、公事奉行、郡奉行等数職、転軍事奉行添役、戍安房上総之営。嘉永六年米利堅使節率軍艦抵浦賀、辺海戒厳。君与軍事奉行黒河内松齋指揮隊伍、進退兵船、以備不慮。已無事、居五年。徒江戸邸、為軍事奉行、転大目付、帰会津。安政六年再為軍事奉行、兼番頭勤、戍蝦夷。加禄五十石、更賜職禄五十石、併旧三百五十石。嘗役于北蝦、余亦従焉。航白主海、攀雷電嶺、滞在鯨鯢出没、熊狼吼瞰之郷数月、文久三年致仕、還会津。前後賞賜不可勝数。戊辰之乱、復攝軍事奉行、出屯白河、五月朔、敵以大軍来襲。我兵血戦。丸尽刀折、駢頭死之。君知不可為、自屠腹死于龍興寺山林中。距文化十四年二月朔生、実五十二年也。君為人謙退沈黙、接人温和未嘗疾言遽色、而毅然卓立。処事方正不憚権貴、不侮卑弱、唯義是従。以人皆敬重之。傍好絵事、胸次瀟灑有韻致。配町野氏生四男二女、長季昌君嗣、累遷藩相、後仕 朝、為福島県官、転郡長。次夭、次季包、次季満皆善勉学。長女嫁小原内記、次夭。嗚呼余敍此、宛然睹君奮戦斫敵、慷慨屠腹之状、不覚暗涙交頤也。銘曰
 鞠躬盡瘁 船南馬北
 為國致身 為君殉職
 其節其忠 万世表式
  明治十七年五月
     東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
               大沼譲並篆額
篆額は「松柏独秀」の四字である

(一〇)各地の供養塔
 一)白河町字寺小路二十四番に一基
 表に
 戊辰役戦死之碑
・碑は仙台石で、白河町渡部泰次郎・小黒万吉・金子祐助・小針寅吉諸氏が発起となり、白河町有志の賛助を得て、大正元年十月戊辰戦争に殉した東軍の霊を慰めんとして建碑したものである。東軍の遺骸の蛇石・文殊山或は桜町付近に仮埋葬の儘に放棄されてあったものを此に合葬して碑を建てたのである。表の文字は須賀川町龍禅子の書で、合葬者は十二名(桜町街上に斬首された六名を含む)

 二)白河町字八竜神九十一番に一基
・碑は寺小路にあるものと同質、同形で書も亦同筆者である。藤沢・土武塚・八龍神等各所に散葬されてゐたものを合葬したものである。其数四十二名。建碑の発起者前に同じ

 三)白河町字本町永蔵寺境内に一基
表に
  慶応四戊辰年
 戦死供養塔
  五月朔日

 四)白河町字白井掛に一基
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表に
 無縁塚
左側に
 慶応戊辰年
     五月朔日戦死墓

 五)白河町関川寺境内に一基
表に
  明治改元歳
 戦死霊魂供養
  五月朔日
裏に
・先君小池理八、戦死之碑不顕於爰十数年、四方探求、頃者竟発見於桜町、故再建之、表其蹟云
 明治三十四年五月一日
  男 小池信好
これは阿部藩の小池理八の供養塔である。小池理八は五月朔日桜町方面の戦闘に足部に重傷を負ひ立つべからざるを知って割腹したものである。白河の歌人文豊は
 武士の心の駒はいさめども、黄泉までとはすゝめざりしを
と詠じてゐる

 六)白河町字大工町皇徳寺墓地に一基
表に
 戦死人供養
裏に
・明治二已巳年二月十一日桑名卜円建之、慶応四年閏四月二十五日、五月一日の戦死者十一人
供養塔の多くは建設者が其の部落民であるが、この碑には堂々と個人名を書いてゐる。卜円とは白河町字中町の桑名清兵衛の号である。東軍の死骸の手代町・袋町・大工町等にありしものを合葬したのである

 七)白河町龍興寺境内に一基
表に
 戦死塚
右側に
 慶応四戊辰五月一日、同穴四十四人

 八)白河町常宣寺墓地に一基
表に
 明治戊辰戦死之墓

 九)西白河郡大沼村大字大、字南田に一基
表に
 慶応四戊辰年六月十二日
 戦死数名埋葬塔
  有志大村中

 一○)西白河郡西郷村大字米に一基
表に
 戦死供養塔
左側に
 慶応四戊辰六月十二日

 一一)西白河郡大沼村大字大、字搦目に一基
表に
 戊辰戦死之碑
側に
 大正六年五十回忌供養付、搦目中再建立
搦目の高橋清之助翁は言ふ。明治初年に建てた供養塔は明治二十三年の大洪水に流されて、今のものは大正六年に再建したものであると(流された塔は河底より掘出されて、傍に建てられてある)

 一二)西白河郡古関村大字関辺の池畔に一基
表に
 戦死墓
裏に
 慶応四戊辰六月二十四日
六月二十四日は、板垣参謀が棚倉に向った日である

 一三)白河町字女石仙台藩碑の側に一基
表に
 戦死供養塔
明治二年三月地方民の建てたものである。裏に記して人数百五十人余葬之とある(前記と重複するも掲ぐ)

 一四)西白河郡大沼村桜岡に一基
表に
 戦死供養
左側に
 会津仙台二本松四十九名

 一五)西白河郡小田川村大字小田川の入口観音堂境内に一基
表に
 戊辰戦死供養塔

 十六)西白河郡五箇村大字双石字坊入に一基
表に
 戦死霊魂供養
 慶応四戊辰年六月
この供養塔は白河から石川に通ずる県道の側にあるが、この県道は明治十八年の改修に係るものであって、それ以前の道路は今よりも北方にあったものである

 一七)白河町妙関寺の西側に一基
表に
 戦死供養塔
 明治二巳年五月朔日建立
これは供養塔としては最も小さいものである。高二尺五寸幅一尺四寸

 一八)白河町米山越に一基
表に
  慶応四戊辰年
 仙台齋藤善治右衛門戦死供養
  五月三日
高さ五尺、幅二尺。表の下部に山口七三郎・桜井伊勢松・木田三十郎と記してある

 一九)白河町字馬町の橋の袖に一基
表に
 南無阿弥陀仏
これと同種の供養塔は、新蔵より向新蔵に通ずる橋の袖にもある。此の二つの橋は元は土橋である。五月朔日の大戦争の翌日此二つの土橋で東軍の士は幾十人となく首刎ねられて屍は河に流されたものだと伝えられてゐる
南無阿弥陀仏の文字は、白河の歌人長瀬文豊が嘗て京都黒谷の敦盛の墓に詣てた時、その墓の景清の書を写し来れるものである

 二〇)西郷村大字羽太大龍寺の戦死墓
表に
  慶応四年
 戦死墓
  七月一日
これは飯野藩士森要蔵その子虎尾と花沢金八郎・林寅之助・多湖宗三郎外会藩十五名の墓である

 二一)西白河郡金山村下羽原鹿島神社境内に一基(拠白河町永島敬次郎氏調査)

 内儀茂助明鄰之墓

 慶応四辰年六月二十四日奥州白川郡郊外戦死于時四十有八
     孝子 内儀明盈建之

 二二)西白河郡西郷村高助班宗寺 二基(拠白河町安田良三氏調査)
その一

 大圓道忍信士
右側
 明治元年辰六月十二日
左側
 丹羽左京大夫藩大河原彌太郎
その二

 實参道忍信士
右側
 明治元辰年六月十二日
左側
 丹羽左京大夫藩斉藤孫吉

 二三)西白河郡西郷村米山下

 戦死供養塚
左側
 明治元年戊辰年五月
台石
 四十三人

 二四)西白河郡小田川村宝積院内

 仙藩佐々木廣之助之墓
右側
 慶応四辰年六月十二日
 於当所戦死
 (拠宝積院根本信識氏調査)
供養塔は藩籍不明であるが、主として東軍のものである
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2015.06/18(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔 2/3

(四)阿部藩戦死碑
棚倉藩戦死者の碑は、白河南湖の鏡山、共楽亭の北隣にある。其の碑文に云

 阿部藩戦死碑
 鎮英魂  従五位子爵阿部正功篆額
明治元年三月、棚倉藩主阿部正静、奉奥羽鎮撫総督之命、出師将討庄内。総督更令伝与仙台等兵討会津、即赴戦焉。会津既降。奥羽諸藩会同于白石、連署上状請赦会津罪。 朝廷不聴。尚数其罪、発兵征討。於是諸藩憤慨。以謂伏見之事出於過誤、固不足深罪、況既悔悟。且我諸藩悃誠請哀、無有不聴之理。而発兵征討。是奸臣壅蔽之所使然、決非由 聖旨。事至于此、豈可座視乎。遂挙兵拒之。棚倉藩使老臣阿部内膳将一大隊、与仙台会津等兵、拠白河城。五月朔、官軍囲攻。城兵禦之。奮激戦闘、自晨至午。雷轟電撃殺傷相当。而衆寡不敵、守兵弾尽刀折城遂陥。乃退守金山釜子等地。轉戦数十百合。延至六月、棚倉城亦失守。内膳以下前後戦没者五十又二人。前藩主阿部養浩、正静之高祖父也。退老多年不与事。而夙尊崇 王室。深憂抗 王師之非義、百方説諭臣下。於是首与正静哀請帰順。後数月奥羽悉平。 朝廷乃下寛仁之詔、復藩胙土、人人皆浴更正之恩。至是和気藹然四海一家無復遐邇之別。盖藩曩奉総督之命、出師討庄内及会津、其無異志也昭々。以其僻在辺陬不通事情、不察 朝旨之所在、遂致誤順逆、洵可痛惜。然内膳等竭誠於其主、百戦致命。亦可謂烈士矣。頃者、有志之士胥議建碑于白河南湖公園。請余銘之。余当時以奥羽追討総督参謀、在戎旅間、親知其情甚哀其志也。嗚呼、前日仇敵今則握手歓笑、相共浴 王沢、頌 王化、而死者独不与焉。豈不傷乎。雖然今日清明旧藩主恩遇廻優於昔日、民皆鼓腹楽業。死者而有知亦応無憾于地下矣。
銘曰。
 捐躯報主 節義可尊 是非順逆 豈遑細論
 白川旧封 夙縁所存 巋然豊碑 長鎮英魂
  明治十七年九月
    元老院議官従四位勲三等 渡辺清撰
                平田文書

阿部養浩は大村藩主豊前守純昌の次男であった関係上、旧大村藩士渡辺清に撰文を請ふたものである
・明治十七年平田文左衛門等敬義会を組織して碑を建て、大正三年六月には旧藩士及び篤志者が白河鎮英魂保存会を組織して神道を以て英魂を祀ることゝした
大正五年七月には内務大臣の許可を得て社団法人として会の基礎を固くし、毎年秋の彼岸に例祭を行ってゐる。旧藩の中村直敬氏、福田春三氏、会我演雄氏等其の理事である

阿部藩士で六月十二日に白河合戦坂で戦死した平賀金右衛門の墓、五月朔日に戦死した牧田三之助重孝の墓は共に白河町長寿院にあり、阿部内膳正熙(まさひろ)之墓は白河町常宣寺にある
・此に庄内藩のことを附記して置く
庄内藩は当時江戸取締藩の首藩であった関係から、三田の薩邸に潜む浪人等が慶応三年十二月末に江戸内外に放火し、掠奪を行った時、庄内藩は幕命によって三田の薩邸を砲撃し之を焼払った関係があるから戊辰戦争の主力は会津・庄内の両藩に集注された

(五)仙台藩戊辰戦没碑
白河町字女石にある。女石は白河町の北端会津街道と仙台街道との岐点の地である。碑は街道の西側にあって剣状をなしてゐる
 表に
 仙台藩士戊辰戦歿の碑
 裏に
 表面十大字大勲位二品能久親王殿下親書也。旧藩有志諸子相議樹此碑、以大王有旧誼請其親書、以慰其魂、死者有知亦将感泣於地下也
 明治二十三年五月一日
     旧仙台藩知事従五位伯爵 伊達宗基

其の傍に、戦死供養碑がある。これは明治二年に建てたもので、白河町の田町・向寺・根田・大谷地・金勝寺・飯沢・長坂等に戦歿せる仙台藩士百五十余人の屍を集めてこの地に葬った供養碑である
仙台藩は戊辰戦役に各方面に於て多数の犠牲者を出してゐるが、五月朔日の激戦には八十余名、白河口全体で百五十余名の戦死者があったと見るべきか
碑の裏面の「有旧誼」とは前にも記せる如く、能久親王は戊辰当時の輪王宮公現法親王に在しますに依ってである
碑は白河町龍蔵寺にて管理し、供養は春の彼岸に、秋の彼岸に白河町隣の小田川村根田部落の念仏講が年々行ってゐる。龍蔵寺の記録によると仙台藩の白河口戦争の死者は
 五月朔日に参謀坂本大炊外八十二名
 六月十二日本道口六十一名
 六月二十四日金山戦争十七名
 七月一日白河・米村・大谷地六名
 七月十五日白河本道口十七名
である

(六)福島藩戦死碑
白河町字向寺聯芳寺境内にある。明治二十一年白河町鈴木忠蔵、福島町高橋純蔵等の発起にかゝる建設である
 福島藩士十四人碑
     正五位子爵板倉勝達篆額
王政維新、廃幕府、撤藩鎮。其嘗擁兵抗命者、亦皆寛宥復爵位。況為之臣隷、射鉤斬袂、竭力所事不独、其罪可釈其忠可憫也。討会之役、奥羽諸侯連署訴訟寃。不聽。六師来伐。乃各発兵同守白河城。対塁踰月、遂為其所陥。転戦于金山于根田于大谷地。而仙台会津米沢棚倉二本松等兵相踵敗衂。是時、福島藩隊長池田邦知、以部兵在六反山、奮闘不撓、而孤立無援、刀折槍断、硝弾共尽、番頭渋川勝兆以下十四人死之。実明治元年戊辰夏六月十二日也。嗚呼士尚気節、食其禄者死其事、則十四人捐身報□、其情与従 王師致死者無異。今彼鬼既巳列祀典矣。而此独委棄不問、可乎。頃者志士相議建碑表之。請文于余。余嘗事松山俟、其国与福島有魯衛之親、義付加辞、因援筆略述其事。係之以銘。銘曰
 寒疾五日 不汗則死 彼懦偸生 壮士所耻 猗与英魄 伴古壮士 含笑黄泉 留名青史
 明治二十一年四月
     従五位勲六等 川田剛 撰
            高橋純蔵書

「福島藩士十四人碑」と上部に書かれたのが篆額である

(七)二本松藩戦死者碑
戊辰の役二本松藩戦死者二十三名の英霊を弔ふために、昭和六年白河町長重公追遠会が主唱して、白河町円明寺丹羽長重公御廟所の参道側に碑を建てた。長重公追遠会は二本松旧藩及び白河町有志者を以て組織され、現在安田忠次郎氏・吉成房次郎氏等が理事である。書は上野良尚氏の精魂を傾けたもので碑陰に英霊の氏名が刻されてある。碑の表に
 二本松藩士慶応戊辰戦死之霊
とある
c0185705_8373660.jpg

写真;二本松藩戦死者碑・2014.08/25

(八)忠千碑
忠千碑は西白河郡釜子村長伝寺境内にある。釜子村には越後高田藩の陣屋があった。戊辰の役徳川の鴻恩(こうおん)に感じて東軍に与して奮戦し十六名の死者を出した。その墓も長伝寺にある

 死節諸士碑
 忠千碑 従ニ位子爵 榎本武揚篆額
磐城国西白河郡釜子邨、世為越後高田藩主榊原氏之支邑。遣士卒五十余戸戍焉。明治戊辰之乱、奥羽同盟、四隣騒乱、道路梗塞、絶本藩之声息。既而西軍来討、勢甚急。諸士胥議曰、吾藩浴徳川氏之恩久矣。義不可不倶盛衰也。即相率与東軍奮戦各地。百折不屈、死者十六人、可以見其忠勇義烈矣。今茲庚寅値二十三回忌辰、故旧胥謀欲建碑其邑長伝寺、以表其忠節。来請余文。嗚呼余亦為当時東軍敗将、出万死得一生以至今、肯無有所為、愧於諸士多矣。乃俯仰今昔、敍其概略。係之銘曰
 生報主恩 死裏馬革 厥節何烈 厥心何赤 千歳不麿 深刻貞石
 明治二十三年歳在庚寅十一月上澣
     会津 山川浩撰
     高田 中根聞書

死千碑と篆額にあるを以て世に忠千碑といふ(千は肝である)
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2015.06/18(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔 1/3

戦死之碑・供養塔は東西何れの軍に属するものでも、等しく忠節に殉せるの忠霊塔である。今の人その昔を偲んで香華を手向くべく、後の人も亦この志を継いて忠魂を慰すべきである
先ず西軍の碑から記さば

(一)薩長大垣十三人之墓
碑石一基、白河町松並にある。所謂九番町口にある。碑名に

慶応四年
薩長大垣戦死十三人之墓
閏四月二十五日

とあった(大正四年に小峰城の東、鎮護神山に薩藩戦死者七名の合祀後、長州大垣藩戦死六名の墓と改刻して現在に至る)。これは慶応四年閏四月二十五日の白河口戦争の第一線で、戦死した西軍勇士の霊位である
明治九年六月、明治天皇奥羽巡幸の折御車を駐めさせられて暫し弔われた
明治四十一年九月八日には、東宮嘉仁親王白河に行啓。松並にその霊を弔われた

(ニ)長寿院西軍の墓
長寿院の塋域に薩・長・土・大垣・館林・佐土原六藩の白河にて戦死した者、会津等にて負傷し白河にて死亡した者及び病歿者の墓が百十六ある。内訳して記さば薩が二十九、長が三十、土が十八、大垣十三、館林七、佐土原十九である。この中薩藩のものは鎮護神山に移された
墓碑は一人毎に建てられ姓名、卒せし年月日、行年等が刻されてゐる。この墓に詣でる者、誰でも若きは十六・七歳多くは二十歳前後の青年武士が勤王の志を抱いて遠く奥羽の地に苦戦した忠誠に感ぜしめられる。明治三十年頃までは切り髪に黒縮緬の紋付羽織を着た未亡人や遺族等の墓参もあったと伝へられるが、歳月を経る今は縁者の弔ふものは更に見えない。されど地方人の志ある者は香華を手向けてゐる
白河に戦死した行年二十二歳の土藩辻精馬友猛の墓石に和歌が誌されてある

 都由跡知流(つゆとちる)、伊笑智母奈謄香(いのちもなとか)、遠羊蹄加良武(おしからむ)、蚊称而佐佐宣之(かねてささげし)、和我美登於毛倍婆(わがみとおもへば)

長藩野村伝源頼睦の辞世として

 今さらにいふことのはもなかりけり
         み国の露と消ゆるうれしさ

と尽忠報国の精神を詠じてゐる。百十六名の心情皆斯の如くであったらう
明治九年六月、聖駕東巡の際扈従(こしょう)した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允等の此の寺院に立寄られて弔霊した事は墓地入口の石燈籠に依って知られる。石燈籠は二基ある。一基は大久保利通の献燈で
 今夏六月  龍駕東幸。利通奉陪従先発之命。途経白河駅、詣戊辰之役官兵戦死者之墳墓。茲奠燈台一基、謹表追弔之意云
 明治九年五月廿八日   大久保利通
一基は岩倉右大臣・木戸顧問の献燈で
 明治九年丙子六月
 龍駕東巡扈従之次過于此弔戊辰戦死諸子之霊
         従一位 岩倉具視
         従三位 木戸孝允 建
長寿院が西軍の墓所となった因縁は、五月朔日の激戦の日に白河町寺院住職の多くは避難せしが、当寺の住職が豪膽で寺院を守り居たれば、西軍この寺院に戦死者を託して回向を謂ひたるによると伝へてゐる。什物として六藩戦死者の画像がある。皆総髪姿である。荷翁の筆である

(三)白河役陣亡諸士碑
長寿院西軍墓畔にある巨碑で明治二十五年の建設である。島津・毛利両公を初め此の役に参加せる板垣退助・河村純義・大山巌等の発起によった建碑である。碑銘は
 白河役陣亡諸士碑
 捐躬報国 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
戊辰中興之元年春、六師東征首収江戸城。徳川氏恭順謝罪。而余賊尚拠東叡山不降、乃撃殲之。先是分軍転戦両総常野之間、進徇奥羽。奥羽諸藩合従方命、会津仙台実為之盟主。幕府逋竄之徒又往投之、共抗王師於白河城。城当奥羽咽吭、地勢険要、賊極力拒守。官軍進戦不利、退次芦野。五月朔、縦兵自三道往襲之。鋒
甚鋭、斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人。賊不能支棄城遁。官軍乃入為根拠、蓄鋭議進取。賊察我
寡兵、大挙来囲、衆数千人、而官軍不過六百余人。備兵白坂駅、使賊勿断我軍後。爾来砲戦累昼夜大小数十
合。毎戦輙有利。既而官軍日益至、賊勢日愈□、退保其城砦。六月官軍別隊、由海路達平潟、攻平城抜之、将以応白河軍也。二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人、撃賊於関山、乘勢下棚倉城。於是海
陸諸軍悉会二本松城下、倶攻抜其城。乃分為二軍、一由天狗角觝山、一由猿嵓竝保成本道。而三別遣一軍由三度己屋、進共討会津、竟能得奏蕩平之功焉。是役也前後陣亡甚多、而瘞屍白河長寿院者、凡一百十五人。墓上惟刻其姓名、未及録其事跡。於是七藩旧主及当時関其役者、慨然会財以圖其不朽、徴文於余。鳴呼戊辰之変、天下治乱之所判、而勤王諸藩率先踢厲、諸士亦皆捐躬報国以贊襄鴻業。此雖国家隆運之所致、而其烈亦可謂卓偉非常哉。今二十五年矣。海内□安、庶民謳歌、追懐当時、恍如隔世。而百年之後、物換星移、艱難遺跡或将帰乎湮滅、是此挙之所以不可已也。銘曰
 有蔚佳城 白河之原 煌々烈士 爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
 明治二十五年壬辰十一月
         従四位勲四等文学博士重野安繹撰
         辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
この巨碑の竣工して除幕式の行はるゝ時、陸軍の軍楽隊も来り、大山大将等戊辰の役に関係あるの士参列して頗る盛大のもんであったと本町の佐久間平三郎氏は語る
長寿院に明治三十三年、三十三回忌の霊祭が催された時、海軍中将伯爵河村純義、(戦争当時の河村与十郎)文部大臣樺山資紀等が臨席し、二氏亦左記の書を長寿院に遺してある

 徳川氏の流の末は乱るゝ世となりて、其政を朝廷に還し奉り御代一統になり、大義名分を正しくせしに、豈図らんや、再び大軍を起し都に入らんとせしが、鳥羽伏見の戦の初、大内山に錦旗の御旗翻し征討の命を下し給ひ、八幡・山崎より難波の城も追攘ひ、東海・東山の両道に王師を向はしめ、終に江戸城をあけ渡せしといへども、残党国々に依り王師に抗し、この白河を要し大戦に忠勤を抽(ぬきん)て、国の為に斃れし人々を長寿院に葬り、其戦功も尠からず、終に奥羽鎮定し、朝廷より厚く祭祀を賜はり、実に慶応四年五月朔日、此の白川を陥落せし当日にて三十三回忌の祭典を催し、同従軍者にして今に生存せる有志ども交(こもご)も集まりて、なき人々の忠魂を慰めんと、旧藩主初夫々よりも祭典料を捧げられ、海山の種々を供へなき人々の御霊を慰めまゐらせんとなむ
 明治三十三年五月二十八日
         海軍中将正二位勲一等伯爵河村純義
 国のため捨てしその名は白川の清き流に名をとゞむらん
樺山文部大臣は慰忠魂の三字を大書し、明治三十三年五月二十八日、樺山と書かれてある。何れも長寿院に現存
長寿院には明治の末期まで毛利家より年々供養料金若于を送られたが、今はその事が絶えている

(四)薩州藩の碑
小峰城址本丸の東、鎮護神山に薩州藩戊辰戦死者の合葬碑がある。「戊辰薩藩戦死者墓」と題す。碑の高八尺、石質は花崗岩、筆者は大勲位侯爵松方正義である。碑の裏に三春・磐城・平・花見坂・長寿院合葬とある。即ち大正四年十一月に旧薩藩士等相謀り白河口の花見坂(白河松並)、にあった薩長十三人中の七人と、三春にあった者、磐城平胡麻沢にあった十四人、長寿院のものとを合して葬った。巨碑の台石に各々戦死の場所、所属隊名、氏名等が詳記されてある。何れも遺族が内務大臣の認可を受けて白河に改葬したものであると伝へる。薩藩の此の種のことは会津若松融通寺にもある。両碑(鎮護神山/融通寺)共に白河町田中増次郎氏同仲三氏の請負に係るものである(旧薩藩では東郷大将の書「丹心昭万吉」のニ軸を田中氏父子に寄せて其の労を謝した)

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写真;2014.05/25

(五)大垣藩酒井元之丞戦死の跡
西白河郡白坂村泉岡の南端、路側に木柵を繞らした碑がある。これが大垣藩酒井元之丞戦死之跡である。碑に刻して
戊辰/戦役 旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡
とある。明治三十九年五月、元之丞の妹の建碑である。戊辰五月二十六日、白坂宿を大垣藩・黒羽藩が警固してゐる所に、東軍来襲。西軍之に応戦、大垣藩の銃隊長酒井元之丞重寛部下を督して砲撃した。部下の松岡惣兵衛(十八歳)、瀬口与作(二十一歳)共に戦死せるも挫けず激戦三時間に及んだ。苦戦その功を奏し、東軍利を失って退いたが、偶々飛弾来つて元之丞の胸部を貫き戦死を遂げた。年二十五。墓は白坂村観音寺にある。此の戦に黒羽藩藪智次郎光著(十七歳)、後藤勇助幸由(五十三歳)も亦重傷を負うて戦死した。白坂村農夫広川喜七の死もこの日である

(六)白坂村観音寺の墓
白坂村観音寺に左の五基の墓碑がある
          大垣藩 瀬口与作源光忠
          同   酒井元之丞重寛
          同   松岡惣兵衛源重勝
 五月朔日白河戦死 長藩  岡勝熊正義
 六月十二日戦死  同   浅野外裕正章

(七)館林藩梅沢長治郎之墓(拠白河町 永島慶次郎氏調査)
西白河郡金山村正金寺の墓地にある
 表
 館林藩村山直衛家来
 梅沢長次郎直貫墓
 慶応四年秋七月十六日
 出兵先□ 卒歳二十二歳
      大久保春盛誌

(八)宇都宮藩増淵勝蔵之墓(拠五箇村 石井重五郎氏調査)
 表
 官軍兵食方宇都宮藩増淵勝蔵之墓
 裏
 奉兵食之事、欲自釜子邑至于白河城途、至于細倉村。則賊兵潜伏砲撃。頗雖奮戦寡不敵衆終戦死矣。実慶応四歳次戊辰秋七月廿有六日。享年十又七嗚呼恨哉

増淵は慶応四年五月二十日細倉に戦死し仮埋であったものを、里人之を憐んで同年七月二十六日五箇村田島の清光寺に移葬して建碑供養した

(九)農民深谷政右衛門之墓
政右衛門は西郷村長坂の農民で当主政蔵氏の叔父にあたる。戦争の犠牲者となったものである。官軍墓地の取扱をうけ、今に毎年金弐円の掃除料を内務省から受けて居る。墓碑は
 表に
 速成佛身清居士
 右側に
 慶応四戊辰年五月廿六日没
 左側に
 深谷政右衛門
 享年二十九

(一〇)芸藩士加藤善三郎墓
加藤善三郎の墓は白河町万持寺境内にある。これは不名誉の死であるが、武士の死際に於ける壮烈さを物語って地方人を感激させてゐる。時は戊辰奥羽追討の任を果し、各々帰藩の途につく十一月、善三郎は白河町の北部某所、(矢吹ならんという)に於て、戊辰戦役の軍夫としての務果して帰家せんとする農夫、(今の三神村農夫と伝ふ)がある茶屋に休憩してゐた。善三郎之を見て、小荷物を白河まで持てと頼んだ。その言語の余りに傲慢不遜なるが因となり、また軍夫の任も終って帰宅を急ぐことゝて、農夫はその場より逃げ出した。善三郎はこれを追ひかけ「武士の命に背くか」と後から斬り殺した。芸藩にては慰謝料を提供して事を示談せんとしたが、其の遺子は飽まで善三郎の罪を問ふて止まぬ。芸藩は心ならずも善三郎に切腹を命じた
善三郎は万持寺の本堂の中央に端座し、黒山の如く衆人の見てゐる前に悠々と
 莞爾と笑ひて散けり櫻花
の辞世の句を誦し、三宝に載せた短刀を執って勇ましく切腹した。後藤みよ(当時二十四)媼などはこれを見て居ったといふ。見るもの武士の最後の壮烈を嘆賞して止まなかったと

万持寺にある墓碑の表
 芸藩加藤善三郎光義墓
 右側に
 明治改元戊辰年
 十一月四日有事屠腹
 裏面に
 辞世
 莞爾と笑ひて散りけり櫻花
   行年二十五

今に白河の人々は香花を手向けてゐる

(一一)白河夏梨の墓碑
 墓碑の表に
 光台院夏山道眠清居士
 左側に
 慶応四戊辰年五月一日逝去
 右側に
 官軍大竹繁三郎之墓

とある。大竹繁三郎は夏梨の農夫で、五月朔日白河口激戦のあった夕方、野に放てる馬を迎へに行かんとする途、西軍に東軍の間者なりと見誤まられて殺されたもので、西軍は之を慰藉せんために官軍待遇をなしたものである。繁三郎は今の大竹儀重郎氏の祖である

(一二)軍夫吉五郎の墓
軍夫棚橋吉五郎は、越後国蒲原軍白根村に文政六年癸未年正月元日に生れ、白河に来り住せしもの、戊辰の戦乱に当り西軍土州藩軍義隊附軍夫として案内役を勤めた。これは吉五郎が地方地理に明かであったからである。二本松城門で戦死した。西軍は生前の功によって官軍の待遇をしたもので、墓は白河町妙徳寺に在る

 墓碑の表に
 釈浄号信士
 右側に
 慶応四年七月二十九日
 左側に
 南町白木屋吉五郎 行年四十六歳
とある
明治四年に元白河県庁から遺族に金百五十両を下賜した。その辞令に

  磐城国白河郡白河本町
  百姓 故  吉五郎
右之者儀去ル辰年奥羽追討之砌(みぎり)、諸藩兵隊為軍夫出役進撃之際、死亡致候段、憫前之事ニ候。依之跡家族え金百五十両下賜候事
  辛未十二月
        元白河県庁
辛未は明治四年である
序に官軍墓地の管理に就いて記さんに
官軍の墓地の管理は鄭重を極めたものであって、福島県庁で出した官軍墓地監守の條文は下の通りである
 第一條 常ニ清潔ニ掃除ヲナシ、香花水ヲ手向クル事
 第二條 墓標又ハ玉垣、雨覆之類ニ妨害ヲナスモノアルトキハ之ヲ制シ、若シ用ヒザルニ於テハ宿所姓名ヲ聞糺シ速に届出之事
 第三條 風災又ハ腐朽等ニテ被害アラバ詳細取調速ニ届出之事
 第四條 総テ墓所ハ第一号雛形ノ如ク地種・地名・坪数・戦死之事故・旧藩名・姓名・年齢・墓標創立年月日建設セル際之事・玉垣雨覆等ノ実景を記載シ、之ヲ手続書ニ綴置クベシ
 第五條 諸費一ヶ年手当トシテ、金二円五十銭六月・十二月ニ可相渡候事
     但第三條被害ノ如キハ此費用外トナスト雖、監守人不取締ヨリ生ズルモノハ、本條費用ヲ以テ差引クベシ
 第六條 前條費用第二号雛形ノ証書ヲ以テ出納係ヘ受取方可申出事
 第七條 監守人代替又ハ移転等ノコトアラバ、速ニ可届出事
 第八條 一ヶ年一両度官軍又ハ区吏命臨時出張実地ヲ検査シ、若シ不取締之廉アラバ一切手当ヲ不給、且ツ看守ヲ免ジ更ニ他之者ヘ監守ヲ命ズル等之事
 第九條 県庁ノ都合ニ依リ監守ヲ免ジ、又ハ手当ヲ増減シ箇條ヲ更正増補スルコトアルベシ
 第十條 監守人ハ此手続ヲ遵守シ、第三條雛形ノ受書ヲ差出スベキ事
各地の西軍の墓及び官軍取扱の墓には、今に掃除料が内務省から下附され、その霊は福島県管内のものは福島招魂社に明治十二年に合祀されて居る

次は東軍の墓碑・供養塔に就いて記さん

西軍は勝ち軍であったので戦死者の遺骸は始末され、前記の如くその後の管理も官に於て監督された。是れに引きかへ東軍は敗戦なる故に閏四月二十五日の戦死者十二人の外は屍は山野に曝されて山の中・森の間・田圃の畔にあたら遺棄されたのであった。然るに地方人は却てこの遺棄された屍に涙を注ぎ、人知れず春の彼岸・秋の彼岸・盂蘭盆の節には香花を手向けて霊を慰めた
死骸の横はった所には供養塔を建て、合葬の地には戦死の墓を設けて法要が営まれた。素心王師に抗する意なき戦死者であり、その君命を奉ずるの精神に富むの士を遇するこれが当然である

(一)会津藩十二人之墓
これは白河町常宣寺にある。十二士は閏四月二十五日、東軍勝戦の日の遺骸なれば立派に埋葬も出来たことである。建碑の表に
 会津藩十二士之墓
 裏の文に
 慶応四年ノ役、我ガ兵白河城ニ拠ル。同四月二十五日西軍来襲フ。我ガ兵邀撃シテ大ニ之ヲ破ル。我レ亦死傷アリ。其城南常宣寺ニ葬ル者遊撃隊十二人タリ。越エテ明治二十四年五月、其親戚故旧謀ツテ碑ヲ建てゝ其忠節を表ハス

(二)銷魂碑
これは会津藩の碑である。白河町俗ニ乗越といふ所にあって、薩長大垣十三人の墓と南北に相対してゐる。白河町新町で立てた戦死墓の三字を刻した巨碑があったが明治十七年に至ってこの碑が建てられた。其の碑文に云

 銷魂碑  正四位松平容保篆額
明治元年正月、我旧藩主松平容保公、従徳川内大臣在大阪城。内大臣将入 朝、使我藩士先駆。事出齟齬有伏見之戦。公従内大臣帰江戸。托列藩上謝表而待命於会津。奥羽諸藩亦連署為謂於 朝廷。不報。大兵来伐。於是諸藩憤曰、是姦臣壅蔽之所致、盖非出 聖旨也。挙兵拒之。白河城当奥羽之咽喉、為主客必争之地。我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩長門忍大垣之兵来攻。相戦半日、我兵大勝。四藩之兵退保芦野。五月朔、復自白坂原方畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗、其鋒甚鋭。我将西郷頼母横山主税各率兵数百、与仙台棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地烈、而我兵弾尽、刀折三百余人死之。仙台棚倉兵亦多死傷、城遂陥。棚倉平二本松諸城亦相継失守。自是東兵不振。後数月上杉氏遣使告曰、東征兵出 聖旨、且聴其所謂。於是投戈出降。 朝廷乃下一視同仁之詔、藩荷再造之恩、臣蒙肉骨之賜。而其死鋒鏑者、寃鬼泣雨、遊魂迷煙、独不得浴沛然之余沢。吁嗟何其不幸也。雖然一死報主臣節茲尽、名声不朽。此之生而無聞者、其幸不幸果如何哉。地旧有碑、止刻戦死墓三字、不可知其為何人。頃有志之士胥議醵金更建豊碑其後。使綱紀銘之。吁嗟綱紀与此諸士嘗同生而不能同死。今又列朝官之後。豈能無愧於心、為者何忍銘之。雖然銘則顕、不銘則晦、銘之或足以酬死者。乃揮涙銘之、曰、
 見危致命 臣節全矣 苟不忠主 何忠 天子 方向雖異 可謂烈士 千載之下 頑奮懦起
 明治十七年五月
      東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
                成瀬温書

碑の裏及び左右側に白河口にて戦死せる横山主税・海老名衛門・遠山伊右衛門・日向茂太郎等三百四名の名が刻されてある。現在、会津出身の白河在住者は会津会を組織して、毎年五月の第一日曜日を期して供養を営んでゐる。常宣寺住職足立氏が之に与(あずか)ってゐる

(三)田辺軍次の墓碑
田辺軍次の墓碑は元白坂村観音寺にあったが、後に乗越の会津藩の墓地に移され、銷魂碑の東側に墓を定め、観音寺の小さな墓標も移されて今に存してある。(最記)明治二十九年白河に於ける会津会は左の墓標を建てた

 田辺軍次君之墓
君は会津藩士田辺熊蔵の長子なり。沈勇にして気節あり。戊辰の役会津の散るゝや、東京に幽錮せられ、後赦されて斗南に移住す。君在京の日、郷人に語て曰く、我軍の敗機は白河の戦に在り。而して白河の一敗は実に大平八郎の叛応(はんおう)に因る。八郎は幕領白坂村の民なり、西軍を導き間道より出で我軍の不備に乗ぜしむ。其恩に背き義を忘る実に禽獣に等し。吾他日必ず渠(かれ)の首を刎ねて以て報ゆる所あらんと。聞く者之を壮とす。明治三年七月君斗南を発し。八月十一日黄昏白坂村に向ふ。途に一賈人(こじん)に逢ひ前程を問ふ。賈人其旅装の粗野なるを見て答ふるに無礼の言を以てす。君大に嚇怒して之を斬らんと欲す。其恐怖の状を視て翻然覚る所有り、乃ち問うて曰く。汝白坂村大平八郎を知るや。曰く、知れり。八郎は戊辰の役官軍に功あり、擢(ぬきん)でられて里正(りせい)となる。君曰く可なり。八郎をして来り謝せしめば則ち汝の罪を宥さんと。益怒を装い拉して白坂村役場に到り、使丁に告げて曰く。奴輩武士に対し亡状なり。今之を斬らんと欲す。急に村吏を喚び来れと。八郎報を得て村吏を従ひ来り、君を見て思へらく。士人年少に気鋭なり、一旦の怒に過ぎざるのみ。如かず旅舎に就て徐(おもむろ)に之を解かんにはと。乃ち説て曰く。既に暮夜なり、請ふ鶴屋に就て尊慮を聞くことを得ん。鶴屋は貴藩の旅館なりと。君心窃(ひそか)に謀の中れるを悦び、共に鶴屋に到る。八郎等百方賈人の為に陳謝す。君機の既に熱せるを見て密談に託して衆を退け、独り八郎を留む。既にして君厠に上る。少時にして出で来り声を励まして八郎に謂て曰く。汝猶戊辰叛応の事を記すや。余は会津藩士田辺軍次なりと。言未だ終らず。刀を抜いて之を斬り面上を傷く。八郎徒手格闘す。君遂に伏せらる。是時舎中大に騒擾す。独り村吏重左衛門之を救はんと欲し、八郎の刀を執って闖入(ちんにゅう)す。時に燈光暗く甲乙を弁ぜず、力を極めて其上なる者を刺す。八郎叫んで曰く。吾なりと。重左錯愕更に君を斬らんとす。八郎既に力衰ふ。君間を得て重左を排す。重左微傷を負ひ刀を棄て逃る。君起て八郎を斬り遂に之を寸断す。忽にして村民麕到する者数十人。君終に免る可らざるを知り従容(しょうよう)として腹を屠て死す。嗚呼何ぞ壮なる哉。時に年二十一。村民屍を同村観音寺域内に埋葬す。爾来星霜二十有七、墓碣永く荊棘中に隠没し人其事蹟を知る無し。明治二十九年其二十七回忌に当り、在白河会津会員は胥謀り、八月遺骨を白河会津藩戦死諸士の墓側に改葬し、其事蹟を石に刻して之を建て千祀に伝ふ。庶幾(こいねがわ)くは君以て瞑す可し
      会津 高木盛之輔撰
      会津 上野良尚書
--------------------
--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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2015.06/18(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2

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(五)西軍兵糧米を買上く
栃本庄屋の記録に西軍が兵糧米を買上げた記録がある。文に云
 官軍兵糧に差支候も難計、依之出穀の義堅禁候様申付候事。猶隠売等致し候者有之候節は厳重に咎可申付候事
 但白川表相応之以直段御用米に買上候間、銘々不洩様云々
  辰九月
               白川口会計官
 別紙之通被仰出候條速に御願御承知知之旨、令請印留りより村継を以て、拙者共え御戻可被成候。以上
  辰九月十六日
               白川町取締役
                 住山甚八郎
                 大塚左太郎
 白川郡
 岩瀬郡
 石川郡
  右宿村御役中
白川町の町年寄住山・大塚の両家が、当時取締となって、白川郡外二郡よりの兵糧調達に当ったのである

(六)愈々西軍引揚
栃本大庄屋文書に
 今般諸隊急速引揚に付、其支配所千石に付十人づゝの御割合、白川軍夫局え品々人夫差出候様申達候事  十月六日
               太政官
                 白川会計官
会津落城が九月廿二日であったから、十月となると西軍帰還となる
白川郡踏瀬の箭内庄屋に、明治元年辰十月の「官軍御用御継立日締帳、踏瀬宿会所」といふ表簿がある。参考のため抄記する
  十月廿三日
  一から尻  壱疋  紀州   田中長兵衛様
  一軽尻   壱疋  尾州   軍資方様
  一軽尻   弐疋  紀州   栗又次郎様
            同    中村儀七様
  一人足   八人  忍藩   佐藤市蔵様
  十月廿四日
  人足 弐百人
  馬  弐百疋
  右二本松藩へ可被相渡候事 会計局
  十月廿五日
  人足弐人      小倉藩  三津谷賀平太様
  人足七人
  本馬弐疋      芸州藩  松田兼之助様
  軽馬壱疋      筑前藩  野外敬吾様
  賃済
  人足八人      総督府  徳永仁左衛門様
  十月廿七日
  早かご賃済
  人足 四人     大垣藩  藤田徳七様
  から馬弐疋
  十月の終りに
  〆人足三百三十七人
   此賃 百参拾九貫七百拾四文
    内
     弐拾八貫参百八文    刎銭
  〆本馬 四疋
   此賃 参貫参百四拾四文
    内
     六百九拾六文      刎銭
  〆軽尻 拾壱疋
   此賃 六百九拾五文
    内
     壱貫廿壱文       刎銭
  〆人足 拾参人        無賃
  惣賃〆百四拾九貫百五拾参文
   刎銭〆参拾貫百弐拾五文

西軍は毎日、宿々から人夫や馬を出させて通行し、その賃銭は支払ったのである。宿場の庄屋は大抵問屋を兼ねてゐた
前記芸州藩の加藤善三郎が白河町万持寺にて屠腹したのも西軍帰還の途中の事で十一月四日であった

栃本大庄屋の記録に
 沢主水正様、羽州秋田表より御凱陣につき、今般当所御泊りに相成、大人馬継立に付、是迄の割合にては差支候條、依之家別人馬其下役相添え差出可申候。且不参等有之候村方は急度取調可及沙汰候間、其旨相心得無遅滞今夕相詰可申者也
  十一月十三日
               白川民政取締所
出羽方面出陣の西軍も白河を通過した。十一月になると白河軍夫局の命令が、白河民政所の命令になってゐる

(七)軍夫高の取調
栃本大庄屋記録に
 白川口棚倉・三春・二本松・若松迄相詰候村々人夫勤高取調東京え差出候様仰出につき、其取調村々別紙雛形之通急速取調候様指図有之、不日其地え致出張候間、其節差出候様御取計可被成候。以上
               大総督軍夫局
この記事は十一月十三日と十八日との間に見えてゐる。明治元年十一月には江戸を最早や東京と呼びたるものか。白河地方の軍夫は白河口なる三春・二本松・若松方面に勤めたものなることもこの記録によって判然する。またこの記録によって西軍凱陣の人馬継立の終ったのも戊辰の十一月中旬頃であることが判る
何れ戦争中の白河町は軍夫や藩兵の往来で雑沓を極めたものであろう
明治二年十二月、天朝から芳賀源左衛門へ御沙汰書が下ってゐる

               白河県支配所
               磐城国白河郡白川駅
                芳賀源左衛門
 右者昨年戊辰之歳賊徒掃攘之砌尽力不少段相聞へ奇特之至ニ付其身一代苗字帯刀允許(いんきょ)五人扶持被下候事
               民部省

芳賀は住山・大塚と共に当時白河町に於ける町年寄の家である。今芳賀の記録だけを知るを得たが、無論住山や大塚にも此等の御沙汰書はあったと思はれる。尚芳賀が明治五年福島県出納係に出した五人扶持の請取書が見えてゐるが、それには七月分(大)米七斗五升とある(芳賀への御沙汰書のこと、白河町本町遠藤英男氏の調査に拠る)。栃本庄屋の記録中、辰十二月十四日の條に、松前表残賊共出兵有之兎角騒しく候。通行多端、依之明十五日七ッ時詰、高百石に付馬二疋つゝ刻限聊違なく相詰候様申付候事との命令が白河取締所から出てゐる。所謂榎本武揚等の五稜郭事件の騒擾が白河地方に関係してゐる

(八)地方租税減免の達
白川郡上羽太和知庄屋の免定に
 辰年免定之事
                    白川郡上羽太村
 一高四百弐拾七石九斗五升六合      本田
 一高拾九石九斗壱升壱合         古新田
 一高弐百五拾参石弐斗弐升七合      改出
 高〆七百壱石九升四合
  内
 弐百八拾七石五斗六升          諸引
 四百拾参石五斗六升四合
 当四月以来戦争場罷成兵火消失者持高宥免
 〆皆引
 一高拾壱石弐斗九升六合         新田
  前同断ニ付不残宥免
 一高壱石七斗四升参合          新田
  前同断ニ付不残宥免
 一高六斗二合              新田
  前同断ニ付不残宥免
 一高壱石参斗五升三合          新田
  前同断ニ付不残宥免
 一高拾弐石五斗壱升五合         新田
  前同断ニ付不残宥免
 〆皆引
 右者当辰成箇可相極処当夏以来戦地ニ相成難渋之次第依願先般相渡候免定与引替当壱ヶ年限リ令宥免者也
  明治元戊辰年十一月
               民政所印
                右村
                 庄屋
                 百姓
今の西白河郡西郷村は、戊辰戦争には会藩の出入口で、殊に柏野・羽太の農民は難儀した。上羽太・下羽太・蟲笠は一軒も残らず焼かれた。勿論西軍に焼かれた。それは七月朔日であった。森要蔵父子の下羽太で戦死をした日だ。上羽太の和知庄屋に慶応四年の暦が今に残されてあるが、その表紙に「当村戦場ニナリ七月朔日兵火ニテ焼亡ス」と記されてゐる。当時中羽太は五軒だけの農家で焼失を免れたといふ。焼かれると皆小屋をかけて暮した。明治五・六年頃から家を建て始めたが、明治十何年頃まで小屋住をしたものだといふ。蟲笠の白岩源治氏の蔵は屋根だけ焼かれたので、蔵の中に住むことが出来たと話してゐた。この宥免の免定は下羽太の石井庄屋にも同様にある(民政所印には佐久山取締所印とある)

栃本庄屋の記録に
 去辰御収納之義黒羽藩取締中半納に申渡候。猶悪作村々用捨引、戦死・手負・焼失等租税皆免等も申渡候。昨年来助郷人馬繰出し或は官軍人数等入込村々諸失費等も多分有之可及難渋と存候間、去辰御収納之義都て半納之内、先づ半数皆済相□□可申、残半数之義は追て沙汰可及候。尤皆済日限之義は御代官より可相達候。右之趣面々令承知組下村々小百姓共へも不洩可申聞候。以上
  巳正月十三日
               柴一郎兵
柴一郎兵は高田領釜子陣屋藩士柴田一郎兵衛の略称、柴田は当時民政幹事であった
白河城付六万石の民政は佐久山藩で行った
               福原内匠
 其方儀当分之所、白川城付六万石租税取締可致旨、御沙汰候事
  九月
               大総督参謀
九月は慶応四年九月二十四日である(福原内匠は旗本にして野州佐久山を治す)

富山氏記録に左の記がある
 御年貢の儀は半納に相成候。兵火に相成者無年貢に相成候。半納の者も大豆其他の納物御免にて、米金納にて金壱料に三斗五升相場に相納候。町相場金一分につき五升の相場に候

(九)軍夫勤務の手当
西軍の軍夫として出役せるものには、村々に手当を下附したものである
栃本大庄屋の記録に
 釜子附村々
  一金三両一分二朱也           中寺村
  一金五両三分也             河原田村
  一金一両三分二朱也           小貫村
  一金三両二分也             形見村
  一金三両一分二朱也           栃本村
  一金二両三分也             細倉村
  一金一両三朱也             上野出島村
  一金二分二朱也             大竹村
  一金一両三分二朱也           中野村
  一金五両三分二朱也           内松村
  一金三両二分二朱也           梁森村
  一金一両一分二朱也           堀之内村
  一金一両也               深渡戸村
  一金八両二分也             釜子村
  一金三両二分二朱也           千田村
  一金一両二分一朱也           深仁井田村
  一金四両三分一朱也           吉岡村
  一金十一両三分三朱也          下野出島村
  一金二両三分三朱也           宮村
  一金三両三分也             小松村
  一金二十六両一朱也           番沢村
  一金四両一朱也             三森村
  一金二両一朱也             下羽原村
  一金十九両二分三朱也          和田村
  一金十二両二分二朱也          下宿村
  一金二十一両三分二朱也         上小山田村
  一金四十三両一分一朱也         小倉村
  一金十六両一分二朱也          市野関村
  一金二十六両一分也           田中村
  一金二十二両二分也           大栗村
  一金一両三分也             四辻新田
  一金十四両二分一朱也          前田川村
  一金十三両一分一朱也          中宿村
  一金十五両三分一朱也          下小山田村
  一金三十九両二分一朱也         □田村
  一金二十一両一分也           浜尾村
  一金四両三分一朱也           □□田村
  一金三十四両二分二朱也         雨田村
  一金五十二両二分也           狸森村
  〆金四百八十四両一分一朱也
 右者去六月より十一月まで軍夫相勤候につき、村々え為御手当被下候事
  巳二月
               白川口
                軍夫局
軍夫勤務の手当として、前記のように四百八十四両一分一朱。此の大金の渡方は正金として百八十四両一分一朱、金三百両は札金として渡したものである。これは釜子附村々の合計である。戊辰戦争の全軍夫の勤務支払といふものは巨額のものであったことだらう
白河地方の軍夫は従順に其の労役に服した。東軍にも、西軍にも聊かの反抗の態度がないばかりか、能く奉公したといふ
(終り)
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2

(一)地方民は戦争に苦しんだ。併し能く奉公した
三年の凶作に逢ふよりも一年の戦争地になるものでないと言ったさうだが、実際町人も農民も苦しんだ。併し能く奉公した
栃本大庄屋記録に卵買上の事がある
 其村々有之候玉子、是より出来候分御買上に相成候間、相貯置可申旨、被仰出候間、村々小前一統心得違無之極厳重申付置、他所買一切不相成候云々
 辰五月十四日
               大庄屋所
同大庄屋の記録中、慶応四年六月三日の條には
 先達相達置候、御買上玉子之儀、官軍方に鶏被取、玉子無之村々方も有之哉に相聞候。右等の次第の村は其形合早速申出可相成候。猶又少々にても玉子出来候村方は五日置に収集、相集次第御差出可被成候。御差支に付此段申達候。以上
 辰六月三日開業
               大庄屋所

(二)農民は落付いて仕事が出来ぬ
五月朔日の戦には、白河町の人達は前に述べた通り大抵地方に避難した。然しそれは勿論全部ではなかったが、老いたる者・子供・婦人達は大抵避難した
店は開いてゐた。鞋(わらじ)などを西軍が買ひに来る。有りませんなどと言ったものなら奥勢味方と睨まれたものであるといふ
西軍は白河に滞在してゐる。戦争は何時あるか判らぬので町人は浮腰であった。戦争は武士と武士の間でやるので町人や農民相手では無論ないのであるが、農民などは田植の盛りであり、麦かりの真最中であったので野良にあって流弾の来るのを恐れた

西白河郡小田川村泉田の吉田トヨ媼の談
 媼は時に年十八歳、泉田の戦争は田植時であった
 仙台藩は鬼窪山に本陣を置き、泉田の屋敷内に部落中の畳や戸板を出して塁を築いた。味噌桶や材木や臼をも運んで塁を築いた。東軍でも西軍でも食物があれば手あたり次第に持って行った
麦刈りで野良に出でゐると、銃声が聞えて来る。それ、今日も戦争だと芳賀須知の方に逃げる。芳賀須知に逃げた人も男は人夫に出された

(三)民家が焼かれた
東軍に焼かれてゐる。また西軍が焼いた所もある
東軍は西軍の陣地となることを恐れて焼き、西軍は東軍の根拠地を奪ふために焼いた
白河城は守兵が焼き、棚倉城は自ら焼き、二本松城も亦自ら焼いたのである。白河地方で焼かれたのは根田の部落と、山の根(今の西郷村)の各村が最も多く焼かれた。根田の部落は只の一軒だけを残して皆焼かれたといふ。根田は東軍に組してゐると見られたからである。根田と言えば猫でも犬でも憎まれたものだといふ。それで根田の部落には今日古文書などは一通も残ってゐない
明治天皇が明治九年奥羽御巡幸で根田御通過の際は皆假小屋であったと伝へられてゐる
西郷村真船の和知菊之助氏が、西郷復興記といふ小冊子を出版されてゐる。その文中に
 明治元戊辰の年、偶々戦争に会遇し、時恰も農家は田植最中の事なれば、各々一生懸命に挿苗の折柄、突然銃声起り、外れ丸は早乙女の早苗持つ手先に落ちたりしに、孰(いず)れも驚き周章(あわて)て、苗を捨て、我先にと安全の地に逃げたるなどして碌な仕事も出来ず、僅かに機を見ては植付けなどして居る内、時期を失し、猶且つ住み居る家は兵燹(へいせん)にて灰燼となり、何一つ残りたる物とてはなく、住むに家なく、着のみ着のまゝの有様にて、夜は樹下の芝生の上か或は竹藪などの中に寝起きを仕乍ら、何とか住むべき家を作るに、互に一軒に対し何日かの手伝あひをして岐(ふたまた)棒か何かを用ゐて掘建小屋を拵ひ、漸くに過ごして、其の秋に至りて収穫を見るに一家糊口の二・三ヶ月より、多くて四・五ヶ月位を支ふるに如かず。辛くも其の年は万死一生の有様なりき

戦争年は冷気が酷くて田圃に火を焚きながら田植をなし、その上に手入も肥料も充分でなく、秋の収穫は凶作同様であったと伝へてゐる。それに翌年は巳年の凶作であったから農民は苦しんだ

(四)男は軍夫にだされた
小田川村泉田の吉田トヨ媼の談
 軍夫は東軍にも西軍にも使はれた。男が不足すると女まで軍夫に出た。女は遠くには行かなかったが、小田川まで行った。私などは何度か小田川の庄屋まで行って奥勢の握飯を結んだり、飯を炊いたりした
夫の忠蔵は薩摩藩の六番隊に附いて会津まで行った。墨付を戴いて帰った。また働がよかったので太刀をも賜った。その太刀を家宝として置いたが、先年不幸続の時、占ったらその太刀が祟るといふので他に出して仕舞って今はない

白河町天神町の藤田定之助翁の談
 白河に居ても人夫を勤めたが、鍋島藩附で勢至堂に一泊して会津に入った。鍋島藩は天寧寺の山から御城を目かけて大砲をうったが、他の藩よりも上手なやうであった。兵糧運搬、大砲丸運びをやらせられ一ヶ月後に帰った。分捕物としては何も持って来なかった

白河町に遺る話として、男は居らんか、男は居らんかと、西軍は家々を捜し廻った。男は見つかり次第軍夫とされた。白河辺の軍夫は二本松で帰されたものと、会津まで行った者とがある。軍夫は弾薬・食糧を運ぶ事や銃の手入などを勤めたといふ

白河町の棚瀬利助翁談
 戦争の年は十四歳であったが、十五歳として忍藩の軍夫となり、会津に連れ行かれた。白河を出発して、大谷地・飯土用・滑川・牧之内を経て勢至堂の嶮を越えて行った。白河を立つとき一斗炊の釜を持たせられて行き、帰りにもそれを持って帰った。滑川で舁いた棒をはづして釜の鍔を損した。その釜で会津で飯を焚いた。それが十四歳の私の役目。会津滞在は一ヶ月、帰る時赤津村にも勢至堂にも官軍様が見張をしてゐて、武士の持つ様な道具を持つと皆御取上となった
軍夫の中には気の利いた者があって薩藩何番隊などといふ木札を附して白河まで持って来た者も少くなかったが、それが知れると皆焼却された。私は白河を出る時勢至堂までといふことであったが会津まで進んだ。その時白河から忍藩に附いた軍夫は二十余人と記憶してゐる
この時翁の使った釜が、翁の家に残されてある。著者が翁を訪ねた時、この釜を前に置いて物語をされた

白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
 白河から会津に軍夫に行った者は、分捕品として何か持って来たものだ、それが戦争が済むと官軍の知る所となり、皆差出せとの厳命があって、今の大工町皇徳寺附近で焼却した。器物や衣類や刀剣まで山の様に積んで煙にして仕舞った

栃本村大庄屋の記録に
 鎮撫使御用並諸家中御通行に付寄人馬左之通
  四月十七日朝詰
 一十四人、八疋
               栃本
 右之通
  辰四月十六日
               常盤彦四郎

 鎮撫使御用其外諸家方臨時早打大通行に付寄人馬割左之通
  四月十八日未明詰
  四月十八日未明詰
 一四人、八疋
               栃本
 右之通
  辰四月十七日
               常盤彦四郎

 鎮撫使御用並諸家中御通行に付寄人馬割
  四月二十八日未明詰
  四月二十九日未明詰
 一八人、八疋
               栃本
 右之通
  辰四月二十七日
               常盤彦四郎

以上は白河城が奥羽鎮撫使の支配下にあった慶応四年辰四月のことである。白河町問屋常盤彦四郎から下命されたものである
又同庄屋の記録に

 此節
 御親征に付白河城え致集会、賊兵追払、官軍入込、追々大勢致出張候に付、差当人馬集兼候間、早々致手当、村々役頭より曳口罷出、官軍御用向無滞相辨候様可被取計候。尤も白河駅え副越候上者、無間違薩州小荷駄方え届可被申出候。以上
 伹村々次渡無滞早々留之場所より返納可被致候
               白河駅出張
               官軍薩州
 辰五月五日開業
 小荷駄方
  深仁井田村
  栃本村
  形見村
  千田村
これは五月朔日、西軍白河に大勝後、地方民に出した命令である。これに対して村方に於ては如何にこれを処理すべきかに就いて集会相談となったものである。地方民の去就に迷ふも当然とする所であらう
同大庄屋記録に
 触状
 別紙の御觸状達状到来仕候に付、御順達申上候。右者御役所にも御伺不申候ては取計兼候間、村々明朝釜子村へ集会の上御相談仕度奉存候。早々如此御座候。以上
               深仁井田村
               深谷彌左衛門
 栃本村始
 御同勤衆中
五月九日に至りて西軍御用人足の勤が左の如く厳達された
同庄屋記録に人足に就いての厳達が載せてある

 今般
 官軍方御用に付、左之村々軒別人足一人つゝ明十日未明当所本町花屋由兵衛方へ庄屋・組頭差添右刻限無遅滞急度(きっと)相詰可申候。尤延引不勤之村者厳重之御沙汰有之候間、此段相心得村々刻付を以て順達に付、留り村より早々可相戻候。以上
 慶応四辰年五月九日
               白川町
                会所印
                深仁井田村
                栃本村
 深仁井田村より谷津村まで有之
栃本庄屋記録に篝火人足割の事が出てゐる。東西軍何れも篝火を野に山に焚いて互に勢を張ってゐたと伝へられてゐる。先年、白河向寺の胞衣(えな)神社の裏山から東軍の焚いたといふ篝火の炭が層をなして出た事がある
同庄屋記録に
 官軍様御用篝火木切人足割
  明十三日未明詰、斧鋸持参。
 右之通仰付候。日限之通間違無候様申付差出可被成候。以上
  七月十二日
               釜子役元
村々の人足が篝火を盛に焚く。鹿島富山氏の記録に、五月七日より篝火の場所、鳥居橋上前一箇所、芳賀山下一箇所、桜岡前一箇所、搦目村一箇所、各村人足にて焚き、薩・長・大垣・忍様七八百人にて固め居候とある
同記録五月二十五日の條に
 夜、篝火山王坂の山の上一箇所、三本松一箇所、六地蔵一箇所、久保岩下の山二箇所、上の台二箇所、搦目山一箇所、谷津田川端一箇所、桜岡二箇所都合十一箇所の篝火各村人足にて焚き候
とあり、また二十六日の記には、
 双石の篝火光り昼の如し。村々の人足にて篝火一箇所に五人ずゝの割合にて、昼は木を切り、夜は篝火を焚き云々

白河地方各村の人足・人馬は五月から会津落城後西軍帰藩に至るまで、毎日割当られたものである。栃本大庄屋の記録の所々を摘出して見るに、
 軍夫並継立人馬差出候残之分男軒別一人早速当役所え罷出候様可申付候。若遅滞於有之者取調の上厳重之咎可申付者也
 但人別書持参可有之候。並辨当両度分持参の事
  辰八月十日
               軍夫役所
同八月十三日の條に
 人馬継立は村々十五歳より六十歳まで人別有丈云々として
 八月十四日  二人二疋        栃本村
 八月十六日  四人二疋        栃本村
 八月十七日  四人二疋        栃本村
 八月十八日  薩州通行につき四人二疋 栃本村
 八月十九日  三人二疋        栃本村
 八月二十日  三人二疋        栃本村
 八月二十二日 三人二疋        栃本村
 八月二十三日 三人二疋        栃本村
 八月二十四日 三人二疋        栃本村
 八月二十五日 三人二疋        栃本村
 八月二十六日 三人二疋        栃本村
 八月二十九日 三人二疋        栃本村
斯くの如くに、人馬割付が、独り栃本村に限らず各村に割当てられ、これが九月・十月・十一月と続いたのである
九月九日、白川軍夫方の達を見ると、女にても割当、当分の中軍夫方まで相詰候様、急度小前者まで申付べく候。若し怠り候名主は召捕之上入牢可被仰付候條、相可心得者也云々とある。これによって見れば男が不足して、女までも割当てられたことが判る
又同大庄屋記録に
 追々御継立人馬指支候條、当九月十九日夕詰より改て人足高百石につき二人二疋づゝ白川軍夫御役所え日々定詰申付候間、可相心得候。勿論不参者、雇銭急度可相納候。猶又村々庄屋共御用向有之候間、人馬召連可罷出候。以上
 九月十九日
               軍夫局
これによれば不参者には雇銭代納の制も取ったのである
白川郡下羽太村石井庄屋の記録に
 一人夫弐拾九人
  但拾六歳より五拾九歳までの男子
 一馬 弐拾八疋
   老馬弱馬除
   内人夫壱人   会津若松詰
    人夫弐拾八人
    馬 弐拾八疋 白坂宿助郷詰
 右之通取調奉書上候処相違無御座候以上
  辰九月二十八日      次郎兵衛印
 黒羽
   御役所
この人夫調は若松落城後、西軍帰還の人夫である。この記録によって人夫の年齢が知られる
西白河郡中畑村小針彌太郎氏の記録
 中畑村人足
         林次郎
         熊吉
         彌八
         長七
         政五郎
         三之助
         豊之助
         鶴吉
         喜七
  〆九人
 右者共交代仕度候付御詮議之上右代人急御越可遣下候
  九月朔日
               土州四番蝴蝶隊
               輜重
 中畑村戸主
 小針七左衛門殿
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
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戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊

慶応 4年(1868)
・10月、11月
東軍降伏となって、西軍は凱歌を挙げて各藩に帰ることゝなる。これは会津落城の九月の頃から十月・十一月である。白河では旗舍は勿論、普通の人家・商家まで其の宿に当った。今日の陸軍演習の宿割のやうなものが永く続いたのである
宿料は一賄一朱、一泊がニ朱位であって、料金は直にその藩から受取ったものゝ外、大田原受取とか、二本松願出とかがあった
白河中町の熊田庄屋所蔵記録に諸家様御賄調書上帳、薩州様御旅籠調帳、大田原請取分諸藩様御賄調等がある。これは中町だけの宿泊調帳である。他はこれによって類推すべきである。今同記録を抄記して見よう
十月十八日
 一備前三番小隊
  六人様 十八賄       金沢屋直左衛門
十月十九日
 一備前三番小隊
  四人様 十二賄       丸屋市兵衛
十月二十日
 一薩州四番隊
  十三人様 三十九賄     井桝屋吉兵衛
十月二十日
 一薩州四番隊
  上下十人様 三十賄     京国屋休兵衛
十月二十二日
 一鍋島様二番隊
  夜十九人様 朝十五人様
  〆三十四賄
       さつまや佐助
十一月四日
 一薩州国分市郎右衛門様
  六人様 十八賄       浅川屋喜助
十一月七日夕、八日朝
 一岡本伴七様         小室屋常蔵
などゝある。士ばかりでなく馬も荷物も通った。宿泊せずに一賄の昼食だけで通過した者もあった
同記録に
 〆金三十二両二分一朱百四十二文
 右之通御旅籠被下置奉請候。以上
  辰十一月          中町庄屋良助 印
とあって請取證にも武士階級に対する敬語がある(慶応四年九月八日に明治と改元したのだから、辰十一月は明治元年十一月である)
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
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第十七章 奥羽諸藩降る

慶応 4年(1868)
九月四日、米沢藩は家臣毛利上総を遣はし謝罪書を越後口総督に呈した
九月十日、二本松藩は白川口総督に罪を謝して、十一日丹羽長国は寺院に謹慎した
九月十五日、仙台藩は家臣伊達将監を遣はして平潟口総督四條隆謌の軍門に謝罪状を呈し、九月十八日藩主伊達慶邦父子退城して城外に謹慎した
九月十八日には棚倉藩主阿部正静が仙台より領地伊達郡保原に帰り、家臣斉田兵太夫を以て罪を謝し降を乞ふた

棚倉藩主の謝罪歎願書
 今般私儀名分順逆を誤奥羽各藩同盟仕、奉抗官軍、遂に棚倉城地を離れ、何共可奉申上様無御座深奉恐入候。伊達陸奥様は同盟最寄之儀に付、一先仙台表へ罷越候処、右同人並に上杉弾正より厚く 叡慮之程奉伝承、 恐懼至極奉存候。素心勤王之外毛頭ニ念無御座候処、全遠境之僻土に罷在、春来天下之事情も隔絶仕、恐多も厚き 叡慮之程も具に不奉伺、一時之行違より終に今日之仕儀に立至候段、誠以奉恐入、悔先非謝罪仕候。隨て兵器悉く差上、伊達郡保原村陣屋下寺院へ立戻恭順謹慎罷在、家来末々迄屹度謹慎申付奉仰朝裁候。此上は何分宜敷御処置被成候様偏に奉歎願候。誠恐誠惶謹言
 九月十八日
          阿部美作守
奥羽諸藩の謝罪状はこの様の型で大同小異であった
・ 9月22日、10月12日
九月二十二日、会藩降服の日、公現法親王には使僧仙覺院・松林院を四條総督の軍門に遣はして謝罪状を上った。此に於て四條総督は津藩をして親王の居館を守衛せしめ、十月十二日に親王を江戸に御送り申上げた。親王は後に御里の京都伏見邸に幽された。親王は後の北白川宮能久親王に在します
・ 9月23日、10月29日
九月二十三日、庄内藩主酒井忠篤も謝罪降服し、是に於て奥羽越悉く平定。十月二十九日大総督熾仁親王は東北平定の状を奏し、錦旗節刀を奉還した
・12月
十二月に至って、奥羽越諸藩主の罪を断じて各々処分を言渡した。大体からいへば寛典であったので、奥羽の諸藩洪大の聖恩に感激した。時の詔にも「賞罰は天下の大典、朕一人の私すべきにあらず、宜しく天下の衆議を集め、至正至平号毫釐(ごうりん)も誤なきに決すべし」と仰せられてゐる
斯くて会津藩主松平容保を鳥取藩主池田家に、容保の子喜徳を筑後久留米藩主有馬家に永預となし、仙台藩等各藩の所領を一旦召上げて、更に左記の所領を賜はった。藩主の家柄に就いては藩主を江戸に謹慎せしめて血脈の者をして相続せしめた。其の減封相続の例を挙げると
  藩名    新所領     旧所領
  仙台    二十八万石   六十三万石
  米沢    四万石     十五万石
  庄内    十二万石    十四万石
  二本松   五万石     十万石
  棚倉    六万石     十万石

白河町村社巌翁談
 世上阿部藩が慶応三年棚倉に移封の際、六万石減封された如く伝へられてゐるのは誤で、移封の時は十万石、戊辰戦争の処分によって六万石と減封されたものである。と

泉藩二万石、福島藩三万石、湯長谷藩一万五千石は各二千石の削封となった
また平藩主安藤信勇を陸中磐井に移し、祖父信正を永蟄居に処し、会藩主松平容大には後に陸奥斗南三万石を賜ひ、明治二年五月十四日に至り、会藩の重臣萱野権兵衛、仙台藩の但木土佐・坂英力、南部藩の楢山佐渡、山形藩の水野三郎右衛門、村上藩の鳥居三十郎、村松藩の堀右衛門三郎・斉藤久七等を斬に処した
会藩の田中土佐・神保内蔵助、米藩の色部長門、庄内藩の石原倉右衛門、棚倉藩の阿部内膳、二本松藩の丹羽一学・丹羽新十郎、長岡藩の河井継之助・山本帯刀等は既に死んでゐるので斬罪に擬して家名断絶とした。此等の重臣は皆各々其の藩の責に任じたものである。会藩は近年に至り鶴ヶ城址に萱野権兵衛の碑を建てゝ其の霊を弔った
明治二年九月二十八日、仙台・南部・二本松・棚倉等の各前藩主の罪を宥し、米沢・福島・泉の各前藩主を従五位に叙した。また公現法親王・徳川慶喜の謹慎をとかれた
明治五年正月六日、松平容保・其の子喜徳・松平定敬・旧二本松藩士丹羽富敬、会藩士秋月悌次郎等十六人の罪を宥された。公現法親王は三品に、徳川慶喜は従四位に、仙台・南部・二本松・棚倉の旧藩主は各々従五位に叙せられ、東軍の諸藩等しく厚き天恩に浴した
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
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2013.04/07(SUN)

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第十六章 若松城遂に陥る

慶応 4年(1868)
・ 7月29日 - 8月23日
七月二十九日、西軍二本松城を攻む。丹羽長国米沢に去る。老臣丹羽一学等苦戦するも城陥る
二本松城を落した西軍は愈々大挙して若松城に迫る。八月二十日板垣・伊地知の両参謀は薩・土・大垣・佐土原・大村の各藩の兵二千余人を率ゐ二本松・本宮を発した。此時平潟口・白河口両道の西軍は同一行動に出てゐる(白河に守備した薩長土藩の兵皆集中した)。二十二日石筵を破り、猪苗代に殺到し、翌二十三日若松城を囲む。これより城兵死守防戦に努む
復古記云

 督府、大挙して若松城を攻めんとす。乃ち諸軍を部署し、参謀伊地知正治・板垣退助をして薩・長・土・大垣・大村・佐土原六藩の二本松にあるものをして石筵口より、館林・黒羽ニ藩の棚倉及白河にあるものをして三斗小屋より並進して若松に入らしめ、尾張・紀伊・備前・守山四藩の須賀川・白河に在る者を長沼及び牧の内に差遣し、機を見て勢至堂口より向はしむ。また備前藩兵の磐城平に在る者を若松・二本松に差遣す。又参謀多久茂族をして勢至堂口に赴き肥前藩の兵を督せしむ
とある

・ 8月21日
八月二十一日には大総督府は安芸四百十九人、肥前三百人、中津四百十五人、今治百三十八人の五藩の兵の日光方面に在る者をして、藤原口より若松城に向はしめてゐる。又大総督府は薩藩百二十四人、宇都宮ニ小隊をも藤原口より若松城に向はしめてゐる。薩藩士中村半次郎(後の桐野利秋)軍監として之を督す
鎮台日誌に
                   中村半次郎
 薩州、宇都宮両藩之兵隊藤原口出張ニ付、可為軍監旨 御沙汰候事

・ 9月10日 -
越後口方面に於ても諸所に西軍転戦し、九月十日は津川口より若松城に向ひ、九月十四日若松城を攻む。是より戦争殆ど虚日なし。十六日には米沢にある西軍また若松に至る
会藩は包囲内に在ること一ヶ月四面全く交通を絶たる。この苦境に立つて老幼銃剣を執って力戦したが城中糧食つき弾薬乏しくなり、又米沢藩来りて降伏を勧告するに及び遂に議を決して降ることになる
・ 9月20日 -22日
九月二十日、若松城主松平容保はその臣手代木勝任・秋月胤永等を遣はして米沢藩に因って降を乞ひ、二十二日容保父子城を出して西軍に降った
当時伊地知・板垣の両参謀の軍議は奥羽は厳寒の地である。今より三・四十日も立たば、必ず降雪の期来るべし、若し仙台・米沢討伐のために徒に時を費さば年内に賊根を断つことは困難に至らん、会津は根本で仙・米は枝葉である。根本を抜かば枝葉は憂ふるに足らずとしてまづ会津に向ったものであった
両参謀のこの軍議を見るも会津武士の団結とその精神が偲ばれる
八月十三日付の陸路白川口、海路平潟口の諸軍への御沙汰書に云
 奥羽は時季已に寒冷且諸軍の奮戦にて最早会賊孤立滅夷の秋至れり、依て海陸の諸軍合併戮力致し速に会津へ攻撃可有之旨御沙汰候事
 但、会津平定後は更に策を定め最前御沙汰之通速に仙台討伐勿論之事
  八月
とある

白河地方人の談
 若松城落城までは曇った日が多く、降雨も多かった
 又白河を上る西軍の士に会津は落ちましたかと聞くと、まだ/\と言って通った。云々

白河在住の旧会津藩士上野良尚翁の語る所によれば、天はその中に降雪を以て会津を助けん、暖国の西軍憂ふるに足らず、降雪を待って決戦せんと覚悟し、城中で凧をあげて悠然さを示したものであったと

六百余年に亘る武家政治の終りの戦として会津武士の奮戦は正に我が国武士的精神の華であった。こゝに至れるは藩祖正之公以来代々の藩主の訓練の賜である
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
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2013.04/03(WED)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第十五章 板垣参謀三春に向う

慶応 4年(1868)
・ 6月24日 - 7月24日
六月二十四日、板垣参謀は白河を出で其の日の中に棚倉城を落し、滞在すること一ヶ月、七月二十四日、彦根・長・土・忍・大垣・館林・黒羽等各藩の兵を率ゐて棚倉を出発した。斯く棚倉滞在の長かったのは、棚倉地方鎮定のためではあるが、平潟口参謀渡辺清の軍が平地方を平定して北上するのと謀を合せた為である
大村藩渡辺参謀は薩(八百七十六人)、備前(六百六十九人)、柳河(三百二十人)佐土原(三中隊)五藩の兵を率ゐて東軍を小野新町に破って三春に進んだ
鎮将日誌云
 薩州藩届出(八月)
・ 7月
・為三春城攻撃弊藩大村、柳川、佐土原一同去月廿四日磐城平発軍。渡戸、上三坂へ宿陣。同廿六日暁二字(時)ニ右総勢同所繰出進軍ノ処、仁井町手前ニ賊徒台場ヲ築キ致発砲候ニ付、弊藩十一番隊三番大砲隊ニハ頻ニ正面ヨリ発砲、十二番隊ニハ右脇ヨリ散隊ニテ打掛、九番隊私領一番隊ハ右山手ヨリ賊ノ後ヲ取切。勿論諸藩総勢モ前三口ヨリ致手配及攻撃候処、七字頃ヨリ八字頃マテノ間ニ台場乗取。賊徒致敗走候ニ付、同所ヨリ十五六町先広瀬関門マテ致進撃、十二字頃仁井町ヘ暫時人数相圓メ、無程追軍候処、途中要地ヘ残賊屯集発砲候ニ付、悉ク追払相進候折、最早夕六字頃ト相成候ニ付、大越村ニ宿陣ス
三春城ノ儀、同日ニ棚倉表ノ官軍攻掛候処、不及一戦、城主秋田万之助始、家中一同降伏確證モ有之ニ付、廿七日磐城平表出陣ノ総勢モ三春城下ニ繰込ミ、両道ノ官軍会同仕候。尤於仁井町弊藩戦死吉井甚之助一人有之、討取ノ賊ハ都合五人ニ及ビ申候渡辺参謀広瀬口から大越を経て三春に入る時、著者の実父佐久間寅吉(田村郡牧野村)これを案内した。著者の父はまた三春藩勤皇軍の一人なので大総督府から賜はった大総督府印の肩章が今にあり、明治四年には三春県から左の感状を下附されてゐる

               佐久間寅吉
戊辰危急之際、国事ニ勉勵諸所奔走周旋尽力之條、更ニ詮議ヲ以テ二帯金銃一挺給与候事
  辛未十月
               三春県

・ 7月24日 -
板垣参謀は七月二十四日、棚倉を出発、同夜石川泊、二十五日蓬田・田母神に分宿、下枝通をして三春に入る
これより先三春藩士河野広中(当時二十歳)棚倉に来り、土州断金隊長美正貫一郎に拠って三春藩主恭順の意を板垣参謀に通じたのであった
著者は大正十一年の夏、河野翁が白河甲子温泉滞在中に戦争当時の活躍を直接に聞えた。曰く当時三春藩は主戦論と恭順論との両派に分れた。恭順論者は由来奥羽の地は東北に僻在して皇化に浴することが薄く、ために前九年役、後三年役と征伐をうけて来た。この度またも征伐を受けることは皇道に背く、西軍は錦旗の軍である宜しく恭順すべしと主唱し遂に恭順派の勝利に帰した。斯くして三春藩は一人の犠牲者を出すことなくすんだ。のみならず秋田家老を筆頭として百人の勤皇軍を出した。と語られた

また曰く牧野村に猪狩次郎右衛門といふ豪家があった。これは三春藩五万石東部随一の富豪であり、且つ勤皇家で恭順説に共鳴して居った。且つ同氏の室は常陸笠間藩磐城神谷陣屋長氏の女であるので、三春藩としては多大の便宜があった。佐久間寅吉のこの戦争に参加したのも猪狩家との関係からである云々。と話された

・ 7月26日
河野広中は板垣参謀の軍を三春郊外貝山村に迎へた。板垣の軍は南から三春に入った。平潟口の西軍は北から三春に入った。斯くて七月二十六日、藩主秋田映季(あきすえ/万之助)城を出でゝ降り、西軍は翌日城を収めた。此に三春藩勤王軍百人隊は組織せられ家老秋田主税これを率ゐて、二本松城攻略の先導をなし会津に入る
備前藩の伊丹内記が大総督府への届書によれば
 平潟口西軍の三春に入る二手に分る。一手は一小隊薩・佐土原両藩広瀬通をして進撃。一手は柳川・大村両藩浮金通りをして進軍、柳橋に宿陣致し翌二十七日三春に一泊

とある。されば白河口の軍は三春の南から、平潟口の西軍は北からとは限らぬのであったか
六月十日大総督府は参謀正親町中将を以て奥羽追討総督となし、木梨恒準(長藩)渡辺清を参謀として海路より兵を平潟口に出さしめた。六月十日江戸出発。同十六日平潟口港着。六月二十八日に泉城を取り、二十九日に湯長谷城を抜き、七月朔日に平城を攻めて勝たずして退いた
七月三日には大総督参謀四條隆謌(たかうた)が仙台追討総督となり、七月四日に正親中将は総督を罷めてゐる
七月十三日は平城を抜き、平潟口の西軍はこの勢を以て一方は海岸線を北進し、一方は三春に向った。海岸線北進の西軍は七月二十二日久之濱に着、八月朔日浪江に進み、八月四日中村藩を降して仙台追討に進んだ
(渡辺清は明治二十四年六月十五日福島県知事となり、翌二十五年八月二十日退職後勲功によって男爵を授けられた。明治二十七年十二月逝去享年七十)

大山元帥伝によると
・ 7月26日
彌助(当時の名)其砲隊を率ゐ田母神に宿営。二十六日三春に入る。八月二十三日、彌助会津大手門前に於て右股を貫通銃創し病院に入り、八月二十六日には三春龍穏院の病院に達し、その後三春より再び白河に入る云々
此の記事によっても西軍の進撃の道筋が知られる
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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