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2012.12/13(THU)

会津藩降伏後の戦い
佐川官兵衛




明治元年(1868)
・ 9月22日
 午前十時、若松城北追手門に「降参」と記された白旗があがり、新政府軍各藩に停戦を伝える二発の砲声が響いた。正午、大総督府直属の軍監桐野利秋らに続いて会津藩主松平容保父子らが降伏式場に入場し、容保は「降伏謝罪文」を読み上げた
・ 9月23日
 前日に降伏した会津藩であったが、猛将佐川官兵衛は田島を拠点として猛烈な攻勢に転じた。佐川隊の追撃は田島西方八キロの針生から駒止高原を越え沼田街道の宮床、山口にまで達し、西部山峡に布陣していた加賀、高藤、飯山、富山藩といった新政府軍を敗走に追い込んだ。大沼郡の要衝大芦、喰丸に進攻した支隊も高崎、加賀藩兵を圧倒し、これら猛攻は岩代国境から敵を駆逐する勢いであった
・ 9月26日
 大内村の本営にあった佐川の許へ、抗戦を憂慮する容保の親書が届いた。佐川は部下将兵に投降を命じた
 会津領から砲声が止んだのは八日後、10月 4日だと云う

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※ 佐川官兵衛(さがわかんべえ)
 天保 2年(1831) 9月 5日 -明治10年(1877) 3月18日
 幕末の会津藩家老

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※ 会津西部抗戦の拠点とした鴫山城跡

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写真、【鴫山城跡】南会津町(旧田島町)/2009.10/10


以下、現地の案内板

福島県指定史跡
鴫山城

 鴫山城は、愛宕山々頂部の山城域と、麓の本城域を中心とした城郭域、さらに大門前方の根小屋地区の外曲輪から成りたちます。山城は南北朝争乱期から室町中期。麓の城郭は、戦国時代と桃山時代の築城技術が駆使されています。各時代の遺構、なかでも中世から近世への過渡期の技術が各所に残り、全国でも貴重な城跡です。

--参考文献;島遼伍「北関東会津戊辰戦争」2004年第 1刷/随想社刊 246p--



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