カテゴリ:塙町( 3 )

2015.03/18(WED)

田中愿蔵の墓 東白川郡塙町・安楽寺




田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)

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写真;2015.03/17
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以下、現地の案内板から
たなかげんぞう
田中愿蔵の墓

 天狗党の田中愿蔵は、水戸藩士藤田東湖を中心とした尊皇攘夷思想の影響を受け、外交政策を初めとする幕政改革を掲げて筑波山に挙兵するが破れた。その後隊士と八溝山に籠るも、食料や衣類などに困窮したため、隊の解体を宣言し、分散して山を下りた
 田中は、元治元年(一八六四)一〇月、塙町真名畑にて塙代官所の役人に捕縛され、久慈川と川上川の合流点近くの川原で斬首された。遺体はここ安楽寺に埋葬された
 翌慶応元年(一八六五)、ゆかりの者により供養の碑が建てられ、昭和四年(一九二九)には「田中愿蔵刑場の跡」の碑が建立されたが、現在は「道の駅はなわ」の敷地内に移されている
 写真は田中の遺品と伝えられる「鎖帷子」で、町のあぶくま高原美術館に保管されている
     平成二四年度
     「"桜"プロジェクト」
     福島県県南地方振興局
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安楽寺
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天狗党・田中愿蔵隊没後 150回忌で法要
福島の安楽寺
 幕末に尊皇攘夷を掲げた水戸藩士でつくる天狗党の中で、倒幕まで唱えて不遇の中で散った田中愿蔵隊の没後百五十回忌法要が十六日、福島県塙町の安楽寺(和田俊道住職)でしめやかに営まれた
 愿蔵は水戸藩の藩医出身の下級武士で、一八六四(元治元)年、江戸幕府に外国勢力を追い払うように求めて決起した「天狗党の乱」に参加し、約半年間にわたって各地で幕府軍と戦ったが、現在の塙町で捕えられて処刑された。隊員二人とともに安楽寺に葬られた。愿蔵はまだ二十一歳そこそこの若さだった
 法要には猿田雄也氏、高橋信一氏ら田中隊の子孫関係者や菊池基文塙町長ら地元関係者など約六十人が参列した。つくば市で天狗党の無名戦士の慰霊活動をしている「中野天徳院」(東京都中野区)住職の大藪正哉氏の記念講演、法要の後、参列者は愿蔵らの墓前で焼香、故人をしのんだ
(吉原康和)
--引用;2014年10月17日(金)東京新聞--



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2013.02/05(TUE)

塙代官陣屋跡 福島県東白川郡塙町




元治元年(1864)
・10月
 水戸天狗党田中愿蔵は八溝山に逃れて潜伏したが、塙代官所の手の者によって捕縛され同地内久慈川の川原で斬首された
※ 愿蔵に関った、この代官所の跡が小規模ながら残されていた

以下、現地の案内板から
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 塙代官陣屋跡

   塙町指定  昭和五十一年二月十二日
   所 在 地  塙町大字塙字本町□五-二

 陸奥代官塙陣屋は、江戸幕府が、享保十四年(一七二九)二月、塙の近隣五万石余を直轄地とし、竹貫(石川郡竹貫村)に陣屋を開設し、同年九月、塙に陣屋が移された事により始まる。
 塙に陣屋が移された理由は、塙の地が常陸太田街道、平潟街道沿いに位置し、久慈川流域の年貢米の輸送の便、更には奥州外様大藩のけん制、或は、江戸防衛の重要な地点に位置するためと考えられ慶応四年(一八六八)四月まで置かれていた。
 塙陣屋の敷地面積は、五四三四㎡、建物面積は一一三四㎡余で、堀を巡らし、「表御門」をくぐると、「御殿」と代官の住居を兼ねた建物が南東に面して中心をなし、その北東には、「元締長屋」と「公事方長屋」、御殿真後ろに「手代長屋」と「物置」、南西に「板倉」があった。
 また、表御門前には、「年番所」が置かれていた。
     塙町教育委員会
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2013.02/04(MON)

田中愿蔵刑場跡 福島県東白川郡塙町・道の駅「はなわ」
西方約四十間之所




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平成25年(2013)
・ 2月 4日
 白河を素通りし、棚倉では棚倉城跡を見た後八槻都都古別神社にお参りして南下。塙町の「田中愿蔵刑場跡」の慰霊碑を見て来た。「刑場跡」慰霊碑は後に道の駅が建設された際にここに移設されたのだそうだが、慰霊碑の脇には川原が広がり久慈川が流れる。その向こうには八溝山系の山並みが見える。皮肉だが、何とも長閑な田園風景であった

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以下、現地の案内板から

 水戸天狗党田中愿蔵は、水戸近郊の戦いに敗れ、八溝山に拠るも再起図れず、解散し、町内の真名畑にて捕縛され、この川原に於いて斬首される。
 元治元年(一八六四年)十月十六日遺体は安楽寺に埋葬される。翌年慶応元年、ゆかりの者により供養の碑が建てられた。昭和四年金澤春友氏により「田中愿蔵刑場の跡」の碑が建立される。
 現在この地に「道の駅」が建設されるにあたり、移動され再建されたものである。(二〇〇四年三月)
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「田中愿蔵刑場跡」慰霊碑裏面
  田中愿蔵絶命之辭

霜に染む樹々の稍の錦よ
  いと珍らしき谷の松が枝


  元治元年十月十六日斬首年廿有一
  昭和四年□月□□

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◇8◇ 天狗党の跡 志半ば勤王の志士
 ショベルカーの鋼鉄のアームが天空を舞い、赤茶けた土砂を右から左へ器用に運ぶ。福島県塙町の市街地のはずれ、久慈川と川上川の合流地点で河原の埋め立て工事が急ピッチで進められている
 この河原は、幕末の動乱期に尊皇攘夷を唱えて決起した水戸天狗(てんぐ)党の受難の地。水戸藩士田中愿蔵は一八六四(元治元)年、ここで処刑され、二十歳の若さで山河のつゆと消えた
 田中愿蔵は一八四四年、久慈郡東連地村(現水府村)で生まれた。藩制時代後期に建てられた郷校の一つ、野口時雍館の館長を務め、一八六四年三月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎らとともに筑波山で挙兵し、天狗党幹部になった
 しかし、愿蔵は倒幕に踏み切れない小四郎と間もなく対立、天狗党を割って独自の隊をつくり、各地を転戦した。追ってのやいばを逃れ、最後は八溝山にこもったが、同年十月、食糧も尽き果て隊を解散。時代の魁(さきがけ)になろうとした勤王の志士たちは飢えと寒さの中、山を下り、志半ばで刑死した
 愿蔵は塙の代官所で調べを受けた後、久慈川の河原で処刑され、久慈川をはさんで八溝山と向き合う羽黒山の安楽寺に葬られた。棚倉町大梅でも二十四人が処刑され、墓碑のある一帯は天狗平と呼ばれている
 愿蔵一派は小四郎らと分かれた後、放火や略奪を重ね、人々に恐れられた。愿蔵の悪名はいや応なしに広まり、明治以降も「悪党」のイメージが定着していた
 それを変えたのは、郷土史家で塙町長を務めた金沢春友さん。孫の卓壽さん(66)によると、一八八四(明治十七)年生まれの春友さんは代官所に勤めていた祖父から話を聞き、愿蔵の生涯に関心を持った
 愿蔵が悪事を働いたとされる地域に出掛け、一軒一軒訪ねて古老の証言を集めた。戦前の「いはらき新聞」(現茨城新聞)にも論文を発表、地道な調査で悪役像を一変させた。大仏次郎とも交流があり、大仏は春友さんがまとめた資料を基に「愿蔵火事」などの小説を書いた。「愿蔵火事」は松竹が映画化、一九三二(昭和七)年に封切りになった
 「うちのじいさんが言うには愿蔵は頭も切れ、眉目(びもく)秀麗。気品のある立派な男だったようだ」と卓壽さんは語る
 愿蔵が処刑された河原には一八六五(慶応元)年、処刑を担当した役人の手で慰霊碑が建てられた。一九二九(昭和四)年には「田中愿蔵刑場跡」と記した慰霊碑が住民らの手で建立され、石碑の裏には辞世の句が刻まれた
 河原では今、着々と埋め立て工事が進み、造成後の宅地には「道の駅」が建設される。二つの慰霊碑は工事に伴い、近くの公民館の駐車場に移されている
 塙町農林課によると、工事が終われば慰霊碑は道の駅の敷地内に戻るという。しかし、アスファルトの路面には、残念ながら昔日の面影はない
--引用;2002年 3月30日(土)茨城新聞--



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