カテゴリ:下郷町( 9 )

2017.06/06(TUE)

天然記念物中山風穴地特殊植物群落 南会津郡下郷町湯野上字中山




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天然記念物中山風穴地特殊植物群落
     昭和三十九年六月二十七日 国指定
 ここから1km先にある中山風穴地特殊植物群落は、第1指定地から第6指定地まで、6ケ所の区域が国の天然記念物に指定されています。指定地を含むこの中山地区一帯は、所どころで春先から秋にかけて岩石の隙間から冷風が噴出しているため、地中温・地表温が外気と比べて著しく低くなっています。このため、風穴地帯では周囲の植生とくらべ特異な植物群落が発達し、オオタカネバラ、ヤナギラン、ベニバナイチヤクソウなど亜高山帯以高に生育する高山植物が群落をなしています。この中山風穴地は、他の風穴地より規模、面積等も大きく、特にオオタカネバラの群生は、全国でも例をみない規模の大きさにあります
     下郷町教育委員会
 主な植物と開花期
・イカリソウ     (5月初~6月下) ・ベニバナイチヤクソウ(5月中~7月中)
・ムラサキ      (6月中~8月中) ・オオタカネバラ   (5月初~6月下)
・ヤナギラン     (6月初~8月下) ・アツモリソウ    (5月中~6月中)
--現地登り口の案内板から--
     *
・第4指定地
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     *
・冷風体感
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 歩道脇にあって冷風を体感出来た
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2017.06/06(TUE)

岩本の一里塚跡 下郷町(下野街道/南山通り)




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岩本の一里塚跡
 会津初代藩主保科正之は、西国では既に実施していた一里六町を一里三六町とする制度を、寛文七年(一六六七)から実施し、この年から領内の街道に一里塚を築かせました
 岩本の一里塚は、起点である会津城下「大町札の辻」からは、九里(約三七km)の位置にあたり、現在の八幡橋付近、国・県道が交差する段丘下であったと云われています。よって、当該箇所は国道崖下となるため、この地に説明板を設置することとしました
 ご覧のようにこの地には、以前は旧街道沿いに立っていたと思われる数多くの馬頭観世音碑が移設されています。中でも、丸彫りの馬の上に蓮弁をのせ、その上に三面六臂の馬頭観世音像は、年代はきざまれていませんが往時を偲ばせるものがあります
 馬の背で荷物を運んだ時代、馬は駄賃稼ぎの貴重な家畜として家族同様の存在でした。このため、愛馬の供養にと馬頭観世音は広く信仰され、本町の各所でも同石碑は見ることができます
 旧街道の一里塚と同様、各所の馬頭観世音碑も旅人の大きな目安となっていたものと思われます
     下郷町教育委員会
--現地の案内板から--
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2016.10/22(SAT)

下野街道と八幡神社 下郷町大字豊成字八幡山5399




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八幡神社
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写真;峠を越える下野街道跡の脇にある八幡神社・2016.10/22

歴史の道 下野街道
 下野街道は、会津藩が隣国通じる際の本道五筋として幕府に報告した中の一筋で、会津若松城下から日光神領今市宿までの総延長約三ニ里(約一三二km)、道幅二間(約三・八 m)の街道です
     *
 この街道は、会津から江戸への最短の道として、会津藩を始め近隣諸国の藩主が参勤交代に利用し、あるいは会津藩の年間十万俵にも及ぶ廻米の輸送路として、政治的・経済的に大変重要な役割を果たした街道でした
 明治十七年(一八八四)、現在の国道が大川沿いに開通すると、山間を通る下野街道は、一部県道や林道となって利用されましたが、地形上急峻な峠越えの部分はそのまま残されました
 町は平成七年度から「歴史の道整備事業」を実施し、下野街道の道程を明らかにするとともに石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋跡などを確認し、これらの整備を図ることができました
 つづら折りでのぼり下りする峠越えの旧街道は遠い時代に繋がる往時の姿を偲ばせてくれます。江戸時代の鼓動を確かめる上でも、旧街道にゆっくりと足を踏み入れてはいかがでしょう
     下郷町
--現地の案内板から--

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標識に
←歴史の道(下野街道)
          楢原宿に至る
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2016.09/06(TUE)

会津中街道(松川街道)下郷町野際




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写真;2016.09/06

会津中街道(松川街道)
 至 野際一里塚
   観音沼方面(約一〇〇〇メートル)
 ※現在は遊歩道となっている旧街道跡である
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慶応 4年(1868)
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様



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2014.04/03(THU)

松川街道(会津中街道) 下郷町




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写真;野際宿を過ぎて山道に入り、大峠(標高1468m)間近の風景である(2013.05/24)
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松川街道(会津中街道)

  1.若松城下
  2.面川宿
  3.香塩宿
  4.小塩宿
  5.桑原宿
  6.小出宿
  7.弥五島宿
  8.松川宿
  9.野際宿(福島県南会津郡下郷町野際新田)
 10.大峠(標高 1468m)
 11.三斗小屋宿
 12.板室宿
 13.百村宿
 14.高林宿
 15.横林宿
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2013.07/29(MON)

下野街道(会津西街道)
下郷町中山附近




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写真;中山附近に残る下野街道(2013.07/26)
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以下、現地の案内板から

下野街道

 下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋(下野街道・米沢街道・越後街道・二本松街道・白河街道)として、幕府に報告した中の一筋で、会津若松城下から日光神領今市宿までの総延長32里(約132キロメートル)、道幅二間(約3.8メートル)の街道です。
 この街道は、会津から江戸への最短の道として、会津藩をはじめ近隣諸国藩主が参勤交代に利用し、あるいは会津藩の年間数万俵にも及ぶ廻米(かいまい)の輸送路として、政治的・経済的に重要な街道でした。
 明治17年(1884)大川沿いに現在の国道が開通します。山間を通る下野街道は、一部県道や林道となって利用されますが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかるまでに荒廃した道となっていました。
 平成7年度から実施された「歴史の道整備活用推進事業」の調査により、街道の所々には石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋の遺構などが確認され、このたび、これらの整備を図ることができました。
 遠い時代に繋がるこの道を、往時の人々はどんな思いで歩いたのでしょうか。江戸時代の鼓動を確かめる上でも、ゆっくりとこの歴史の道に足を踏み入れてはいかがでしょう。

     平成11年 3月
     文化庁・下郷町
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以下、「長寿の湧水」にあった案内板から

下野街道の概要

 下野街道という呼び名は、会津を中心にその街道の行き先の地名をつけた呼び方である。越後街道・米沢街道・二本松街道・白河街道などにならった呼び方である。会津藩では、古くは関山街道・南通り・南山通り・下野路などと呼んでいる。一方関東側からすると会津街道・会津西街道などと呼ばれる。近年では分かりやすい点から会津へ通じる西側の通り、会津西街道がよく使われている。
 下野街道は、若松城下から下野(栃木県)の今市に至る道筋である。若松大町を起点に、福永(古くは本郷)~関山~大内~倉谷~楢原~田島~川島~糸沢~横川~三依~五十里~高原~藤原~大原~高徳~大桑~今市に至る三二里(約一二八km)の道のりである。さらに越後から江戸へ向かう場合、越後街道を坂下で分かれ、高田~市野~大内で下野街道に合流する。この道筋も含めて下野街道と呼んでいる。
 天正一八年(一五九〇)四月十五日伊達正宗は、小田原参陣のため下野街道を通り小田原へ向った。しかし、北関東の不穏な情勢を知り大内まで来て引き返している。八月九日奥羽仕置のため黒川(若松)入りした豊臣秀吉は、四日間の滞在後、下野街道を通り帰京している。このことからも、街道としての道筋は早くから整備されていたと考える。
 若松と今市を結ぶ下野街道の宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通行にしばしば利用され、ある程度整備がなされていたと考えられている。しかし本格的に整備が進められるのは、寛永二〇年(一六四三)保科正之の入部からである。
 下野街道の宿駅整備は、一七世紀初めから中ごろにかけて急速に整備される。その理由に次の三点を挙げることができる。第一に参勤交代の制度化。第二に日光東照宮の造営。第三に江戸廻米の実施である。このうち日光東照宮は 藩政時代を通じ下野街道と大きな関わりを持つことになる。日光は徳川幕府の聖地となり、下野街道は北の入り口となるからである。こうした物の流れや人馬の移動が、宿駅整備を大きく進める要因となる。

     倉水区
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2013.07/28(SUN)

八幡の大ケヤキ 南会津郡下郷町大字中山




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写真;2013.07/26
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平成25年(2013)
・ 7月26日
 会津西街道を北上。中山は豊成から栄富、倉谷を過ぎて大内宿に向かう途中にある集落だが、ここに大きくて見事なケヤキがあった 
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以下、現地の案内板から

八幡の大ケヤキ(中山の大ケヤキ)
(緑の文化財登録第四〇六号)

 所在地   南会津郡下郷町大字中山字中山
 管理者   二宮 仁
 樹 齢   九五〇年
 樹 高   三六 m
 胸高周囲  一二〇〇㎝
 科 名   ニレ
 樹 種   ケヤキ

〈由来・現状〉
 このケヤキには、次のような故事がある。「天喜三年(一〇五五年)、人皇第七〇代後冷泉天皇の御代、八幡太郎義家が、陸奥の豪族安部貞任を討伐の折、険路で難渋して、中倉村の司(つかさ)二宮太郎兵衛宅に休憩した。二宮氏は手厚く歓待をして、大沼郡尾岐村に至る間道を教えたため、賊軍不意を討たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜び、謝礼のしるしに庭先にケヤキを植えた」と伝えられる。
 樹形の良さは県内屈指で、豪壮雄大王者の風格がある見事なケヤキの巨樹である。



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2013.05/26(SUN)

今に残る会津中街道(松川街道)
下郷町観音沼附近




 写真は会津中街道、観音沼附近に残る旧道部分である
 この街道は会津西街道に替わる街道として開削されたもので、会津から江戸へは最短の距離であったと云う。しかし、この先藩境には那須山塊の「大峠(1468m)」が待ち構え、越えて山中の三斗小屋宿まで急な下りとなるなど山、谷が連続し、ここ観音沼から板室宿辺りまでは風雪雨の被害が絶えぬ厳しい街道だったのである
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写真;2013.05/24
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2013.05/25(SAT)

野際宿番所跡
会津中街道(松川街道)、大峠




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以下、現地の案内板から

大峠

野際新田から三斗小屋温泉、板室、矢板へと通じる松川新道の途中に標高1468mの大峠があります。会津藩主加藤明成の通ったこの道は「南山松川通り」と呼ばれました。会津藩の参勤交代の道として、野際新田と三斗小屋には口留番所が設けられ、行き交う旅人や荷馬で賑わいましたが、深い谷と険しい山道の連続で風雪雨の被害が絶えなかったと言われています。当時の石畳を現在も見ることが出来ます。
     福島県南会津農林事務所
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※ 番所跡の近くにあった鳥居
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