カテゴリ:須賀川市( 3 )

2017.02/17(FRI)

日高見稲荷神社 福島県須賀川市長沼字日高見山(長沼城祉)




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写真;2013.04/16

日高見稲荷神社
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長沼城祉(2013.04/18)



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2013.04/18(THU)

長沼城址 福島県須賀川市長沼




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以下、現地の案内板から

市指定史跡
長沼城址(千世城・牛臥城)
     昭和四十三年四月一日指定
 文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。
 その後戦国時代、ことに永禄三年(一五六〇)頃上り、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・芦名氏の激突が続いた。 遂に永禄九年(一五六六)芦名領となり、芦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、芦名氏の会津防衛および仙道攻略の拠点となった。
 天正十七年(一五八九)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌十八年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣秀吉が、八月七日長沼城に宿営している。このとき蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。
 慶長三年(一五八九)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同五年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。慶長六年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。
     平成二十一年十月一日
     須賀川市教育委員会
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長沼城址の桜

 管 理 者  須賀川市
 所 在 地  福島県須賀川市長沼字日高見山
 開花時期  4月中旬から下旬

サクラの特徴
 お城山(長沼城址・須賀川市指定史跡)に植えられた種類の異なるおよそ三百本ほどの桜は、満開時ともなると競い合うかのように全山を淡いピンク色に染め、訪れる人たちの目を楽しませてくれます。
 乱世風雲の時代が偲ばれる城址が淡いピンク色に染まるとき、「山間の小さな城下町」にも遅い春が訪れます。

 概要
 樹齢 … 約80年
 樹種 … ソメイヨシノ、彼岸桜、ヤマザクラ
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2013.04/18(THU)

道谷坂陣跡




平成25年(2013)
・ 4月16日
 白河から会津街道を北上。勢至堂峠に向う途中にあった陣跡である。案内板があって、そこには配置図もあったのだが、現地と見比べても何処がどうなのか見当もつかない
     *
 山、里にはサクラが咲いて、初夏の風が程よく気持ち良い

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以下、現地の案内板から

道谷坂陣跡(どうやざかじんあと)
     所在地  須賀川市江花字踏掛
     所 在  安土・桃山時代
 道谷坂の陣については、江戸時代に会津領内の城や砦等を収録した「会津要害録」の中で「道谷坂ノ隘口」として、「(上略)慶長五年ノ秋上杉景勝公矛盾ノ頃モ坂ノ隘口ニ土手ヲ築キ(下略)」と記されています。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の頃、会津一二〇万石を治めていた上杉景勝は家臣の直江兼続とともに、徳川家康率いる上杉氏討伐の軍勢を迎え撃つため、白河口を中心に大規模な防塁や陣を構築しています。
 この時の上杉軍の布陣を記したとされる「白河口戦闘配備之図」(米沢市立米沢図書館蔵)に「長沼」、「勢至堂」、「景勝公陣所八千人」の記述があり、この道谷坂陣跡が上杉軍の陣所であったことが想定されています。
 現在、道谷坂陣跡には、土塁や空堀、平場等の跡が残り、当時の様子を伺い知ることができます。
 また、道谷坂陣跡の東、およそ六キロメートルには、上杉氏が関東口の押さえを目的に戦略上の拠点として整備を行った長沼城があり、現在でも中心部の山城部分のほか、城を取り巻くように配置された三重の堀と土塁の一部を見ることができます。
     平成二十一年三月 須賀川観光協会
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