カテゴリ:南会津町( 2 )

2015.07/13(MON)

河原田包彦追惜之碑 南会津町古町字小沼 2015(照国寺)
旧伊南村




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写真;2015.07/13
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かわらだ かねひこ
河原田包彦
嘉永 6年(1853)12月 6日
 会津藩御蔵入奉行河原田治部信盛(百六十石)の長男として生まれる。諱を信俊といい、隆孝ともいう
慶応 4年(1868)
 戊辰戦争勃発時、父信盛は君命により蝦夷地にあり、包彦は十六歳であった。伊南方面の守備には、旧領主河原田氏の子孫ということで、若年ではあったが包彦が任命され、父に代わって数百の士卒を率いて国境桧枝岐村沼山峠の守備についた
        5月11日
 檜枝岐口防備隊の探索の者が、沼田より戸倉にかけて六藩千二百名の大軍迫るの報告あり、檜枝岐口では田島陣屋に報告した
         12日
 河原田氏は伊南の領主の末裔でもあり、包彦は旧臣に宛て「我が宗の大事」と結集を呼びかける檄文を発し、河原田勢は戸倉の西軍を襲撃してこれを敗走させた。また父信盛が蝦夷地より急遽帰国、駒止の嶮を越えて西軍に当たろうとしたとき、包彦もこれに呼応して西軍を挟撃、敵を数十里の外に退けるなどの軍功を挙げた
明治元年(1868) 9月22日 主君松平容保公降伏
 戦いは終結して、包彦は越後高田に謹慎して官命を待つも病に襲わる
明治 2年(1869) 8月10日
 包彦の病は回復ならず英才死去す。享年十七歳であった。墓は上越市大貫(狼谷)の会津墓地にある。法名を貫忠院殿義照隆孝居士という
  24年(1891) ~27年(1894)
 包彦の二十三回忌法要に当たり、宮沢河原田富吉など有志相計り、追惜之碑建立を計画、二十七年・伊南照国寺境内に同碑竣工(篆額は松平容大、撰文は南摩綱紀)、九月十日慰霊祭が執行された

戸倉戦争と大江湿原の防塁(2014.07/16)
南摩綱紀
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照国寺
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写真;2015.07/13



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2015.07/13(MON)

照国寺の山門 南会津町古町字小沼 2015(照国寺)
旧伊南村




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写真;2015.07/13
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以下、現地の案内板から

南会津町指定/有形文化財
照国寺の山門
一、所有者 金光山照国寺
二、所在地 南会津町古町字小沼二〇二五番地
 この山門は、天正十七年(1589)伊達の大軍が伊南の地に入り、久川城の河原田盛次との攻防で焼失してしまった。その後、百五十余年に渡って山門がなかったが、寺の復興とともに延亨二年(1745)に再建されたと伝えられている。現存する山門では、奥会津最大のものである
 山門は、縦二間、横二間の鐘楼門で昔は茅葺であったが現在はトタン葺きに改装されている。楼上には釣鐘(全長百二十センチ、径五十七センチ)が下がり「金光山」の額が掲げられている
     南会津町教育委員会
     平成八年一月二十四日指定(旧伊南村指定)
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